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1章:ラブ・シンドローム?

9話:父になる日(ヴィンセント)

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 ジェームダルの侵攻により一時避難勧告が出たが、予想以上に早く鎮圧されたことで結局移動はしなかった。
 その後の処理をカールやジョシュアとしていたヴィンセントは、現在単騎で王都から離れたヒッテルスバッハ領へと向かっている。
 それというのも妻アネットの出産予定が数日後に迫っていたのだ。

 出来れば側にいたい。そう思うが、周囲の話では「いても出来る事ないぞ」というのだ。
 ただ、意外な人が味方について忙しい中休みをもぎ取った。

「流石に単騎だとはやいね。私も自分の所領だってのに、行くのは久しぶりだよ」
「ジョシュア様まで来なくてもよかったのに」

 何故か一緒に休みをもぎ取ったジョシュアがのほほんと言う。これに、今日何度目かの溜息をついた。
 当のジョシュアはまったく気にした様子はない。何事もなく笑っている。

「奥様の顔が見たくなってね」
「その件に関しては、申し訳ないと思いますが……」

 言い淀むヴィンセントに、ジョシュアは「気にしてないよ」と更に笑った。

 それというのもヴィンセントの妻アネットは戦争が激化する前にヒッテルスバッハの所領へと匿われる事になったのだ。
 ヒッテルスバッハ夫人シルヴィアはその後もずっとアネットの面倒を見てくれている。
 馬車で二日半という距離を、臨月の彼女を移動させるわけにはいかない。そう言われ、生まれるまでは所領で過ごすことを半ば強引に決めてしまい、今にいたる。

「ほら、早めに向かわないと。子供は予定通りに生まれてくれないものだからね」
「分かっています。ハァ!」

 馬の腹を蹴って更に歩みを進める二人は、その日の夕方には所領へと到着したのだった。


 屋敷に到着すると何かとバタバタ人が動いていて、とても取り合ってもらえる感じがしない。執事からメイドから、真新しいシーツやぬるま湯を運んでいる。

「え? え!」
「おや、これはドンピシャだったかな」
「あっ……アネット!」

 思わず駆け出すようにメイドを捕まえてみれば案の上だ。昼ほどに産気づき、今は医者とシルヴィアが付き添っているそう。日にちとしては五日ほど早いお産だ。

「とりあえず部屋に行ってみよう。まだ会えるなら、一言声をかけるといい」

 ジョシュアにそう言われ、教えて貰った部屋へと向かうとドアは開けっぱなし。そして苦しそうな彼女の声が聞こえる。

「あら、いいタイミングね。もう少し生まれないから、顔見せて声かけてあげて」

 周囲はバタバタしているのに、シルヴィアはとても落ち着いてそんな事を言う。
 見ればアネットのお腹ははち切れんばかりに大きくなって、ベッドに結わえられている紐を握り耐えているように見えた。

「アネット!」

 駆け込むように側に行くと、気丈な目に涙を浮かべてこちらを見た彼女の表情が、多少引き締まって笑った。

「き、たの?」
「当たり前じゃないか!」
「しっかり、仕事しなさいよ、っ! 心配なんて……」

 断続的に強く痛む様で力が入るのが分かる。それでもこのいいようだ。

「大丈夫、ちゃんと終わらせてきたから。側にいるから」
「いらなっ! 女の仕事よ」
「でも……」
「痛いってのに側で心配顔されると、イラつくのよっ」

 笑いながら言うアネットの額に冷や汗が浮かんで、それでも平気な顔をしている。それが辛くて、でも彼女の言う通りどうしたって代わってやることはできない。

「開いてきましたね」
「アネットちゃん、頑張ったわね。もう少しだから、頑張りなさい」

 医者が診察をして、シルヴィアが声をかける。これにはアネットも素直な表情で頷く。
 そしてヴィンセントの肩をジョシュアが叩いた。

「行くよ、ヴィンセント」
「でも!」
「医者か神父でもなければ男は不要な場所だ。どっかりと待つんだよ」

 静かに言われ、アネットも頷く。手を握り、額にキスをして声をかけて、ヴィンセントは部屋を出て談話室へと連れていかれた。


 どさりと、ソファーに腰を下ろしても落ち着かない。今頃、苦しんでいるんじゃないかとソワソワする。遠く、呻くような声が聞こえてきそうだ。
 ジョシュアはそこにブランデーのグラスを置いて、気付け程度の酒を注いでいく。

「今は……」
「酔わない程度に飲んでおきなさい。お前が死にそうな顔をしてどうするんだい」

 そう言われて鏡を見せられて、本当に今にも息が止まってしまいそうな顔をしていた。
 向かい側にジョシュアが同じく腰を下ろす。そして、とても楽しそうにヴィンセントを見るのだ。

「あの、なにか?」
「いやね、懐かしいなと思って。私も長男が生まれた時は、今の君みたいだったなと」
「え?」

 とてもそんな風には思えずに、パチクリと瞬く。目の前の男はとても取り乱すようには思えなくて、そんなのは似合わなくて。だからこそ意外だった。

「そんなに意外かい?」
「えぇ、とても」
「人を鉄面皮みたいに言って。こんな私にも若くて青い時代があったものだよ」

 正直それすらも想像ができないのだが……

 そんな事を思うヴィンセントを知らん顔で、ジョシュアは色々と話し始めた。

「長男は一番安産でね、それでも私は落ち着かなくて右往左往していたものさ。今の君のように」
「そういうものですか?」
「そうだね、そういうものだよ。次男のハムレットは逆に十日以上早く出てきてしまって、しかも体も弱くてね。そのせいで今度は奥様の方が気に病んでしまった。だから三人目を生むかどうか、当時はとても悩んだものだ」

