黒きもの

神崎龍介

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第一章

第四節 地獄の中の死闘

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元来た道の記憶すら危うくなるほど歩いたころ、アシュリーはようやく川辺についた。赤ん坊の声はもうすぐそこだ。唯一の光源であった月光も、いまや雲に隠れてしまった。森の暗さ、不気味さは増す一方である。
 いまや残された道標は甲高い泣き声だけだ。アシュリーはそれだけを頼りに、赤子の元へと歩いていった。

「あっ……」

 そして、遂に見つけた。
 赤子は、まるで産み落とされたばかりであるかのように、裸体のまま草の上に転がっていた。全身に瑞々しさが残り、所々がふやけ、肌がまだ赤みがかっている。
 いや、何かおかしい。
 まだ目も開けておらず、へその緒も長いまま残り……。
 これでは、まるで。
 本当に、"産み落とされたばかり"なようにしか見えない。

「え……あれ……」

 アシュリーは、先程から謎の腐臭がすることに気付いていた。それだけではない。赤子や自分自身にも、何かの液体が垂れてきている。今もまだ滴り落ちてきている。それにこの腐臭も、上から発せられているように感じられた。だが、自分の頭上には、隣にひっそりと生えている木の枝があるだけだったはずだ。今、赤ん坊の元へ近づくまでは。
 アシュリーは自分がなにか途轍もなく恐ろしい状況に置かれているような気がした。この腐臭や、謎の液体からもそう感じられたが、なにより、幼き頃から己の中で培われてきた直感が、自分自身に告げている。"これはなにかまずい"と。"すぐに逃げろ"と。もはや耳にも入り込んできている。"何か"の悍ましき呻き声が。地獄の底から吹き付けるような恐ろしき息吹が。
 アシュリーは恐る恐る、自らの頭上を見上げた。

 そして、彼女は気が付いた。自分はいま、昨日まで過ごしていた世界とは全く別の世界にいることを。知らず知らずのうちに自分は、身の毛がよだつほど悍ましき地獄に迷い込んでしまったのだと。禍々しき非日常の中に囚われてしまったのだと。

 アシュリーの頭上には、怪物がいた。そして、こちらをじっと見つめていた。上半身から下が惨たらしく引きちぎられた肉体を、口に頬張りながら。お前もこの肉塊のようにしてやるぞと言わんばかりに、一つしかない悍ましき目で、しっかりとこちらを睨んでいるのを、アシュリーは見てしまった。
 刹那、全身の毛が逆立ち、心臓の鼓動が警告音のように拍車を掛ける。

「――――ああぁぁぁあぁあッ!!!」

 腰の力が抜け落ち、膝が崩れ落ちる。無様にも動かぬ足を引きずりながら、化け物から遠ざかる。全身から脂汗が滲み出る。瞳からは涙が溢れ出す。何が起こっているのかわからない。目の前にいるのがなんなのか、これが夢なのか現実なのか、何故こんな目に遭っているのか、自分は今どうすればいいのか。今の彼女を言葉で表すのならまさに、気が動転しているというのだろう。何もかもが脳裏を目まぐるしく行き交い、何が何だかわからない。ガタガタと震えながら、小さな喘ぎだけが零れ落ちる。
 だが、目の前の怪物は彼女の有様などお構いなしだ。口に含んでいた肉塊を、アシュリーの傍らに吐き捨てる。そして、彼女の目の前に、その化け物は降り立った。
 どしりと傍らに吐き捨てられたその肉塊は、アシュリーを見つめていた。木の暗がりから放り投げられたことで、その肉塊の有様がアシュリーにはよく見えた。腹から下は惨たらしく捥がれ、足があったであろう場所には、腹から零れ出た内臓と、半ば千切れかけた胎盤、そして肥大化した子宮が死肉と共に垂れ下がっていた。上半身に至っては腕という腕はもはや存在せず、代わりに枝のように細くなった骨と少々の肉だけが胴体から露出した形になっている。頭部と思われる部位に関してはもはやただの肉塊そのものと化し、皮も無ければ鼻も口も目も爛れ落ちている。

「ひぃぃぃぃっ!!」

 人であったであろうその肉塊を見て、耐えられず発狂するアシュリー。だがその時、そんなアシュリーに奇跡が起こった。絶望し、生を諦観していた彼女の足に、再び力が沸き起こったのだ。身体が本能的に緊急事態を察知し、彼女に神経を研ぎ澄まさせたのだろうか。
 とにかくアシュリーは、なによりも先に自身の安全を確保しようと、目の前にゆっくりと迫り来る化け物から遠ざかる。
 しかし、その時、アシュリーの視界には、哀れにも放置された赤ん坊が映った。

「ぁ……」

 赤ん坊は、ただ泣いていた。泣いて母を求めていた。涙を流し、悲しく救いを求めていた。
 アシュリーは、その子を放っておく気にはなれなかった。もちろんそんな悠長なことを考えている暇ではない。だが、母を失い泣き声を上げる哀れな赤ん坊を放って逃げることは、アシュリーには到底できなかった。まるで、親しき祖母や友人を失い、泣いて悲しむことしかできなかった独りぼっちの少女のようで。

「……ッ!」

 アシュリーはその瞬間、全身全霊の勇気と頭脳を振り絞った。アシュリーは、足元に落ちていた石ころを拾うと、目の前の化け物の目玉を目掛けて放り投げる。どんな生物でも、視界さえ遮れば隙を作れる。それを瞬時に考え、行動に移したアシュリーは、もはや尋常でない恐怖を前に、躊躇という感覚が狂ってしまっていたのかもしれない。とにかく勇敢にもアシュリーは怪物への攻撃を決行し、そしてそれは見事命中した。幸い怪物から曝け出されている目玉はどういうわけか一つだけだ。怪物の視界は、一瞬だが、それでも遮ることはできた。
 化け物は自らの目玉を、異常なほど伸びた三本指の腕で抑え、悲鳴を上げている。赤ん坊を救い出すのなら今しかない。アシュリーは迷うことなく物言わぬ肉塊の向こうへ走り、そして赤ん坊を腕に抱えた。怪物はまだ狼狽えている。逃げるのなら、今しかないだろう。
 アシュリーはすぐさま元来た道へと奔走する。溢れ出そうな涙を堪えながら。
 後ろからは、段々と距離の離れていく化け物の呻き声しか聞こえない。
 押し殺した悲鳴が無様にも少しずつ零れ出す。涙と共に。

「なんなの……これ……私が、何をしたっていうの……?」

 少女は走る。一目散に。だが、ただ一方的にこちらが逃げ続けることなど、そんな都合の良いことは起こりはしない。背後から、先程の化け物のものであろう咆哮が響いくる。
 きっと、先程のアシュリーの攻撃によって、怪物はより獰猛を増しているはずだ。より殺意を、憎悪を燃やしているはずだ。

 "お願い……これが夢なら……早く覚めてよ……!"

