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破邪の暁
飛鳥の舞
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神田川は、大坂の陣が終わった元和の頃から平川を切り開いて隅田川まで瀬替えしたことによってできたものである。
江戸城の外堀の役目も果たし、また神田上水から江戸の真水確保の目的もある。江戸湊の前島まで埋め立てたため、井戸を掘っても海水が混じるのだ。
神田山を切り崩し、二代将軍秀忠の命で普請を行なったのは仙台藩伊達家である。
大名火消しが消化用の水にも使うから、その藩祖が放火を企んでたというのは皮肉といえば皮肉な話だ。
もっとも、だからこそ江戸に火を放つ策謀を秘めていたのかもしれない。
夢見客人は、その川沿いを歩いて隅田川の川辺りにいた。
日は改まって、刻限は朝五つ、辰の刻(午前七:〇〇頃)である。
江戸の職人たちは、すでに仕事に出かける頃だ。
川には、餌を求める鷺の姿も見える。
その川の流れを、懐手のまま見つめて思案している。
榊世槃が江戸を焼くと宣言したのは、明日が終わるまで。
それまでに、世槃の剣術を破る手立てを見い出さねばならない。
下段への連撃と短剣での受け流しは、これまで客人が戦った敵の中でも見たことのない戦法であった。
くわえて、世槃は同じなのである。
川の流れの中に答えを探し求めるかのように、憂えた眼差しを向ける。
「夢見様……」
「千鶴姫か」
振り返れば、見守るような千鶴がいた。
あの魔人世槃が狙うのは、誰あろう彼女なのである。
その胸中を慮れば不憫でならない。
「こちらにおられると聞いてまいりました。……夢見様に、お願いがあるのです」
「何かな?」
「明日の晩、伝通院に榊世槃を止めにいかれるのならば、わたくしも連れて行ってください」
「必ず斬り合いになりましょう。それでもにござるか」
「はい、覚悟の上です。わたくしは、この身に刻まれた聖痕の意味を考えたのです。これが、神の奇蹟だというのなら……あの人を思い留まらせることができる、と」
千鶴は、自身の掌に視線を落とす。
キリストと同じ傷痕、聖痕を刻まれた。
ならば、意味があるはずなのだと――。
「切支丹の教えに従ってでござるか?」
「人の道として、です」
信念を持って、客人に答える千鶴であった。
悔改めよとは、マルコの福音書にある言葉である。
キリシタンであった千鶴の母も、悔い改めることで神様の国に行けると教えてくれた。
榊世槃という男は、この世の地獄を見てきたような魔人である。
それでも、人の道として訴えねばならぬ。
いかなる絶望の中でも希望は必ず現れるのだと、千鶴は信じている。
「わたくしのこの傷が奇蹟だというのなら、あの人の心も救えるはずです。救い主様は、世の人々すべての罪を贖って、あらゆる者のために、救いの道を示されました」
「あの世槃にも、救いの道を示すと申されるか? あなたを、転ばせようと目論む男に」
「できうるならば。でなくては、奇蹟とはいえません。悔い改める……それこそが切支丹の教えにございます」
「尊い教えにござるば。だが、一度絶望の淵に落ちた者は差し伸べられた手すら跳ね除けてしまうもの」
「……夢見様も、そうであったのですか?」
ふと、千鶴はそう思う。
客人と世槃に感じた同一性の正体、もしやそれに関わるものかもしれないと。
「拙者も、その地獄を知っている」
客人は短く言った。川辺を眺めるその瞳にわずかに曇りが浮かぶ。
軽やかに生きてような浪人者だが、客人もまた世槃と同様なものを見ているのだ。
「反逆者の子が生きるのには、なかなか難儀な当世にござる」
「夢見様……」
神君家康に逆らった者の裔――。
それだけで、この世に身を置く場はない。
真田幸村の遺児の中には、その名を伏せて生きている者もいる。三男の三好左馬之介幸信と母方の姓を称して、出羽亀田藩に仕えている。
だから、世に関わらず流れるように生きた。
信じ、頼るとも、その出生に関われば、多くを敵に回してしまう。
知れば人も離れ、親しき人が刺客の正体を顕わにする。
そんな中で、何を信じきることができるのか。
