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第一章
アレクセス城の魔王 3
しおりを挟む俺のグランディアの知識は順調に増えていった。
グランディア建国の話、今の王家アラクシスの成り立ち、リカルド二世陛下の事。身分や組織、貴族社会、政治機関、領土や騎士の事。
今王城で暮らす為に一番重要でややこしいのが、その内の身分と貴族社会に関してだった。国王陛下がトップというのは勿論分かるし、その家族であるティシアさん――つまり王家と、血縁関係にある王族というのが次を占めて、その後貴族が並ぶという。貴族というのが公・侯・伯・子・男という爵位があるというのはこれはあちらの世界で覚えがある。ただその中でも家名や新興勢力などといった違いで、同じ爵位を持っていても上下があるだとか、あちらでは確か男爵がナイト爵という騎士の爵位だったと記憶しているが、こちらでは騎士にも独自の爵位があって、貴族と騎士は同等の身分を持つだとか複雑極まり無い。それでそういう身分によって、敬称をつけないといけない相手とか、その敬称が単純に『様』ではいけないとか、はっきりいって理解が追いつかない。
俺が今後関わっていくのが、その王族と貴族というやつらしい。ティシアさんの夫君として生活していく場合、俺はすなわちティシアさんの家、アラクシス王家に婿養子に入る、という形になる。そうすると高貴な血も身分も何も無い俺が王族なんて呼ばれてしまうわけである。王家や貴族が主催するパーティーやら舞踏会やらお茶会やらに参加したり、乗馬等の遊戯に共に興じるという毎日が始まる。政治中枢に関わって国の大事を決定する役目を担う可能性もある。
つまり騎士であるライドや一般兵士のクリフ、神官のジャスティンさんと何時までもつるんでいられるわけでは無いのだ。
食事のマナー・礼儀・作法を覚えて、食事やおやつの休憩が楽しめるようになって、じゃあ次のステップへ、と進んだ時、それが身に染みた。
次のステップ――貴族社会へ馴染む為の授業、というやつである。
ティシアさんやジャスティンさんも参加しているのだが、それ以外に王族やら貴族の婦人を相手にしての会話をする機会、まずは短時間のお茶会だった。
その機会を設ける為に、俺のグランディアでの立場が確立した。ジャスティン・オルドを後見人とした異国からの王家への客人、という立場だが、それ以外の氏素性はしかるべき場で披露されるまで黙秘する。何か聞かれてもとある事情だとしらを切る。
そしてツカサという名前は名乗らずに、ダ・ブラッドと名乗る事になった。これはグランディアで親の名を知らない者が自分の名前の前に『ダ』をつける事で、血縁の分からない誰々という意味で使う他、貴族などが素性を隠す際に用いられる。仮にティシアさんがティシア・アラクシスという名前を隠す場合はダ・ティシアとなったり、ダの後にあだ名や通り名を名乗る場合もある。なのでこれは単純に『素性を隠したブラッド』という事になる。
このブラッドというのは【黒】を意味するこちらの言葉らしい。俺の髪の毛や瞳の色が黒だから、とライドが付けてくれた。だから正式に名乗れるようになるまでは、俺はどっかの国からお忍びで遊びに来た王子や貴族を装いつつ、生活する事になる。
ただ勿論、『お忍びで遊びに来てる王子か貴族』なんて言ってはいけない。相手がそう推察する分は問題ではないが、こちらがそう言ってしまっては嘘になってしまう。
あくまでも「ご想像にお任せします」という事なのだ。
この第二ステップの授業が始まってから、伯爵夫人やその令嬢、ティシアさんのまた従兄弟にあたる王族のお嬢さんや、遠縁のおじいさんらとお茶を飲む機会があったのだが、どれもこれも心臓に悪い時間だった。
予定外の話へ流れたり突っ込まれたりすると、もう曖昧に笑ってやり過ごすしかないのだが、こちらの思惑を悟って黙ってくれる人もいれば更に深く追求してくる人もいる。
例えば、これは昨日の事。
「ブラッド様は、オスカリオには行かれた事があって?」
「……いえ、残念ながら」
「グランディアに来られたのなら、一度行かれた方がよくてよ。私も主人が別荘を持っておりますので毎年訪れるのですが、特に今の時期はバジェがとても美味しいんですの」
当たり障り無く応答していれば、次に続いた言葉から不明箇所の推測が出来る。例えば、オスカリオはグランディアの街か何かで、バジェというのは食べ物、みたいに、分からない場合でも知った風に相槌を打てればどうにかなった。
「機会があれば一度行ってみたいものですね」
