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宵の影
吉原二刀流
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末廣神社は吉原総鎮守とされ、勝運災難除の祭神として倉稲魂命と武甕槌命を祀っている。
数々の見世が立ち並ぶ間に建つ社で、小さな鳥居とその奥に社がある。
遊女や忘八衆からの篤い信仰を集めている。
「ここだね、姐さん」
お縫の先行きで逆卍党の待ち伏せを避け、一行が辿り着いた先だ。
「あい。わっちらの守り神様でありんす」
「それはわかったが、ここから船が出るようには思えんのだが」
想庵が高尾太夫に問うたのも無理からぬことだ。
要は、末廣神社はどん詰まりにある。とてもではないが、どこかに逃れる道があるようには思えないのだ。
「親父様は北条氏の家臣でござんした。戦国の世のお城には、落ち延びるための抜け道がつきものでありんしょう?」
「では、こちらから抜け道があると」
「あい。いさ御公儀と事を構えたときの備えと、わっちら籠の鳥が逃れるためでありんす」
「やはり、そのようなことがあるのですね」
千鶴は、その意味を悟る。
太夫ほどの身分ともなれば大名、豪商とて振ることもできるが、遊女も格が下がればそういうわけにもいかない。
人買いから娘を買わない建前となってはいるものの、実際は横行しており、また前借金で雁字搦めの身分。
扱いのひどい楼主や遣り手は幾人もおり、耐えかねて逃亡しうようものなら、過酷な折檻が待ち受ける。
「ほんに堪え切れぬ扱いを受けたときは、末廣さんのご加護で苦界からひっそりと娑婆に逃れるのでありんす」
「吉原の秘密というわけか。いや、これは草紙にも書けぬことであるな」
「どうか胸のうちに閉まってくれんし」
「もちろんだとも」
想庵ともども一同は高尾太夫に頷いた。
総名主庄司甚右衛門も承知のうえで用意した、抜け道。
それを漏らせば、遊女が逃れるための最後の希望を塞ぐことになる。
「待って、誰かおります――」
石灯籠の裏でうずくまる影に気づいたのは、千鶴だった。
その影は、打掛を頭から被り、身をすくめて震えていた。
――どこかの妓楼の禿だろうか?
美鈴はそのように判断し、近寄った。
「どうしたのですか?」
「おそろしい、腰が抜けて動けないでありんす……」
声は震えていた。
無理もない、そこかしこで殺し合いが始まっているのだ。
慌てて逃げて、身を隠したのだろう。
「大丈夫ですよ。さっ、こちらへ」
優しげに声をかけた途端であった。
想庵もお縫も、どこか怪しいと感じたときにはもう遅かった。
ばっと打掛を翻したのは、若衆髷のまだ幼い少年だった。
差し出された美鈴の手を引き、その首元へと齧りつく。
「な、なんと――!」
武芸に秀でた抜刀小町の異名を持つ美鈴であっても、このように不意を打たれては躱す術がなかった。
あろうことか、少年は牙を立て流れる血を啜る。
両の眼は、暗がりの中で赤く光を放ち、顕となった肌の色は死人のように生気がなく、生白い。
逆卍党四天王すら魔性のものという、有廉邪々丸である。
月明かりの下、美鈴の首筋から生き血を啜るというおぞましい光景に、一同は凍りついた。
「こ、こいつ、美鈴姐さんから離れろ!」
お縫が、得意の印地打ちで礫を放つ。
勢いはあるが、邪々丸は牙を立てながら片手で受け止めた。
「……いやいや、甘露でしたなぁ。やはり、この味わいは生娘に間違いありません」