 幾度となくそう願ったが、走れば走るほど強くなるこの足の痛みが、夢であったならという淡い希望すらも残酷に打ち消した。
 アシュリーは息を切らし、大きな木の前で立ち止まる。己の中の全ての力を己が足に託し、これ以上走ったら死んでしまうと思うくらい、逃走に逃走を繰り返した。
 恐る恐る後ろを振り向くが、そこには追ってくる化け物の姿も、あの呪われた魍魎の如き咆哮もなかった。
 信じられないが、どうやらあの化け物から逃げ切ることができたらしい。

「……助……かった……?」

 自分はまだ生きている。あの悍ましき黄泉の底から抜け出すことができた。仕事場の酒樽が重すぎるんだとか、サーシャとの過去に想いを馳せていたいつもの日常に、戻ってくることができた。
 そう考えた途端、アシュリーには安堵よりも先に疲労の方が湧き上がった。

「……助かった……助かったんだ……」

 そして、疲労の黒潮が引くと、今度は混乱と言いようのない不安感が彼女の心の中に湧き上がっていた。
 先程まで自分が見ていた光景は一体何だったのか。あまりにもこれまで生きてきた日常からかけ離れすぎて、今さっきまで経験していたことが本当に現実のことだったのか疑う。
 自分は確かに化け物を見てしまった。一つしかない目が禍々しくくねる触手の先に生え、不気味なほど大きな口が涎を垂らしながら開閉を繰り返していた。明らかに獣でもなく、はたまた人でもなかった。とすれば、あれは正しく異形。人間の常識を超越した不可思議に他ならない。

「なんだったの……アレは、なんなの? ま、まさか、本当に化け物……? ……もう訳わかんないよ……」

 まるで悪夢のような地獄に、現実みを感じられず、ただ漠然としない恐怖の余韻だけが少女の心に蔓延っていた。だが、今も己が腕の中で赤子が上げるか細い啜り泣きを聞くと、先程までの悪夢が現実であったという嫌に確かな実感が、アシュリーの心中に湧き上がってきた。
 そんなアシュリーは赤子に考えがいったことで、ふと新な問題に気付く。

「そうだ……この子……」

 アシュリーは今一度腕に抱く赤子に目をやった。

「この子……どうしよう……母親は、もう……」

 そこまで考えたところで、アシュリーは目を細めた。先程の母親と思しき肉塊が脳裏に過ったからだ。アシュリーはそこでその考えを頭からなんとか消した。アシュリーが本当に考慮したのは、この子の未来である。今や母親は他界したが、父親はいるのだろうか?もし父親がいないのなら、この子の引き取り手はいるのだろうか?万が一は自身が引き取るカタチになるかもしれない……と、考慮した内容は様々だ。
 だがそんな時、アシュリーは指の感触で、何か異変を感じた。赤子の後頭部を支えていた左手の指に違和感を感じたアシュリーは、赤子を優しく支え上げ、後頭部を見た。そこで、アシュリーの目にまたしても異界の片鱗を感じさせる不穏なものが入る。

「なに……これ……?」

 それは、蠢く種だった。甲高い泣き声は収まりをつけ、今は小さな啜り泣きを上げている赤子。その赤子の後頭部に、その異物は張り付いていた。数本の触手を生やし、不気味に蠢きのたうち回り、幼く可愛らしい赤子の頭とはとても釣り合わない。そして何より不穏なのは、アシュリーにはその種が赤ん坊の後頭部に突き刺さっているようにしか見えなかったことだ。アシュリーはまたも胸を悪くした。
 アシュリーが背後の異音に気が付いたのはその時だ。自らの背後から何かの爛れ落ちる音が聞こえてくる。ポタポタと、何かが爛れ、滴り落ちるその音に徐々に気付いていったアシュリーは、先程までの安堵など無かったかのように、血相を変えた。そして、小さく不気味なその異音が、一際大きい吐瀉音に変貌した時、遂にアシュリーは、小さな悲鳴と共に振り向いた。

「ひっ……」

 目の前の木の幹には、張り裂けた黄色い球体だけがあった。アシュリーはすぐに、それが先程見た蠢く黄色い球体であることに気付く。いまや破れ裂けたそれからは、地面へと血痕のようなものが幹を伝っており――。
 そしてアシュリーは、血痕の先を見て、気付いた。悪夢は、まだ終わっていないことを。人智を越えた怪物から、ただの少女が容易く逃げ切れるなど、愚直で憐れな願いが叶うはずもないことを。
 その血痕の下には、赤子がいた。だがそれはただの赤子、いや、おそらくこの世界の赤子ですらない。
 その赤子は、頭部が裂けていた。眼球があるはずの場所からは、溶けた肉のような赤黒い液体が流れ出ているのみであり、裂けた頭部の間には触手蠢く異様な種が浮いている。下半身はもはや存在せず、それは上半身から下が引き裂かれた、というよりも、初めから下半身が作られていないように見えた。代わりに腹の断面からは無数の赤黒い触手が何本も蠢きのたうち回っている。

「ああああぁぁぁぁッ!!」

 目を見開いて悲鳴を上げるアシュリーは、すぐさま赤子から後退した。すっかり青ざめたその顔からは、先程の安堵やどうでもいい心配事など、有象無象の日常はとうに消え去っている。
 目の前の赤子のような怪物は彼女の悲鳴を聞き取ったことで、その位置を特定したようだ。アシュリー目掛けてゆっくりと、まるで母を求める赤子のように這ってきた。
 無論、対するアシュリーも逃走を余儀なくされるが、そんな時、目の前の赤ん坊の異形の頭部にある種に気がいった。無数の触手と蠢く赤黒い種。こんなものを、今までにどこかで……。いや、ほんのついさっき見てはいないか?
 アシュリーの深層心理に悍ましき不安が湧き上がる。

 考えてみればおかしかった。何故ここまで無防備な赤子が一夜無事で済んだ?仮に奇蹟的に一晩生きながらえることができたとして、何故昼間誰一人として赤子の悲鳴を聞いたものがいなかった?そもそも何故これだけの距離があるにも関わらず、村にいた自分にまで声が聞こえた?
 そして今自分が抱きかかえている赤ん坊の頭部にあったものは?
 今もこの左手に伝わる、不気味な感触の正体は?

 ――この子は、なんだ?

 そしてアシュリーは、決して抱いてはいけない予感を胸に抱く。決して気付いてはいけない真実に気付いてしまう。まだ直接目で見たわけではないのに、それでもわかってしまう。全身の毛が逆立ち、脂汗が湧き上がる。上手く呼吸を整えられない。視界の焦点が乱れる。
 アシュリーは、恐る恐る、ゆっくりと、今自分が抱いている赤子を見た。

 そこにいたのはやはり、化け物だった。木の下を這う悍ましき赤子の異形。それと同様の姿をした怪物が、今自分の腕の中で不気味な笑い声を上げていた。さっきまで可愛らしかった幼き頭を、左右に分裂させながら。口ならざる口を、大きく開けて。

「ひぃいいいッ!」

 甲高い悲鳴を上げると共に、すぐさま赤子を手から離す。すると赤子はその赤黒い触手を器用に使い、ゆっくりと着地した。腰を抜かして崩れ落ちるアシュリー。その目の前では異形の双児が舌なめずりをする。
 これではっきりした。いままで哀れな赤子だと思っていたものは端から人間ですらなかったこと。自身が助け出しにきた赤子も、その泣き声も、魑魅魍魎渦巻く辺境から発せられた悪魔の誘いであったこと。そしてその悪魔の罠に、自分は無様にもかかってしまったことが。
 アシュリーの意識は正気と狂気の間を彷徨っていた。いままで見たこともないような化け物が目の前に現れたうえ、助け出した赤子でさえ尋常の域を越えた怪物だったのだ。アシュリーの残り少ない正気は、みるみるうちに狂気へと堕ちていく。
 赤子たちは今もなお、無垢な笑い声を上げながらアシュリーへと迫っていた。
 心臓の鼓動が激しく波打ち、全身の血流に拍車がかかる。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ。今逃げなければ、このままぼうっとしていれば、お前は死ぬ。
 アシュリーの全神経が、アシュリー自身に警告を発した。
 震える足で立ちあがり、森を駆け、一目散に逃走する。

