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第一章
幕間 アレクセス城にて 4
しおりを挟む「……何をしているんだ、貴様は」
凹凸のある顔の中で、一番飛び出ている所と言えば、鼻だ。顔面を強打して一番衝撃を受ける所とは、すなわち鼻である。
強烈な打撃を喰らったウィリアムが打ち付けた鼻を押さえて悶えていると、抑揚の無い声が前方から聞こえた。
常ながら感情に乏しい声音だが、口を開いてから一拍の後に言葉が吐き出された事から、それが呆れた色を持っている、という事が分かる。
「何って、酷くないですか、陛下」
「大丈夫ですか?」
抗議の声を上げたウィリアムの背後から、スチュワートが顔を覗き込んでくる。
しかしそのスチュワートは、予期せぬリカルド二世の攻撃から、ちゃっかり自分だけ逃げた。
見つめ返す視線が非難がましいものになるのは仕方がないだろう。
「現場を退いた人間が避けて、現役がこの体たらくとは……どんな怠慢だ?」
まさか外に扉が開くとは思っていなかった、等というのは言い訳にならないと悟って、ウィリアムは口を噤む。
五百年も前に廃れたルディック建築は、扉が外に開くのが主流だ。当時は扉の前に衝立を置くのが常識であったから、内に開くより外に開く方が都合が良かったのである。しかし恐らくは、己がそうであったように外開きの扉による負傷が多発し、廃れたのでは無いかとウィリアムは勝手に推測した。
ルディック建築後期から内開きの扉へと移行し、現行の建物は全てそれに倣う。千年前後の歴史を誇るアレクセス城も改築の折に移行している事から、大抵この造りに馴染みが無い。ルディック建築を取り入れる建造物も、それ以外も、現行では広間や聖堂等の大扉だけが外開きだ。
しかしそんな常識を口にした所で、陛下には通用しない。結局は、騎士としての能力を疑われる事になる。
「それで、ツカサ様は」
ウィリアムは己の鼻の具合を鼻血が出る程でもないと確認すると、話を摩り替えた。
「ここには居ない」
「は?」
リカルド二世は素っ気無く答えると、玄関へと向かう。
その後姿と、部屋の中で曖昧に微笑むジャスティン・オルドの顔を見比べて、ウィリアムは慌ててリカルド二世の後を追った。
背後で静かに扉が閉まり、スチュワートだけがついて来る気配がする。
それをまた振り返りつつ、ウィリアムは大股で歩く主人を小走りで追う。
「居ないってどういう事です?」
「知らん」
「知らんって、」
「居ないというのだから仕方がないだろう」
「じゃあ何処に」
静かな動作でリカルド二世の前に進んだスチュワートが、先に玄関の扉を開く。
蝶番の軋む音に重なるようにして、リカルド二世が、重々しく吐き出した。
「別邸だ」
オルド家に駆け込んだリカルド二世を迎えたジャスティンは、彼の問い掛けに苦笑するしかなかった。
ツカサがアレクセス城を旅立ったのは、今朝方の事である。その彼がルーク・クラウディの住むジェルダイン領を往復して戻ってくるまでの、少なくとも10日は、彼の所在は隠し通せる筈であった。
というより、リカルド二世が気付く筈が無かった。
リカルド二世がツカサの動向を気にする必要などないのだから。彼の生活の何処にも、ツカサが関わる機会など無いのだから。
それが日を待たずして、「ツカサは何処だ」と、激しい怒りをもって問い質されるに至る。
何が原因かジャスティンに推し量る事は出来ないが、誰がそれを誘導したかは、分かる。
国の、そして城の大事を司るのは宰相である。その宰相シリウスであれば、ツカサが不在の理由を幾らでも捏造できた。
そして捏造した上で、リカルド二世がオルド家を訪ねた。
しかし当然ながらツカサが居るわけもない。
ならばジャスティンがする事は、一つである。
「確かにツカサ様は我が家に滞在のご予定でしたが、父上がご自分の邸に招くと仰るのでそのように」
ジャスティンやシリウス、そして国王であるリカルド二世までもが簡単に我を通せない相手、ゲオルグ・アラクシス=グランド。
シリウスにとってはかつての師、リカルド二世にとっては叔父、そしてジャスティンにとっては血の繋がった父――前時代に宰相として辣腕を奮い、退いた後も大きな影響力を持った存在だ。
ジャスティン等臣下は国王にけして逆らう事は出来ないが、ゲオルグは違う。リカルド二世の父、そしてゲオルグの兄であったリカルド前王が崩御した後、王位継承権を持っていたのは何を隠そうゲオルグだったのだ。ここには並々ならぬ王国の事情があったのだが、王位をリカルド二世に譲った後も、ゲオルグには国王に匹敵する権威がある。
したがってリカルド二世であっても、ゲオルグの名の前にあってはそう簡単に事が成せない。
シリウスが敢えてジャスティンの名を出し、オルド家を経由させたのは時間稼ぎなのだろう。
