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第一章
第三節 森の暗闇
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もうどれほど歩いただろう。この森に入ってから、同じような光景をずっと見ている気がする。淡々と何処までも暗い緑だけが続く光景だ。
それに、先程からどうにも嫌な感覚が胸に湧き上がる。まるで、何者かにじっと見つめられ続けているような。腹を空かせた猛獣に見つめられているような。そんな感覚だ。時々肌を撫でる恐ろしき息吹にも、騒めきながら不気味に踊る木々達にも怯えながら、アシュリーは黙々と歩き続けた。今も尚聞こえ続けている、赤ん坊の泣き声を道標にして。
そんな時、これまで淡々と草木だけが蔓延っていた道に、新たなものが映り込んだ。
「あれは……?」
森林生い茂る中に、ぽっかりと空いた空間、そこにその廃屋はあった。よく見ると、その廃屋の周りだけは、周囲のような草木は生えておらず、誰かが雑草処理をしているであろうことが見受けられる。しかし、どうにもその廃屋からは人の住む気配がまるで感じられない。もう何年も前に捨てられているような見て呉れだ。石壁には所々に苔が広がり、木製のドアも壊れかけている。
先程から感じる不穏な空気や、この暗い森の不気味さもあり、アシュリーはその廃屋に近付く気にはなれなかった。廃屋から目を離し、アシュリーは森を進む。
それから二、三分ほど歩いた頃だろうか。アシュリーはふと、鼻を衝く腐卵臭に気付いた。
おもわず顔を曇らせ鼻に手をやるアシュリーは、辺りを見回し……。
そして見つけた。
「なに……これ……?」
それは、まるで何かの卵のようだった。延々と続く草木の内一本、その一本の木の幹に、黄色い球体は付着していた。大きさはそう、丁度一人の赤子ほど。
アシュリーが目を細めながらそれに近付くと、卵の中で何かが蠢いたような気がした。
「ひッ……」
慌てて卵から遠ざかるアシュリー。徐々に狼狽を強めていく少女だが、その時、少女の狂気を更に煽るかように、新たな怪異が彼女を襲った。
突如として、少女の頭上に、けたたましい異音が鳴り響く。
怪音。まるで何かの咆哮のようにも聞こえるが、間違いなくこの世のどんな生命体とも思えぬ鳴き声だった。高音と低音の絶叫を混ぜ合わせたかような、本能的に恐怖を覚えるその異音は、少女の正気をみるみる内に削っていった。
今自分が踏みしめているこの大地が、本当に昨日まで過ごしていた世界と同じ大地なのか、疑ってしまうほどに。
「なに……今の……!?」
金切り声のような咆哮が止むと、今度はアシュリーの瞳に黒い影が映り込んだ。
揺れ動く森の奥から、黒い影が舞い上がる。おそらく、木々にとまっていた鴉だろうか……。
鳴き声が止んでも、アシュリーは少しの間茫然としていた。先程の咆哮は間違いなく、この世のものではない。この咆哮の主が存在するのだとしたら……。
それは間違いなく、怪物に他ならないだろう。
アシュリーは自らの足が震えていることに気が付いた。少年の言っていた怪物。今の咆哮はその怪物のものだったのではないか?もしや自分は、その怪物のテリトリーに愚かにも足を踏み込んでしまったのではないか?
