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17章:シュトライザー家のお家騒動

9話:女王蜂(アーサー)

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 父の態度も軟化し、アーサーは王都にある別宅を仮住まいとして仕事の時はここで生活をし、休みになると王都から二時間程度の新居へと向かう二重生活を開始した。
 小さいながらも住み心地のよい新居は前庭に小さな花々が咲く原っぱがあって、マリアはそこで摘んだ野の花を押し花にしたり、ポプリにして楽しんでいる。もっと立派な庭をと思っていたのだが、彼女は野花の方が可愛いと言う。そういう部分もまた、彼女らしくて頷いた。

 だが、アーサーが王都で仕事を始めた頃から頻繁に、あの女が別宅に顔を見せるようになった。
 通すなと言っているのだが圧力をかけたり脅すような態度をみせたりしているらしく、アーサーは辟易していた。

 彼女ラモーナはアーサーを前にしてもまったく悪びれる様子がなく、まるで過去などなかったかのように近づき、色目を使う。そして「そろそろ跡取りが必要だ」と言ってくるのだ。

 怒りを通り越して呆れてしまった。自分がアーサーに何をしたのか、まったく考えてもいないのだ。
 当然そんな事が通るわけもなく、アーサーはラモーナを突き返している。アーサーにはマリア一人、そう決めていたからだ。

 二度ほど押し問答があり、それ以後は取り次がないようにと伝えたにも関わらず三度押し切られて仕事場に乗り込んできたラモーナに、アーサーは困り果てていた。
 それというのもシュトライザーの本邸にはもう、信頼出来る古い家令達がいなくなってしまったのだ。

 マクファーレンにいる間に、ラモーナは本邸を我が物にしたらしい。
 彼女は元々が母の遠縁にあたるらしく、母がとにかく可愛がり、好きにさせていた。そのうちに「気にくわない」という理由で古くからいたメイドや従者、執事を追い出して自分の言うことを聞く人物を雇い入れていった。
 母が死んでからはとにかくそれが酷く、当主であるはずの父も居場所がないそうだ。

 現在アーサーが別宅と新居に雇い入れているのは、古くからいたシュトライザーの家令達だ。

 そんな押し問答が半年ばかり続いた頃、アーサーは突然父に呼びつけられて執事と従者を伴い本邸へと向かった。
 書斎に通されたアーサーの前には満面の笑顔の父と、薄く笑うラモーナだった。

「何事です、父上」
「アーサー、お前ようやく跡を継ぐ気になってくれたのか」
「は?」

 意味が分からず首を傾げると、父も首を傾げる。それというのも父は「跡を継ぐなら子供を作れ」と言っていたのだ。
 マリアに懐妊の兆しはない。疑問ばかりが浮かび、思わず両サイドの執事と従者に困惑の視線を送ってしまった。

「子供ができたのだろ?」
「誰との間にでしょうか?」
「ラモーナじゃよ」
「……はぁ?」

 いよいよ分からなくなり、アーサーはラモーナを見る。彼女は愛しげに自分の腹を撫でていた。

「冗談が過ぎます、父上。私とマリアの間に子が生まれる可能性はあっても、そこの女との間にはありえません」
「だが……」
「この子は間違いなく、シュトライザーの跡取りですわよ」

 とうとう頭でも可笑しくなったか。何を言っているのかまったく理解できないアーサーに、ラモーナはにっこりと微笑んでいた。

「もう何ヶ月も通ったではありませんか」
「おかしな事を言うな、アレは押しかけたんだろ。それに、私はお前とそのような事をした覚えは一切無い」

 突きつけると、ラモーナは嫌な顔をして顔を背け、苛立たしげに立ち上がると若い執事を連れて出ていってしまう。
 残されたアーサーと父は、ただ呆然としていた。

「本当に違うのか?」
「なぜそうだと思うのです」
「いや……彼女が妊娠しているのは確かなんだ。それにお前の家に通っていたのも確かだ」
「いつです?」
「日中から別宅に行き、戻ってくるのは夕飯の時間も過ぎてから。だから、万が一と」
「……確か、いつも執事を一人同行させていたな?」

