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なち

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第一章

アレクセス城の魔王 5

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 顔面蒼白で凝固する俺にウィリアムさんが何事かを話しかけている事だけは理解していた。その気遣う表情を視界におさめながらも、恐怖のせいで上手く頭が働かない。
 殺気でも殺意でもない。まして悪意でもない。純然たる真実と告げられた言葉が、何よりも恐ろしい。
 自分で拾い上げたのか、何時の間にか胸に抱えていた竹刀と西洋剣を支えのように抱きしめる。
 鮮明に記憶しているのは、国王陛下の声。
「去ね」
 退去を命じる言葉に、ほっとした。そうしなければ何時までもそこに突っ立っていただけかもしれない。
 忘れずに礼を取れたのは僥倖だ。
 逃げるようにして修練場を飛び出れば、朝錬を半分も達していないのに全身汗塗れだった。
 自室に戻ると部屋の前で待機していたクリフが俺を訝しげに見てきたが、俺は彼にも何も言えずに、ただ曖昧に笑って部屋に篭った。
 用意されていた外出用の服に着替えながら、汗が冷えただけでは無い震えを身体に感じた。全ての動作が驚く程緩慢で、億劫だ。
 国王陛下の、鋭い瞳の中の無機質な光りを思い出す。感情一つ浮かばない、氷の張った冬の湖面のような蒼の中に、嫌悪でも侮蔑でも、見つけられれば良かった。あるいは温もりを持たない彫像のように、ただの美術品のように、ただ眺めるだけの対象であれば良かった。
けれどあの人を生ある人間だと認識しているから、俺を【俺】として扱わない国王陛下の瞳が怖かった。まるで俺の人生全てを否定するかのような――そんな感慨すら沸いていないだろう――ただ視界に映しただけ、という風情。
 ただでさえ自分の存在意義が希薄なのに、ティシアさんとの結婚が成立しなければ、生きている価値さえ無いように思えてしまう。
 遠い昔、家族を捨てて出て行った母親の目も、そうだった。俺を見ている筈なのに、俺を素通りして道端の石ころでも眺めるようだった、あの無機質な目。
 そのまま放心したようにソファに掛けて、どれだけの時間が経っていたのだろう。
 気が付けば眼前に、ライドの顔が迫っていた。
 ほんの数センチ、ともすればキスでも出来そうな距離に、ライドの鼻先があった。
 はっとした時には、何故か俺の顎にライドの頭突きが見舞われる。
 予期せぬ衝撃に身体が仰け反ったが、ソファの背凭れに受け止められて転ぶには至らなかった。
「大丈夫か?」
 じん、と痛む顎を押さえた俺に、それ、を成したライドが聞いてくる。大丈夫も何も誰のせいだ、と普段であれば怒鳴り返すくらいは出来ただろうが、脳は事態を把握できずに戸惑っている。
「ご気分でも優れませんか?」
 ライドの背後ではクリフが、心配そうな顔つきで侍っていた。
 じわじわと顎の痛みが身のうちに沈むにつれ、停滞していた思考能力が働き出す。
「……ぁ……」
 ゆっくりと辺りを見回せば、そこには国王陛下も、幼い自分を見下ろしていた母親の姿も無かった。
「ツカサ様? 侍医をお呼びしますか?」
「何でもない、大丈夫」
 再度かかったクリフの言葉には、今度はすぐに返す事が出来た。なるべく平静を装ったつもりだったが、その声は驚く程に覇気が無い。
「……疲れた、だけ」
 取り繕うように言って笑ってみせても、二人の顔は晴れない。クリフは従者、という立場の為か気質か、それで何とか納得してはくれたようで「何かございましたら、遠慮せず仰って下さいね」と退室したが、ライドは冷厳な柳眉を寄せて俺を眺め倒した。まるで俺の心の中を覗こうとでもするような、不躾で鋭い視線だった。
 思わず顔を逸らせば、「まあいいや」と呟いて、膝をついていた身体を立ち上がらせる。
「そんな調子じゃ、今日は街に下りるの止めるか」
 次の機会をハンナがくれるか知れねぇが、と脅しつつも何時もの軽口を叩いて笑うライドには、先刻までの鋭さは無い。
 その態度にも戸惑って、俺は頷くことしか出来なかった。
「鍛錬もいいが、やり過ぎて疲れてるんじゃしょうもない。自己管理も修行の内だぞ」
 まるで道場に居る時の父親のような事を言う。風邪を引いた時はまだいいものの、水疱瘡にかかった時にも言われて、その時ばかりは流石にどうかと思ったものだが。
「……そうする」
 ライドが言うにはまとも過ぎる助言に何だか可笑しくなって苦笑すると、ライドは「じゃあな」とあっさり言って、部屋を出て行った。
 楽しみにしていた観光がご破算になった事は残念だったが、今は何も考えずにいたかった。重い身体を引き摺ってベッドに潜り込めば、眠気がすぐにやって来た事に安堵した。