「なんなの!? とうして私がこんな目に……」

 奔走する少女。それを追う異形の赤子たち。ざわめき嗤う木々。煽るように雄叫ぶ夜風。
 地獄のような惨憺劇の中、少女はただ走ることしか、逃げることしかできなかった。
 自分はどこにいて、なにをされている。今何が起こっていて、これから何が起こる。
 視界が歪み、錯乱と狼狽が少女を狂わせていく。もう脳裏の中には、化け物の叫び声と悍ましき貌だけしか浮かばない。

「もうわけわかんない……ッ!」

 ところが、そんなアシュリーの逃走は、突如前方から発せられた巨音と地鳴りによって遮られた。一歩、また一歩と、確実に少女に近付いてきている。
 大地が揺れ動く。地響きが轟く。一定のリズムを奏でながら、その巨音は鳴り響く。
 地響きの主、アシュリーの目線の先にいるその巨影もまた、やはり悍ましき異形だった。

「なに……あれ……」

 その巨大な体は、屈強な人間にも似つかわしい身体だった。だが、異様なまでの巨体を持ち、強靭な足がその三、四メートル近い巨身を支えていた。胴体は悍ましくも何かの顔のようになっており、曝け出された両目からはただならぬ重圧感が感じられる。見ているだけで、気が狂いそうになるその目の上、胴体の首が存在するはずの場所には、どういうわけかまたも上半身が生え出ていた。サイズは通常の人間ほどだが、異様にやせ細り、か細い腕の掌を合わせていた。不可解な言葉を淡々と発するそれの頭部には、天使の輪のようなものも浮遊しており、まるで何かに祈っているようにも見える。さらに、腹部には大きな口のようなものが存在していた。尤も、今は閉じているようだが、隙間から露出する奇怪な大牙がその大口の異様さと狂暴性を物語っていた。
 前方から近付くその巨影に、無様にも震えるアシュリーの足は、彼女の言うことを少しも聞こうとしない。当然だ。背後からは先程の忌まわしき赤子たちが、前方からは悍ましき巨体が近付いている以上、もはや逃げ道が存在しない。だからこそアシュリーの意思より先に彼女の足が生を諦観してしまったのだ。

「そんなっ……」

 進退窮まるこの状況。だが、そんな絶体絶命の中にも、僅かな道筋は存在していた。
 アシュリーの目に新たな影が映り込む。廃屋だ。
 先程見かけ、近付くことを躊躇した廃屋。だがこんな惨状だ、逃げ込める先があるのなら、それだけで彼女にとっては救いだった。
 廃屋はいざ前にすると、やはり不気味な威圧感があった。底知れぬ恐怖感に打ちひしがれるが、なんとかこらえ、急いで中に駆け込み、力強く扉を閉める。

 中も外見通り酷い有様だった。至る所の家屋に蜘蛛の巣が掛かり、至る所の床に雑草が生えかけている。石壁にも苔が生え散らかり、風化具合は数十年ほどといったところか。
 しかし、悠長に見回している暇もない。閉じた扉に外から異形がぶつかっているようだ。木製の扉である以上近いうち破壊される運命だろう。なんとか防壁を造らなければならなかった。アシュリーは何か重石になりそうな物がないかと、家中を血眼になって見回す。そしてそんな彼女の瞳には、自らの隣にあった棚が映った。反対側に回り、扉の方向に向かって押し倒そうと、目一杯力を入れる。

「ふっ……ぐぅうう……!」

 自分の身の丈よりも大きなその棚は、少女にはあまりにも重く、踏ん張り続けてなんとか倒した。どれほど面倒だと思ったかわからぬ店の重労働が、こんな時に役に立つことなど、アシュリーには思いも寄らなかった事だろう。反対側の石壁に当たる形で、斜めに扉を補強。今もなお扉を強引に叩く音は鳴り続けているが、何も無いよりはずっとマシだ。
 次にアシュリーは自分の身を隠す場所を探す。無駄だとわかっていても、それでも、ただ突っ立っているより、なんとか身を隠したほうが命は長らえるはずだ。それに、もしかしたら見つけられず帰っていくかもしれない。
 無論、その確率はほぼ皆無に近い。この廃屋にアシュリーが入っていくことは、異形たちにも見られているし、この狭い家の中なら、何処に隠れようがしらみつぶしに探せばいずれ見つかるだろう。だがそれでも、アシュリーは隠れずにはいられなかった。恐怖による怯えか、希望による生存本能か。しかし、挟み撃ちに追い込まれ、どちらにせよ逃げ道はこの廃屋にしかなかったのだ。ならば、この惨禍の中で、なんとかベストを尽くすしかない。いま彼女が生き長らえる為に出来ることは、それだけなのだから。
 アシュリーはこの狭き家を中をほんの少し奥に行くと、四つの扉があることに気付いた。出口からなるべく一番遠い扉を開き、恐怖のあまり喉の先まで出かけている悲鳴を必死に抑えながら中に入る。
 中は寝室のようだった。薄汚れ、びりびりに引き裂けているベットと、その横に木製の机が存在するのみ。
 アシュリーが部屋の中を見回していると、後ろの扉の向こうから大きな音が響く。おそらく補強していた扉が破壊されたのだろう。即ちそれは、遂にこの家の中に、あの悍ましき怪物共が入り込んだことに他ならない。
 案の定、徐々に呪われた赤子の呻き声が聞こえてきた。ゆっくりと、狂おしく、恐ろしく。もし見つかれば、殺されるだろう、喰われてしまうだろう、潰されてしまうだろう、引き裂かれてしまうだろう。だが今の彼女にできることは、ただ怯え、震えることだけだ。
 その時、またも部屋に音が鳴り響く。音からして木製の扉を壊したようだ。この家の中で扉が存在するのは、入口の扉、そして奥の四つの扉だけだ。
 同じように響く破壊音。音は近付いている。四つの内、二つ目の扉が破壊されたのだろう。
 徐々に、そして着実に、アシュリーのすぐそこにまで、恐ろしき死は近付いていた。
 三つ目の扉が破壊された。残るはアシュリーのいるこの部屋だけだ。

「……ぁ…………」

 押しこらえた悲鳴が、零れ落ちる。死が近付く。悍ましき死が近付いている。彼女の死を告げる悍ましき煉獄の鐘は、もう最後の一つしか残っていない。次は、この部屋の、自分の番だ。
 もしこの扉を破壊されれば、あの悍ましき怪物たちはすぐさま自分を殺すはずだ。この部屋に出口はない。入り込まれたら、そこでこの一生は終わる。死ぬ。喰われる。あの悍ましき赤子と巨怪に引き裂かれ、嬲り殺される。あの赤子の母親と同じように、物言わぬ肉塊になる。足を捥がれ、腕を引きちぎられ、顔を抉られ……。
 そうやって、人であったかどうかもわからぬほど、惨たらしく殺されるのだ。

「……あぁ……ぁぁぁぁぁ……」

 赤子の声と怪物の足音は、遂に扉の前にまで迫った。もう扉を挟んだすぐそこに、恐れていた怪物は迫っていた。まるで底の見えぬ大穴を前にしたような、たった一筋の光すらない暗澹たる深淵を前にしたような、そんな圧倒的な怖気がアシュリーの心を支配していく。
 自分もあの肉塊と同じようになる。殺される。死が迫る。死がすぐそこにある。死だ。恐ろしき死が目の前にある。身体が動かない。涙が止まらない。嫌だ。死にたくない。生きたい。あの悍ましい肉塊のようになるなんて、気が狂いそうになる。死んでしまう。嫌だ嫌だいやだしにたくはないしにたくないしにたくない。

「……ぃゃ……ぁ…………」

 震える唇を両手で抑え、精一杯声を押し殺す少女。
 それでもかすかな悲鳴が零れてしまう。瞑った瞼から溢れ出る涙と共に。
 死への恐れには、誰であろうと抗えないのだ。