 ラモーナが押しかけてきた日の事を思い出しながら、アーサーは執事へと声をかける。すると彼も頷いた。

「確か、いつも同じ執事だったかと思います」
「怪しいな」
「調べましょうか、アーサー様」
「気づかれず頼む」
「かしこまりました」

 一通りやり取りを終えて父を見ると、やはり顔色がなかった。


 程なくしてラモーナの腹の子が、執事見習いの若い男の子である事が発覚した。逢い引きしていたことが分かったのだ。
 父は今度こそラモーナを追い出そうとしたが、開き直ったラモーナは家令全員を引き連れて父の元へと、半分脅すように迫ったそうだ。
 シュトライザーの正妻である彼女が産むのだから、それはシュトライザーの正式な息子だと滅茶苦茶な事を言い始める女を父は恐れた。そして、許してしまったのだ。
 おそらく醜聞を恐れたのだろうと思う。近年シュトライザー家は落ち目と言われていた。だからこそ、外聞は大事だったのだ。「離縁などしたら家のあらゆる事を世間にぶちまける」というのは、家を牛耳った彼女にとって単なる脅しではなかった。

 呆れてしまったが、アーサーにはもう実家など大した興味はなかった。元々マリアを受け入れず、勝手に人を用意して強引に婚姻させたのが父なのだから、自業自得だと言えた。


 程なくラモーナは男の子を産み、チャールズと名付けた。
 だがアーサーはその子の顔をほぼ見る事はなく、ますます本邸には帰らずマリアの家に帰るようになっていった。
 そうしてチャールズ誕生から約一年後、ファウストが生まれたのだった。


▼ファウスト

 ようやく父の言っていた「あいつとは血が繋がっていない」という話が分かった。
 ファウストは息を吐き、体を起こす。縛られて痺れてきた腕が、重く感じた。

「そこからの十年は、私にとって最も幸せな時間だった。お前が生まれ、ルカが生まれ、アリアが生まれ。この幸せが続くのだと、疑う事すらしなかった」
「……幼い記憶で、曖昧だが。母を殺したのは強盗だと聞かされた。本当に、そうだったのか?」

 問いかけると、アーサーはなんとも言えない顔をした。

「証拠が無い事だ。だが、私はラモーナがやったと考えている」
「人を雇って、襲わせた?」
「おそらく。お前達の無事を確かめ、安全を確保した後で強盗を探し、見つけたのだが……その時には全員死んでいた。側には宝石類やドレス、現金が大量に落ちていた」
「だから、強盗の犯行だと?」
「あぁ。取り分について争いになり、殺し合う事になったんだろうと」
「安易過ぎはしませんか?」
「勿論だ。散々に探したのだが証拠は出てこなかった。結局は状況をみて、強盗事件で落ち着いてしまったんだ」

 真相を知り、悔しい思いがする。強盗達は確かに「父を恨め」と言っていたのに。

「……俺は、どうしてシュトライザーの家に入らなければならなかったんだ? 父様はもう、シュトライザーの家に関心はなかったのだろ?」

 実は、母の死後シュトライザーの家に引き取られたあと数年の記憶が酷く曖昧になっている。覚えているのは薄暗い部屋で、とにかく悲しく寂しくて、怖かった事だった。
 アーサーは酷く辛そうな顔をする。そして縛られたまま、ファウストに深く頭を下げた。

「父様!」
「すまないファウスト! 私はお前を、守れなかった」
「父様……」
「……お前もルカも、アリアも、マクファーレンに引き取ってもらうはずだったんだ。だが、本当に血の繋がった孫が欲しかった父フランクが、陛下や裁判所まで巻き込んでお前をシュトライザーに引き取ってしまったんだ」

 アーサーの声が詰まる。本当に心から後悔している様子に、ファウストはなんと声をかけていいか分からない。
 そもそもファウストの記憶に、フランク・シュトライザーという人物はいないのだ。本当に、顔も声も思い出せない。だから、なんとなく話を聞いても他人事のように思えてしまう。

「お前の身を危険に晒すからと、私は今からでもマクファーレンへと移すつもりでいた。もしくは私の側にずっと置こうと思っていた。十歳なら、可能だと」
「では、どうして……」
「……父とラモーナが、手を組んだ。私は突如城に呼ばれ、隣国への大使として赴任することになってしまった。連れて行こうとしたが、居場所を隠され期日も迫り、お前の顔を見る事も敵わぬまま城の役人に連れて行かれてしまった」

 俯いていたアーサーは、次に自嘲気味な顔をする。クシャリと顔を歪める姿など、ファウストは今まで見たことがない。

「いや、言い訳だ。なんとしてでも、例え陛下の命に背いても側にいれば良かったんだ。探せば良かったんだ。そうできなかったのは、私も疲れ切っていたからだ。マリアを失った悲しみや苦しみに飲み込まれ、お前の手を離してしまった。そのせいでお前を、殺してしまうところだった」
「……え?」