 ツカサの部屋を後にしたライディティルは、困惑気味のクリフに「心配するな」とだけ声を掛けて長い廊下を歩き出した。
 ツカサの不安定な様子が尋常じゃないのは分かっていたが、その原因についても、ライディティルは推測出来ていた。ライディティルがツカサを迎えに来た時、中々応答の無い部屋の扉の前で、クリフが言った。
「修練場から戻られた際、何時もと様子が違われました」
 朝部屋を出た時は何時も通りだったと言われれば、何かあったとすれば修練場でだと簡単に予測出来る。
 そして何かあるとすれば、原因は――。
 そこまで自分が関知する事では無い、と知りながら、ライディティルはこの事態を傍観する気はなかった。
 向かった先は【ディジメンド】と呼ばれる建物だ。ツカサが居るコ形の建物は客用の建物で【フィデブラジスタ】、通称【光の城】と呼ばれる三階建ての屋敷だが、コの下の部分で繋がる回廊はそのままフィデブラジスタの周りを一回りしている。グランディアでは見られないが、角ばった数字の2の下線がそのまま建物を取り囲んでいるのだ。外壁の役目のその下線の部分に城門があり、目の前がエスカーダ大聖堂だった。
 アレクセス城は円形の二重壁の中に、幾つかの小さな城を内包したものを言い、建物としてはそれぞれが独立している。
 元々は小山の上にあったグランディア国王の別邸だったのだが、遷都された後に必要な建物を増築した為にこのような形になった。上空から見る事が出来れば、荘厳な三つの尖塔を持つ王の住居【グランディア城】の周りを、等間隔で五つの城が囲んでいるように見える。そして一番外の二重壁の正門の奥に、民衆にも開放されるエスカーダ大聖堂があり、山の中腹には貴族の居住が並び、その下の麓までが城下という扱いになっている。
 ライディティルが向かっているディジメンドは【政の城】とも呼ばれる。政の全てがこの城で下され、今まさに、その城で王は国の大事に采配を振るっている筈だ。頭脳の集団が召集された議会には、ライディティルはとんと縁が無い。
 それはエディアルドのもう一人の護衛であるウィリアムにとっても同じだった。この時ばかりはしばしの休息――と言えるものでもないが、彼らは議場の続き間にある小部屋で待機する事になっていた。
 フィデブラジスタとディジメンドは王の城を挟んで対極に位置する為、わざわざ馬を駆らねばならなかったが、ライディティルはその労力を厭わなかった。
 甲冑を着た衛兵の礼を受け議室の続き間にたどり着いた時、ウィリアムは本を片手に紅茶を啜っていた。ノック一つ無いのは何時もの事だが、無遠慮にソファの隣に腰掛けられても、ウィリアムは嫌な顔一つしなかった。それ所か柔和な笑みを刷き、明るい口調で話しかける。
「おや、ライドさん。今日はお客人の付き添いじゃなかった?」
 驚いた、と演技がかった彼の様子にライディティルは鼻白む。
「持ち越しだ」
「ああ、そうなった?」
 やっぱりね、と頷く華やかな顔立ちの男を睨み据えてみても、相手は気にした風も無い。
 もう一口紅茶を啜って、滑らかな所作でカップをソーサに載せた。
 動のライディティル、静のウィリアム。そう比較される対照的な二人の護衛は、何から何まで似た所が無い。共通する事といえば、エディアルドに対して一切の恐怖を感じていないぐらいだ。
「ツカサは、エドに会ったのか」
 一人で納得してちっとも説明する気の無いウィリアムに、ライディティルは焦れた。それを分かっていながらわざとらしく思案気な顔をするウィリアムが、ライティティルには不愉快でならなかった。
 年下の同僚の、演技くさい一挙手一投足が癪に障るのだ。
「会ったんだな?」
 念を押せば、それまでの逡巡など無かったように頷かれる。
「会ったね」
 栞を挟んだ書物を畳んで、ウィリアムの草原の瞳が瞬く。真剣な面持ちで二、三度頷いて、口を開いたかと思えば、