 三番目、ランバートはそんな状態で生まれたのか。確かにすぐ上の兄が虚弱であったなら、親としては次が怖いのかもしれない。

「ランバートが一番の難産でね。ハムレットが小さかった分、あの子は大きくてなかなか出てこなかった。奥様の出血も多くて、最悪も覚悟してくれと言われた時にはガラにもなく神に祈り倒したものだよ」
「そんなに! でも、そういうことも……」

 出産は死と隣り合わせだと聞いたことがある。医学の進歩で徐々にそんな事はなくなってきたが、それでも絶対ではないのだ。
 急に怖くなったが、それを察したジョシュアが笑う。平気だと言わんばかりに。

「心配してもどうしようもない。男の私達には今、やれる事はないんだ。それに女性は強いものだよ。うちの奥様なんて怖いくらいだからね」
「でも」
「アネットも強い女性だ。そして、生まれた子を養っていくのが男の役目というものだよ」

 ジョシュアはそう言って舐めるようにブランデーを飲み込む。

「お前の子だ、賢くなる。生きるための知恵を伝え、困らないようにしてやりなさい。所詮男に出来るのは子供と奥方を愛することのみさ」

 なんだかとても、珍しい気がする。普段ジョシュアは仕事の話はしても、個人的な考えなどは言わない。だからこんなに、饒舌なのは珍しく思う。

「珍しいかい?」
「え?」
「そんな顔をしている」
「……少し」
「この間、息子に下克上をされてね。いや、子が育つのは早いんだと実感したんだ。そろそろ引退かねぇ」
「え!」

 思わぬ言葉に衝撃があってヴィンセントは立ち上がった。今彼のような重臣に辞職などされてはたまらない。彼がカールの側について牽制しているからこそ、今のバランスがあるのだ。
 ヴィンセントの反応にジョシュアは笑い「落ち着きなさい」と言う。とても落ち着いていられる内容ではないのだが。

「今すぐなんて思っていないよ。だが、後十年もすれば私も六十だ。認めたくはないが年齢と共に力は衰退していくのに、頭は硬くなっていく。そうなれば判断を間違う。そうなる前に育てなければならないよ。陛下も、アレクシスも、そしてお前も」
「私も?」
「勿論だ。お前は今後国を背負う。そして、アレクシスとは違う視点でものを見る。あれは少し頭でっかちだからね。お前の力は必要だ」

 ふと、ジョシュアの瞳が真面目になる。飲まれるような瞳の色に、ヴィンセントは妙な緊張に唾を飲み込んだ。

「私がいつまでもいると思ってはいけない。ヴィン、お前が支えていくんだ。この国はまだ発展する。ようやく始まったばかりだとも言える。励みなさい」
「……分かりました」

 この人の、こんな顔はきっと仕事では見られない。だからこそ真剣に聞かなければならない。
 ヴィンセントはしばしジョシュアの雰囲気に呑まれ、状況が抜けていた。その耳に、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえるまで。

「え!」
「あぁ、生まれたみたいだね。支度もあるからもう少し待っていなさい。準備ができたら呼びに来るさ」
「そんな悠長な!」
「ヴィンセント、女性にはどんな時でも身支度というものがある。あの声を聞くに赤ん坊は無事に生まれた。どっしりと構えなさい」

 早く会ってアネットに声をかけたいし、子供の顔も見たい。けれどジョシュアはこう言っている。立ち上がったままオロオロしているうちに、屋敷の執事が呼びにきた。

 話によれば母子ともに健康らしい。アネットの方は支度があるからともう少しかかるが、先に子供の方を連れてきてくれたらしい。
 子供は、薄らと金色の産毛のような髪が生えた女の子だった。顔立ちはまだどちらに似ているなんて分からない。だが、腕に抱いた子は綺麗な緑色の瞳でヴィンセントを見て、ピタリと泣き止んだのだ。

「おや、可愛らしい。これは将来男を振り回すよ」
「滅多な事言わないでください!」

 隣から覗き込んだジョシュアが楽しそうにそんな事を言う。だがそんな困った子にするつもりはない。お淑やかでなくても、男を惑わすような女性になっては色々困る。

 そんな事を思っているとアネットの方も準備が出来たと知らせがあり、ヴィンセントは我が子を抱いたままアネットに会いにいった。

 アネットは疲れた顔をしながらも、その表情は満足げなものだった。ヴィンセントを見て、得意げだ。
 意地らしくも見える彼女を見て、ヴィンセントの方は涙が出そうだった。ゆったりとした白いドレスを纏うアネットの側に行って、そのまま額にキスをする。

「有り難う、アネット」
「なによ、それ。お礼を言われるような事はしていないわ。言ったでしょ、私も貴方の子を産みたいと思ったのよ」

 子をシルヴィアが受け取って、抱きしめて、髪にもキスをして。腕の中のアネットは珍しく素直に背中に腕を回してくれる。
 今触れる、この大切なものを守っていく。愛しい全てを守れる様に、平穏に過ごせる国にしてみせる。政治家として、それがヴィンセントに出来る唯一の守り方だ。

「君と、我が子を守れる父になるよ」
「当たり前よ」

 腕の中で柔らかく笑ったアネットの唇にキスをして、ヴィンセントは新たな家族にも祝福のキスを額にして、人生一番の笑みを浮かべた。
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