 ファウストは目をぱちくりとする。ファウストの中にそんな記憶はない。流石に十歳を過ぎている。覚えていないほど幼いわけではないのに。しかも、死にかけたなんて。

 思い出そうとどれだけ探っても無理だった。思えばマリアの葬儀の事は覚えているし、その後シュトライザーに引き取られた事も知っているのに、そこで過ごした時間はどれも霧の中。明確に覚えているのは騎士団に入る前の数年。その時には父が大嫌いだった。

 アーサーは深く俯いたまま、ふっと息を吐く。そして、ファウストと視線を合わせないまま教えてくれた。


▼アーサー

 二年の任期を終えて、アーサーは家へと急いで戻った。マリアの葬儀後、父フランクがファウストを連れて行ってから姿を見ていない。
 嫌な予感に心臓を鷲づかみにされ、息もできないくらい不安で一杯になる。最愛の妻を亡くし、このうえファウストまで。
 後悔が押し寄せていた。どんな手でも使ってファウストを助け出せばよかった。足が動かなくなるほどに探し回り、声が枯れるほど呼んだが、それでは足りなかったのだ。

 だが、これ以上ジョシュアに頼むことはできなかった。彼にも家庭と仕事がある。長男の教育の他、次男は体が弱く何度も危険だった。三男も生まれ、城の仕事も忙しい。陛下のご機嫌を取りつつ国民へも目を向ける政策を通すのは、薄氷の上を歩くような繊細さが必要だろう。流石のあいつも疲れ果てている。
 その助けとなるため、シルヴィアは社交界に出て人脈を作っている。ジョシュアの政策に必要な人材へと根回しをして、通るようにしていると聞く。
 コーネリウスは最高判事へと選出され、近くそれが通るかというところ。
 アラステアは奥方を亡くし、その悲しみを振り払うように仕事に没頭してほぼ国にいない生活をしている。

 ファウストの父はアーサー一人。助けてやれるのもアーサーだけだ。

 家につくと、まるで廃屋のような気配があった。荒んでいるとでも言えばいいのか。
 家に入り、出迎えなど一切聞かずに父の書斎を訪ねると、そこには父の姿はなく、代わりにチャールズが座っていた。

「……何をしている。そこはお前の椅子ではない」
「あぁ、父上。遅いお帰りですね」

 なんとも薄気味悪い子だった。母親に似た赤に近いブラウンの髪に、キツい緑色の瞳。顔色は白く、口元には常に薄い笑みが浮かんでいる。アーサーはどうしても、チャールズの事が好きにはなれなかった。

「父は……フランクはどうした?」
「最近お体の調子が悪いようですよ」
「では……」
「そうそう、調子が悪いと言えばもう一人。薄汚いのが死にそうですが」
「!」

 目を見張り、アーサーはチャールズを凝視する。その顔が面白いのか、チャールズは楽しそうに笑った。

「最近、母の機嫌が悪いので」

 アーサーは駆け出すように書斎を出て行き、父フランクの寝室へと駆け込んだ。そして、そこにいるメイドや従者を蹴散らすように近づき、フランクの胸ぐらを掴んだ。

「ファウストはどこだ!」
「アーサー」
「どこにいる……私の子はどこにいるんだ!!」

 青ざめたフランクが指を差す。そこは家令達が使う離れだった。

 アーサーは駆け出し、離れへと飛び込む。だがそこに人の気配はない。皆が仕事をしている時間だから当然だ。
 駆け回り、ファウストの名を呼んだ。そして心の中で何度も、亡き妻に祈った。

 その時、カタンと音がしてネズミが一匹出てきた。かつてはこんなものいなかったはずなのに。

 出てきたのはキッチン。そこへと向かったアーサーは、ふと壁に空いた穴に気づいた。おそらくネズミが食ったのだろう。
 その奥に空間がある。覗き込んだ時、ヒュッという声が聞こえた気がした。

 確信があった。ファウストはこの中だと。
 出入り口を探したが見当たらない。だが確か、使わない食器などをしまっておく小部屋があったはずだった。

「どうしてドアがない!」

 幼い頃、まだかくれんぼなどをしたくらい幼く無邪気だった頃の記憶をたどってみたが、あるはずの場所は壁になっている。
 そんなはずはない。壁紙を剥がすとそこは新しく塗り込んが痕跡がある。
 庭に出て、斧を持ちだして、真新しい壁をぶち抜いていく。素人が塗り込めたのだろう。容易に崩れて奥に空間が見え始めた。