「今も、人を信じておるのかおらぬのか、拙者にもわかりませぬ。ただ、人を信じることを信じる……それが尊いものだと心得ております」
一度浮かび上がった不信はなかなか消えない。
裏切られたら、謀られたら? 誰かを信じようとするたびに湧き上がる疑念と拒絶。
だが、不信の地獄から這い上がる唯一の光明こそ、信じることは尊いのだと信じること――。
夢見客人が、今信じられるものであった。
「わたくしは、思ったのです。もし、夢見様が現れなかったらと……」
千鶴が思うのは、逆卍党の怪忍者たちに拐かされ、救いはこないと諦めかけてきたあの晩のこと――。
絶世の美貌が月に映されて救いに現れた。
あれこそ、闇の中の救い。
救いがある……希望が持てたからこそ、今も禁教とされたキリスト教徒でいられる。
一方で、榊世槃が見てきた光なき世界を思う。
千鶴にとって、夢見客人がこの世にいなかったら自分にも起こり得た光景でもあった。
だからこそ、最後の最後に、希望を示さねばならない。
聖痕が宿された奇蹟を信じる。奇蹟を信じる千鶴を、また客人も信じるのだ。
「ならば、拙者の側から離れぬように。押しかけ姫にゆくなと申しても、勝手に行ってしまうでしょうから」
「まあ……」
千鶴は、照れて顔を押さえる。
からかうように言う客人のせいで、おのれの所業を思い出したのだ。
しかし、その客人の笑顔は眩しかった。
「約束にござるぞ」
「はい、わたくしは暇人長屋の押しかけ姫。夢見様が嫌だと言っても、勝手についていきます……!」
「それは、いささか困りますな」
「わたくし、もう行くところもありませんし、それに暇人長屋がとても気に入りました」
藩でも千鶴については身罷ったとして届け出がなされた以上、戻ることはできない。
しかし、その前途が暗いとは感じなかった。
変人奇人ばかりの暇人長屋の面々を見ていると、身分に頼らずに生きる術がありそうだと思える。
「これからも姫様は長屋住まいにござるか」
「本当はそうしたいのです。でも、どうしてあんな面白い人たちがいっぱい集まっているのですか?」
「暇人長屋には手出し無用の不文律がありましてな。大家の力と聞いております。誰も顔を見たものはおらんのですが」
「まだまだ不思議な方がおられるのですね……」
「おかげで、拙者を含めて世に身の置きどころのない暇人が集まってくるのでござる。拙者もあの津神天次郎と命の遣り取りをした果てに辿り着きました」
「夢見様と天次郎様は、友と聞いておりましたが」
「何、用心棒と喧嘩の助っ人が、互いの雇い主のおかげで手合わせしただけにござる」
浪々の身で用心棒の日銭を稼いでいた夢見客人。
かたや、喧嘩の助っ人を稼業にしていた津神天次郎。
くだらない揉め事のために駆り出された二人が雇われとして対峙し、結局のところ決着つかずで放り出した。
それから、意気投合して暇人長屋にやってきたのだ。
このように、さまざまな事情と経緯がある暇人たちの吹き溜まりである。
「では、行く宛をなくした押しかけ姫も住んでもよさそうですね」
「であれば、店賃を稼がねばなりません」
「なら、高尾太夫に聞いてみます。わたくしも太夫になってお手当てがもらえるかって」
無垢だけに、とんでもないことを言う。
これにはさしもの客人も面食らった。
「苦界に身を沈めずとも、稼ぐ術はありましょう……」
「太夫になれば、夢見様がお客に来てくれるから妙案と思いましたのに」
言って、千鶴は川辺に視線を移した。
二匹の鷺が嘴を突っ込み、餌を漁っている。
取り合いになって、一方が鯊をくわえて飛び立った。
「……わたくしは、今まで籠の鳥でした。これからは、自分の力で飛べるところまで飛んでみとうございます」
「もう姫様を止めるものはおりますまい。ですが、それは誰の力も頼らず生きていくことにござる」
「構いません。自分の知らぬところで生き死にを左右されるより、力及ばず野垂れ死ねるなら本望です」
「さすがは暇人でござるな」
さまざまな過酷な運命が、千鶴を成長させた。籠の鳥が、みずからの翼で羽ばたこうとしている。
瑞々しい生命の躍動を見るような思いであった。あの鷺のように、どこまでも飛んでいくのだろう。
