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宵の影
束の間の
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「しばらくは追ってはこれまい」
瞳鬼は、その左目で周囲の様子を見渡した。
炸裂した焙烙玉から立ち込めた煙幕は、相当な毒性を持っており、これに巻かれればしばらくはまともに動けないはずだ。伊賀流忍術にある煙遁の術である。
仲間たちもその被害は受けるであろうが、非常時ゆえ仕方のないことと割り切った。
塀に背中を預け、乱れた息を整える。
「しかし、なかなかに強力な煙だな……」
「やむを得んだろう。あの場を切り抜けるには、あれしかなかったのじゃ」
さしもの客人も、その煙の影響を受けてしまい、軽く噎せている。
物陰に身を隠し、追跡の気配を探る。追っ手はまだ来ない。それも今のところであろう。
柳生の刺客、斉藤丈之介。逆卍党の忍者、糸巻随軒と出くわしたとあっては、もはや逃げるしか道はなかったろう。
「おぬし、名は?」
「……忍びに名を問うて、おいそれと教えると思うてか」
「しかし、名を知らぬとなると礼も言えまい」
「……ど、瞳鬼だ」
小さく答える。名を教えるつもりなどなかった。
だが、どうしてか心が緩くなっている。
そんなに夢見客人から礼を受けたかったのかと、瞳鬼はおのれの小娘のような気持ちを恥じた。
「瞳鬼か、わかった。おぬしのおかげで助かった。あらためて礼を言おう」
「私は、お前を見張っていただけじゃ」
「なら、ますます有り難いな。拙者を見張っておればよかったというのに、あの一声のおかげで難を逃れることができた」
ふと、客人が柔らかな笑みを浮かべる。
思わず、瞳鬼は顔を伏せる。
間近で見ると、やはり心を奪われてしまうほど美しい男だ。
「お前のためではない、その刀を柳生に渡さぬためというだけだ」
何故、言い訳じみたことを言ってしまうのだろう。
柳生の刺客が狙っていると知ったとき、すんでのところで声を上げてしまった。
ずっと遠くから見ているだけと決めていたはずなのに。
そんな瞳鬼の前に、懐紙が差し出された。
「これは?」
「あの煙は、おぬしも苦しめたようだ。涙を拭うがよい」
「あ、ああ……」
受け取り、腫れた目から流れる涙を拭う。
左目に触れ、改めておのれの異形を知る。
「……この左目、お前は気味が悪いと思わぬか?」
前髪を上げ、その左目を見せつけながら言う。
気味が悪い、そう客人の口から聞くことができれば、煩悶とする気持ちに区切りがつけられよう――。
済ました美貌の男か、自身の姿を見て慄くところを見てみたいとも思ったのだ。
そんな方法でも、相手の心には残ることができる。
「拙者はその瞳のおかげで助けられたのだ、そのようには思わぬ」
「かまわん、口でどう言おうともわかるぞ。どうせ心の内では気味悪がっておるのだろう?」
瞳鬼は知っている。どう取り繕うとも皆は心の内で醜いとおのれのことを蔑んでいるのだと。
この夢見客人もそのはずだ。
美しいものに醜いものの気持ちがわかろうはずもないが、醜いものには美しいものの心の機微が読み取れる。
「気遣いなど無用、醜いと思うなら思うがいい。この左目のおかげで忍びとして立派に役目を果たせるのじゃ」
「人並みに涙を流すのなら、拙者もおぬしも同じく血が通っていよう」
「こ、これは、煙が滲みただけじゃ……!」
瞳鬼は取り乱した。
そのような言葉、今まで言われたことがなかった。
思ってもない言葉が返って来たため、どう反応すればよいか戸惑ったのだ。
「その左目もぱちりと開いた眼であるから、右に簪を挿して釣り合いを取って、紅白粉でもするとなかなか娘らしくなろう」
「何を言っておる、誰がそんなこと」
娘らしくしたいなど、とうに捨てたはずの感情である。
容姿への負い目は、忍びとなってからもう感じることもなく、むしろ役目を果たしてくれる誇りとしていていたはず。
いや、そう自分に言い聞かせていただけに過ぎなかったのか。
娘らしく、美しくありたいと願っていたのか。
「忍びの掟が非情なのは、拙者も承知している。されど、おぬしのような娘らしい年頃の者が情を捨てねばならんとは、悲しいことだ」
「変わったことを言う男じゃな、お前は」
「なに、ただの暇人だ」
「暇人、か」
「拙者は、逃した姫たちと落ち合うつもりだ。さて、おぬしはどうする?」
「私の役目は、お前を見ることじゃ。その村正を柳生や逆卍党の手に渡らぬよう、見張らねばならん」
「なら、隠れて見張らずとも拙者の側におればよかろう。おとなしくしてくれるなら、簪も買ってやろう」
「いらぬ、馬鹿にするな!」
「それはすまなかった。助けてもらった礼のつもりだったが」
「ふん、私はお前に死なれては困るのじゃ。だから、先行きの案内くらいはしてやる」
言葉とは裏腹に、温かな高鳴りを覚えてしまう。
見ているのが瞳鬼の役目だ。だから見ているだけでよかった。
だが、その優美な頬に触れてみたいと思うこの気持ちは、何なのだろうか?
