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なち

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第一章

辺境からの手紙 1

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 グランディアが奉る唯一の創生神、エスカーニャには十二の顔がある。世界が創生された折、まだ確立していない世界を形作る為にエスカーニャは様々な役割を持って人間の中に紛れたという。そのエスカーニャの分身ともいえる十二の存在を、他国では奉る事もある。
 グランディアではエスカーニャの十二の顔は、日を数える為にしか使われない。一年を十二の月に割り、その月にそれぞれの分身の名をつけて呼ぶ。そうして十二の月にはそれぞれ30日が割り振られる。
 今日は豊穣の神デュルクの月の3日だ。
 ツカサが召喚されたのが知恵の神タイアスの月の3日であったから、調度三ヶ月が経過した事になる。
 そしてそれはそのままティシアが成人する愛の女神フーディンの月まで、あと三月に迫ったという事も意味する。
「もうすぐ、ティア様も十六におなりあそばすのですね」
感慨深げなローラ・ミューラ=アラクシスの言葉を鏡越しに受け、ティシアはつ、と目線を上げた。鏡の中で微笑むミューラ夫人の瞳と目を合わせる。
 夫人はティシアにとって、遠縁に当たる。とはいえ父の祖父の兄弟の息子の――と血縁でいえばかなり薄い。それでもアラクシスの名を名乗り王都アレクサに居を構える彼女は、ティシアにとって叔母のような存在だ。
 ミューラ夫人はティシアの成人の儀の衣装決めを一任されており、今はその衣装決めの最中だった。
 部屋には色とりどりの布や宝石が広げられ、お針子や業者と共に、あれやこれやと忙しく動き回っているミューラ夫人とは対照的に、ティシアは着せ替え人形のようにただ鏡の前に突っ立っていたのだ。
 そんな状態にいながらも、ティシアには自分が十六になるという実感が伴ってはいなかった。
 夫人に言われて初めて、ああそうなのだと重苦しいため息を吐いた。
「本当に大きくおなりになって……」
 呟くミューラ夫人は今はティシアの前に移動して、鏡に背を向けている。その為か俄かに曇ったティシアの表情には気付かなかったのだろう。
「ますますレジシア様にお似になりましたわ」
 ティシアの母レジシアは、ティシアが二つの時に亡くなった。元々身体の強い方では無かったと聞くが、産後に体調を崩したきり回復しないまま亡くなってしまった。故にティシアにとっての母親といえば肖像画の中の人だった。けれどもレジシアの友人であったミューラ夫人の中では、今もありありと記憶に残っている。
 二人の子供を産み落として尚、可憐な少女のような人だったと、折に触れ夫人は言う。
「シゼ・ローラはそればかりですわね」
 特にここ数日、毎日のように顔を合わせているが、その度に懐かしそうに目を細めてティシアを見ては、言うのだ。
 何処となくうんざりとした口調は、それでも愛らしい微笑みの中に隠れた。王女としての矜持は、それが例え仲の良い夫人を前にしても崩せない。
 ティシアは自身の中に渦巻く様々な感情を喉元に押しとどめ、笑う。
「昔を懐かしむのは年寄りだけで充分ですわ」
「まあ、憎たらしい方」
 夫人は次から次へとティシアの身体に布を当て、傍仕えのメイドに「これは駄目」「あれをこちらへ」と指示を出し続ける。
 疲れた様子を見せず、ティシアとの会話も実に軽やかだ。
「ティア様がレジシア様にお似になったのは、お顔だけですわね。あの方はそんなに口が達者ではいらっしゃらなかったわ」
 嫌味に嫌味を返して、夫人はちらと視線を上げた。上目遣いにティシアを見つめるはしばみ色の瞳には、やはり懐かしさばかりが宿る。
「あの方は、何から何まで愛らしかった。病弱でいらっしゃったせいもありましょうが――深層のご令嬢であらせられましたから、どこまでも純粋でいらっしゃった」
「わたくしはそうでは無いと仰りたいのね」
「いいえ」
 きっぱりと言い切った夫人が、「これにしましょう」と、薄紫の光沢を持った布地をメイドに手渡して立ち上がった。そうして空いた手で、ゆるりとティシアの頬を撫でる。
「あの方は、良くも悪くも夢の中の住人でいらっしゃいました。美しいものに囲まれて、愛に溢れて――王城という籠の中で守られて生きる事を至上とされた。
けれど貴女は、自分の足でしっかりと立ち、その目でありとあらゆるものを真正面から受け止める事が出来ましょう」
 ふわり、ミューラ夫人の両手は優しくティシアの頬を包む。
「貴女は強い方。これからも、もっともっと自由に生きていく事が出来ましょう」
 ですから不安になる事はないのですよ、耳元で囁いた後、ミューラ夫人はティシアの眼前でにこりと笑んだ。
 夫人はティシアの沈痛に歪んだ顔を、見逃しては居なかった。
 けれど、違うのだ。
 ティシアは小さく「ありがとう」と返しながらも、自身の心の淀みが更に濃くなるのを感じた。
 自身の横をすり抜けてメイドの元に向かった夫人の背中を、やはり鏡越しに見つめながら、ティシアは「違う」と心の中で呟いた。
 自分はけして強くはない。
 母のように夢を追う事も出来ない変わりに、現実に向き合う事も出来ない。
 畏れているのでも憂いているのでもない。
 ただ、逃げている。

