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なち

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第一章

ツカサの憂鬱 1

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 冬は寒い。
 幾ら室内で、身体を動かしているからと言って、寒い事には変わりない。胴着から剥き出しの手であったり、冷たい床を這い回る足元であったり、服の隙間から忍び込んでくる風には鳥肌が立つしで、兎に角冬場の道場での部活はとても好きになれない。
 次の大会に優勝したら学校側が床暖房をつけてくれる、だとかという話だが、実際に導入される頃には俺は卒業してしまってるのではないだろうか。
 高校二年生の冬、次の大会というのは春のそれで、夏には部活を引退するわけだから、俺にとってはちっとも励みにならない。
 自宅で父親が剣道場を営んでおり、中学の頃までは床暖房付きのそこに通っていたのだが、あの頃が懐かしくて羨ましい。
 まあこの高校に入学した理由が剣道部の顧問が優秀だから、という理由であり、今までより格段成長出来たのだから、それは幸いなのだけど。

 部活が終わって道場の掃除を後輩に任せ、室内を出れば更に冷える。それでも厚着をした今であれば体感的には温い。
 私服高であって良かった。寒さに滅法弱い俺は、好きなだけ着膨れる。
 空には満天、とは言えないものの、小さな星が幾つか輝いている。
 かじかんだ手に吹きかけた白い息が、闇の中に浮かんで霧散した。マフラーをぐるり、と巻いて、駐輪場へ急ぐ。
 部活が終わる時間は他の室内部と大差ないが、剣道部では終了後の片付けやシャワーなどで時間が取られる為、帰る頃には学校はしんと静まり返っているのが常だ。ぽつぽつと発光する外灯を頼って行き着いた自転車置き場にも、数える程度の自転車しか存在しない。
 ――その自転車置き場で、自転車に跨っている影が一つ。奇妙に揺れながら小さく何かの曲を口ずさんでいるの男は、闇の中でも映える蛍光色のジャンパーを羽織っていた。
 はっきり言って趣味の悪いそいつを視界にいれて、俺は思わず顔を顰めてしまった。
 そいつが座っている自転車は俺ので、座っているそいつは隣家の幼馴染の高志だった。高志も昔は自宅の道場に通っていたけれど、中学に入ると同時にモテルという理由であっさりバスケットに鞍替えした。高校に入った今は帰宅部のくせに、時々俺の帰りをこうやって待ち伏せしている。
 長い時は数時間、アイポットの音楽を延々と聞いて、飽きもせず待っているのだ。だからといってその労力に見合わず、ただ自転車に二人乗りして三十分の道のりを帰宅するだけ。高志の場合、一駅間だけだとはいえ同じ時間で済むから、普段は電車を利用している。なのにこういう時は体格的に高志が運転して俺が後ろに乗る、という状態で帰るわけなので、体力的に面倒だと思うのだが、高志は一週間に一度は必ず一緒に帰ろうとするのだ。
 今日も俺に気づくなりイヤホンを耳から外して、屈託なく笑いかけてくる。
「おっせーぞ」
「じゃあ帰ればいいだろ、とっとと」
 何時も通りの憎まれ口を叩きながらも、自転車の鍵を高志に放ってやる。
 何だかんだ言いながら、退屈な帰路を無駄なおしゃべりをしながら、部活で疲れた身体を乗るに任せている、というのは楽で、有難い話だ。
 高志は自転車を引き出すと、俺に後ろに乗るように促してくる。荷物を籠に突っ込み、大人しく彼に従って自転車に跨れば、すぐに発進。
 びゅんびゅんと、適度に飛ばしながら自転車は夜の街を走り抜ける。
「ツカサ、今日さー」
「あ?」
「朝」
 飛び出た単語に嫌な気配を感じて、俺は顔を上げる。表情は見えないが、笑っているような様子が窺えて、続く言葉を悟ったと同時、
「他校の子に告られたって?」
「……」
 図星だったので無言を返す。
 朝は父の道場で修練をしてから、学校に通っている。その道すがら、呼び止めてきたのは他校の女子高生。顔立ちは可愛らしく、化粧も控えめな程度で、微かに匂った香水は甘かった。好きです、という言葉と共に携帯のメールアドレスが記されたメモを渡された時、持った感想は告白に対してというより、この寒い中スカートからのぞく素足が寒くないのかな、という事だった。
 告白自体はすぐさま丁重に断ったのだが、それを高志の悪友である男に運悪く見られたのだ。そこから高志に伝わったのだろう。
「もったいないから、断るなよ」
 真面目ぶった口振りが嫌味ったらしい。
「断るに決まってんだろ、ボケ」
 今更で、俺の知人友人事情を知る者にとっては、当たり前の常識で。それなのにこの手の事を嬉々としてからかってくるのは何も高志に限ったものではない。
 冷かしをやめる気配の無い高志は、更に言葉を続けてくる。
「どんな子だった?」
「寒そうだった」
「……は?」
「女の子ってなんで、あんな寒い格好でうろうろ出来んのかね。マジ尊敬する」
 今日の朝は零下で雪が降るんじゃないかと昨夜の天気予報は言っていた。ミニスカートにハイソックスなんて無謀にも程があるんじゃないだろうか。
 高志の求める答えとは違うのだろうが、告白の彼女に対しての一番の関心事がこれだったから、俺は小首を傾げながら高志に意見を求めた。
「お洒落の為には寒いのなんて平気とか良くいうけど、それって男側からしたらそんな気にするもんか?」
「……お洒落云々っていうより、スカートの下にジャージ履いてたりすんのは萎えるだろ」
「……ふーん? 寒そうで気になっちまうから、スカートinジャージの方がいいけどなぁ」
 あからさまに呆れたため息が、俺の発言の語尾にかかったが、俺はちっとも気にしなかった。
 大体、“俺”に聞くのが間違っているのに。
 高志は世の中は不公平だ、とかぶつくさ呟いている。何故俺がモテて自分がモテないのか、というぼやきには、服の趣味が悪いからだと心中で悪態をつけてやった。
 萎れた高志をしばらく無視していると、自分の境遇を嘆くのにも飽きたのだろう高志が、
「コンビニ寄っていいー?」
とそれまでの様子を一転した明るい口調で言ってきたので、俺も軽く応じた。
 何やらトイレに行きたくなっていたので、願ったり叶ったりだ。
 すぐに通りのセブンに行き着いて、俺達は並んで店内へ入った。駐車場の様子から予想出来たとおり、ごみごみと込み合っている。時間帯で混雑の変わるコンビニだが、今日は週刊漫画雑誌の発売日だからか、書棚に人が張り付いていた。
 その中に潜り込む高志を尻目に、自分はどうしようかと考える。買いたい雑誌もあるのだが、あの中に入っていくと白い目で見られそうな買い物だった。
 その間にさっさと目当てのものを手に入れた高志は、菓子棚へと移っていく。
 俺は小さくため息をつくと、当初の予定通りトイレに向かった。

