alexandrite

なち

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第一章

来たりし者 9

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 宥めるつもりでティアの背を摩っていたけど、ティアの嗚咽は酷くなるばかりで、ベストもシャツも越えて肌にその涙が伝ってきていた。
 ティアもティアで泣き止む努力はしているようなんだけど、目が合ったり、俺が何か言おうものならまた涙が湧き上がってきてしまうようだった。
「ティシア様、あまり泣かれてはお目が……」
 水を含んだレースのハンカチをその目蓋に当てながらハンナさんも助け舟を出してくれるんだけど、あまり意味は無かった。
 しゃくり上げながらようやく俺の肩から頭を上げ、ハンカチを目に当てながら頷く。その反動でしゃっくりが一つ。
「ティア、駄目だよ。涙はここぞという時に使う最大の武器だよ!? そんな安売りしちゃいけないよ!」
 ユージィン少年が拳を握って何やら力説したが、これは全員無視だった。
 それでも何とかティアが涙を治めた頃、自分の言葉が無視された事を拗ね、そっぽを向いていたユージィン少年が言った。
「ブラッド、くれぐれもラシークには気をつけて」
 くれぐれも、ってどういう事だ。
 神妙な顔付きのユージィン少年に「そうだな」と応えるのはゲオルグ殿下だ。
 赤銅色の肌をした美貌の青年の顔を思い浮かべながら、俺は首を捻る事しか出来ない。
「気を付ける?」
「ラシークは人柄も良い好青年だが、あれもあくまでも他国の王子だからな。お前の事が外に知れるのは、あまり良くない」
「それもあるけど、」
 首肯しながら、ユージィン少年は続ける。
「ラシークは、ブラッドの事を気にしているようだから」
 怪訝な顔をするゲオルグ殿下をちらと見て、言い辛そうにしながらも。
「父上とブラッドは、先月サイスの宿にいらっしゃったでしょう? そこに僕らも居たんです」
「……ほう?」
 一気にゲオルグ殿下の周りの空気が冷えて、その瞳に射られているユージィン少年よりも俺の方がびびった。まるでリカルド二世陛下みたいな、温度を伴わない視線だ。
「その時しきりにブラッドの存在を不思議がっていましたから……そのまま興味を持っていれば。だから、あまり接触しない方、が、いい、と」
 最後の方は片言になり、尻すぼみに消えてしまった。
 ユージィン少年の視線は泳いではゲオルグ殿下で止り、また泳ぐ。
「サイスの宿、か」
「……」
「そこで、何故声をかけない」
 そうだ。忘れかけていたけれど、俺は殿下とユージィン少年が言う所の、サイスの宿で既にラシーク王子と出会っていたのだ。行きは緊張と疲れのせいで気にならなかったが、帰りは日本とは異なる宿の造りに感心して、おのぼりさんみたいにきょろきょろしていたせいで、向こう側からやって来たラシーク王子と派手にぶつかってしまった。
 その見た目に、すっごく驚いてしまったんだよな。
 月の光りを凝縮したような、不思議な虹彩を放つ瞳とか。腰までの長い黒髪とか。露出の多い肌の、独特の輝きとか。すみません、と頭を下げた俺に「いいえ」と手を振った時に、長い袖口から覗いた鋭い黒い爪、とか。
 グランディアで出逢った人々は身近ではないけれど、テレビの中でお目にかかれる外国人と変り無かったけど、彼は違った。
 俺の知識には被らない、新人種だった。
 あまりにじろじろ見てしまったので、ラシーク王子は反応に困っていたように思う。もう一度すみません、と頭を下げた時には、気品すら感じる微笑を湛え「また何処かで」と、別れ際に手を振ってくれた。王子様なんだから、気品があって当然だったのだろう。
 そのような事があった、と伝えると、皆困った表情になってしまった。
「何か、問題でしょうか」
「問題だよ、大問題だよ! ブラッド、ラシークに丸飲みされちゃうよ」
「……は?」
 ゲオルグ殿下の鋭い視線から逃れた事が手伝ってか、ユージィン少年は興奮気味に地団駄を踏んだ。
「絶対ブラッドに興味持っちゃったよ!」
 一々反応が大袈裟なユージィン少年だが、俺には事情がちっとも飲み込めない。もう少し、ちゃんと説明してくれないだろうか。
 腕を組んで考え込むように黙ってしまったゲオルグ殿下も、俺の引き攣った顔を見てくれない。
 チラ、と視線をティアに向けても涙を拭うのに一生懸命の彼女も然り。けれど代わりにハンナさんと目が合った。
 彼女は、
「ラシーク王子殿下は、」
と控え目に名を呼んでから
「とても勤勉な方でいらっしゃいます。特にご興味を持たれた事に対しては、全てを知らずにはおれないのです。あの方の目からブラッド様の本性を隠し通すのは至難でございましょう」
「……つまり?」
「完璧なダ・ブラッドを演じる必要がありましょう」
「その通りだな」
 思案を止めたゲオルグ殿下が、厳しい口調のハンナさんに同調した。ふ、と視線を流せば、何時に無く真剣味を帯びた瞳にぶつかる。ゲオルグ殿下は何時も、どことなくからかうように――そして第三者のように一歩外側からこちらを見ている人だった。何時だって、ゲオルグ殿下の言う「その通りだな」という言葉は、他所事のようだった。