十分に味わったと言わんばかりに、口を離して血を拭う。
「何者なんだよ、こいつ……」
普段は生意気盛りのお縫も、怖気を感じて後ずさる。
整った目鼻立ちの少年であるが、漂う妖気は尋常ではない。
「伴天連たちの国の果てには、血を吸う死人がおると聞く。おそらくは……」
スラヴからバルカン半島、ルーマニアやスロバキアなどの東欧にかけて、吸血鬼の伝説が古くからある。
ウプイリ、ストリゴイ、クドラク……呼び名と種類がさまざまにあるが、後の世にはヴァンパイアという名称が一般的となる。生き血を吸う、死人の怪物。この有廉邪々丸もまた、その一匹なのだ。
「この姉様の血はいただきました。もう邪々丸の下僕となりました」
邪々丸の腕の中で力なくしなだれていた美鈴が、朦朧と千鶴たちに歩み出した。
そこへ、客人と瞳鬼が駆けつける。
「ゆ、夢さん……」
「美鈴殿は、いかがしたのだ? 尋常ではない様子だが」
「血吸おの鬼に噛まれた者は、血吸いの鬼になり下僕となって操られる……。夢さん、美鈴殿はあの魔性の者の手に堕ちたのだ」
「なんだと?」
驚愕する客人に、幽鬼のように歩み出る美鈴が刀を抜く。
「姉様、その男を殺してくだされ」
「あ……」
邪々丸の言葉に、美鈴は抗うことができない。
血を吸われたことの陶酔と忘我が剣を向けさせる。
ゆらりと揺らめいたかと思うと、加減のない美鈴の瞬撃が襲った。
「むっ――!」
なんとか物打ちで受けて、その刃を止める。
交わる視線の中で、美鈴は蕩けたような表情を見せる。
およそ、凛とした抜刀小町のものとはかけ離れていた。
「夢見、様ぁ……」
「美鈴殿、お気を確かに」
「あ、は、あはぁ……。あ、ははははは!!」
刃を交えながら、壊れたように嬌笑を上げる。
もはや、言葉が通じるような状況ではない。
美鈴の心は、魔性に蝕まれているのだ。
「ははは、これはようございました。このような形出会えたのは僥倖です。夢見客人よ、その姉様を斬ってみてくださいまし!」
面白い見世物だと、邪々丸も手を叩いて囃し立てる。
秀麗な美貌に、魔性の少年に対する怒りが宿る。
「ゆ、夢見様……!」
「いかん、美鈴殿はあやつに血を吸われ、その虜となって同じく血への渇望に苛まれておる。南蛮の血吸いの鬼とは、左様な厄種であるのだ」
古今の事情に精通した想庵には、その吸血鬼にまつわる伝承の知識があった。
もちろん、日の本の江戸で目にするのは思いもよらぬことではあるが。
「想庵先生、美鈴殿を救う知恵はござるか?」
「なんとか連れ帰れば、手立てはある!」
「それを聞いて安心した」
客人は、一方的に攻め立てる美鈴を鍔迫り合いに持ち込む。
吐息が触れるほどの位置に、美鈴の顔がある。
しかし、懐に入っては紀州の関口柔心に師事したという美鈴が繰り出す柔術の技も警戒せねばならない。
「いつか、いつか、こうしたいと焦がれる想いでありましたのに。あは、あはは……」
「美鈴殿、ならば存分に――」
「あ、ああ……!?」
客人は、競り合いながら首を傾け、おのれの首筋を見せた。
そこは頸動脈。心臓から全身を巡る血液が流れる大きな血管がある。
血への渇きと焦がれるほどの情欲に取り憑かれた今の美鈴にとって、目に映る白皙の首筋は歯を立てて食い破りたくなってしまうほどの衝動を生むのだ。
血の接吻をくれようとむしゃぶりつこうとする、その隙を狙って、美鈴の鳩尾に当身を打つ。
短くうめいて崩折れる美鈴を、客人は抱き止めた。
「さすがはこちらの忍びどもを難なく斬って捨てた凄腕、お見事です」