「ファウスト!」

 駆け込んだそこに、小さな影が倒れていた。ボロボロの服に、痩せた体。艶の無い髪や肌色の少年は、細く細く息をしているばかりだった。

「ファウスト!」

 駆け寄り、抱き上げた体は信じられないくらいに軽く、熱い。意識はなく、ぐったりとしていた。

「直ぐに医者を」

 そう言った時、背後に影が差した。

「そんなネズミ、死ねばいいのよ」

 凍るような声に振り向いたアーサーの心もまた、熱く冷たくなっていた。入口を破るのに使った斧を握りしめたアーサーは、憤怒の表情に涙を流した。

「この家の子はチャールズよ。そんなもの……」
「ふざけるな……私の子はファウストと、ルカとマリアだけだ!」

 振り上げた斧を、ラモーナは感情の浮かばない顔で見ていた。
 振り下ろした斧は脇の壁に深く突き刺さった。それでも双方、表情は変わらない。
 アーサーはファウストを抱き上げ家を出て……だが結局頼るべき医者を見つけられない。シュトライザーに関わる医者を信じる事ができなかった。

 頼ったのはジョシュアだった。今にも息が止まってしまいそうなファウストを抱え、普通の町医者ではどうする事もできないと思い、浮かんだのが彼だった。

 ヒッテルスバッハの執事達は直ぐにアーサーとファウストを受け入れ、常駐の医者がファウストを治療してくれた。それでもその晩は危険かもしれないと言われ、眠れぬ夜を過ごした。

 乗り切ってくれたファウストは、それでも数日意識がなかった。意識が戻っても高熱に朦朧としていて、食事もままならなかった。
 そうして熱が下がり、少しずつ落ち着いてきた時には、ファウストの中からアーサーは消えてしまっていた。


「……医者の話では、精神的な事が大きな要因だろうと言っていた。マリアの死を見てしまった事や、義母からの凄惨な暴力だ。そして、お前はいなかった」

 ファウストの記憶がないばかりか、姿を見るだけで拒絶を示す。その状態に、アーサーの精神はすり減っていた。
 だが同時に、当然の報いだとも思った。助けてやれなかった。あの子はどれだけアーサーを呼んだだろう。どれだけ、絶望したのだろう。助けを呼んでも助けられない現実を突きつけられて、どれだけ……

「時間が経てば戻る可能性もあるが」
「……いや、構わない」
「アーサー」

 気遣わしげなジョシュアに、アーサーは言う。そして立ち上がり、手紙をリーヴァイへと書いた。

「精神的に落ち着くまでは……いや、ずっと祖父様の所におけるように頼む。あそこにはルカもいるし、アリアも」
「アーサー!」
「ここにいたら、ファウストは」
「アーサー!!」

 肩をグッと掴まれ、アーサーはジョシュアを見た。随分老けたように見える。昔は目の下に隈など作る事はなかったのに。

「ダメだ、アーサー。ここで手放したらファウストは戻ってこない」
「……構わない。その方が幸せだろう。こんな役立たずの親など、覚えていない方がいい」
「バカを言うな! お前はファウストの父親だ。唯一の親だぞ! もしも記憶が戻った時、今度こそファウストはお前に捨てられたと思うんだぞ!」

 そう言われて、迷いが生じた。
 だが、どうやって守ればいい。本邸には絶対に置けない。別宅はまだ大丈夫だろうが、それでも油断はできない。
 あの女が生きているかぎり、ファウストは常に危険にさらされる。

「……あの女を、殺せばいいのか」

 呟いたアーサーに、ジョシュアは深く頷いた。


 本邸に戻ったアーサーはフランクに代わって家の中を整えた。そして、実質的な当主におさまった。
 面白くないラモーナが何かをしたいのは分かっていた。だがそこを無視し、アーサーは粛々と事を行っていく。

 それと同時に、罠を張った。マクファーレンの家にファウストの様子を伺う手紙を書いた。「私の次の当主」という言葉を使い、決して無視できないようにした。
 書いた手紙を執事に渡せば間違いなく中身を見る事が分かっていた。だからこそ書いたものだ。

 前日は雨が降り、道は滑りやすかった。
 誰にも行き先を告げずに馬車で出ていったラモーナを、ジョシュアが用意した裏の人間が監視する。
 アーサーは先回りして、マクファーレンへ向かう崖道に身を潜めていた。そこは昔、マリアが事故に遭った現場であった。

「アーサー、危険だけれどやるのかい?」
「あぁ」
「……上手くよけるんだよ」

 準備を整えたジョシュアと分かれ、アーサーは馬車が通るはずの道の脇へと身を潜めた。そうするうち、車輪の音が近づいてくる。心臓が僅かに早まっていく。馬蹄が近づく……あと少し……今だ!

