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第一章
来たりし者 3
しおりを挟むウィリアムが再び沈黙に徹したリカルド二世の御前を辞して向かった先は、ディジメンドの宰相閣下の執務室であった。
扉をあけたのはシリウス配下の男性で、ウィリアムを迎え入れると、何を言うまでも無く数人の仲間を引き連れて隣室へ下がった。心得たものである。
部屋に招き入れられたウィリアムは、ライディティルの姿に一瞬目を見張ったが、二人が交わす会話からさもありなんと納得した。
ティシア王女の成人式での警備は、ライディティルの担当なのである。
ウィリアムは二人の会話が収束するまで、誰が言うでもなくソファに座って待った。
やがてライディティルが大きく伸びをしながらやって来て、ウィリアムの対面に座した。シリウスはシリウスで書類を片手にウィリアムの隣にやってくる。
「それで、何の用だい」
シリウスから無造作に渡される書類を机の上で揃えながら、ウィリアムは問いに応えた。
「ツカサ様の件を、ご報告に」
リカルド二世との会話――特にツカサの事については、シリウスに報告するように言い渡されている。であるから、グランディア城でリカルド二世と交わした会話を、伝えに来たのだ。
頷くシリウスに促されて、会話の全てを一言一句逃さず伝えると、思案気に顔を曇らせたライディティルとは異なり、シリウスは「成程」と呟いただけだった。
「つまり陛下は、ツカサ様を臣下にされるおつもりだと言う事か」
「そうみたいです」
ウィリアムにとっては驚くべき事実であった。彼にとってツカサは、ティシア王女の結婚相手に異世界から召喚したものの用無しになってしまった可哀想な青年でしかなく、臣下として登用するような何があるとは感じなかったのだ。何かの才があるとは到底思えない。
けれど思い返せばリカルド二世は、初対面からツカサに厳しく接していた。冷たいのは何時も通りだが、試すような物言いを繰り返していたな、と今更ながらに思う。何の期待もかけないような相手には、リカルド二世は「否」と「応」のみで答えるような人だ。
「しかし、ティシア王女とレディ・ハンナは、ツカサ様を異世界へお帰しする心積もりでいらっしゃるようだが」
「……そうなんですか?」
「ああ。今更何が見つかるとも思えないが、先日レディ・ハンナは地下の書物庫へ行かれて、過去の記録を探っていた。私も事実だけを聞き知って、実際に見たわけではないのでね――もしかしたら、方法があるのやも、とは考えている」
聖堂の地下の書物庫には、異世界人の記録が眠っている。その中には異世界人自らがその世界の言語で記したとみえる、彼らには解読不可能なものも含まれた。そのどれもが彼らグランディアの国民にとっては無意味なものとあって、何世紀もの間、文字通り眠り続けている。
聖堂の深部はそう簡単に降りられる場所ではなく、ハンナもシリウスの許可の元に書物庫を訪れた。
「我々にとっても、ツカサ様にとっても、異世界へお帰りいただくのが一番良いのでは無いんですか?」
「……俺はそうは思わない」
いぶかしむウィリアムの言葉に被せるようにして、重々しく口を開いたライディティルに、ウィリアムは視線を投げた。
膝の上の指を苛立たしげに動かしながらのライディティルは、次いで爆発したような己の髪をかき混ぜた。
「異世界で、あいつが幸せだったとは思えねぇ」
「ふむ。ツカサ様のお気持ちは私には判じかねるが――私としてはね、」
シリウスの眼差しが鋭さを帯びる。
「ツカサ様の奇跡を、手放すのが惜しい」
「奇跡、ですか?」
突拍子も無い言葉を聞いた、と目を瞬かせるのはウィリアムとライディティル。
「そうだとも。ツカサ様がいらっしゃってから、物事が全て、良い方向に向かっているとは思わないか?」
ウージとの交易の再開は最早疑うべくもなく、その功績からルークとティシアの結婚も夢でない所まできた。
「ゲオルグ殿下も表舞台に戻られた」
ゲオルグがリカルド二世の宰相を務めたのは、彼が成人するまでの二年間。その後は領地に引っ込み、リカルド二世を立てて裏方からも姿を消した。彼が表舞台で活躍する事は、リカルド二世の立場を危うくさせる――それは真実だ。しかし何よりも強い味方であるのも確かだった。
「殿下が動けば、危険もまた呼び込む事になる。一度塞き止めた悪意は、再び猛るだろう。けれど私も、殿下も、気付いたのだ」
何を、と問う前に、シリウスは答えた。
「ツカサ様が、盾になる。あの方の存在は、陛下の強みになろう」
そして、とシリウスは思う。奇跡等という形の無いものを彼が信じる切欠となった、リカルド二世の変貌。