 ところが、アシュリーはある異変に気付く。さっきまで目の前に、扉のすぐそこにまで迫っていた赤子の笑い声がぴったりと収まったのだ。それだけではない。巨体の首から生えた細身の異形が絶えず吐き出していた怪言も、嘘のように消えている。

「……ぇ……?」

 聞こえるのは外をざわめく木々の音。そして、恐怖に荒くなった自身の呼吸だけだ。それ以外は全て、静寂に包まれている。
 アシュリーには何が何だかわからなかった。何故自分の部屋の扉だけが壊されなかった?それどころか帰っていく音すらもせず、嘘のようにぴったりと消えてしまった。まさか最初からすべて存在しなかったのかとすら少女は考えた。自身があまりの恐怖を前に錯乱し、それが生み出した幻聴だったのでは?と。
 なまじ尋常の世では決して在り得ぬ存在だからこそ、さっきまで自身の目で見た光景ですら、全て悪い夢の中だったとさえ考えてしまうのだ。いや、そう考えてしまわねば、正気など保てまい。

「……今度こそ……本当に、助かったの……?」

 徐々に少女の顔に余裕が宿る。心を支配していた暗い恐怖が、安堵という光に緩和されていく。まさかさっきまであったことが全て幻だったなどとは到底思えぬことだが、それでもいなくなったのなら好都合だ。この機は逃すことは決してできない。化け物の消え去った今のうちに、急いで村に帰ってしまわねば。
 だが、少女はここにきてもまだ気付いていない。自分が殺される寸前で、化け物が丁度消え去るなどという好都合が起こるはずもないこと。そして、この悪夢は決して終わらないことを。いや、わかっていても認めたくなかったのかもしれない。この絶望的な、悪夢のような現実から、目を逸らしたかったのかもしれない。
 安堵に浸るアシュリーの耳にふと、何かの声が入り込む。
 それはひっそりと、だが深淵の底から這い上がってくるかのように悍ましく、呟かれた。

「――」

「ぁ……」

 そう、悪夢はまだ終わってなどいない。終わるはずがない。自分が死ぬ寸前で、丁度良く脅威が消え去るなどと、此処はそんな生易しい世界ではない。そんな奇蹟が通用する世界ではない。奇蹟があるのなら、神がいるのなら、いまごろアシュリーはとっくに自身の部屋で寝息を立てているはずなのだから。
 アシュリーの耳にひっそりと入り込んだそれは、考えるまでもなく化け物の口から発せられたものだった。或いは、人の解する言語を超越した何かだったのかもしれないが、少なくとも今のアシュリーにそれを考える余裕などあるはずもない。
 自らの背後から聞こえたその声で、アシュリーは、悪夢が終わってはいないこと、人の抱く甘い奇蹟など起こり得ないものなのだという、惨たらしい現実を痛感した。
 声で分かってしまう。扉を破壊するまでもなく、異形はこの部屋の中に入り込み、そして自分の背後のすぐそこにまで迫っていたことが。

「ぁ……ぁぁぁ……」

 ふとアシュリーの足元に透明な液体が広がった。すぐそこまで迫った死を前に、遂に少女の恐怖は極限まで押し高められた。
 ところが、震えて失禁する哀れな少女は、それでもなお、奇蹟を信じた。

「……ぁ……は……はハ……ァ八ッ……は…………」

 先程の怪音と同じように、これもぴったりと止んでくれるかもしれない。もしかしたら、全部自分の恐怖が生み出した幻なのかもしれない。そうに違いない。そうであってほしい。
 人は、自身に本当の危機が迫ると、あり得もしない妄信を抱き、それを奇蹟と言い訳する。破滅という現実から目を背けたいが為に、天国という在りもしない理想郷を作り出す。そうやって安心したがるのだ。
 そしてアシュリーもまた、そんな人間だった。悪夢が終わってはいない現実が受け止められなかった。今自分の背後に化け物が存在するという恐ろしき真実から目を背けたかった。だから奇蹟を願った。
 そんな儚く、そしてどこまでも憐れな願いを胸に、アシュリーは振り向き……。
 そしてやはり、そこに奇蹟などはなく、あるのは悪夢だけだった。

「ぁ」

「――――ッッッ!!!」

 アシュリーの目と鼻の先で発せられた異形の咆哮は、彼女の精神の、最後の均衡を崩した。

「ああああああああッ!!ああぁぁぁああああぁあッ!」

 今、彼女は"死"を前にした。それが精神を狂ワセた。

「あああぁぁぁあああぁぁぁあああッ!!あああああああああっァァァぁぁァああッ!!」

 それまで抑えていた悲鳴が、つっかえが外れたように一気に溢れ出る。
 それに反応するように、目の前の一つ目の化け物も咆哮を撒き散らす。
 どういうわけか、その異形は、先程アシュリーが逃げ切ったはず一つ目の異形だった。だが年端も行かぬたかが村娘が、暗澹たる宇宙の如き異界の魔獣からやすやす逃げられるなど、あり得るはずもない。
 あの時逃走した彼女の元に姿を現さなかったのは、追いつけなかったのではなく、この廃屋か、少女の逃走経路の先にまで回り込んでいたのだろう。だが、この異形の行動真相も、目の前の異形が先程相対した異形であることも、今の少女には分からなかった。少女は遂に発狂してしまったのだ。錯乱の水槽は満杯し、遍く狂気が彼女の深層心理を支配していく。
 憐れに泣き叫ぶ少女。その横から轟音が鳴り響いた。それだけではない。彼女の横に存在した石壁は、外にまで回り込んでいたであろう巨体の異形によって破壊された。砕け散った石片が、アシュリーと一つ目の異形の間を飛翔する。
 巨体の異形はそのまま室内に侵入すると、その歪にして奇怪なまでに屈強な凶腕でアシュリーを掴み取り、廃屋の外にまで放り投げた。
 悲鳴をまき散らしながら、外の地べたに転がり落ちる少女。震えながら身を起こすと、今度は自身のすぐ横にまで赤子の異形達が迫っていることに気付く。すぐ横の耳元で、不気味なほど無垢な笑い声が聞こえたからだ。

「ああぁぁぁああッ!いやぁぁぁぁぁッ!!」

 無様に喚く少女の足は、もはや機能を停止し、彼女の脳回路から発せられる神経の伝達を完全に断絶していた。石のように動かなくなった自らの足を引きずりながら、赤子や巨体のいる廃屋側から後ずさるアシュリー。
 そんなアシュリーの背中に、何かが当たる。廃屋の周りには木々しかない。おそらく背後に聳えるものも騒めき嗤う木々の一つだろう。
 だが、こともあろうか少女の後ろから声がしたのだ。まるで弱者を嘲るようなその声に、アシュリーは目を見開き、振り向く。

「ぁ…………ぁ……」

 そしてアシュリーは、遂に悲鳴すら上げられなかった。度重なる恐怖と狂気を前に、悲鳴ですら彼女の喉元から悍ましき外界へ出ることを拒絶してしまったのだろう。
 アシュリーの背後の木は、嗤っていた。邪風に蠢くことで嗤っているようにすら見えるその他の木とは違う。その木は、本当に嗤っていた。幹に浮かび上がった狂おしき貌を、冷笑に歪めて。