瞳鬼は、その左目で周囲の様子を見渡した。
炸裂した焙烙玉から立ち込めた煙幕は、相当な毒性を持っており、これに巻かれればしばらくはまともに動けないはずだ。伊賀流忍術にある煙遁の術である。
仲間たちもその被害は受けるであろうが、非常時ゆえ仕方のないことと割り切った。
塀に背中を預け、乱れた息を整える。
「しかし、なかなかに強力な煙だな……」
「やむを得んだろう。あの場を切り抜けるには、あれしかなかったのじゃ」
さしもの客人も、その煙の影響を受けてしまい、軽く噎せている。
物陰に身を隠し、追跡の気配を探る。追っ手はまだ来ない。それも今のところであろう。
柳生の刺客、斉藤丈之介。逆卍党の忍者、糸巻随軒と出くわしたとあっては、もはや逃げるしか道はなかったろう。
「おぬし、名は?」
「……忍びに名を問うて、おいそれと教えると思うてか」
「しかし、名を知らぬとなると礼も言えまい」
「……ど、瞳鬼だ」
小さく答える。名を教えるつもりなどなかった。
だが、どうしてか心が緩くなっている。
そんなに夢見客人から礼を受けたかったのかと、瞳鬼はおのれの小娘のような気持ちを恥じた。
「瞳鬼か、わかった。おぬしのおかげで助かった。あらためて礼を言おう」
「私は、お前を見張っていただけじゃ」
「なら、ますます有り難いな。拙者を見張っておればよかったというのに、あの一声のおかげで難を逃れることができた」
ふと、客人が柔らかな笑みを浮かべる。
思わず、瞳鬼は顔を伏せる。
間近で見ると、やはり心を奪われてしまうほど美しい男だ。
「お前のためではない、その刀を柳生に渡さぬためというだけだ」
何故、言い訳じみたことを言ってしまうのだろう。
柳生の刺客が狙っていると知ったとき、すんでのところで声を上げてしまった。
ずっと遠くから見ているだけと決めていたはずなのに。
そんな瞳鬼の前に、懐紙が差し出された。
「これは?」
「あの煙は、おぬしも苦しめたようだ。涙を拭うがよい」
「あ、ああ……」
受け取り、腫れた目から流れる涙を拭う。
左目に触れ、改めておのれの異形を知る。
「……この左目、お前は気味が悪いと思わぬか?」
前髪を上げ、その左目を見せつけながら言う。
気味が悪い、そう客人の口から聞くことができれば、煩悶とする気持ちに区切りがつけられよう――。
済ました美貌の男か、自身の姿を見て慄くところを見てみたいとも思ったのだ。
そんな方法でも、相手の心には残ることができる。
「拙者はその瞳のおかげで助けられたのだ、そのようには思わぬ」
「かまわん、口でどう言おうともわかるぞ。どうせ心の内では気味悪がっておるのだろう?」
瞳鬼は知っている。どう取り繕うとも皆は心の内で醜いとおのれのことを蔑んでいるのだと。
この夢見客人もそのはずだ。
美しいものに醜いものの気持ちがわかろうはずもないが、醜いものには美しいものの心の機微が読み取れる。
「気遣いなど無用、醜いと思うなら思うがいい。この左目のおかげで忍びとして立派に役目を果たせるのじゃ」
「人並みに涙を流すのなら、拙者もおぬしも同じく血が通っていよう」
「こ、これは、煙が滲みただけじゃ……!」
瞳鬼は取り乱した。
そのような言葉、今まで言われたことがなかった。
思ってもない言葉が返って来たため、どう反応すればよいか戸惑ったのだ。
「その左目もぱちりと開いた眼であるから、右に簪を挿して釣り合いを取って、紅白粉でもするとなかなか娘らしくなろう」
「何を言っておる、誰がそんなこと」
娘らしくしたいなど、とうに捨てたはずの感情である。
容姿への負い目は、忍びとなってからもう感じることもなく、むしろ役目を果たしてくれる誇りとしていていたはず。
いや、そう自分に言い聞かせていただけに過ぎなかったのか。
娘らしく、美しくありたいと願っていたのか。
「忍びの掟が非情なのは、拙者も承知している。されど、おぬしのような娘らしい年頃の者が情を捨てねばならんとは、悲しいことだ」
「変わったことを言う男じゃな、お前は」
「なに、ただの暇人だ」
「暇人、か」
「拙者は、逃した姫たちと落ち合うつもりだ。さて、おぬしはどうする?」
「私の役目は、お前を見ることじゃ。その村正を柳生や逆卍党の手に渡らぬよう、見張らねばならん」
「なら、隠れて見張らずとも拙者の側におればよかろう。おとなしくしてくれるなら、簪も買ってやろう」
「いらぬ、馬鹿にするな!」
「それはすまなかった。助けてもらった礼のつもりだったが」
「ふん、私はお前に死なれては困るのじゃ。だから、先行きの案内くらいはしてやる」
言葉とは裏腹に、温かな高鳴りを覚えてしまう。
見ているのが瞳鬼の役目だ。だから見ているだけでよかった。
だが、その優美な頬に触れてみたいと思うこの気持ちは、何なのだろうか?
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