ティシアさんやジャスティンさんに比べれば平凡な俺の顔でも、笑えばある程度相手に見惚れてもらえるものらしい。こちらでは珍しい顔立ちの俺は、造詣的には神秘的と映るらしいので、歯を剥き出さないように微笑めば好印象を与えられるみたいだ。とくに黒目との境が分からない程真っ黒の瞳には独特の吸引力があるという事で、何時も相手の目を見てとりあえず笑っておけ、というハンナさんの命令通り、この時も相手の伯爵夫人の目を見てにこりと笑っておいた。
そうしたら夫人は照れたように俯く。
「よろしければ今度、別荘へご招待したく思いますわ」
「それは楽しみですわね、ブラッド」
「そういえばディネの別荘は改築されたとお聞きしましたが……」
相手の言葉が途切れるとティシアさんやジャスティンさんが会話を別の方向へ変えてくれる。
ただこの時、相席していた伯爵夫人の娘さんはどうやら俺に益々興味を持ってしまったようで、別荘の話には乗らず、大きな瞳でこちらを注視していた。
丸いテーブルのティシアさんの横が伯爵夫人、その隣が伯爵令嬢。一つ席を空けてジャスティンさん、俺、そして俺の隣にティシアさん、という形であったから斜め向いから視線を感じて、俺はゆっくりとそちらに顔をやった。
12、3歳といった年頃ながら、いっぱしのレディだ。目が合えば小首を傾げて微笑む彼女には、勝気そうな印象の中に気品があった。
流石にティシアさんの話を遮って新しい話題を振ってくる、という無作法はなかったが、ちっとも話に集中していないのが明らかだった。
俺と令嬢の間の空気を断ち切るようにジャスティンさんが話を振っても、短い言葉しか返さない。後は「わたくしには難しいお話ですわ、ねぇお母様」と繋がるのだ。退屈だ、とはけして言わない。けれど周りの大人が気遣って話を変えようとする程度には分かり易かった。
そして話が一段落した、という瞬間に、令嬢の目が瞬いた。
「ねぇ、ブラッド様」
名指しされてしまっては、答えないわけにはいかない。
「何でしょう」
慣れない笑顔を貼り付けて、使った事も無い丁寧な言葉遣いで、中学校に上がりたてのような女の子を相手にするのは違和感があり過ぎで、それだけでも必死。
「わたくしとお庭を歩きませんこと?」
とても天気の良い日だったので、後で皆で庭を散策しましょうか、という話は最初に出た。ただどうにもこの会話の文脈だと、俺と令嬢だけという風に取れてしまう。
母親である夫人が窘めるように令嬢の名前を呼んだが、
「あら。だって先程からブラッド様、黙っていらっしゃるでしょう? きっと我が家の別荘のお話なんてご興味なかったに違いないわ」
「いえ、そんな事は」
興味もなかったがそれ以前に分からない単語が多いので、ボロが出ないように口を噤んでいただけだ。聞いているだけでも勉強になる、とハンナさんが言っていた通り、前回よりも今回の方が心の余裕も会話の仕方も格段に上昇した。だから分からない話は素直に黙っている。ただ時々は相槌を打って、話の聞き役に回る。それだけだ。
まさかその態度を突っ込まれるとは、と背中を冷や汗が伝う。
もっと話せと要望されても無理だ。
「それにわたくしが難しいなんて言ってしまったから、今のお話、止めてしまわれたのでしょう?」
だから、と子供らしい無邪気さを前面に出して、令嬢が言った。
「どうぞお母様達はお話を続けて?」
話をしたい三人は話を続ければいい。そして話に興味がない俺と令嬢が、庭に散策に行く。お互いに気を遣わずにいられる、良い案だと令嬢が主張する。
そこまで言われて、断るのは紳士に非ず。
「……ご令嬢をお連れしてよろしいでしょうか?」
結局はそう言って、席を立つしかなかった。
――そして、その後が大変だったのだ。
令嬢は子供の特権とばかりに、初対面の俺に対してちっとも遠慮を見せなかった。淑やかであるべきレディでありながら、次から次へと俺を質問攻めにしてくる。別段それを恥らう事は無い。これがもう少し年上のレディになれば留まる所で止まらない。
「ご趣味は?」
「乗馬はお好き?」
「本はどんなものをお読みになるの?」
「お住まいはどこ?」
「何をしにいらっしゃったの?」
答えられないものばかりだ。だから俺はハンナさんの教え通りに
「どう思われますか?」
「ご想像にお任せしましょう」
と『笑顔でかわす』のコマンドを多用してやり過ごす。
これに
「何も教えてくださいませんのね」
と不満顔をされた時は、これまたハンナさんの教え通りに
「秘密は魅力になりませんか?」
と惜しみない笑顔を振りまいた。
意味が分からない!!
