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第一章
来たりし者 12
しおりを挟む一瞬の間を置いて、ティアは微笑ながらラシーク王子の手を取った。黄金の衣越しに重ねられた二人の手を見つめながら、俺は呆然としてしまう。
曲はそろそろ終焉を迎えようとしている。すぐに、エントウレは始まってしまう。
「お前達も遠慮せず、踊って来い」
国王陛下の視線が巡ると、ユージィン少年は両手を上げて「遠慮します」と答え、ゲオルグ殿下は肩を竦めた。ジャスティンさん含め、ゲオルグ殿下一家は腰が重いようだ。
陛下の言葉にウキウキと動き出したのは、背後に控えていたウィリアムさん。
「お言葉に甘えて」
と早口に言うと、ウィリアムさんは軽い足取りで脇の階段を駆け下りていった。何となくその姿を眼で追っていると、彼は人の群を縫うようにして、若い娘さん達が固まっている辺りに向かっていく。それぞれに色鮮やかなドレスを纏った娘さん達は、我先にとウィリアムさんに群がっていく。紅潮した頬には期待が見える。
「シゼルは、いかがです?」
横合いからシリウスさんに問い掛けられて、俺ははっと顔を戻した。既にティアとラシーク王子はホールに降りている。
「あ……」
如何も何も。にこやかに笑みを浮かべたシリウスさんを見ながら、困ったように眉を寄せた。
誰かを誘ってホールに躍り出る技量は、俺には無い。ティアと踊るのだって、不安が残るのだ。
「私は……その……」
予定外の出来事に、頭は巧く働かない。ユージィン少年のように、遠慮しますときっぱり宣言していいのかも分からない。
自信の無さそのままに視線を俯けた時、助け舟を出してくれたのは意外にもハンナさんだった。
「ブラッド様」
音も無く俺の目の前に立って、軽く腰を落とす。ふわり、と薫ったのは香水だろうか。
「よろしければ、お相手頂けますかしら?」
シルクの手袋で覆われたハンナさんの手が差し出される。その手を取らない、という選択肢は紳士には無い。
と、いうよりだ。本来、ダンスは男性が誘うものであり、拒否権は女性にしか無い。女性からダンスに誘うなどというのは、はしたない事であるのだ。
それが許されるのは高貴な身分の王族のみ。
それなのにハンナさんが進み出てくれたのは、俺が不甲斐ないせいだ。
俺はどうしても今日、この時、この場で、エントウレを披露して、ダ・ブラッドのバックグランドを確実にする必要があるのだろう。
俺は申し訳なさを全面に押し出しながら、差し出されたハンナさんの手を取り、向けられた甲に唇を寄せる。目一杯の感謝を込めて膝を突き、恭しく見上げたハンナさんは、百合のような美女。
「私でよろしければ」
立ち上がった俺の肘に手を絡め、ハンナさんは赤い唇を持ち上げる。
そのタイミングで、曲調が替わった。
引かれるようにして、ティアとラシーク王子の後を追う。ホールから降り立った瞬間、大きな拍手に見舞われる。
人々は皆脇に寄り、中央をティアとラシーク王子に明け渡す。二人は堂々と胸を逸らし、人々に応えるように笑顔を振り撒いている。
その周りに騎士と相手の女性が、影のように現れる。
俺もハンナさんに引っ張られるようにして、ティア達の近くへと足を進めた。
一人、二人、踊りの輪の中へ。ピアノの音が一つ落ち、ゆるやかにメロディが奏でられ始めた。
エントウレはピアノをメインとした静かな曲だ。明るいトーンで奏でられるピアノは希望に満ち溢れ、逆に低い音で紡がれる木管楽器は別れを連想させるような悲哀がある。二つの異なる音は奇妙に寄り添いながら、ゆっくりと流れていく。
ラシーク王子とティアのダンスは、見事という他無い。周囲の視線を一身に集め、滑らかに舞う。時折響く衣擦れの音さえ、エントウレを盛り上げる楽器の一つに思えた。
そんな二人に見惚れていたのは、俺も同じ。
俺はどう見てもハンナさんにリードされていたけれど、周囲はこちらになど目もくれない。
ハンナさんに操られる人形のように滑稽な足踏みで、テンポなんてまるっと無視。表情は引き攣り、体全体を強張らせ、1、2、3などと小さく呟いている。
――そんな状態でもティア達を眺めていられるのは、全員が全員、優雅に舞い踊るティアとラシーク王子に目を奪われているおかげだった。
大きなミスも無いまま、エントウレは終わりに近づく。
ほっと一息吐いたのは、そんな時だった。
握られたハンナさんの指先に力が籠もる。痛いくらいの力だった。