何が、と開きかけたウィリアムの唇を、三度言葉を紡ぐ事でシリウスは留めた。それはまだ、語るべき時ではないと知っていたから。
「ウージとの和解は、我らの計画の内の事。いずれロード・ルークの外交術はそれを成すと見越して、ジェルダイン領に左遷したのは貴方達も既に考え至っているだろう。けれど、彼がクラウディ家を捨てられる筈が無かった。クラウディ家の勢力が増すのは痛い事だったが、それでもウージとの和解は彼の力なくば不可能だろう」
クラウディ家の駒の一人としてでも、ルークの力は欲しかった。王国の再生に、その力は不可欠だった。ルーク本人さえ知らずに発揮する不可思議な力が、異能と知りながら、何よりも欲しかった。
そしてそれ故に、ティシアの相手としては、誰よりも厭わしかった。
「偶然と言えばそうかもしれないが、異世界人の恩恵が確かなものなら、手放すのは惜しい」
だから。
ウィリアムが部屋を訪れた時分より、宰相の顔を崩さないままのシリウスは、穏やかに告げた。
その目はけして、優しく瞬く事は無い。
「ツカサ様が、例え泣き叫んで、帰りたいと願われても、」
ライディティルは唸り、ウィリアムは目を眇める。
「ツカサ様にはこの世界に居て頂く」
グランディアの為に必要ならば――それは結局、全員の総意だった。
「もし奇跡が誤りなら、その時はご退場頂くまで」
自分は何て幸せなのだろう。
愛する男性との再会に涙したティシアは、彼らを見送ってから、ふ、と思った。
一度は諦めた――否、諦めた振りをした。そうして異世界人を召喚した。
けれど召喚したツカサは、確かに異世界の恩恵を発揮したけれど――それは、歴史の語るそれとは大きく異なる。
自分だけが幸せに満ちていることを、ティシアは理解している。
己の幸せとは対照的に、召喚されたツカサの幸福は遠い所にある。
帰りたい、と、彼は――彼女は――ティシアの前で一度たりと言わない。己がそうであったように何かを諦めた顔をして、笑う。少し安堵しているように見えたのは、疚しく思う己の心故だろう。
ティシアは恨まれるべき人間の筈だ。
王族故に多くの我儘を許されてきたが、それはツカサには関係が無い。彼女がティシアの我儘を聞き遂げる必要などどこにも無い。
勝手な己の行動を罵られても仕方が無いというのに、ツカサは一度もそうしなかった。
そればかりでなく、ティシアの幸せの為にルークの元を訪れて、連れ戻してくれた。
彼女には感謝の念が尽きない。
しかしだからこそ。
帰りたいか、とは聞けなかった。
帰す術も無いのに、勝手に彼女を召喚した自分がどの口で聞けよう。帰りたいと言われても、謝る事しか出来ない。
いや、謝るのは卑怯だろう。
「わたくしに、何が出来るかしら」
掠れた声で小さく吐くと、傍らに控えたハンナは逡巡してみせた後、きっぱりと言い切る。
「ツカサ様の運命を握っているのは、陛下でいらっしゃいます。ティシア様に出来る事は、何もございません」
言葉を選ばない侍女の言葉は、鋭くティシアの胸に突き刺さる。
けれどその真正直さが、ハンナの美徳だ。ティシアの甘えをただ一人許さず、真正面からティシアを諫めもし、咎めもする頼もしさ。
両手を願う形で強く握り締めたティシアの手の上に、ハンナの手が重なる。
「ツカサ様の事は私共臣下に託されませ。ティシア様はただ、ご自身の幸福に突き進めばよろしいのです」
「ハンナ」
「今更何をしようと、ツカサ様の人生を歪めた罪は消えないのです。その貴女や私が、ツカサ様に何かしてやろうなどと傲慢が過ぎましょう」
くしゃり、後悔と悲壮を滲ませてティシアの表情が歪めば、ハンナはそれさえも咎めた。
「貴女が悲しむのはお門違いも甚だしい。それはただツカサ様に失礼でございます」
浅はかな同情はお止めなさいませ、そう言い切ってから、華やかに微笑むハンナの笑顔は、惨酷な程に美しかった。
「貴女様は誇り高き王族でございます。誰の犠牲の上の幸せでも、それを当然と受け止められればよろしいのです」
ティシアがそのような性根で無い事を承知の上で、ハンナは願う。惨酷になれないのがティシアの美点であり、弱点であり――惨酷になりきれないのが、ハンナの知る、王家の姿だ。
それならばそれで、足りない部分は自分が補う。
けれど今は表面だけでも、王族の風格を取り繕ってほしいのだ。
ツカサに必要なのは謝罪や優しさ等ではない。覆らない現実を心底理解させる為の、抗えない程冷酷で獰猛な力だけだ。
それが、地下書庫で一欠けらの救いも見出せなかった彼女の、出した結論だった。
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