「おぬし、人の心を持たぬ魔性の者か」
「あははは、その姉様も三日も経たずそうなりまするぞ」
気を失った美鈴を降ろし、客人は禍々しく嗤い続ける邪々丸にお世継ぎ殺しを向ける。
「これまで望んで斬った思った相手はそう多くはないが、おぬしはその例外とするしかないな」
「あはは、斬れますか――」
余裕を見せた邪々丸に、客人は烈火のごとく一刀を振るう。
邪々丸も、尋常ならざる跳躍で三間も飛び退いて石鳥居の上に乗ってみせた。
「おお、恐ろしい! ですが。この邪々丸を斬るのには足りませなんだな」
「そうだな、今一歩及べば腕一本ではすまなかったであろう」
「なんと申しました? お――」
気がつくと、邪々丸の右腕がぽろりと落ちる。
一刀に見えたが、目にも留まらぬ早業でもう一刀をくれていたのだ。
だが、斬られた右腕からは血が吹き出すこともなければ痛みを感じている様子もない。
すでに死人である吸血鬼には、流れる血潮もなければ痛覚という当然の生体反応がない。
「ははは、刃筋が見えませなんだ。やはり、その剣の腕は聞きしに勝りますね」
邪々丸は、羅生門の鬼のごとく片腕を失ったものの、鳥居の上から降りてすぐに拾い上げる。
傷口に当てれば、何事もなかったかのように接合された。
魂もなく、よって不死者となった者にこの世の理は通用しない。
「想庵先生、この血を吸う鬼は殺すことができるのか?」
「通常の方法では死なぬというが、なくもない。……だが、今は用意がない!」
「ならば、動けぬまでに斬るほかないな」
「さあて、できますか? 敵は、この邪々丸だけではありませぬぞ」
「何……?」
それまで、目の前で跳梁する吸血鬼しかおらず、他の気配はまったくなかった。
しかし、ぬっと影が千鶴に伸びる。
「あっ――!?」
影の中から、白銀の波打つ髪と緋のマントを羽織った妖美なる男の姿が突如として現れたのだ。
青と緑の瞳が千鶴を射すくめると、まるで糸が切れた傀儡のごとく気を失わせた。
居すくみの術という一種の催眠術だ。
「何者だ!」
「逆卍党党首、榊世槃――」
気を失った千鶴を横抱きにする世槃の左手には、奇妙なものが持たれていた。
人間の右手の蝋燭である――。
栄光の手と呼ばれる西洋魔術の呪物だ。
切断された罪人の右手から血を絞り、塩や唐辛子、胡椒などの香辛料と硝石に漬け込んで干して屍蝋化させ、指先に芯をつける。
そうしてできあがった蝋燭は、芯に火を灯している間は姿を消して気配を断つ魔力を与えるという。
客人たちが千鶴に迫る気配を察することができなかったのも、そのせいだ。
この時代、芝高輪をはじめ江戸のところどころに刑場があり、人体はいくらでも手に入る。
「千鶴姫をさらい、どうする気だ?」
「この世の地獄を見せる」
「地獄、だと?」
「直におぬしにも見せてやろう。そのためにも姫は頂いていく。帰るぞ、邪々丸」
「はい、鮮やかな拐かしの手並み、この邪々丸感服いたしました」
「待て!」
千鶴とともに榊世槃の姿が消え、邪々丸は霧のように消えた。
人智が及ばぬ者を敵にして、さしもの夢見客人も不覚を取った。
「しまった、拙者としたことが……!」
「あやつらは遊郭の外に逃げるはずだ。夢さん、まだ追えるぞ」
「いかにも、こうしてはおれぬ」
しかし、もう逆卍党の忍びたちが群れをなして追いすがってくる。
「夢見客人よ、どう切り抜けるつもりじゃ?」
「斬って捨てるしかあるまいが、数が多い。手間取れば姫を取り返せぬ」
客人は瞳鬼に答え、お世継ぎ殺しを構え直す。