怪物が本当にこの世に存在しているなどにわかには信じられぬことだが、アシュリーが幼き頃に祖母から聞かされてきた与太話や、現実とは思えぬ先程の咆哮が、アシュリーの心の中にあらぬ妄想と恐怖を呼び込んでいた。
だがそんなアシュリーは、ふと現実に引き戻される。泣き声だ。魂の抜けたような表情を浮かべ固まっていたアシュリーの耳に、その泣き声は入り込んできた。そう、赤子は今もまだ泣き続けている。自分はその為にここまで来たのではないか。自分にはまだやらねばならないことがあるではないか。たとえ本当に化けものが存在していたとしても、ここでぼうっとしていていい理由にはならない。ここで赤子を放って帰っていい理由にはならない。
そう自分の心を奮い立たせると、アシュリーはまっすぐに泣き声の方向を見つめた。
まるで底の見えぬ深淵のように暗い闇が、不気味に揺れる木々の隙間から顔を覗かせていた。少女の足は、大口を開けた猛獣を前にしているように竦んでしまう。
だがそんなアシュリーの背中を、彼女自身の覚悟が押した。
「……」
アシュリーは、まるで地獄への門のようなその森の闇の中に、足を踏み入れ歩を進めた。
自らの後ろの木陰に、小さな影が近付いていたことも知らず。
◇
まだ、狂気の咆哮がその森に轟くよりも前。
深夜。月夜に眠るブール村。
「まただ……。 また泣き声だ……」
少年は毛布の中で怯えていた。窓枠の外から聞こえてくる、不気味な赤子の泣き声に。
すっかり震えあがり、ベッドは寝汗とも小便ともとれぬ液体によって濡れていた。当然だ。森の奥からひっそりと聞こえてくる赤子の泣き声。それは彼にとって、昨夜の悪夢の再来に他ならないのだから。
泣き声が聞こえてくる度に、昨夜森で襲ってきた化け物と幽霊騎士の忌々しい姿が、少年の脳裏に過った。そしてその度に、恐ろしさのあまり目を瞑った。
「なんなんだよぅ……。 母さんも父さんも……村の皆も信じてくれないし……泣き声はまた聞こえてくるし……もう最悪だ……」
だが、そんな彼の脳裏の中に、全く新しいものが過る。
「ぁ……でも……。 あのお姉ちゃんだけは……」
ただ一人、ただ一人だけ少年の話を信じてくれていた人がいた。ニールズバーの店娘だ。
彼女だけは、興味津々に少年の話を聞いてくれた。そして少年もそれが嬉しかった。
彼女になら、今聞こえているこの悲鳴を訴えても、聞き入れてもらえるかもしれない。
「……」
もちろん、深夜に女性の元へなんて向かえば不審に思われるだろうし、たとえ彼女に聞き入れてもらったところで、この赤子の泣き声がなくなるわけではないだろう。だがそれでも、昨日のようにたった一人でこの泣き声と化け物の恐怖に耐え続けるのは、まだ幼い少年の精神には十二分にも酷なことだった。たった一人でいいから、誰かに傍にいてほしかった。
少年はよろよろとベッドから起き上がると、窓枠から顔を出す。昨夜入り込んだ森の木々は、依然として不気味に揺れていた。まるでこちらを薄ら笑っているかのように。そして不気味なほど代わり映えしない赤子の泣き声も、あの時と同じように森の奥から聞こえていた。
「……あれ……でも、なんで……」
そこで少年はある疑問に行き着く。赤子の泣き声についてだ。というのも、昨夜少年は、すすり泣く赤子を見捨てて逃げてしまった。正直言って、昨夜あの状況で赤子を放っておいて、無事で済むとは到底思えない。そのうえもし生きているのだとしたら、何故昼間は泣き声が聞こえてこなかった?それに、考えてみればここからあの川辺まではかなりの距離があったはずだ。大の大人が歩いて向かったとしてもきっと十分近くは掛かるだろう。それほどの長距離にも関わらず、たかが赤子の泣き声が何故この村にまで聞こえてくる?
どうにもおかしかった。少年はしばらくの間その疑問について考えていたが、ぼうっとしていた少年の瞳に、あるものが映った。
「……? ……あの人は……」
村民全員が寝息を立てているであろう深夜だというのにも関わらず、何者かが屋外を歩いていた。風に騒めく森林に向かって。
服装は寝間着のままだが、体格からして少女のようだ。月光にそのブロンドの長髪が照らされて少年はようやく気付いた。
「……ニールズバーのおねぇちゃん?」
少年が今まさに会いに行こうとしていた人物が、こともあろうかこんな深夜に外出しているとは思いも寄らぬことだった。だがどうにも様子がおかしい。揺れ動く森林のあちこちを見回しながら、時々その場で止まり、まるで何かに耳を澄ませているように目を瞑っていた。
そこで少年は気が付く。
"もしかして……おねえちゃん、赤ん坊のところに……?"
少年は、その瞬間すぐに、自分も向かわなければならないという使命感に駆られた。このまま彼女が森に向かえば、間違いなく昨夜の自分と同じように、化け物に襲われるはずだ。
この不可解な赤子の泣き声が証明していたのだ。昨夜の悍ましき化け物が本当のことだったこと、そして、あの忌まわしき泣き声が聞こえるということは、例の化け物もまだこの森に潜んでいるということを。
少年は、後悔していた。化け物のいる森に踏み込んでしまったことでも、そんな鼻で笑われるようなことを村人たちに訴えてしまったことにでもない。どれだけバカげた話であっても、自分なんかの訴えを真摯に聞いてくれたような清純の少女を、しかし自分がその話をしてしまったことによって、この悪夢に巻き込んでしまったことだ。
"ダメだ……! 行っちゃ、ダメだ!"