「ブラッドの過去が仇にならなければ良いがな。ハンナ、どう思う」
「私の教育では、スザンナ様には遠く及びません」
「それでも、頼らねばなるまい。ローラとジャスティンの手も借りよう。ああ、ユーリも呼び出した方が良いか」
「僕は何すればいい?」
「お前はラシークの相手をしてろ」
 矢継ぎ早に交わされる会話には口を挟む隙も無くて、また置いてきぼりにされた俺は、彼らの話に耳を傾けるのを早々に放棄して、窓の外を眺めてみる。
 蒼天に浮かぶ白い雲はゆっくりと南に流れている。高層ビルなんてものがないから、青空の面積はとても広い。桃色の小振りの花が咲く花壇の向うに見える噴水は、ロータリーのそれだろう。天使像が担いだ甕から飛散する飛沫が、太陽の光りを浴びて宝石のように輝いている。この距離からはオモチャみたいに見える黒格子の門は、実際には三メートルは高さがあったし、更に先へ行けば分厚い城門がある。城壁の外には堀があって、その上に橋を渡して城外に繋がっており、五つの城を内包したアレクセス城壁は更に遠い。
 俺の中の城というのは、ネズミのテーマパークのガラスの靴の彼女の城だけど――規模は段違い。
 中に居る分にはそこまでじゃないけど、外から見ると本当に圧巻なんだよなあ。
 そんな風に長閑な風情の俺の背後で、談合はまだ終わらない。
 俺の視線は窓から離れ、部屋の中に映っていく。部屋の中央にどんと置かれたテーブルは、四つの足が豪奢な猫足って感じだ。頭上のシャンデリアらしきものは、グランディアでも採れるルブライトという鉱石をより集めたもので、このルブライトというのは発光する石なのだという。つまり暗い所での電気変わりだ。この世界には電気製品の開発などされていないから、灯りは蝋燭が常用される。惜しげもなく使える程、ルブライトは採れない。だからつまり、お金のある所にはある、という事だ。アレクセス城内のほとんどの部屋は、ルブライトで作られたシャンデリアが光源だ。依然は蝋燭を灯していたという廊下は、リカルド二世の御世になってルブライトが設置されたという――幼いティアに『魔王』呼ばわりされたのが余程ショックだったのだろうか。
 他にもアンティークと言ったら語弊があるだろうけど、俺の認識ではアンティーク調のティーカップなども、装飾や模様が立派過ぎて、使うのに何時も苦労する。カップの細い取っ手なんて、ちょっと力を入れたら折れてしまいそうだし。
 何にしても城の中のものを売ったら、どれも目玉が飛び出そうな程の金額なんだろうなと思うものばかりだ。
 ぐるりと視線が部屋の中を一巡して、円を作っているゲオルグ殿下達に戻る。様子からして、どうやら一段落着いたようだ。
「ブラッド様」
 ハンナさんに手招かれて、俺はユージィン少年が作ってくれた隣のスペースに滑り込む。円がちょっと広がった。
「結論が出たので、伝えておくぞ」
「はい」
「まず、状況を説明しておく。ダ・ブラッドはここに、見識を広める為に来た事になっている。スザンナを師とする経歴上、誰しもがお前がこれから城の要職に就くと予想している事だろう」
 初耳です、と答えたら、スザンナさんの教え子は皆そういうものなのだと当然のように言われてしまった。
「まあ、未来の事は何とも言えぬ。こちらの水が合わず、キルクスに帰っても構わんのだからな。要はお前がアレクサに留まる口実であれば良いのだ」
「……はあ」
 良く分からない、という感想が如実に出た相槌を打つと、正面のハンナさんが呆れるように吐息を吐き出した。
 言い回しが身近じゃなくて、理解しにくいのだ。
「まあお前にとっては、幾つかの社交の場に出て、適当に名と顔を広めればそれで済む話だった」
 ……『だった』?
 不思議に思う前に、ユージィン少年が殿下の言葉を引き取る。
「グランディア内にダ・ブラッドの詮索を出来るようなつわものは少ないし、それっぽい会話をちょっとするだけで済むのが社交界だよ。それっぽい格好でそれっぽく立って、それっぽく笑ってそれっぽく食事をして引っ込めば終わり」
 それっぽくそれっぽくってちっとも説明になってないよ!!
 頭がこんがらがってしまって、俺は唸り声を上げる。社交場にでるとか、それも初耳ですけど何さらっと言ってんのという話だ。
「私がお教えした事を披露して下されば良いのです。食事の所作や、振る舞いは、今のままで十分でございますよ」
 すかさずフォローしてくれるハンナさんの口調に呆れる色が強くても、今日は気にならないくらいあり難かった。
 瞬間笑顔になって
「そういうことなら、」
 難しくないね、と言おうとしたら、言葉を遮られた。
「ですが、完璧にダ・ブラッドを演じて頂く必要が出来ました」
「……ん?」
 ハンナさんの顔が生き生きとし出したのは目の錯覚か?
 嫌な予感が胸を過ぎり、それはすぐに現実となった。
「覚えて頂く事は、五万とあります。お覚悟下さいまし」

 ――それはつまり、ハンナさんの扱き再び、という事だった。




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