ここで時間を食えば、いずれ柳生の斉藤丈之介や逆卍党の糸巻随軒もやってこよう。
「ならば、わっちが引き受けるでありんす。ぬし様たちはそのうちに郭の外へ」
「太夫が?」
引き受けるという高尾太夫は、忘八の男から預かった大小二刀を手にとった。
あまりのことに、お縫も呆気にとられる。
「ちょ、ちょっと太夫!? どういうこと」
「芸事のひとつとして、剣術の覚えもござんす」
「二天一流、剣の師は宮本武蔵か」
「あい――」
この時期に武蔵が吉原に逗留し、剣を教えたという事実は前述したとおり。
だが、寛永三名妓に数えられる初代高尾太夫が、武蔵から剣を習ったという記録は存在しない。存在しないが、両者が同じく吉原にいた時期は重なり、一流の芸事を身につける太夫が芸事のひとつして武術を覚える必然と可能性は十分にあった。
「さあさ、その井戸から降りると堀留川に出て猪牙舟がご用意してありんす。わっちはなら、ご心配なく」
「恩に着る、高尾太夫」
「夢見様に恩を贈れるなら、遊女の冥利に尽きるでありんす」
艶やかに笑むと、高尾太夫は片肌をはだけて忍びたちに二刀を構える。
さながら、荼吉尼天のごとし。
その間に、客人たちは美鈴を抱えて古井戸を降りた。
「さあ、ここから先は通しゃしないよ。どいつから斬ってやろうかい! 武蔵直伝の吉原二刀流、恐れぬならばかかってきな!」
客人たちを見送った後、高尾太夫は忍びたちに伝法な口調で啖呵を切った。
その気迫に、忍びたちも息を呑む。
「……夢見様、今度ゆっくり逢いましょうなあ」
ふと、高尾太夫は切なげな呟きを残すのであった。
数々の見世が立ち並ぶ間に建つ社で、小さな鳥居とその奥に社がある。
遊女や忘八衆からの篤い信仰を集めている。
「ここだね、姐さん」
お縫の先行きで逆卍党の待ち伏せを避け、一行が辿り着いた先だ。
「あい。わっちらの守り神様でありんす」
「それはわかったが、ここから船が出るようには思えんのだが」
想庵が高尾太夫に問うたのも無理からぬことだ。
要は、末廣神社はどん詰まりにある。とてもではないが、どこかに逃れる道があるようには思えないのだ。
「親父様は北条氏の家臣でござんした。戦国の世のお城には、落ち延びるための抜け道がつきものでありんしょう?」
「では、こちらから抜け道があると」
「あい。いさ御公儀と事を構えたときの備えと、わっちら籠の鳥が逃れるためでありんす」
「やはり、そのようなことがあるのですね」
千鶴は、その意味を悟る。
太夫ほどの身分ともなれば大名、豪商とて振ることもできるが、遊女も格が下がればそういうわけにもいかない。
人買いから娘を買わない建前となってはいるものの、実際は横行しており、また前借金で雁字搦めの身分。
扱いのひどい楼主や遣り手は幾人もおり、耐えかねて逃亡しうようものなら、過酷な折檻が待ち受ける。
「ほんに堪え切れぬ扱いを受けたときは、末廣さんのご加護で苦界からひっそりと娑婆に逃れるのでありんす」
「吉原の秘密というわけか。いや、これは草紙にも書けぬことであるな」
「どうか胸のうちに閉まってくれんし」
「もちろんだとも」
想庵ともども一同は高尾太夫に頷いた。
総名主庄司甚右衛門も承知のうえで用意した、抜け道。
それを漏らせば、遊女が逃れるための最後の希望を塞ぐことになる。
「待って、誰かおります――」
石灯籠の裏でうずくまる影に気づいたのは、千鶴だった。
その影は、打掛を頭から被り、身をすくめて震えていた。
――どこかの妓楼の禿だろうか?