少年は、森の闇の中に、地獄の悪夢に足を踏み込んでしまった少女の元へと一目散に向かった。巻き込んでしまったことへの罪悪感からか、或いは自分を半ばでも信じてくれた少女に、心のどこかで甘い好意を抱いていたのか。
少年の行動の真相は、少年自身にもわからなかった。
それに、先程からどうにも嫌な感覚が胸に湧き上がる。まるで、何者かにじっと見つめられ続けているような。腹を空かせた猛獣に見つめられているような。そんな感覚だ。時々肌を撫でる恐ろしき息吹にも、騒めきながら不気味に踊る木々達にも怯えながら、アシュリーは黙々と歩き続けた。今も尚聞こえ続けている、赤ん坊の泣き声を道標にして。
そんな時、これまで淡々と草木だけが蔓延っていた道に、新たなものが映り込んだ。
「あれは……?」
森林生い茂る中に、ぽっかりと空いた空間、そこにその廃屋はあった。よく見ると、その廃屋の周りだけは、周囲のような草木は生えておらず、誰かが雑草処理をしているであろうことが見受けられる。しかし、どうにもその廃屋からは人の住む気配がまるで感じられない。もう何年も前に捨てられているような見て呉れだ。石壁には所々に苔が広がり、木製のドアも壊れかけている。
先程から感じる不穏な空気や、この暗い森の不気味さもあり、アシュリーはその廃屋に近付く気にはなれなかった。廃屋から目を離し、アシュリーは森を進む。
それから二、三分ほど歩いた頃だろうか。アシュリーはふと、鼻を衝く腐卵臭に気付いた。
おもわず顔を曇らせ鼻に手をやるアシュリーは、辺りを見回し……。
そして見つけた。
「なに……これ……?」
それは、まるで何かの卵のようだった。延々と続く草木の内一本、その一本の木の幹に、黄色い球体は付着していた。大きさはそう、丁度一人の赤子ほど。
アシュリーが目を細めながらそれに近付くと、卵の中で何かが蠢いたような気がした。
「ひッ……」
慌てて卵から遠ざかるアシュリー。徐々に狼狽を強めていく少女だが、その時、少女の狂気を更に煽るかように、新たな怪異が彼女を襲った。
突如として、少女の頭上に、けたたましい異音が鳴り響く。
怪音。まるで何かの咆哮のようにも聞こえるが、間違いなくこの世のどんな生命体とも思えぬ鳴き声だった。高音と低音の絶叫を混ぜ合わせたかような、本能的に恐怖を覚えるその異音は、少女の正気をみるみる内に削っていった。
今自分が踏みしめているこの大地が、本当に昨日まで過ごしていた世界と同じ大地なのか、疑ってしまうほどに。
「なに……今の……!?」
金切り声のような咆哮が止むと、今度はアシュリーの瞳に黒い影が映り込んだ。
揺れ動く森の奥から、黒い影が舞い上がる。おそらく、木々にとまっていた鴉だろうか……。
鳴き声が止んでも、アシュリーは少しの間茫然としていた。先程の咆哮は間違いなく、この世のものではない。この咆哮の主が存在するのだとしたら……。
それは間違いなく、怪物に他ならないだろう。
アシュリーは自らの足が震えていることに気が付いた。少年の言っていた怪物。今の咆哮はその怪物のものだったのではないか?もしや自分は、その怪物のテリトリーに愚かにも足を踏み込んでしまったのではないか?
怪物が本当にこの世に存在しているなどにわかには信じられぬことだが、アシュリーが幼き頃に祖母から聞かされてきた与太話や、現実とは思えぬ先程の咆哮が、アシュリーの心の中にあらぬ妄想と恐怖を呼び込んでいた。
だがそんなアシュリーは、ふと現実に引き戻される。泣き声だ。魂の抜けたような表情を浮かべ固まっていたアシュリーの耳に、その泣き声は入り込んできた。そう、赤子は今もまだ泣き続けている。自分はその為にここまで来たのではないか。自分にはまだやらねばならないことがあるではないか。たとえ本当に化けものが存在していたとしても、ここでぼうっとしていていい理由にはならない。ここで赤子を放って帰っていい理由にはならない。
そう自分の心を奮い立たせると、アシュリーはまっすぐに泣き声の方向を見つめた。
まるで底の見えぬ深淵のように暗い闇が、不気味に揺れる木々の隙間から顔を覗かせていた。少女の足は、大口を開けた猛獣を前にしているように竦んでしまう。
だがそんなアシュリーの背中を、彼女自身の覚悟が押した。
「……」
アシュリーは、まるで地獄への門のようなその森の闇の中に、足を踏み入れ歩を進めた。
自らの後ろの木陰に、小さな影が近付いていたことも知らず。
◇
まだ、狂気の咆哮がその森に轟くよりも前。
深夜。月夜に眠るブール村。
