月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

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1章:落日の王都

1話:不遇の王太子

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 荘厳な王宮の中庭に、ひっそりと建つ碑がある。名も刻まないその碑の前に一人の青年が膝を付き、一輪の百合を捧げた。
 背に流れる髪は銀糸の如く煌めき、瞳は深いジェード。天使のごとく美しい顔立ちは厳格な雰囲気と白い衣服と相まって、本当に舞い降りてきた使者のように思える。
 彼の名はユリエル。タニス国第一王子であり、王太子である。
 彼は碑の前に膝をついて礼をし、とても寂しい笑みを浮かべた。

「母上、この国は既に落ちるのを待つばかりかもしれません」

 静かな声が語りかけるように紡がれる。表情は冷たく、硬いものだった。
 胸元から小さな羊皮紙を取り出したユリエルは、再びその書面を目で追った。

『ユリエル・アデラ・ハーディング
 聖ローレンス砦への赴任を命ずる。速やかに任地へと赴き、職務を全うせよ』

 聖ローレンス砦は、王都より北東に位置する大陸行路の監視地だ。昔は戦も多くそれなりに活躍もした砦だが、今はそこまで踏み込まれる事もなくなり、もっぱら暇な監視と取り締まりが仕事となっている。
 そのような場所に、王太子であるユリエルを赴任させる理由は分かっている。ユリエルを嫌い、危険視する役人や大臣が多いからだ。
 現国王はその昔は立派な王であった。だが、ある時から意欲を失くし、年齢もあって力は衰えている。今や腐敗した大臣や役人の言いなり状態だ。

 ユリエルが憂えるのは、そうした者達がこれ以上力をつけ、財を溜め込み、腐敗していくことだった。彼の目から見れば既に王の弱体化は深刻なレベルにあるように思う。
 さっさと王位を譲ってもらうのが一番いいのだが、それもまごついて上手くゆかない。ユリエルが王となれば今までのような甘い蜜は吸えない。そればかりか身の危険となる。それを恐れる者達がユリエルを廃し、弟を王太子とすることを画策している。
 ユリエルは静かに瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは先程の王の姿だった。なんと小さく、弱く、頼りないものだったか。それを思い起こしていた。

◆◇◆

  政治の場である中央院にある王の執務室。ユリエルはその前に立ち、硬く扉を叩いた。

「ユリエル、参りました」
「入れ」

 すぐに声があり、ユリエルは従って中に入った。
 正面にある執務用の黒檀の机の奥に王はいた。年の頃は五十を過ぎ、少しくたびれている。心労の色も伺える。その王が、こちらを見て頷いた。

「ユリエル、ラインバール平原ではご苦労であった。見事な戦いだったと聞いている」
「運が良かっただけでございます」

 彼は軽やかに、歌うような声で告げて静かに頭を下げる。この姿を、人は慇懃無礼と言う事がある。華やかな出で立ちと声音は劣等感を刺激するらしい。
 だが、ユリエルはいつもこのように振る舞う。王もそれを咎める事はなかった。

 この日、ユリエルは一カ月ぶりに王都に帰還した。ここより二百キロほど離れたラインバールと呼ばれる前線へと赴いていたのだ。
 隣国ルルエとは、もう長く睨み合いが続いている。その最前線が、国境のラインバール平原だった。
 一カ月と少し前から、膠着状態だった両国が再び戦争へと転がりだした。ルルエの前王が病死し、新たな王が即位した事でタニス側が戦を仕掛けたのが原因だった。
 一時はタニス側が優勢で、ラインバールを平定しそうな勢いだった。だが、着任した新王がこれを知り、すぐに反撃。その結果、タニスは一気に危機に陥った。
 このままではラインバール平原の覇権を奪われる。この段階でようやくユリエルが呼ばれて指揮を執る事となったのだ。
 ユリエルは残された兵を再編成し、見事に劣勢を覆し、ルルエ軍を押し返した。結果、平原を手中に収めることはできなかったが、再び膠着状態に戻す事には成功したのだった。