 ティシアが成人の日を厭うのは――。



 ミューラ夫人が全ての片づけを終えメイド達と部屋を退出した後、残されたティシアは一人、寝台の上に腰を下ろした。
 寝よう、というわけでは無い。この数十分後にはツカサとお茶を取る予定があるのだ。
 それもティシアを憂鬱にさせる原因の一つではあったが。
 誰も居ない事を知りながらも自分が一人であることを確かめるように寝室に目を走らせ、ティシアはゆっくりと枕の一つを手にした。シルクの表面を撫でてから、それを裏返し、ボタンで留めた脇から手を忍ばせる。
 そこからティシアの繊細な指が引き出したのは、薄い封筒だった。少し草臥れた風があるが、それでも元の質が良い為か、時経ても手にした当初と同様の手触りだった。
 何度も開いて閉じたにも限らず、合わせは綺麗な折り目を残す。
 震える指が封筒を開くと、中には繊細な字の綴られた便箋が一枚。
 書かれているのはとある日を詩にしたものだ。
 優しく趣のある言葉は、一言一句覚えてしまっている。それ程までに何度も読み返した。
 紙を持つ手が震えてしまうのも、文面を追う瞳に涙が浮かぶのも、何時もの事。
 何時までも色褪せない美しい言葉は、ティシアを切なく、苦しくさせる。
 それは過去にティシアが、愛する男性から贈られた詩の一つだった。会う度かの男性はティシアに詩を贈ってくれた。その中で一番お気に入りの二人の出会いを詩にしたものを、ティシアは毎日寝る前にこそり、枕の奥に忍ばせるのだ。
 そうするとその夜は、幸せな夢を見る事が出来る。
 優しい声がティシアの名を呼ぶ。暖かい掌がティシアの頬を包む。愛していると囁いてくれる唇が、柔らかい微笑みを湛え、夜のように深い藍色の瞳が星を宿して瞬く。ティシアの髪を撫でていく長い指が、ティシアの手に触れ、緩やかに先導する。隣り合って歩いた場所、お気に入りの木漏れ日が差し込む森林。二人で過ごした忘れえぬ記憶が蘇っては消えていく。
 愚かな事だとは、ティシアとて分かっている。
 終わりを決めたのはエディアルドで、それを理不尽と感じても、結局は自分も手を離したのだ。
 ただ仕方が無い事と、受け止めた筈だった。
 受け止めて自分は、ツカサを召喚した。
 異世界人ならば、自分は幸せになれると、そう言い聞かせて。
 それは意地ばかりではない。理由なら幾らでもある。
 以前ライディティルが言ったように、エディアルドへの意趣返しの気持ちもあった。けれど自分の幸福と共に、国に安寧を与えてくれるなら、という気持ちも強かった。
 彼以外であれば誰でも同じ。
 ならばより、グランディアのためになる相手を――。
 他国の王子や王侯貴族であれば確かに尊い血は残せようが、そんな相手では無駄に力を与えるだけの事だ。こちらの利にはならない相手でも、相手の利にはなる。ティシアの配偶者が権力に固執すれば、それを手に入れる事は容易だ。グランディア王女の与える恩恵はそれだけ力を持つ。
 それがエディアルドの助けになれば大いに結構だが、エディアルドの政略は反感を買う独裁的なものが多い。敵という程大っぴらにエディアルドに刃向かう力は今現時点ではないものの、その均衡がどこから崩れるかは分からない。
 エディアルドの才覚はけしてそんな事を許さないだろうが、それでもティシアは、自分がエディアルドの足を引っ張る事態だけは避けたかった。
 そういう意味では愛する男性の家は、微妙な立ち位置でもあった。
 それならば最初から何の力も持たない異世界人を夫にした方が、取り込みやすい。
 周りはティシアが気を揉む必要は無い、と言ったし、それは確かだろう。
 それでも、ツカサを召喚したのにはそんな意図もあった。
 ティシアは自分の我侭で、ツカサの人生を歪めた罪を承知している。
グランディアで幸福の訪れである異世界人との結婚が、ツカサの幸福では無いと理解している。
 分かっていて、喚んだ。
 最大限の自由を与えたつもりで、逃げ道一つ無い人生をツカサに課しておきながら、ティシアはいまだ想いをかの人に残したまま。
 それがどれだけ愚かで罪深いことか、分かっていても。
「……ルーク……」
 愛しい男の名前を呼ぶだけで、ティシアの心は過去に戻ってしまう。

 ――明日なんて、来なければいい――

 刻一刻と近づいてくるその日を、ティシアはだから畏れるのだ。




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