 コンビニのトイレだ。
 当然の様に何の気概も必要ない。
 電気はつけっ放しで、一人が入るだけの狭いスペース。入ってドアを閉めて、鍵を閉めて用を足すだけ――なのに俺は、扉をパタリと閉めた後、固まった。
 そのトイレは広かった。ともすれば店より広い。店内よりも薄暗くて、明り自体が蛍光灯とは異なるぼんやりとしたもので――ついでに言えば、便器も無かった。
 あるのは――否、居るのは……。
「しっつれーしましたっ!!」
 ありえない事態に直面すると、人は当然のように動きを止めてしまう。思考能力が格段に衰え、すぐに正しい判断が出来ない。まさにそういう状態から覚醒するのに、俺は数秒有した。
 結局は自分が入る部屋を間違えたのだ、と、納得しにくいながらも当然とそう思って、反転して。
 ノブのある位置を、手が空振りした。
「……」
 ノブは無かった。それ所か今、自分が出てきた筈のドアすら無かった。細かい花の模様の入った壁紙が、視界の全て。上を見上げれば、3メートルぐらい上に天井。左右は10メートルくらい向うで角になって、その一面はカーテンみたいな赤い布が天井から垂れ下がっている。けれど下が弛んでいるから分かるのだが、その先に何かがあるという事は無く、ただただ壁が続くだけ。
 背後はあれ、なので左右をと思ったのだが、どうにもドアが無い。
 俺は目の前の壁に手を這わせて、でっぱりでも無いものかと願った。しかし、どんなに目を凝らそうとも探ろうとも、壁を叩いて外に居る筈の高志の名前を叫んでみても。何の手応えも無かったのである。
 一体自分に何が起こったのか。
 分からないまでも、その答えが背後にあるだろう事は、本能が告げていた。
 けれど、そう。
 出来ればありえない事だけど、自分は突然寝てしまえる病気にでもかかっていて、夢でも見ているのだと――そう思いたかった。
 しかし人の気配を感じながらもそれがちっとも身動ぎすらしないから、俺は自分でその状況を打開するしかなかった。
 恐る恐るの態で振り返れば、瞳に映るのは最初に目に入ったそれ。
「………」
 とても、日本とは縁の薄そうな、五人の人間。人間であるだけマシ、なのかもしれない。
 中世のヨーロッパ史をしばらく前に授業で習ったが、その世界からまんま抜け出してきたような格好をした、男三人、女が二人。内二人は驚いた顔をしていたが、口を開こうとはしない。一人は満面の笑みを浮かべた、無駄に可憐な女の子。金髪碧眼の日本人とは違う顔立ちの、明らかな異人。俺とそう年も変わらないように見える。しかももう一人の女性とは違って、着ているドレスも高価そうだ。一番年嵩の男は、十字架のネックレスを首から提げていて、何だか教会の神父みたいだが、表情は穏やかだ。一番問題なのは、こちらを睨んでくる威圧感満載の青年だ。高貴というか、神々しい。しかも顔が、何だかすごく――仏頂面なのが勿体無い、超然とした美形だ。五人が五人美形だが、中央に居るその男だけが群を抜く。
 その男の冷たい視線を何とか交わして背後に視線をやる。鮮やかなステンドグラス越しに降り注ぐ光りだけが、室内を満たしている光源で、その下には唯一の扉。
 無意識の内にあの扉から入ってきて、ここまで歩いて来たという事では勿論あるまい。
 せめて部屋の作りがもうちょっと許容範囲であれば、この五人の人間を、コスプレ好きのコンビニの客、もしくは従業員とでも思っただろう。