何か失敗でもしたかとハンナさんの顔を窺うものの、そこにあるのは完璧な微笑だけ。けれど視線は俺を通り越して背後に向けられているようだった。
ハンナさんに促されるまま半回転すると、瞳の端にティアとラシーク王子の二人が映る。
相変らずしなやかに踊る二人。
一体何だろう、とそんな二人の様子を眺めながら思う。
また、ハンナさんの指先に力が籠もる。人差し指で俺の手の甲を掻くようにして何か訴えかけられるが、意思の疎通は巧くいかない。
ティアとラシーク王子の二人が、背後に消える。
その瞬間を見計らうように、ハンナさんが密着してきた。
思わず仰け反りそうになるのを堪えると、耳元を掠めるように寄ったハンナさんの唇が囁いた。
「合図で右手を離して」
何、と返す間も無く、ハンナさんの指が一拍目を刻む。続いて、二拍目。
頭で考えるよりも早く、身体は動いた。
俺の右手とハンナさんの左手が解けると同時、彼女は右手で俺の胸を押し返し、その反動で半回転する。と思ったら、腰に残った俺の腕を掴みとって、もう半回転。
すると掴まれた腕同士を軸として、お互いが正反対の方向を向く形になる。
このタイミングで、エントウレの最後の一音が響き、静まり返った会場に拍手が鳴り響く。
どうしてそうなったのか分からないが、エントウレを踊っていた全員が、同じ様な形を取りながら円になっていた。俺の横には他のペアの女性が、ハンナさんの横にも他のペアの男性が――そうして円の中心にティアとラシーク王子。
漣のように繰り返される拍手に合わせ、俺は中央の二人に向かって一礼――周りがそうしているので――今度はハンナさんと向く方向を交代して、円の外に居る人々に一礼。
最後にペアであるハンナさんと目礼しあって、来た時と同じ様に腕を組んで、席に戻る。
一体全体何がどうなったのか。最後の最後の回転は、昼間教えてもらったダンスに無かった。
拍手で出迎えてくれるシリウスさん達。ゲオルグ殿下が満足そうに頷くのを横目に、ハンナさんをティアの隣まで送っていく。
そうしてティアに目礼、彼女の視界を遮る無礼を詫びてから、国王陛下に声を掛けた。
「リカルド二世陛下」
ラシーク王子に向けられていた視線が、鋭利な光りをもって俺に注がれる。凍った湖面のような色合いの瞳には、相変らず感情の一片も見出せない。
一瞬竦んでしまう。陛下の美しすぎる顔には少し慣れてきたけど、人形のような表情だけはどうしても直視できないのだ。
俯くことで申し訳なさを全面に押し出しながら、俺は声を潜める。
「恐れ多くもこの様な場にご招待頂き、身に余る光栄に感激しております」
親愛なる陛下、と呟いて、俺はその足元に膝をついた。目の前に撓んだマントの裾がある。それを両手で触れ、唇を落とす。
――陛下が歩く度床を引き摺られる、マントである。何時だって塵一つなく磨かれた床であっても、絨毯の上であっても、陛下のマントはモップばりに床の上を行き来する。清潔とは言いがたいそのマントに、ちょっとでも口が触れるなんて耐えられず、つけた振りをした。
別に潔癖症なつもりはないけど、そもそもキスというものにすら抵抗があるので、相手が無機物でも人でも、ぶちゅっといくのは躊躇いがあるのだ。
こんな事を嬉々と出来るこの世界の人達が、不思議でしょうがないんだけど。
舌を出したい気持ちを堪え、教えられた言葉を口に出す。
「先にお暇する無礼をお許し下さい」
「ブラッドはさきのエントウレで気力を使い果たしたと見える」
退室を請えば、間髪いれずに陛下は言った。それは俺に、というよりは、周りの臣下に対しての返答のようだった。
まぁ、と労わるようなティアの声に続いて、陛下が鼻で笑った――ように聞こえた。
視線を下方に固定しているので陛下の表情は見えないが、馬鹿にされているような気配がするのは、思い込みだろうか。
「ブラッドは緊張が過ぎよう。早々に慣れてもらわねば困る」
これは俺に向けられた言葉。声音は相変らず平坦だけど、その棒読み具合からも何故か、責める調子なのは分かる。
「申し訳ございません」
声が震えたのは怒りの為で、けして自分を恥じたとか、陛下を恐れた、とかそういうわけでは無い。
「だが、良いだろう。見事なエントウレに免じて、今宵は許そう」
予定になかった嫌味を吐いてから、予定通りの返事をくれた陛下と、ティアの労いの言葉に頭を下げた俺は、クリフに広間の外へと連れ出される。
兎にも角にもこうして、俺の始めてのダンスは一応の成功を見せたのだった。
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