そして陽の光を背に受けて飛び立つ鷺に、夢見客人は何かを見た。
清々しい川からの風と、天高く舞う鳥の飛影――。
「……見えた、あの妖剣を破る術が」
江戸城の外堀の役目も果たし、また神田上水から江戸の真水確保の目的もある。江戸湊の前島まで埋め立てたため、井戸を掘っても海水が混じるのだ。
神田山を切り崩し、二代将軍秀忠の命で普請を行なったのは仙台藩伊達家である。
大名火消しが消化用の水にも使うから、その藩祖が放火を企んでたというのは皮肉といえば皮肉な話だ。
もっとも、だからこそ江戸に火を放つ策謀を秘めていたのかもしれない。
夢見客人は、その川沿いを歩いて隅田川の川辺りにいた。
日は改まって、刻限は朝五つ、辰の刻(午前七:〇〇頃)である。
江戸の職人たちは、すでに仕事に出かける頃だ。
川には、餌を求める鷺の姿も見える。
その川の流れを、懐手のまま見つめて思案している。
榊世槃が江戸を焼くと宣言したのは、明日が終わるまで。
それまでに、世槃の剣術を破る手立てを見い出さねばならない。
下段への連撃と短剣での受け流しは、これまで客人が戦った敵の中でも見たことのない戦法であった。
くわえて、世槃は同じなのである。
川の流れの中に答えを探し求めるかのように、憂えた眼差しを向ける。
「夢見様……」
「千鶴姫か」
振り返れば、見守るような千鶴がいた。
あの魔人世槃が狙うのは、誰あろう彼女なのである。
その胸中を慮れば不憫でならない。
「こちらにおられると聞いてまいりました。……夢見様に、お願いがあるのです」
「何かな?」
「明日の晩、伝通院に榊世槃を止めにいかれるのならば、わたくしも連れて行ってください」
「必ず斬り合いになりましょう。それでもにござるか」
「はい、覚悟の上です。わたくしは、この身に刻まれた聖痕の意味を考えたのです。これが、神の奇蹟だというのなら……あの人を思い留まらせることができる、と」
千鶴は、自身の掌に視線を落とす。
キリストと同じ傷痕、聖痕を刻まれた。
ならば、意味があるはずなのだと――。
「切支丹の教えに従ってでござるか?」
「人の道として、です」
信念を持って、客人に答える千鶴であった。
悔改めよとは、マルコの福音書にある言葉である。
キリシタンであった千鶴の母も、悔い改めることで神様の国に行けると教えてくれた。
榊世槃という男は、この世の地獄を見てきたような魔人である。
それでも、人の道として訴えねばならぬ。
いかなる絶望の中でも希望は必ず現れるのだと、千鶴は信じている。
「わたくしのこの傷が奇蹟だというのなら、あの人の心も救えるはずです。救い主様は、世の人々すべての罪を贖って、あらゆる者のために、救いの道を示されました」
「あの世槃にも、救いの道を示すと申されるか? あなたを、転ばせようと目論む男に」
「できうるならば。でなくては、奇蹟とはいえません。悔い改める……それこそが切支丹の教えにございます」
「尊い教えにござるば。だが、一度絶望の淵に落ちた者は差し伸べられた手すら跳ね除けてしまうもの」
「……夢見様も、そうであったのですか?」
ふと、千鶴はそう思う。
客人と世槃に感じた同一性の正体、もしやそれに関わるものかもしれないと。
「拙者も、その地獄を知っている」
客人は短く言った。川辺を眺めるその瞳にわずかに曇りが浮かぶ。
軽やかに生きてような浪人者だが、客人もまた世槃と同様なものを見ているのだ。
「反逆者の子が生きるのには、なかなか難儀な当世にござる」
「夢見様……」
神君家康に逆らった者の裔――。
それだけで、この世に身を置く場はない。
真田幸村の遺児の中には、その名を伏せて生きている者もいる。三男の三好左馬之介幸信と母方の姓を称して、出羽亀田藩に仕えている。
だから、世に関わらず流れるように生きた。
信じ、頼るとも、その出生に関われば、多くを敵に回してしまう。
知れば人も離れ、親しき人が刺客の正体を顕わにする。
そんな中で、何を信じきることができるのか。
「今も、人を信じておるのかおらぬのか、拙者にもわかりませぬ。ただ、人を信じることを信じる……それが尊いものだと心得ております」
一度浮かび上がった不信はなかなか消えない。