 こういうの、漫画とかゲームで見た事がある気がするけど、気のせいだよな。
 ――気のせいだと、誰か言ってくれないか。
 ――高志、カムバック!! ――この場合は、俺がカムバック!?
 混乱した脳が必死に目の前の事態を打ち消そうと働き出す。

 けれどそんな俺の努力も、尊大な青年の言葉に遮られた。
「……貴様、名は何という」
 質問、の筈が抗えない。自己紹介とかそんな事の前に、むしろこちらが聞きたい事ばかりだ、と思うのに、
「ナガセ、ツカサ……」
 勝手に口が開き、勝手に言葉を吐き出していた。
「ナガセ?」
 言いづらそうに、若い方の女性が言う。どう見ても彼らはツカサとかタカシとかミチコなんて名前の似合わない容姿だし、恐らくは彼らの口からそう飛び出すとも思えないイントネーションだ。ああ、でもそれにしては日本語がペラペラなのだから、馴染みがありそうだけど。
「どちらが名前だ」
「ツカサ」
「ツカサ」
 青年の方は淀みもなく、まるでその発音こそが完璧だ。
 顎をそらし、まさに睥睨するという表現の正しい上から目線が、俺を上から下まで見回した後、鼻を鳴らした。更に不機嫌そうに歪んだ顔までも、美しすぎる。
 その顔を無意識に凝視していたのだろう。計らずとも見つめ合ってしまったその数秒が忌々しいとでも言いたげな舌打ちが、彼の唇から漏れ出た。
 これが高志ででもあったらムカっ腹だが、なぜか彼相手ではお目汚しですみません、と低頭したい気分になる。
 だって何だか、別次元の生き物だ、これ。
「……ティシア、本当にこれでいいのか」
「勿論、構いませんわ」
 ティシア、と呼ばれた同じ年頃の可憐な女性が、青年の言葉に喜色で頷いてから、俺と目を合わせてにこりと微笑んだ。
 訂正します。青年だけじゃなくこっちのティシアさんも、すこぶる美しいです。何か天使みたいです。
「おい」
 ティシアさんに見蕩れていたら、青年の声に現実に引き戻された。ティシアさんの背後に花畑でも見えそうな心地だったのに、雪国にでも連れてこられたように一瞬にして冷えた。
「ここは、貴様の世界から見たら異世界だ」
 淡々とした宣告に、若干予想通りだったが鈍器で頭を殴られたみたいな衝撃。剣道で面打ちされた時に似てる。
「……マジ、で……」
 掠れた呟きは恐らく彼らに届かなかったようだ。こちらの動揺など知らん顔で、青年は続ける。
「貴様を結婚相手として、異世界から召還した」
 彼らの平静さを見れば、そっちはこの事態を当然と受け止めていたのだろう。
 小説とか漫画とかで王道の異世界トリップもの、召還された理由はほとんどの場合ある。救世主とかさ、結婚相手とか。
 そうそう結婚相手、少女漫画によくあるよくある。一度読んでご都合主義のそれに笑った覚えがある。大体異世界の人と言葉が通じてるとか、今までの生活常識社会観から外れまくってるのにすぐに馴染んじゃったり、人種が違うだけでも大変なのに異世界人同士で恋が発展しちゃったり、何の能力も無い筈の一般人が救世主になっちゃうとか、な!
 ありえないだろ、現実に。
 現実に、起こっちゃいけない。少なくとも、俺の人生においては!!!
 結婚とかそもそも恋愛とか意識してさえいないのに、結婚相手で召還されたっていい迷惑だ。
 素直に受け止められない事象なのに、青年の声は不思議とすんなり、心の中に落ち着いてしまう。納得したくないのに、夢でなく現実なのだと理解してしまう。
 困る。非常に困る。
「他に選択肢は無い。死ぬ気なら拒否して構わないが」
「お兄様!!」
 物騒な事を何の感慨も無く言い放った青年を、ティシアさんが非難する。
「好きにしろ」
 そう言うが早いか、あっさりと踵を返す青年が、思わぬ血縁関係に驚いている間に部屋を出ていってしまった。その後を追う、がたいのいい青年をも見送ってしまって。
 張り詰めていたのだろう緊張の糸がぷつり、と切れたのを感じた。
 弛緩した身体に任せるままへたり込むと、冷たい床が掌に触れる。

 ――ああせめてこれが、床暖房だったら良かったのに。




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