美鈴はそのように判断し、近寄った。
「どうしたのですか?」
「おそろしい、腰が抜けて動けないでありんす……」
声は震えていた。
無理もない、そこかしこで殺し合いが始まっているのだ。
慌てて逃げて、身を隠したのだろう。
「大丈夫ですよ。さっ、こちらへ」
優しげに声をかけた途端であった。
想庵もお縫も、どこか怪しいと感じたときにはもう遅かった。
ばっと打掛を翻したのは、若衆髷のまだ幼い少年だった。
差し出された美鈴の手を引き、その首元へと齧りつく。
「な、なんと――!」
武芸に秀でた抜刀小町の異名を持つ美鈴であっても、このように不意を打たれては躱す術がなかった。
あろうことか、少年は牙を立て流れる血を啜る。
両の眼は、暗がりの中で赤く光を放ち、顕となった肌の色は死人のように生気がなく、生白い。
逆卍党四天王すら魔性のものという、有廉邪々丸である。
月明かりの下、美鈴の首筋から生き血を啜るというおぞましい光景に、一同は凍りついた。
「こ、こいつ、美鈴姐さんから離れろ!」
お縫が、得意の印地打ちで礫を放つ。
勢いはあるが、邪々丸は牙を立てながら片手で受け止めた。
「……いやいや、甘露でしたなぁ。やはり、この味わいは生娘に間違いありません」
十分に味わったと言わんばかりに、口を離して血を拭う。
「何者なんだよ、こいつ……」
普段は生意気盛りのお縫も、怖気を感じて後ずさる。
整った目鼻立ちの少年であるが、漂う妖気は尋常ではない。
「伴天連たちの国の果てには、血を吸う死人がおると聞く。おそらくは……」
スラヴからバルカン半島、ルーマニアやスロバキアなどの東欧にかけて、吸血鬼の伝説が古くからある。
ウプイリ、ストリゴイ、クドラク……呼び名と種類がさまざまにあるが、後の世にはヴァンパイアという名称が一般的となる。生き血を吸う、死人の怪物。この有廉邪々丸もまた、その一匹なのだ。
「この姉様の血はいただきました。もう邪々丸の下僕となりました」
邪々丸の腕の中で力なくしなだれていた美鈴が、朦朧と千鶴たちに歩み出した。
そこへ、客人と瞳鬼が駆けつける。
「ゆ、夢さん……」
「美鈴殿は、いかがしたのだ? 尋常ではない様子だが」
「血吸おの鬼に噛まれた者は、血吸いの鬼になり下僕となって操られる……。夢さん、美鈴殿はあの魔性の者の手に堕ちたのだ」
「なんだと?」
驚愕する客人に、幽鬼のように歩み出る美鈴が刀を抜く。
「姉様、その男を殺してくだされ」
「あ……」
邪々丸の言葉に、美鈴は抗うことができない。
血を吸われたことの陶酔と忘我が剣を向けさせる。
ゆらりと揺らめいたかと思うと、加減のない美鈴の瞬撃が襲った。
「むっ――!」
なんとか物打ちで受けて、その刃を止める。
交わる視線の中で、美鈴は蕩けたような表情を見せる。
およそ、凛とした抜刀小町のものとはかけ離れていた。
「夢見、様ぁ……」
「美鈴殿、お気を確かに」
「あ、は、あはぁ……。あ、ははははは!!」
刃を交えながら、壊れたように嬌笑を上げる。
もはや、言葉が通じるような状況ではない。
美鈴の心は、魔性に蝕まれているのだ。
「ははは、これはようございました。このような形出会えたのは僥倖です。夢見客人よ、その姉様を斬ってみてくださいまし!」
面白い見世物だと、邪々丸も手を叩いて囃し立てる。
秀麗な美貌に、魔性の少年に対する怒りが宿る。
「ゆ、夢見様……!」
「いかん、美鈴殿はあやつに血を吸われ、その虜となって同じく血への渇望に苛まれておる。南蛮の血吸いの鬼とは、左様な厄種であるのだ」
古今の事情に精通した想庵には、その吸血鬼にまつわる伝承の知識があった。