裏切られたら、謀られたら? 誰かを信じようとするたびに湧き上がる疑念と拒絶。
だが、不信の地獄から這い上がる唯一の光明こそ、信じることは尊いのだと信じること――。
夢見客人が、今信じられるものであった。
「わたくしは、思ったのです。もし、夢見様が現れなかったらと……」
千鶴が思うのは、逆卍党の怪忍者たちに拐かされ、救いはこないと諦めかけてきたあの晩のこと――。
絶世の美貌が月に映されて救いに現れた。
あれこそ、闇の中の救い。
救いがある……希望が持てたからこそ、今も禁教とされたキリスト教徒でいられる。
一方で、榊世槃が見てきた光なき世界を思う。
千鶴にとって、夢見客人がこの世にいなかったら自分にも起こり得た光景でもあった。
だからこそ、最後の最後に、希望を示さねばならない。
聖痕が宿された奇蹟を信じる。奇蹟を信じる千鶴を、また客人も信じるのだ。
「ならば、拙者の側から離れぬように。押しかけ姫にゆくなと申しても、勝手に行ってしまうでしょうから」
「まあ……」
千鶴は、照れて顔を押さえる。
からかうように言う客人のせいで、おのれの所業を思い出したのだ。
しかし、その客人の笑顔は眩しかった。
「約束にござるぞ」
「はい、わたくしは暇人長屋の押しかけ姫。夢見様が嫌だと言っても、勝手についていきます……!」
「それは、いささか困りますな」
「わたくし、もう行くところもありませんし、それに暇人長屋がとても気に入りました」
藩でも千鶴については身罷ったとして届け出がなされた以上、戻ることはできない。
しかし、その前途が暗いとは感じなかった。
変人奇人ばかりの暇人長屋の面々を見ていると、身分に頼らずに生きる術がありそうだと思える。
「これからも姫様は長屋住まいにござるか」
「本当はそうしたいのです。でも、どうしてあんな面白い人たちがいっぱい集まっているのですか?」
「暇人長屋には手出し無用の不文律がありましてな。大家の力と聞いております。誰も顔を見たものはおらんのですが」
「まだまだ不思議な方がおられるのですね……」
「おかげで、拙者を含めて世に身の置きどころのない暇人が集まってくるのでござる。拙者もあの津神天次郎と命の遣り取りをした果てに辿り着きました」
「夢見様と天次郎様は、友と聞いておりましたが」
「何、用心棒と喧嘩の助っ人が、互いの雇い主のおかげで手合わせしただけにござる」
浪々の身で用心棒の日銭を稼いでいた夢見客人。
かたや、喧嘩の助っ人を稼業にしていた津神天次郎。
くだらない揉め事のために駆り出された二人が雇われとして対峙し、結局のところ決着つかずで放り出した。
それから、意気投合して暇人長屋にやってきたのだ。
このように、さまざまな事情と経緯がある暇人たちの吹き溜まりである。
「では、行く宛をなくした押しかけ姫も住んでもよさそうですね」
「であれば、店賃を稼がねばなりません」
「なら、高尾太夫に聞いてみます。わたくしも太夫になってお手当てがもらえるかって」
無垢だけに、とんでもないことを言う。
これにはさしもの客人も面食らった。
「苦界に身を沈めずとも、稼ぐ術はありましょう……」
「太夫になれば、夢見様がお客に来てくれるから妙案と思いましたのに」
言って、千鶴は川辺に視線を移した。
二匹の鷺が嘴を突っ込み、餌を漁っている。
取り合いになって、一方が鯊をくわえて飛び立った。
「……わたくしは、今まで籠の鳥でした。これからは、自分の力で飛べるところまで飛んでみとうございます」
「もう姫様を止めるものはおりますまい。ですが、それは誰の力も頼らず生きていくことにござる」
「構いません。自分の知らぬところで生き死にを左右されるより、力及ばず野垂れ死ねるなら本望です」
「さすがは暇人でござるな」
さまざまな過酷な運命が、千鶴を成長させた。籠の鳥が、みずからの翼で羽ばたこうとしている。
瑞々しい生命の躍動を見るような思いであった。あの鷺のように、どこまでも飛んでいくのだろう。
そして陽の光を背に受けて飛び立つ鷺に、夢見客人は何かを見た。
清々しい川からの風と、天高く舞う鳥の飛影――。
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