 だが、ユリエルの危惧はこの戦とは違うものに向かっていた。
 一つは、王が軍の暴走を止める力を持てなかった事。今回の事は軍の上層部が勝手に判断した結果だ。これこそが、最も危惧すべき王の弱体化だ。これが横行すれば、一気に国は戦争へと向かっていく。無用な争いが増えればそれだけ、国が疲弊してしまう。
 更に言えばこの戦いを支持する諸侯や大臣の影が気になる。奴らは戦争を隠れ蓑に私腹を肥やすつもりだろう。これほど大きな目くらましもないだろうし、こうした嗅覚は鋭い奴等だ。
 更にもう一つ気になると言えば、あまりに手ごたえがなかった事だ。捕えた兵を尋問したが、新王に関する事は一切話さない。
 何か嫌な予感がしている。何か裏があり、その為にラインバールでの戦を利用したのではないか。そう勘ぐるのは、ユリエルの悪い癖だと思いたかった。

「して、陛下。私を呼んだ理由は労いの為ではないでしょう。用件は、どのようなものですか?」

 王の言葉をユリエルは待った。ジェードの瞳が王を見据える。それに、王は深く息を吐いた。

「お前には王都を離れ、聖ローレンス砦へと赴いてもらいたい」

 その命に、ユリエルは片眉を上げた。

「王太子たる私を、王都から地方へと移す。という事ですか?」

 これにも王は答えない。答えられないのだろう。

「つまり、私をお役御免にして遠ざけたいということですね?」

 鋭い視線を隠さず、ユリエルは問う。それに、王は何も言わなかった。

「弟の王位を確立したいが為に、私を追い払うのですね?」

 もう一度、重ねて問うた。それにすら、王は答えない。だがその理由を、ユリエルはよく知っていた。

 ユリエルの腹違いの弟シリルは、優しくて純粋で、色々な意味で無知だ。そして、ユリエルよりも母の位が高かった。
 王は正妃との間に子がなかなかできなかった。その為、貴族の娘を側室に迎えた。これがユリエルの母だ。
 王は長子を生んだユリエルの母に、この子を王位につける事を約束している。だがそれは、十年あまりで覆された。正妃との間に男児が生まれたのだ。
 これによってユリエルと母は城内で立場がなくなり、不遇の日々を送る事となった。そしてそれは今も続き、母は顧みられることもなく亡くなった。
 今も城の内部では身分が上の弟を王太子とし、後の王へと考える人間が多い。彼の方が扱いやすいと踏んだ輩が多い証拠だ。

「母との約束を、決定的に違えるのですね?」
「すまない」

 項垂れた王が言ったのは、たったそれだけだった。

「貴方を責めるつもりはございません。国の首座として決定した事ならば、一将兵に頭など下げる必要はありません。例えそれが、一度でも愛した女性との約束を違える結果でも、息子である私が相手でも」

 その言葉には、一欠けらの優しさもなかった。明らかな責めに王は言い訳をしなかった。これは既に決定されたことで、ユリエルの責めに間違いがないからだ。

「五百の兵を預ける。後は、聖ローレンス砦の首座として務めよ」
「それが貴方の精一杯の優しさですか。……いいでしょう、従います。ですが父上、私が何者かを知っていれば、貴方はこれも無駄な足掻きと知るでしょう」

 ジェードの瞳が危険な光を宿して王を見る。

「私は、王の子です」
「そうだ。だからこそ、私はお前が恐ろしい。お前の性は苛烈すぎる。このままお前が玉座に着けば、血の粛清が行われかねない」

 その言葉に、ユリエルは柔らかく微笑んだ。母に似た、とても美しい顔で。

「貴方のその配慮に、臣は感謝に涙するでしょうね。そして民は、血の涙を流すのです」

 それだけを残して、ユリエルは踵を返し部屋を出た。
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