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第一章
来たりし者 13
しおりを挟む浴場を利用して部屋に戻ると、中で待機していたクリフがカーテンを閉めている所だった。
振り返ったクリフは目礼した後、テーブルの上のミルクをコップに注いでくれる。
風呂上りにはこれを一気飲みしなければ、何だか調子が悪い。
一日の疲れは風呂プラスミルクで完全とは言えないけれど吹き飛ぶ。ミルクを飲み干して白い髭をこさえた俺に苦笑を向けてから、ソファに放り投げていたガウンを背中に羽織らせてくれるクリフは、最初は侍従のような真似に戸惑っていたものの、今は慣れたものだ。
ダ・ブラッドの護衛であるクリフは、今日のような忙しい日には衛兵として駆り出されるものの、大抵は俺付きの執事のようなもので、護衛職の他にも様々な世話を焼いてくれる。俺の一日の予定を立てたり、色んな連絡を取ってくれたり、その日の衣装を選んでくれたり、今のように給仕をしてくれたり。
その中には自分で出来るようなものも多く、甲斐甲斐しく世話をされればされる程に、俺は居心地が悪くなってしまうのだが。
ダ・ブラッドとしての生活に慣れる為には、そうもいかない、という。
それにクリフが嫌な顔一つせず、こんな年下の俺の付き人をしてくれているのに、俺が文句をいうわけにもいかない。
俺の嗜好を理解してくれているクリフは、ミルクの後にはテーブルに用意されているフルーツの盛り合わせの中から葡萄を選び、フォークを使って丁寧に皮を剥いてくれている最中だ。
甘やかされた子供のようにそれを待ちわびながら、俺はソファに腰を落ち着ける。だらけきった姿勢でも、クリフは咎めたりしない。
陶器の器の中にまあるい葡萄がたまっていく。瑞々しくてぷるぷると震えるゼリーのような食感の、葡萄。
それを指で摘んで口の中に放り込みながら、咀嚼途中にクリフを見上げる。
一心不乱に皮を剥いているクリフの横顔が、少し傾いだ。
「ツカサ様」
急いた様子で手を拭い、失礼を、と呟いた後、その太い指が俺の髪に触れた。前髪を梳き、撫でる仕草でぼさぼさの髪を整えていく。
「ボタンをお留め下さい」
そう言い置いて、扉のほうへ向かっていく大きな背中。
そこで俺もやっと合点が言って、慌てて服装を直した。
金属がぶつかる音が、次第に大きくなってくる。
見上げた時計の短針は、八時を指している。いまだ夜会は終わっていない筈だ。
使用人部屋に近い俺の私室に、甲冑姿の兵士が姿を現す事は珍しい。軽装備の衛兵達は皮鎧の下に鎖帷子、棍棒くらいのものしか常備していない。特に今の時間は、衛兵の多くが夜会場に配備されている為、この建物の警備は手薄な筈だった。
連絡もなしにこの部屋を訪れる人は、数える程度しか居ない。ただ、ウィリアムさんやライドであれば衛兵を連れている筈も無いし、シリウスさんやティアであればメイドさんが呼びにくる。ユージィン少年であれば廊下を歩いている時分から騒々しいし、国王陛下なわけは無い。
頭の中で候補は減っていくが、最後に考えられるゲオルグ殿下は――と思った所で、俺は顔を顰めた。殿下が連れる近衛の騎士は、あんなに五月蝿く歩かない。
緊張した面持ちのクリフが部屋をするりと抜け出て、静寂。
「……シゼル」
ゆっくりと開いた扉の隙間から、クリフが囁いた。
固いままの声音から、それが常ならぬ事態だと悟る。訝しく思いながらも席を立てば、扉が大きく開かれた。
「ラシーク・アル・シャイハン王子がお見えです」
三人の衛兵を連れて廊下に立っていたのは、にこやかに微笑む異国の王子だった。
夜会に出席していたままの姿で、ラシーク王子はそこに立っていた。
「このような時分に、お許し下さい」
そう言って優雅に頭を垂れる王子に、慌てて返礼する。
「ラシーク王子殿下、」
けれどその先が言葉にならず、引き攣った喉に唾だけが吸い込まれた。
困ったように笑むラシーク王子の視線が、素早く俺の身体に走った。
「お休みになられる所でしたでしょうか……?」
寝巻きにガウンを羽織った、完全に素の俺は、ブラッドとしての俺をすぐには取り戻せない。
「いえ、あの……」
「日を改めた方が良いとは思うのですが、」
ラシーク王子の長い袖が持ち上がり、両掌に乗せられた包みが顕になる。
「一刻も早く、こちらをお返しすべきかと」
鮮やかな布の小さな膨らみ。
それが何かなんて想像もつかない俺は、余計に混乱してしまう。
返す、と言われても、ラシーク王子に何かを貸した覚えも無いのだ。
それでも、この状態が不自然であることには気付いた。視界に映るクリフが扉をぎりぎりまで開くのを見て、
「殿下、どうぞ中へ」
片手で対面のソファを示した。
「いえ、これをお渡し出来れば」
「いいえ、殿下。ご迷惑でなければ、ぜひ」
「……では、少しだけ」