 馬車の前に突如現れた人影に、御者は咄嗟に手綱を引いた。一頭引きの馬車は大きく揺れながら急停止した。

「何してやがる!」

 怒鳴った御者の真上で、大きな爆発音と岩肌が崩れる轟音がする。御者は驚いて馬車を走らせようとしたが、パニックになった馬は言うことをきかない。その間に、アーサーは崖崩れに巻き込まれない範囲まで退いた。だが、小石が飛んで唯一覆っていない顔に飛ぶ。僅かに頬が切れ、赤い線を引いた。

 崖崩れに巻き込まれ、馬車はきりもみになりながら下へと落ちていく。その様を、とても冷めた目で見ていた。人を殺すのだから多少の罪悪感があるだろうと思っていたが、そんなものはまったくなかった。

「終わったね」

 ジョシュアがアーサーの側に下りてくる。その後ろにはコーネリウス、そしてアラステアの姿もあった。

「……さっさと逃げろ。これは全部、私がしたことだ」
「そんな事にはさせないよ、アーサー。これは不幸な事故さ。幸い、前日雨も降っていたしね」

 コーネリウスが困った顔で笑う。これで裁判所の最高責任者だ。そんな不正をさせるわけには行かない。首を横に振ると、コーネリウスは余計に困った顔をした。

「ダメだコーネリウス。お前に片棒を担がせるような事は……」
「これ一度きりだよ、我が友。事故だ」

 アラステアを見ると、彼もまたアーサーに笑いかけた。彼が今回使った火薬を不正に仕入れてきた。

「最愛の人を亡くす悲しみを、私も知っている。私の方は病でどうしようもなかったが、殺されたお前はさぞ無念だろ。更に子供にまで手を出されたら、黙っているわけにはいかない。絶対に表には出ないから、心配するな」
「アラステア……」

 彼もまた心の傷は癒えていない。それでもこうしてきてくれたのだ。力を貸してくれるのだ。

「アーサー」
「ジョシュア」

 今回の提案をしてくれたのはジョシュアだった。必要な物を揃え、岩肌に爆薬を仕掛け、タイミングを見て導火線に火を付けた。

「アーサー、ファウストを離すなよ。どれだけ嫌われても、拒まれても、直ぐに手が届くようにしておけ。ファウストの父親はお前なんだ。それだけ、約束してくれ」
「……分かった」

 約束をして、皆と分かれて、アーサーは崖下の馬車を見に行った。万が一生きていたら、更に事態は悪化する。

 崖下にあった馬車は大きな岩に潰されていた。
 ラモーナが乗っていたはずの場所は大きな岩が押しつぶしていて、原型を留めていなかった。だが、広がった赤の中に知っているドレスの裾を見つけて、アーサーはそのままその場を後にした。


▼ファウスト

 話を聞き終えて、驚きに心臓が痛くなった。
 何一つ覚えていなかった。それは今も、思い出せる感じがしない。冷たくて、暗くて、怖かったという感情しか残っていないのだ。
 そしてラモーナの記憶も、とてもふわっと途絶えている。覚えているのは黒い影に赤いルージュ。それがいつも怒鳴りつけ、殴り、蹴り、母をけなしていたと思う。

 けれどそれ以上に強烈に覚えていたのは、そんなラモーナの後ろでとても楽しそうに、暗い目をして笑っていた義兄チャールズの姿だった。

「その後、お前が完全に回復する前にチャールズを外に出した。そしてお前を本邸に招き、傾いた家を建て直し、お前には様々な師を付けて剣術や弓術、槍に馬にと身につけさせた。祖父様の血を継いでいるんだろう、お前は吸い込むように身につけていった」

 ファウストは頷く。とにかく一日中稽古になった。学問に武術にと、とにかく忙しくて目が回った。
 そして、アーサーはそこに関わる事がなかった。嫌いだからそれでいいと思っていた。

「お前を騎士団に入れる。お前は覚えていないかもしれないが、それがお前の夢だと信じて私は……」
「……覚えてはいなかった。けれど、騎士になりたい気持ちは何故か揺らがなかった」