もちろん、日の本の江戸で目にするのは思いもよらぬことではあるが。
「想庵先生、美鈴殿を救う知恵はござるか?」
「なんとか連れ帰れば、手立てはある!」
「それを聞いて安心した」
客人は、一方的に攻め立てる美鈴を鍔迫り合いに持ち込む。
吐息が触れるほどの位置に、美鈴の顔がある。
しかし、懐に入っては紀州の関口柔心に師事したという美鈴が繰り出す柔術の技も警戒せねばならない。
「いつか、いつか、こうしたいと焦がれる想いでありましたのに。あは、あはは……」
「美鈴殿、ならば存分に――」
「あ、ああ……!?」
客人は、競り合いながら首を傾け、おのれの首筋を見せた。
そこは頸動脈。心臓から全身を巡る血液が流れる大きな血管がある。
血への渇きと焦がれるほどの情欲に取り憑かれた今の美鈴にとって、目に映る白皙の首筋は歯を立てて食い破りたくなってしまうほどの衝動を生むのだ。
血の接吻をくれようとむしゃぶりつこうとする、その隙を狙って、美鈴の鳩尾に当身を打つ。
短くうめいて崩折れる美鈴を、客人は抱き止めた。
「さすがはこちらの忍びどもを難なく斬って捨てた凄腕、お見事です」
「おぬし、人の心を持たぬ魔性の者か」
「あははは、その姉様も三日も経たずそうなりまするぞ」
気を失った美鈴を降ろし、客人は禍々しく嗤い続ける邪々丸にお世継ぎ殺しを向ける。
「これまで望んで斬った思った相手はそう多くはないが、おぬしはその例外とするしかないな」
「あはは、斬れますか――」
余裕を見せた邪々丸に、客人は烈火のごとく一刀を振るう。
邪々丸も、尋常ならざる跳躍で三間も飛び退いて石鳥居の上に乗ってみせた。
「おお、恐ろしい! ですが。この邪々丸を斬るのには足りませなんだな」
「そうだな、今一歩及べば腕一本ではすまなかったであろう」
「なんと申しました? お――」
気がつくと、邪々丸の右腕がぽろりと落ちる。
一刀に見えたが、目にも留まらぬ早業でもう一刀をくれていたのだ。
だが、斬られた右腕からは血が吹き出すこともなければ痛みを感じている様子もない。
すでに死人である吸血鬼には、流れる血潮もなければ痛覚という当然の生体反応がない。
「ははは、刃筋が見えませなんだ。やはり、その剣の腕は聞きしに勝りますね」
邪々丸は、羅生門の鬼のごとく片腕を失ったものの、鳥居の上から降りてすぐに拾い上げる。
傷口に当てれば、何事もなかったかのように接合された。
魂もなく、よって不死者となった者にこの世の理は通用しない。
「想庵先生、この血を吸う鬼は殺すことができるのか?」
「通常の方法では死なぬというが、なくもない。……だが、今は用意がない!」
「ならば、動けぬまでに斬るほかないな」
「さあて、できますか? 敵は、この邪々丸だけではありませぬぞ」
「何……?」
それまで、目の前で跳梁する吸血鬼しかおらず、他の気配はまったくなかった。
しかし、ぬっと影が千鶴に伸びる。
「あっ――!?」
影の中から、白銀の波打つ髪と緋のマントを羽織った妖美なる男の姿が突如として現れたのだ。
青と緑の瞳が千鶴を射すくめると、まるで糸が切れた傀儡のごとく気を失わせた。
居すくみの術という一種の催眠術だ。
「何者だ!」
「逆卍党党首、榊世槃――」
気を失った千鶴を横抱きにする世槃の左手には、奇妙なものが持たれていた。
人間の右手の蝋燭である――。
栄光の手と呼ばれる西洋魔術の呪物だ。
切断された罪人の右手から血を絞り、塩や唐辛子、胡椒などの香辛料と硝石に漬け込んで干して屍蝋化させ、指先に芯をつける。
そうしてできあがった蝋燭は、芯に火を灯している間は姿を消して気配を断つ魔力を与えるという。