「まただ……。 また泣き声だ……」
少年は毛布の中で怯えていた。窓枠の外から聞こえてくる、不気味な赤子の泣き声に。
すっかり震えあがり、ベッドは寝汗とも小便ともとれぬ液体によって濡れていた。当然だ。森の奥からひっそりと聞こえてくる赤子の泣き声。それは彼にとって、昨夜の悪夢の再来に他ならないのだから。
泣き声が聞こえてくる度に、昨夜森で襲ってきた化け物と幽霊騎士の忌々しい姿が、少年の脳裏に過った。そしてその度に、恐ろしさのあまり目を瞑った。
「なんなんだよぅ……。 母さんも父さんも……村の皆も信じてくれないし……泣き声はまた聞こえてくるし……もう最悪だ……」
だが、そんな彼の脳裏の中に、全く新しいものが過る。
「ぁ……でも……。 あのお姉ちゃんだけは……」
ただ一人、ただ一人だけ少年の話を信じてくれていた人がいた。ニールズバーの店娘だ。
彼女だけは、興味津々に少年の話を聞いてくれた。そして少年もそれが嬉しかった。
彼女になら、今聞こえているこの悲鳴を訴えても、聞き入れてもらえるかもしれない。
「……」
もちろん、深夜に女性の元へなんて向かえば不審に思われるだろうし、たとえ彼女に聞き入れてもらったところで、この赤子の泣き声がなくなるわけではないだろう。だがそれでも、昨日のようにたった一人でこの泣き声と化け物の恐怖に耐え続けるのは、まだ幼い少年の精神には十二分にも酷なことだった。たった一人でいいから、誰かに傍にいてほしかった。
少年はよろよろとベッドから起き上がると、窓枠から顔を出す。昨夜入り込んだ森の木々は、依然として不気味に揺れていた。まるでこちらを薄ら笑っているかのように。そして不気味なほど代わり映えしない赤子の泣き声も、あの時と同じように森の奥から聞こえていた。
「……あれ……でも、なんで……」
そこで少年はある疑問に行き着く。赤子の泣き声についてだ。というのも、昨夜少年は、すすり泣く赤子を見捨てて逃げてしまった。正直言って、昨夜あの状況で赤子を放っておいて、無事で済むとは到底思えない。そのうえもし生きているのだとしたら、何故昼間は泣き声が聞こえてこなかった?それに、考えてみればここからあの川辺まではかなりの距離があったはずだ。大の大人が歩いて向かったとしてもきっと十分近くは掛かるだろう。それほどの長距離にも関わらず、たかが赤子の泣き声が何故この村にまで聞こえてくる?
どうにもおかしかった。少年はしばらくの間その疑問について考えていたが、ぼうっとしていた少年の瞳に、あるものが映った。
「……? ……あの人は……」
村民全員が寝息を立てているであろう深夜だというのにも関わらず、何者かが屋外を歩いていた。風に騒めく森林に向かって。
服装は寝間着のままだが、体格からして少女のようだ。月光にそのブロンドの長髪が照らされて少年はようやく気付いた。
「……ニールズバーのおねぇちゃん?」
少年が今まさに会いに行こうとしていた人物が、こともあろうかこんな深夜に外出しているとは思いも寄らぬことだった。だがどうにも様子がおかしい。揺れ動く森林のあちこちを見回しながら、時々その場で止まり、まるで何かに耳を澄ませているように目を瞑っていた。
そこで少年は気が付く。
"もしかして……おねえちゃん、赤ん坊のところに……?"
少年は、その瞬間すぐに、自分も向かわなければならないという使命感に駆られた。このまま彼女が森に向かえば、間違いなく昨夜の自分と同じように、化け物に襲われるはずだ。
この不可解な赤子の泣き声が証明していたのだ。昨夜の悍ましき化け物が本当のことだったこと、そして、あの忌まわしき泣き声が聞こえるということは、例の化け物もまだこの森に潜んでいるということを。
少年は、後悔していた。化け物のいる森に踏み込んでしまったことでも、そんな鼻で笑われるようなことを村人たちに訴えてしまったことにでもない。どれだけバカげた話であっても、自分なんかの訴えを真摯に聞いてくれたような清純の少女を、しかし自分がその話をしてしまったことによって、この悪夢に巻き込んでしまったことだ。
"ダメだ……! 行っちゃ、ダメだ!"
少年は、森の闇の中に、地獄の悪夢に足を踏み込んでしまった少女の元へと一目散に向かった。巻き込んでしまったことへの罪悪感からか、或いは自分を半ばでも信じてくれた少女に、心のどこかで甘い好意を抱いていたのか。
少年の行動の真相は、少年自身にもわからなかった。
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