なのに令嬢は
「ブラッド様には敵いませんわね」
と嬉し気で、益々意味が分からない。
兎に角次にどんな質問が飛び出してくるのか分からない令嬢との会話には疲れてしまった。
何とか無事に庭を一周してサロンに戻り、二人を送り帰してから、残ったティシアさんやジャスティンさんの労わり具合ったらなかったし、何時もは厳しいだけのハンナさんもどこか優しかった。
これならば机に何時間も向かっているだけの授業の方が何倍も楽だとぼやけば、
「ではこの後はお望み通りに致しましょう」
と鬼のような事を口にしてから、
「後日暇を差し上げます。城下に降りて街をご覧になっては? 良いストレス発散になりましょう」
疲労回復の効能のある紅茶をカップに注ぎつつ、紳士化教育が始まって初めての、丸一日の休みを約束してくれた。
そして俺が待ちに待った、丸一日のオフの日がやって来た。
この日までの数日、「城下に降りたければもっとしっかり覚えて下さいまし」と脅されながら授業を受ける事になったが、無事にその日を迎える事が出来て、俺はご満悦だ。
遠足の日の小学生のように何時もより早起きをして、ワクワクドキドキしながらも毎日の習慣に倣う。
つまり、何時も通りの朝錬だ。
最初は迷いつつ向かった修練場には仲良くなった衛兵がいる。使用の許可が要る部屋だが、俺が毎日使っているので彼らは何時も常駐している。俺の顔を見ると部屋の鍵を開けてくれ、朝の挨拶を交わす。
「おはようございます、ブラッド様。今朝はご機嫌がよろしいですね」
クリフのように銀色の甲冑を着て、赤いマントと長い槍を手にした、一般兵士。白髪の混じり始めた茶髪をオールバックにした壮年の男は、不思議そうに何度か瞬いた。
「そう見えますか?」
「はい。心なしか足取りも軽く見えました」
外開きの扉を開けて、中へ入る彼に続く。通常は外に待機している彼らだが、一度は中に入って窓の施錠や室内を調べるのだ。異常がなければ俺を残して部屋を出る。これが王族になると護衛が付きっ切りだから、その場合にはこの仕事は彼ら衛兵ではなく護衛の仕事になるらしい。何にしても彼が部屋の異常を確認する間、俺はそれに付き合って話をするようにしている。
「今日、街に下りる許可を頂きました」
彼の前では、ブラッドとして応じる。俺は異世界から来たツカサでなくなるから、貴族然とした態度と話し口調を心がけた。
「それはおめでとうございます」
年齢的には失礼な話だが、彼は俺のじいちゃんに似ている。穏やかで、話し易い。だから色んな事を愚痴ってしまった。例えばここで朝錬をするぐらいしか自由な時間が無い、というような事も話していた。
「治安の良い街ですから、どこでも安全ですよ。市なども活気があっておすすめですね」
「そうなんですか」
「どこか行かれるご予定ですか?」
鍵の一つ一つを丁寧に確認していく兵士の背中を手持ち無沙汰で見つめる。
「ライディティル・ブラガット殿が案内して下さると」
「ああ、それは素晴らしいですね。あの方程城下に詳しい方もおりません」
「ティシア王女殿下もそのように仰っていました」
「隠れた名所がございましたら、ぜひ私にも教えて下さい」
「はい」
そこで調度一周し終えた俺と兵士は、笑顔を交わした。それから一礼して出て行く兵士を見送って、俺は早速鍛錬に励む。
――俺はこの修練場が誰の為のものなのか、すっかり忘れていた。
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