客人たちが千鶴に迫る気配を察することができなかったのも、そのせいだ。
この時代、芝高輪をはじめ江戸のところどころに刑場があり、人体はいくらでも手に入る。
「千鶴姫をさらい、どうする気だ?」
「この世の地獄を見せる」
「地獄、だと?」
「直におぬしにも見せてやろう。そのためにも姫は頂いていく。帰るぞ、邪々丸」
「はい、鮮やかな拐かしの手並み、この邪々丸感服いたしました」
「待て!」
千鶴とともに榊世槃の姿が消え、邪々丸は霧のように消えた。
人智が及ばぬ者を敵にして、さしもの夢見客人も不覚を取った。
「しまった、拙者としたことが……!」
「あやつらは遊郭の外に逃げるはずだ。夢さん、まだ追えるぞ」
「いかにも、こうしてはおれぬ」
しかし、もう逆卍党の忍びたちが群れをなして追いすがってくる。
「夢見客人よ、どう切り抜けるつもりじゃ?」
「斬って捨てるしかあるまいが、数が多い。手間取れば姫を取り返せぬ」
客人は瞳鬼に答え、お世継ぎ殺しを構え直す。
ここで時間を食えば、いずれ柳生の斉藤丈之介や逆卍党の糸巻随軒もやってこよう。
「ならば、わっちが引き受けるでありんす。ぬし様たちはそのうちに郭の外へ」
「太夫が?」
引き受けるという高尾太夫は、忘八の男から預かった大小二刀を手にとった。
あまりのことに、お縫も呆気にとられる。
「ちょ、ちょっと太夫!? どういうこと」
「芸事のひとつとして、剣術の覚えもござんす」
「二天一流、剣の師は宮本武蔵か」
「あい――」
この時期に武蔵が吉原に逗留し、剣を教えたという事実は前述したとおり。
だが、寛永三名妓に数えられる初代高尾太夫が、武蔵から剣を習ったという記録は存在しない。存在しないが、両者が同じく吉原にいた時期は重なり、一流の芸事を身につける太夫が芸事のひとつして武術を覚える必然と可能性は十分にあった。
「さあさ、その井戸から降りると堀留川に出て猪牙舟がご用意してありんす。わっちはなら、ご心配なく」
「恩に着る、高尾太夫」
「夢見様に恩を贈れるなら、遊女の冥利に尽きるでありんす」
艶やかに笑むと、高尾太夫は片肌をはだけて忍びたちに二刀を構える。
さながら、荼吉尼天のごとし。
その間に、客人たちは美鈴を抱えて古井戸を降りた。
「さあ、ここから先は通しゃしないよ。どいつから斬ってやろうかい! 武蔵直伝の吉原二刀流、恐れぬならばかかってきな!」
客人たちを見送った後、高尾太夫は忍びたちに伝法な口調で啖呵を切った。
その気迫に、忍びたちも息を呑む。
「……夢見様、今度ゆっくり逢いましょうなあ」
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※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
両国悲喜こもごも
沢藤南湘
歴史・時代
はるよの家は、父親の又吉の怪我で家は困窮状態に陥る。
そこで、はるよは、大奥に奉公するが、大奥の人員削減で長屋に戻る。そして、
古着屋の長介と結婚するが、夫は、店の金を酒と女に
費やし、店をつぶす。借金がはるよに残された。一方、はるよが、長屋にい
たころから、はるよに恋心を抱いていた野菜売りの正助は、表店の主になり、
はるよの借金返済に金を貸した。その後、正助の妻と次女を失い、酒におぼれ
、店がつぶれた。山越屋を立て直したはるよが、正助を雇った。実力を発揮し
た正助を店主にし、はるよは、正助の妻になり、店はますます繁盛した。
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