「ぁ……ハッ……ハッ……ぁぁぁ……」

 ついに彼女の周りを取り囲む狂気は、彼女の身体にまで影響を及ぼした。度を越えた恐怖を前に、アシュリーは呼吸困難に陥る。正常に息が吸えず、平常に息を吐けない。
 おそらく精神障害に匹敵するレベルのショックを刻まれているであろう少女だが、異形にとっては無関係だ。廃屋の寝室にいた巨体の異形が、まだ少し残っていた石壁を歩行と共に破壊しながら、顫える少女へ近付く。そして彼女の幼く艶やかな髪を、強引に持ち上げた。苦悶と恐怖を前に、くしゃくしゃになった彼女の顔は、遂に巨体の腹の大口の目と鼻の先にまで近付く。そこで初めて巨体の腹の口は開口した。
 その口の中に広がっていた狂おしき光景は、少女自身が幻覚を見ているのではないかと錯覚してしまうほど、悍ましく、そして不可解だった。
 巨体の大口の中には、どういうわけか赤子が存在していた。どれもが血に塗れ、真っ赤に染まった異形となり果てている。散々錯乱しているので、正常に数えらえているのかは定かではないが、アシュリーにはそこに四匹の赤子がいるように見えた。血塗れの赤子達は、外界のアシュリーを見るなり、まるで母を求める幼子のようにぎこちなく手を差し伸べてくる。

「…………さぁ……しゃ……」

 この死と生の瀬戸際、あの世とこの世の門を前にしたその瞬間、少女が心に思い浮かべたのは、離れ離れになった親友のこと。

 その瞬間、狂気と絶望に染まっていた少女の脳裏に、ありし日の記憶が蘇った。

 "またね!サーシャ!"

 "絶対。絶対、また会おうね!"

 "……うん!"

 少女の腕には、まだ残っている。片時も外さなかった朱色の腕輪が、サーシャとの繋がりがまだ残っている。
 アシュリーはまだ、サーシャを諦めたわけではない。サーシャとの別れは、あの時も、誰とも知らぬ宗教によるものだった。
 そして今、この世界と、まだ生きているかもしれないサーシャと別れようとしているのも、また誰とも知らぬ者共によるものだ。
 そんなこと、許せるか。許せるものか。あの時と同じように、また失うなんて、今度こそ一生離れ離れになってしまうなんて、そんなこと許せるものか。
 それにもしアシュリーがここで果ててしまったら、サーシャは一人残ってしまう。アシュリーには、失う辛さが分かる。どうしようもないその悲しさが、言いようもないその寂しさが分かる。そしてそれで苦しんできた自分自身が、サーシャにも同じ気持ちを味合わせてしまうなんて、そんなことは絶対に嫌だった。
 死ねるもんか。こんなところで、死んでたまるか。昨日まで知りもしなかった化け物どもなどのせいで、死んでしまってたまるものか。

 その時、恐怖心で染まりきっていた少女の心の中に、確かな覚悟が燃え上がった。
 その時、狂気に歪んでいた彼女の目の中に、いつかと同じ輝きが宿った。

 "絶対……絶対また、サーシャと会うんだッ!"

 少女は、よもや死したほうが幾分にも楽になれるであろうこの状況で、むしろその正反対の決断をした。
 無駄だとわかっていても、意味のないことだとわかっていても、彼女は生きたいと願った。
 死にたくないその気持ちを言葉として曝け出した。
 叶うはずのない淡い希望を、その胸に強く抱いた。

「……だれ、か……ぁ……たす……け……て……!」

 そして、これまで幾度となく悪夢に捻じ曲げられてきた彼女の願いは、最後の最後で、叶った。

 ――刹那、少女の視界に、影が映る。それは少女の視界に、思いも寄らぬ方角からやってきた。そして、その影は、目の前の巨体の胴部に露出した悍ましき目玉に突き刺さった。

「ぇ……?」

 アシュリーには、それが矢だとわかったが、何が起こったのかはわからなかった。

「――――ッ!!!」

 眼球に矢が突き刺さったことで、壮絶な激痛に喚き散らす巨体の異形。髪を鷲掴んでいた剛腕は、激痛に涙する左眼球へ持っていかれた。途端にアシュリーは、地面へと崩れ落ちる。

「な……なに……?」

 ずるりと地へ落ちた少女の身体は、死を前にしていた恐怖から力を完全に失っている。ただ少女は、力ないままにゆっくりと、矢が飛んできた方向に目をやった。
 そしてその時アシュリーの視界に入り込んだのも、やはり闇だった。だがその中に、僅かだがそれでも確かに光を宿している。
 確実な足取りで、この悪夢の狂宴の中に近付いてくる"それ"は、気色の悪い異形や、力なく地に付しているみすぼらしい村娘とはまるで不釣り合いな見た目だった。一般の人間ならば、一目見ればわかるだろう。"それ"は"騎士"であると。

 月光を反射して白銀に煌めく甲冑、それを包み込み、忌まわしき邪風すら凌き靡く漆黒のマント、月光すらも暗い闇に変換し反射する黒鉄の直剣、その者の面妖な一見にはそぐわない豪奢な装飾の施されたクロスボウ、そして左腕部に括り付けられた銀の小盾。他にも胸部甲冑ブレストアーマーには数本の小ナイフが収納された革帯が、そして腰部甲冑フォールドには、戦棍メイス、手斧、荒縄、革製のポーチが。更に目を引くものとして、漆黒のマントと重なるように、背中には鋼の片手半剣バスタードソードが背負い込まれていた。
 それを一言で表すのならまさに"異様"と言うに尽きる。
 明らかに人一人が身に着ける武装量ではない。よもやたった一人で戦争でも始めようとしているかのような、非効率的且つバカげた武装だった。
 だが、それら多量の武具を背負い込んだ上で、少しの揺らめきもなく、淡々とこの化け物達の中に足を踏み込んできているその行動からは、どうにもそれが自身の力を過信した馬鹿の愚行のようには感じられなかった。半ば機械的に歩行を繰り返すその黒衣の騎士は、よもや魂が抜け、人としての心を持ち合わせていないようにすら感じさせる。
 アシュリーはそこでようやく思い出した。昼間少年が訴えていた異常は、忌まわしき怪物だけではないことを。
 アシュリーの脳裏に、昼間客人から聞いた話がこだました。

 "なんでも、この村のある少年が、昨夜、化け物に襲われたらしいんだ"

 "バカ、それだけじゃねぇって!幽霊騎士も出たとか言ってたじゃねぇか!"

 "ガハハハッ!!化け物に幽霊騎士だってよッ!こりゃ傑作だぜ!"

「……もしかして……?」

 少女は、彼のあまりにも唐突な介入とまるでこの状況にそぐわない見た目、そして彼を包み込む異様に冷たい感覚に、茫然としていた。見るもの全てを本能的に恐怖させる……まるで抜身の剣のような貫禄だ。
 しかし、そんなアシュリーの揺らぎつつある意識に鞭打つように、少女の目の前で怪事が起こる。赤子の変貌だ。目の前に四つん這って彼方の騎士を見つめていた赤子たちは、何かを察知したように固まった後、こともあろうかその身体を変態させた。通常の赤子と同じように柔らかな肌を晒していた背中から、まるでトンボやセミのような、昆虫じみた羽が蠢き突出したのだ。その幼き肌を食い破って。