 不思議だったが、それだけは確かだったのだ。おかしなものだ、忘れたのに奥底で覚えていたのだろうか。

「……ファウスト」
「ん?」
「ランバートと、添い遂げるつもりか?」

 問われ、途端に胸の奥が暖かく、そして苦しくなった。思わず側に彼を探してしまいそうになるくらいには恋しい気持ちが募っている。だが同時に、こんな事に巻き込まれなくて良かったとも思うのだ。
 今頃、心配しているだろう。悲しませ、苦しませているのだろう。そう思うと申し訳なさと、早く彼の側に戻りたいという気持ちで一杯になってくる。

「……こうしてお前に話していると、若い頃の気持ちを思いだした。私は、お前に似ているのだろうな」
「ランバートにもそう言われた」
「あっちはジョシュアに似ているぞ。やることが斜め上だ」
「突飛な部分はあると思うが、それほど似ているとは……」
「そのうち分かる。お前、絶対に勝てないぞ」

 小さく笑うアーサーの、こんな表情は初めて見た。いや、そもそもこんなに向き合った事がなかったのだ。

「……お前の思うとおりに生きなさい」
「え?」
「愛する者と離れる苦しみや、裏切りの罪悪感。そういうものを思い出した。老いたな、私も。いつの間にかお前に家を残す事で、様々な事の恨みを晴らそうとしていたようだ。お前の苦しみや葛藤を、思ってやれなかった」

 ふわっと笑うその表情は思い出した記憶の中にある。優しい父の、諭すような顔だった。

「すまないな、ファウスト」
「だが父様、そうなれば家はどうなるんだ」
「それについては考えがある。お前を煩わせるような事にはしないから、安心しなさい」

 だが、そんな都合のいい方法があるのだろうか。ないからこそ、ファウストにもランバートにも無理を押しつけたのではないだろうか。
 不安にかられ、声をかけようとした。その時、ドアの外が僅かに騒がしくなった。

「もぉ、本当に使えないな! 医者も呼べない薬もないなんて、どういう管理してるわけ?」
「……すいません」
「もう、いいよ」

 聞き覚えが十二分にある声がする。そして申し訳なく謝っているのは知らない声だ。
 ドアが開いて、手に毛布を持ったルカが入ってくる。当然のように入室後鍵はかけられたが、明らかに主導権はルカが握っていたようだった。

「あっ、兄さん起きたの! 大丈夫? まだ、具合悪い?」
「あぁ、いや。それより、何を騒いでいたんだ?」

 問えばルカは「あぁ」と、とても疲れた顔をした。

「兄さんが倒れたのを知らせて、医者を呼べって抗議したんだ。でも流石に受け入れてもらえなくて」

 当然だ。こちらは拉致された側で、そもそもそんな主張は通らない。

「それなら薬はないかって聞いても、ないって言うし。買いに行けって言ってもそれはできないの一点張りでさ」

 そうだろうな……

「本当に使えない。結局毛布くらいしかなくて。しかも埃っぽいの! 洗濯まではできなかったけれど、埃はたいてきたから」
「あぁ……」

 にっこりと差し出される毛布を着せかけられたファウストは思う。リーヴァイの豪胆さを受け継いだのは、間違いなくルカだと。

「それと……これは確証がないんだけれど」

 ルカは少し困惑した様子で口を開く。首を傾げたファウストとアーサーに、ルカはおずおずと口を開いた。

「僕もちゃんと覚えてるわけじゃないから、間違ってるかもしれない。でも……ここ、もしかしたら昔、僕たちが暮らしていた家かもしれない」
「え?」

 思わぬ事に、ファウストもアーサーも顔を見合わせる。そして、二人揃ってどうにか立ち上がり、辺りの物を見回した。
 打ち付けられた窓の隙間から僅かにオレンジ色の光が漏れている。その薄明かりで見る室内は、確かに見覚えがあった。

「まさか……本当に?」
「間違いない。調度品も昔のままのはずだ。ここは子供部屋だ」
「!」

 思い出したら、また吐き気がこみ上げてくる。ふらふらと、ファウストは壁際の一角へと向かった。そこはきっとカーペットの色が違うだろう。この奥が、あの小さな隠れ家だ。今では入口すらも入るのが精一杯な大きさだ。

「兄さん……」
「母様……」

 その場に膝をつき、ファウストは悲しみに涙をこぼした。

 事が動いたのは、その翌日の事だった。
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