選択肢は三つ。眠いからとお帰り願うか、覚えの無い返却物を受け取ってお帰り願うか、丁重に迎え入れるべきか。
でも選ぶべき選択は分かりきっていた。
クリフの様子を見ていても、それだけは分かる。
衛兵が一人、室内に入ってくる。残りの二人は外で待機なのだろうか。
扉を閉めたクリフがこちらにやって来て、ラシーク王子に何を飲まれるか尋ねると、王子は逡巡するようにテーブルの上を見やった後、
「リキュールは、ありませんか」
堂々と、けれど申し訳無さそうに、王子はクリフを見上げた。
酒を好まない俺の部屋に、そういうものは常備されていない。とくれば、「用意しろ」という事と同義だ。
「すぐにお持ちします」
「申し訳ありません」
すぐに身を翻すクリフを、ラシーク王子は止めない。
突然ラシーク王子と二人きり――衛兵が一人居るものの――まだ困惑したままなのに、どうしたらいいのだろう。
そんな弱り切った俺の前で、ラシーク王子は居住まいを正した。
それから、もう一度突然の来訪を詫びて、抱えていた包みをテーブルの上に置いた。
金糸の縁取りの複雑なアラベスク。
「サイスの宿場で……落とされたものを、お預かりしていました」
包みが一瞬ラシーク王子の服の袖の中に隠れ、現れた時には四角い布の上に見覚えのある紐がある。
「……これ、は……」
今日までその存在を忘れていた、などといってはアッシャーに失礼だろうか。ガジンにもらったそれも、当時着ていた服と一緒に恐らく衣裳部屋に仕舞われているだろう。
細い額飾りは、ナムン族の友好の証。そして彼らにとっては、ただの装飾品というだけではない、護符という役割を持つもの。
それを、落としていたなんて。
「すぐにお返し出来れば良かったのですが、ブラッド殿の隣には常にゲオルグ様がいらしたので……」
ラングルバートにいる筈のラシーク王子は容易に姿を現す事も出来なかったのだろう。
事情と経緯は分かっても、これを受け取っていいものなのか。
キルクスに住んでいた俺が、ウージの額飾りを持っていて、可笑しくないわけがない。ウージとの関係修復に関しては、まだ非公式のものなのだ。
しかし知らぬ存ぜぬを通すには、ラシーク王子の言葉に確信がありすぎるように思う。これが俺の持ち物だと、彼は疑っていない。
「あなたは、ウージとも懇意でいらっしゃるんですね」
屈託なく笑うラシーク王子の言葉は心からの賞賛のようにも取れる。
悩み出したらキリが無い。何時までも黙っているわけにもいかず、俺は言葉を選びながら口を開いた。
「ゲオルグ殿下のお供で、知り合った程度、ですが。私は、ウージの言葉を少し、習っておりましたので、」
ダ・ブラッドの言語能力は、恐らくこの世界の誰よりも優れたものだ。理解出来ない言語は今の所なく、それの全てをスザンナさんの教育の賜物だと設定づけた。
だから、この答えは間違いでない筈。
「そうでしたか。複雑なウージ語にも精通していらっしゃるとは、素晴らしいですね。サイスであなたがバアル語を話された時にも驚きました」
実は今も。
ラシーク王子は続けて、感嘆符。
「こんなにも滑らかなバアル語は、母国を出て久しく聞いた事がありません」
――今話しているのは、バアル語だったのか。
という驚きは、モロに顔に出てしまった。
「シゼル?」
訝しげに問われて、取り繕ったように謝辞を述べる。
「お褒め頂き、光栄です、王子」
言葉が通じるのは良い事だが、今話しているのがどの言葉なのか分からないのは、問題だ。心臓に悪い。
「他には、どちらの言葉を?」
「……あの、一通りは……」
大丈夫か? 大丈夫なのか、俺!!
自分が話している事は、一体何処まで正しいだろう。是非を問うにも味方が誰もいない中、判断出来ない。
ただラシーク王子の問い掛けに答えるので精一杯だ。
「それは素晴らしい! イオネスの古語なども?」
ラシーク王子の顔には楽しそうな笑顔が張り付いているが、これは本当に純粋な興味からくる問い掛けなのだろうか。
猫に追い詰められる鼠の気分になる。
イオネスの古語って、何!? イオネスという単語は、ハンナさん達のどの授業でも聞いた事が無い。
「……あの、現代語だけで精一杯で……」
「そうなんですね。私も、“ナディルの言葉は、なんとか、分かります”。……通じます?」
上目遣いで見つめてくるラシーク王子の不思議な瞳。
少し片言になった所は、もしかしてナディル語なのだろうか。
ナディルは海洋民族の事だと記憶しているけど。
っていうか、これは俺にナディル語で返せと乞うているのはあるまいな!!?
「えぇと……」
「どこかおかしかったでしょうか?」
曖昧に小首を傾げて時間を稼ぐものの、ラシーク王子の追求は止らない。
クリフ、早く戻ってきて!!
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