「ひっ……!」

 アシュリーはその痛々しく且つ気色の悪い光景に、思わず口を押える。幸い吐瀉物は喉元で収まってくれた。
 赤子達二匹は生えたばかりのその羽をたなびかせ、夏の羽虫のように不快な音を立てながら空中に浮遊し、黒衣の騎士に微笑みかけた。対する騎士は変わらず異形共をじっと見つめているだけだ。漆黒のフードによって底無しの深淵のように暗い影が彼の顔を包んでいるため、表情は読み取れなかった。それどころか、この冷たく、感情を感じさせない出で立ちからは、そのフードの中が無貌の闇であるようにすら思えるだろう。
 だが、アシュリーにはなんとなく、騎士が化け物共を激しく睥睨しているように感じた。混乱故の思い違いかもしれないが……。
 今も騎士は何の躊躇もなく異形達のもとへと近付いてきている。まるで動揺も困惑も戦慄も、如何なる恐怖も抱いていないように。
 その時、突如としてアシュリーの視界から赤子達が消える。まるで一瞬にしてその世界からいなくなってしまったかのようだった。
 だが、困惑するアシュリーの耳に入り込んできた風を切る音が、彼女に現実を突きつけた。
 赤子達は消えたのではない。通常の、ましてか弱い村娘などには視認出来ようはずもない程の超速度で、騎士の元へと飛行したのだ。生半可な人間では対処などできずに突撃を喰らい、赤子によってその身を喰らいつくされていただろう。
 だが騎士は違った。
 赤子が超速度で自らに飛来するのを視認した騎士は、即座に左手のクロスボウを赤子二匹の元へ構え、ボルトを発射。赤子達二匹の涎滴る幼き首を正確に射抜いたのだ。そしてその瞬間騎士は、どういうわけかクロスボウを投げ捨てた。
 自らの首の中心部に、一点のズレなくボルトが被弾した赤子二匹は羽を失った蠅のように地面へと墜落していく。しかし騎士はその僅かな隙すらも許さず、落ちていく赤子達を空中で切り裂いた。右手に握り締められた漆黒の直剣で、赤子二匹を同時に。
 こうして、顔無き貌を持つ赤子二匹は一振りの横斬撃を喰らい、顔無き貌を持つ騎士の前に斬り捨てられた。
 一部始終を見ていたアシュリーは、騎士が何か只者ならぬ腕前を持つ強戦士であることを瞬間的に理解した。
 しかし騎士に降りかかる災厄はこんなものでは終わらない。
 斬り捨てた赤子達をまじまじと見つめていた騎士の元へ、今度は一つ目の異形が飛び掛かる。忌々しい唾液をその大口から迸らせながら。
 だが空中を舞っていたその唾液は、次の瞬間鮮やかな朱色へと変貌した。それと同時に、一つ目の異形も騎士と正反対の方向へと吹き飛ばされる。
 全て騎士が、そして今騎士が左手に握り締める手斧が成したことだった。
 騎士はただ茫然と赤子を見つめていたのではない。先程クロスボウを放り投げたことによって空いていた左手で、背中腰部から手斧を取り出していたのだ。一つ目の異形が飛び掛かってきた瞬間には、既に予見してでもいたかのように遅れも迷いもなくその斧を降りかかっていた。一つ目の異形の不気味に膨れ上がった腹部は、その斧によって惨たらしく叩き斬られる。
 先程どういうわけか突如としてクロスボウを手放したこと、そして一切のズレなく一つ目の異形に向かって斧を取り出し叩き当てたこと。まるで最初から一つ目の異形の攻撃を予知していたかのようだった。卓越した戦闘指揮官が、敵の行動を先見するように。
 裂き開いた腹部から大量の鮮血を迸らせる一つ目の異形は、騎士の前方の地面へと落下。その壮絶な痛みにもがき苦しむ。
 だが騎士はまだこの異形を許すつもりはない。涙を流してもがく異形を片足で勢いよく踏みつぶす。悲鳴を上げることすらも許しはしないように。いきなり外圧が加えられたことで、異形は身体に蓄えていた血液を傷口から勢いよく噴出する。
 敵が失われて最も困る器官。それは腕でも、足でも、口でも、腹でもない。自ら立つ上で、自ら攻撃する上で、自ら防御する上で、無くてならないもの、それは視覚である。
 騎士はそれを心得ていた。だからこそ次に騎士は、地に付し苦悶する一つ目の異形の視覚器官、眼球の括りつけられた触手を、何の躊躇も動揺もなく叩き切った。足で踏みつけられている以上、回避することも助けを請うことも許されない。異形はただ泣いて苦しむしかなかった。
 さっきまで異形の流していた涙は、次の瞬間黒ずんだ血涙へと変貌する。

「ぅ……」

 アシュリーは思わず胸を悪くした。先程まで自分を殺そうとしていたもの、先程まで自分がこの世で最も忌み嫌い呪っていた相手が、今目の前で叩きのめされている。しかしそれを見た時彼女が感じたのは、喜びでも安堵でもカタルシスでもなく、やはり一つのどす黒い恐怖だった。
 しかし、もがき苦しむことしかできなかった一つ目……いや、いまやその一つ目すらも失った大口の異形は、遂に騎士への反撃を決行した。苦しみに歪む恐怖が、一線を越えて怒りへと変わったようだ。
 大口の異形は三つ指の四本足で勢いよく立ち上がると、理解不能ななにかを叫びながら、騎士のもとへと突進し、その右足を器用に使って打撃をかました。
 ところがその打撃は空を切るのみだ。たしかに騎士を殴ったつもりが、直撃の瞬間に、騎士は騎士だった黒い影へと変わってしまっていた。視覚を失い、いや見ずらくなったことで狙いや勢いが制御出来ていなかったのかもしれない。
 そう、大口の異形には、まだ戦場が見えている。先程斬り裂かれた視覚、この異形の視覚器官はそれだけではなかった。あの忌々しい大口の中から覗いている瞳孔。然り。この異形は端から一つ目ですらなかった。異様に膨らんだ腹部の中に存在したもの、それもまた眼球だったのだ。非常時の為に体内に隠しておいたのか、それとも他の何か故か。
 超速度で、下段へとしゃがみ込み打撃を回避した騎士は、大口から曝け出された眼球を確認すると、すかさず異形の腕部の一本を切断。そのまま流れるように視覚外である異形の背後へと回り込む。すると騎士は腰部のポーチから何かを取り出し、振り向いた異形の大口の中へ、取り出した何かを放り込んだ。
 対する異形は口に放り込まれた何かより、騎士への反撃で頭がいっぱいだ。だが、騎士は背後へ回り込む勢いを殺さずそのまま回転。更に異形の切り裂かれた腹部目掛けて回し蹴りを叩き当てた。この蹴りの角度を利用したのか、異形が今一度繰り出した拳撃はまたしても空を切る。
 それだけだった。騎士はそれだけ終わったら、まるで大口の異形のことなど忘れてしまったかのように振り返り、今度は巨体の異形の元へと疾駆した。
 大口の異形は尚も己が攻撃を憎き騎士へ叩き込まんと、あとを追おうする。
 だが大口の異形は、そこで追うことをやめてしまった。唐突に騎士への憎悪が鎮火されたわけでも、騎士への反撃を諦めたわけでもない。正確にいえば、異形は騎士の追跡をやめざるを得なかった。
 大口の異形は、その瞬間、勢いよく爆散した。
 膨れ張った腹部が更に膨張し、流れ出ていた血液が更に流出する。そうして異形だった肉塊ははち切れ、血と共に空を舞った。その中には二つ目の目玉の他にもう一つだけ、ガラスのような水晶体の欠片も混ざっていたような気がする。
 頭上から降雨する夥しい血液を被りながら、騎士は止まることなく巨体の異形へと疾走。
 対する巨体の異形は、先程騎士に撃たれた矢をその目から抜き放ち、地面へと投げ捨てる。
 だがその瞬間、アシュリーの目にはおよそこの世の事象とは到底思えぬ光景が映っていた。
 先程クロスボウの矢が突き刺さったことで、痛ましく歪んでいた巨体の目玉。赤黒く爛れていたその目玉が、突然動きを止めてしまう。更に先程まで爛れ落ちていた肉塊達が、まるで重力に反してでもいるかのように元の位置へと戻っていくのだ。そうして集合した肉塊は煙を発しながら泡立ち、次の瞬間には元の目玉と同じ姿へ戻っていた。
 その事象を言葉で表すのならまさに"再生"と言わざるを得ない。この世界においてあり得るはずもないことだった。流れ出した血が逆流し、爛れ落ちた肉が再び元の形に戻ることなど、この世界の生物学的常識に反している。まして騎士の矢が目玉に直撃してから一分と経っていない。それほどの超速度での肉体再生。ならばこの忌まわしき異形を殺し尽くす術はこの世界に存在するのか?この悍ましき魔物は……本当に倒せるのか?
 そんな恐ろしき疑念を抱き恐怖するアシュリーをよそに、巨体の異形は騎士の元へと猛突進する。矢傷の恨みを己が足に託して。
 対する騎士も巨体に向かってただ直進するのみだ。よもやこの強靭な異形とやり合うつもりらしい。
 いくら異形を退けるような剣捌きや戦術を持っていれど、相手は四~五メートルに至るかどうかという巨体である。石壁ですらまるで暖簾のように押しのけ破壊する。斯様な剛力を持つ相手に、ただの騎士や強戦士が勝てるはずもないことは、その道に詳しくないアシュリーですら想像に難くない。
 だが、その騎士は、端から真っ当な方法でやり合う気など毛頭無かった。
 騎士は疾走の最中、どういうわけか突如として左手の手斧を頭上高くに放り投げる。すると、空いた左手で腰部ポーチから何か球体のようなものを取り出し、それを巨体の異形の目玉目掛けて勢いよく投げつけた。着弾した球体は弾け割れ、数々の破片が巨体の異形の右眼球に突き刺さる。