稼いだ時間でゲオルグと連絡を取り、意志の疎通でも行ったのだろうと推察したジャスティンは、のらりくらりと話を先延ばしした末、ゲオルグの滞在するアラクシス家別邸を案内した、というわけである。
その邸は、聖堂を出て真正面に位置するオルド家とは、反対にある。アレクセス城の正門の通りにあるのがオルド家、裏門にあるのがアラクシス家別邸だ。
オルド家からアラクシス家別邸へ向かうには、アレクセス城を突っ切るか、城壁を左、もしくは右回りで向かうか――どちらにせよ、シリウスの思惑通り十分な時間稼ぎになる。
ゲオルグがどのような采配を奮うかはジャスティンにも知れぬが、どちらにせよリカルド二世の怒りを煽るだけという事は十分に分かる。
これがツカサの首を絞めなければいいが、と、後見人としてのジャスティンは思った。
わけのわからないまま、リカルド二世の向かうままにアラクシス家の別邸を目指していたウィリアムは、客室に通されても困惑したままだった。
リカルド二世と共に椅子に掛け、女官が用意した茶菓子に口をつけ、ゲオルグが現れた後は、一触即発の空気に身を縮ませて二人の動向を見守る。
睨みあうようにして対峙するリカルド二世とゲオルグの醸し出す雰囲気は、とても良く似ている。人の上に君臨する絶対王者の気質は、二人が揃うと更に凄みを増すように思う。
今でこそ穏やかさを持つゲオルグは、宰相時代は今のリカルド二世程表情の変化に乏しかった。幼いウィリアムが悲鳴を上げて逃げ出した、魔王そのもの。
当時の恐ろしい程の威圧感は全く損なわず、それでいて和やかな空気を生み出しながら、ゲオルグは微かに笑ったように見えた。
「お前がツカサの所在を気にするとは、な」
ここでも開口一番「ツカサは何処だ」と尋ねたリカルド二世への返答は、すぐには返らない。
ぴり、と隣の空気が強張ったのを感じて、ウィリアムは息を飲む。
外で待っていれば良かった、とは思いつつも、誰も何も教えてくれないので、蚊帳の外を嫌うウィリアムは自らで見聞きするしかなかったのだ。
「一体何をそんなにいきり立つ? あれの事は余らが世話をしておる。国の大事にはなるまいよ」
「ツカサはこちらにも居ないように見受けるが」
焦れたリカルド二世はゲオルグの言葉尻に被せるようにして話題を修正する。
「今は、な」
「ならば、何処へ」
「……それが、なぁ」
グランディア城の執務室でシリウスがそうしたように、ゲオルグも何かを思い出すようにして笑い声を立てる。
その細められた靄がかかったような海底の色の瞳は、絶えずリカルド二世に当てたまま。
「あれも今のお前のように、酷く怒り狂っておってな? それは一晩寝たくらいではどうにも治まらなかったようなのだ。朝方は剣を振るっておったんだが、それでもどうにもならんで、クリストフ・バフォードを伴ってだな?」
「何です」
「頭が冷えたら戻ると言って、馬を駆っていった」
「……」
「よって今はおらんし、何時戻るかも知らぬ」
「……そのような戯言が通用すると、叔父上は本当に思っておいでか」
「戯言も何も、真実ぞ」
常人であれば卒倒しておかしくないリカルド二世の気圧を、ゲオルグは笑い飛ばした。
ウィリアムが覚えている限りでリカルド二世がここまでの、絶対零度の威圧を放ったのは、ルーク・クラウディを弾劾した時振りだ。あの時も他所事ながら、肝を冷やした自分を思い出す。
ちらり、横目で伺えば、神がかりなほどに整った横顔が目に入る。
何故か、かつてない程の怒気を孕んでいる。
そしてシリウス然りジャスティン然り、ゲオルグまで、事態を悪化させているとしか思えない。
実際に自分で見聞きしてみても、ウィリアムには事態がさっぱり掴めなかった。
「叔父上があくまでしらを切られるつもりなら、それで良い。ならば――」
更に、空気が張り詰める。
それはリカルド二世が口調を変えたからだ。
――冷酷無比の王のそれへと。
「ゲオルグ・アラクシス=グランド」
吐き出されるのはまるで、氷の息吹。
「そちに、王の名で命じる。ツカサが戻ったら、何時如何なる時間でも、余の前に連れて来い」
「畏まりまして、陛下」
それに対してゲオルグは、臣下の礼を持って応えた。組んでいた足を下ろし、床に膝をつき、恭しく頭を垂れる。
「我が至上の王の命に従い、ツカサを御前にお連れ致そう」
しかし、言葉は「だが」と続く。
「勿論万全は尽くすが――何分あれは、我らの律に属さない者ぞ。ツカサはまだ何者でもない故に――従う義務も持たぬし、余の権威も通じん。無論、余は忠実に王の命を守るつもりだが、ツカサの事までは約束できぬ」
飄々と言ってのけたそれに、リカルド二世の額に、太い青筋が浮かんだ。
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