「いやぁ、独特の雰囲気を持った御仁だよねぇ。あの目、見た? すっごい吸引力を持った黒硝子に、それでも尚黒々と影を落とす繊細な長い睫。こっちの世界じゃ見ない珍しい――」
「そんな話はいい」
 静かな怒りを含んだ低音に、やっとでウィリアムは黙る。面白くない、とも、面白い、とでも言いたげな奇妙な表情で、嘆息する。
 貴公子、と持て囃される表の顔を、自分にも使えとライディティルは思う。人の心の機微に敏感で、何時いかなる時も相手の好む言葉と行動を駆使する青年が、自分に対しては間逆であるのが煩わしい。
 とは思っても口に出さないのは、また話が脱線するのを知っているからだ。ウィリアムと対峙する時、ライディティルは必要最低限の事しか口にしない。
「何があった」
「何があったと言われても……陛下は何時も通りでいらしたよ。交わした、というか陛下が一方的に仰った言葉も一言一句覚えてるけど」
「言え」
「『気遣うな、と言った』」
「――」
「……あ、これはいいか」
 女性を前にする時の気障ったらしい表の態度も気色悪い。だがしかし、人をからかうようないけ好かない裏の態度も気に食わない。つまりはライディティルはこのウィリアムが好きではなかった。だからこそ普段は、ウィリアムを連れているエディアルドに寄り付こうともしない。この男が居なければしっかり働く気も沸くが、それは詮無い言い訳だろう。
「えーと、
『聞いてない』『断る』『妻が面白くてどうする』
それから
『お前の一族のような、女好きと一緒にするな』」
 ライディティルはただひたすら待った。わざとらしく唸りながら必死に記憶を探ってみせるウィリアムが、エディアルドの言葉全てを連ねた事を勿論その場に居なかったライディティルは知らない。
「『余の話は良い。……貴様も、何を呆けた顔をしている』」
 やっとで話が本題に差し掛かった時、我知らず握りこんでいた拳を解いた。
「ツカサ様に向かって仰ったのは、こうだね。
『王族の結婚相手に求められるものは際限ない。お前のようなそこそこの器量でも異世界人だと大目には見られようが――余は、ティシアの相手に相応しくないと思えば、貴様を切って捨てる。離縁など生温い』
あ、これはオレがツカサ様に陛下の離婚情報を話したからね。それで、
『ライドやウィルが如何に貴様を気に入ろうが――エスカ・ジャスティンが後見していようが、だ。貴様を屠る時は、せめて余の手でそうしてやろうな』」
 エディアルドの言葉の一言一句が違わず、ウィリアムの口から語られた。些か饒舌過ぎるのが気にかかったが、エディアルドの言いそうな事だとはライディティルも思った。
「だから、陛下は何時も通り。ツカサ様の態度も、陛下を相手にする誰とも変わらない」
 大抵の人間はまずエディアルドの容姿に怯む。そして仮面のような冷たいそれに萎縮し、毒のような言葉に畏怖する。蛙に睨まれた蛇さながらに、見るに明らかにエディアルドを遠ざける。ことエディアルドに対する者にとっては、ライディティルやウィリアムらが特殊で、異常だった。
 当然そのような態度で接せられれば、エディアルドも不愉快極まりない。笑みの一つも浮かべてやれば緩和するであろうが、それをしないのは王者の質だろう。
 大国グランディアを統べる王はそれでいい、とエディアルドもライディティルも思っている。それが今のグランディアには必要な力でもあるのだ。
「ああ、でも――ツカサ様の恐れようは近年稀に見る酷さだったねぇ」
 ウィリアムの呟きには、もうライディティルは反応しなかった。
 それは部屋に戻ってきてからのツカサの様子で明らかだった。時間を置いても回復しない程、エディアルドの言葉が猛毒だったのだろう。
 ツカサにとってのエディアルドは、自分にとってのウィリアムともまた違う、異質なものなのだと感じた。




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