「――――ッッッ!!!」

 先に続いて今度は右眼球を傷つけられた巨体の異形は、またしてもその痛みに苦しみ、そしてまた騎士に対する怒りを燃やした。
 だが、その瞬間、異形は騎士の居場所を見失った。いや、騎士だけでない。先程まで横に見えていた廃屋も、踏みしめていた大地も、傍らに崩れ落ちていた少女をも見失う。
 正確には、異形の視界が遮られたのだ。突如として周囲に立ち込めた白煙によって。巨体の異形の右眼球部から発生した点から、先程騎士が投げ当てた球体が原因だろう。
 アシュリーは聞いたことがあった。拳サイズの球体を投げ放ち、着弾時に割れることで、内部に閉じ込められていた煙が一斉に外界へと放出される道具。即ち、煙玉である。
 通常はある者が相手から逃走を図る際に用いることが多い。ところがこの騎士は、むしろ相手を奇襲する為にそれを用いたのだった。
 だが、煙で視界が遮られるのは、使用者とて同じこと。ましてその煙の中に構わず入り込んでいくなどという愚行を成したのなら、前はおろか周囲全体が見渡せなくなる。
 ところがこの騎士は、まるで煙の中でも周囲が見えているかのように構わず直進。右眼球の痛みと周囲の不可視化によって狼狽えていた巨体の異形の元へと風のように駆けていく。
 そうして遂に巨体の異形の元へと到達すると、異形によって繰り出された振り払いを、跳躍することで難なく回避、更に右手に握り締める黒鉄の直剣で巨体の異形の頭部たる上半身を突き刺した。
 如何なる状況であろうと理解不能な怪語をぶつぶつ唱えていた上半身は、そこで初めて怪語以外の悲鳴を上げた。腹を刺し貫かれた痛みに悶絶する呻き声が、辺り一帯に広がる。
 アシュリーにはこの白煙の中で何が起こっているのか正確には分からなかった。何一つ見ることが出来ないのだから。だがこのどこまでも痛々しい喚き声を聞くだけで、恐ろしい勢いで血液を噴出する音が耳に入るだけで、どれほど痛ましい惨劇が起こっているのか想像できた。
 ところがその時、アシュリーはそれ以外に、新たな異音を聞き取った。羽虫のような不快な音だ。しかし先程この音を発していた赤子達は、騎士によって斬り裂かれ、絶命したはず。
 そこでアシュリーは決して思い出したくなかったことを、その脳裏に過らせた。先程の巨体の再生である。あれがもし、例の赤子達に、いや自らを襲った異形達全てに適応されることなのだとしたら?

「……ッ!」

 そしてアシュリーの嫌な予感は的中してしまった。赤子二匹の不敵な笑い声が、こちらに近付いてくることがわかる。赤子達もまた再生し、こちらに向かってくるのだった。
 ところが騎士はまるで動じてはいない。それどころか異形達は騎士の更なる荒業を目にすることになる。
 まず騎士は、突き刺した直剣に力を籠め、勢いよく斬り上げて上半身を真っ二つにした。するとそのまま勢いを殺さず跳躍する形で巨体の異形から離別、その間に空いた左手で胸部甲冑ブレストアーマーに備えられた小ナイフを二本抜き、背後に迫る赤子二匹の腹部へと投げ放った。空中で回転しながら投げ放ったにも関わらず、二本の小ナイフは赤子二匹の腹部へと正確に命中する。更に騎士は、小ナイフが被弾した赤子達の墜落経路をズレなく計算。一方の赤子の全身を、頭部の種ごと空中で両断してみせた。
 もはや人の成し得る所業を超越した荒業だった。卓越した戦闘技術などという言葉では説明が付かない。人間では……否、異形ですら対応しきれない神業である。一体どれほどの修練を重ねれば、斯様な戦闘技術を会得できるのか。
 だが騎士の攻撃は止まることを知らない。赤子を両断して着地した騎士はもう一方の赤子目掛けて右手の直剣を投擲、着弾。間髪入れずに背中の片手半剣バスタードソードを抜き放って巨体の異形の左足を切断する。更に計算通り落下してきた手斧を左手で掴み取り、切断の勢いを利用して、アシュリーの方向へと投げ放った。

「――ひぃっ!」

 突然自らの元に斧が迫ってくるのを見て、アシュリーは思わず腕で顔を覆う。だが、斧がアシュリーに着弾することはなく、変わりに彼女のすぐ後ろから悲鳴が上がった。
 そして、恐る恐る振り向くアシュリーの目に入り込んだ。顔面に手斧が突き刺さったことで悶絶する木の異形が。
 目の前で繰り広げられる激戦に注意を奪われ、背後に迫り来る異形の存在に気付いていなかったようだ。

 ――では、騎士はあの凄まじき荒業を成す最中、アシュリーの背後に迫りくる異形の存在まで計算に入れていたというのか?

 騎士の所業は間違いなく、戦闘のプロと言わざるを得なかった。
 その頃には立ち込める白煙は引いており、アシュリーの視界はようやく意味を為してきた。
 そして、アシュリーはその惨状を見てしまった。
 緑色の爆炎を上げながら灰化していく大口の肉片。悲鳴と共に燃え上がる真っ二つの赤子。左足は切断され、右目も硝子破片によって損傷し、今や騎士によって残る左目すら潰されようとしている巨体の異形。
 地獄だった。理解の及ばぬ異形共が、理解の及ばぬ現象を以ってして遺灰と化していく。
 "大口の異形だった"肉片は、煙を上げながら炎上し、赤子の異形も真っ二つとなった今どういうわけか炎上の後に灰化している。それにただの炎ではなく、その炎はいずれも緑に彩られていた。そうして物言わぬ肉塊となったものは皆、異様な速度で灰化していく。この世界の法則を逸脱したその不可解な現象は、この異形達が、此処じゃない何処かの暗澹たる異界から降臨した超常存在であることをこれ以上無いほど証明していた。
 黒衣の騎士の戦闘は未だ終了してはいない。傍らで痛みに呻く巨体の異形に目を向けると、彼はすぐにその手に握り締める片手半剣バスタードソードを構える。そしていまや一つしか残っていない巨体の異形の眼球を、思い切り突き潰した。
 壮絶な痛みと唐突な失明に、身を大きく捩って苦しむ異形。騎士はその後、巨体の異形の胴部に存在する異様な亀裂に両手を伸ばし、強引にその亀裂を裂き開いた。すると胴体の亀裂の中から、流血と共にあるものが露出する。
 それは、球体だった。アシュリーにはガラス玉のようにも見えたし、よく磨かれた丸石にも見えただろう。血のせいで赤黒く汚れていたため、実際にはどういう色だったのかはわからなかった。
 次に騎士は巨体の胴体の上に踏みつける形で立ち上がると、右腰から戦棍メイスを取り出す。そうして騎士は、両手でそれを構え振りかぶると、露出した球体に勢いよく振り下ろした。

「――ッ!!」

 凄惨な慟哭を痛ましく上げる異形。だが、騎士は構うことなく攻撃を、殺戮を続けた。
 何度も、何度も。

「――ッ!! ――――ッ!!!」

「……」

 依然として騎士は、無言のままだ。冷たく、深く、暗く、恐ろしく、惨たらしく、痛ましく、狂おしく、ただ殺戮を続ける。

「――ッ!! ――ッ!!?!? ――ァァッ!!?? ――――ッッ!!!」

 必死で泣き叫ぶ異形。その慟哭は許しを請う弱者の如く。悲鳴を上げて顔を歪める幼年の如く。
 しかし騎士は、許しを懇願する異形など知ったことではないように、ただ叩き潰し続ける。泣き叫ぶ異形が絶命するまで。許しを懇願する慟哭が、その意味を為さなくなるまで。

「――――ッ!!! ――ァッ!! ――ァァッ!!! ――――ァァアッッッ!!!」

 潰して潰して潰し続ける。
 血が出る。
 潰して潰して潰シ続ける。
 血ガ出ル。
 潰しテ潰シテ潰シて潰シ続けル。
 血がタクサン出ル。
 潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ続ケル。

「……」

「――――ォォッ!! ――ォァァァッ!! ――――ァァァッァァァ!!!!」

 潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ続ケル。
 潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ続ケル。
 潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ
 テ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ
 潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シテ潰シ続ケル。

「――――――――――――ァァァァァァァァッッッッッ!!!!!」

 ソウシテ、モウ血がアマり出ナクなって、漸ク騎士は潰スことをやめた。
 夥しい返り血を浴びた騎士の黒衣は、もはや血で黒ずんだのかそれとも元々黒かったのか、その判断すら危うい始末だった。

「……ォォ……ァ……ァァ…………ァ………………………」

 いまや巨体の異形は、僅かに声を発しているとはいえど、本当に生きているのかどうか疑ってしまうほど凄惨極まりない姿に成り果てた。か細く上げる声は、呟き声と大差がないほど枯れ果て、魂を感じさせない虫の息になっている。いや、もはや本当に魂が宿っているのかどうか。異形の理解すら越えた絶望、苦しみ、拷問、狂気を前に、魂すらも枯れ果ててしまっているようだ。

「……ぁぁ……ぁぁぁ…………」

 ふと、へ垂れ込むアシュリーの股に透明な水たまりが出来る。
 当然だった。ここまで残酷で、凄惨で、狂おしき行動、常人が見れば失神すら免れない。
 どうして?どうしてここまで酷いことができる?どうしてここまで残忍になれる?普通の世界で暮らしているなら、いや、たとえ逆境に生きようとも、人がここまで残酷になどなれようはずもない。
 ならばこの者は、いまや物言わぬ肉塊から得物を引き上げ機械のように血払いするこの騎士は、一体どれほどの逆境で、どれほどの地獄で生きてきた?一体どれほど苦しい思いをしてきた?一体どれほどの絶望を刻まれた?
 それはアシュリーには到底理解出来ようはずもなく、そして理解したくもない狂気の辺境である。

「……」

 騎士はまるでただの作業のように、何のことでもなかったように巨大な遺体から降りると、アシュリーのもとへと近付いてきた。さしずめ、感情の無い機械の如く。
 だが騎士はアシュリーなど視覚外の愚物であるかのように素通りすると、未だ少女の背後で狼狽えていた木の異形へと近付いていく。
 そして徐に腰から不可解な瓶を取り出し、それを慟哭する木に向けて放り投げた。着弾と共にガラス瓶は破裂し、何やら白濁した液体が中から噴出する。

「ぅ……」

 魚介類、強いては烏賊のような生臭いにおいだった。瓶が割れた瞬間からその臭いが周囲に広がり、アシュリーは思わず鼻に手をやる。
 すると、白濁が掛かった瞬間、木の異形の顔が先にもまして歪んだ。

「――――ッ!!!」

 悲鳴を上げてもがく異形。その苦悶に歪む表情は次の瞬間木の異形から離別する。まるで木そのものに魂が宿っていたかのように。
 そうして浮かび上がった表情は、魂魄宛らの薄気味悪さを残して、はるか上空へと消えていった。
 だが、その時。もう幾度目だろうか、アシュリーの耳の中にまたしても異音が入り込んだ。
 悪夢の片鱗を感じさせるその声は、まさしく赤子の上げるか細い呻きに他ならない。

「そんなっ……」

 しかし、赤子は騎士によって真っ二つにされ、いまや不可解な緑炎によって灰化したはず。
 否、アシュリーはそこで思い出した。あの時、騎士が真っ二つにした赤子は一匹だけだったことを。もう片方の異形には騎士が直剣を投擲し、回転の後着弾した。だが炎上し灰化するところまでは、誰も視認してはいない。
 血痕を残しながら自らの元へ這い寄ってくる赤子の後ろに、抜き放たれたであろう直剣が見えたことで、アシュリーは悟った。直剣が腹に突き刺さっただけでは絶命に至っていなかったのだと。
 そうして今、まだ息を続けている赤子は、アシュリーのすぐそこまで迫っていた。半ば首が千切れたことで、裂けた頭部を反対向きに垂らしながら。

「いやぁぁぁっ!!」

 ここまできてまたも絶望がアシュリーを襲う。どうやら今宵の悪夢はアシュリーを酷く気に入ったようだ。だが底知れぬ悪夢がアシュリーの頬を舌舐めするのも、ここまでだ。
 なぜならこの悪夢の中には、悪夢ですら恐怖する"修羅"が入り込んでしまったのだから。

「……――ァァッ!!」

 鈍い斬撃音。
 アシュリーに迫る赤子は、いつの間にか近付いていた騎士によって、種ごと頭部を貫かれ今度こそ絶命した。途端に赤子の肉体は、緑炎によって燃え盛る。

「……ひっ……ぁ……ぁぁ……」

 こうして、底知れぬ奈落のように暗い悪夢は、突如として現れた謎の騎士によって、終止符を打たれたのだった。

「ぁ……ぁ……」

「……」

 錯乱に震える弱弱しい少女と、血肉に彩られた漆黒の騎士を残して。
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有永 ナギサ
ファンタジー
 2024年、今や世界中の人々が魔法を使えるようになった時代。世界はレイヴァ―スが創設した星葬機構と、神代が創設した大財閥クロノス。この二陣営が己が悲願のために争っていた。  そんな中最強クラスの魔法使いである四条陣は、禁忌の力に飢えながらも裏の仕事をこなす日々を送っていた。しかし一人の少女との出会いをきっかけに、陣は見つけてしまう。かつてこの混沌に満ちた世界を生み出した元凶。サイファス・フォルトナーの遺産を。  元四条家次期当主としての因縁、これまで姿をくらませていたレーヴェンガルトの復活、謎の少女と結ぶ禁忌の契約。陣が辿り着く果ては己が破滅か、それとも……。これは魔都神代特区を舞台に描かれる、星を歌う者たちの物語。 小説家になろう様、アルファポリス様にも掲載しています。

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