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ぱあっ、と空の一部が輝く。
せまい範囲だったが、暮れはじめた空の中では、その明るさは明白だった。
「…………なんだ?」
帰路についていた紅霞は足を止め、空を見あげる。
ざぶん、と大きな音が耳元で響いた。ついで、全身を呑み込む冷たい水の感触。
透子は必死で手足を動かす。長い袖と裾と自分の髪がからみついて邪魔だったが、幸い、水面に顔を出すことができた。
「はっ、はっ、はあっ…………」
立ち泳ぎしながら、必死で空気を肺にとり込む。
何度も深呼吸をくりかえし、ようやく呼吸が整ってきた。
「はあ…………」
大きくため息をつく。
濡れて顔にはりついた前髪を指で梳き、周囲を見渡す。
案の定というか、水の上だった。
池――――湖だろうか。水は澄んで暮れはじめた空の色に染まり、岸にちかい水面には緑の大きな葉が無数に広がっている。蓮の葉に見えるが、確証はない。ここが『異世界』である以上、よく似た別の植物の可能性はある。
とりあえず、すぐ先に見える岸を目指した。
人生で今ほど、泳げる事実に感謝した時はない。
手足にまつわりつく長い袖や裾に並行しながら、透子は必死で水をかき、どうにかこうにか 足がつく場所にまでたどり着いた。ざぶざぶと足を動かし、草におおわれた地面に裸足の足を乗せて、やっと安堵のため息をつく。
濡れた髪をしぼり(新しい肉体はやたら髪が長かったので、大変だった)、裾や袖もしぼれるだけしぼって、ようやく一息つけた。
「ここ…………どこ…………?」
空を見あげながら、透子は途方に暮れた。
突然、現れたあの黒い靄がなんだったのか、という疑問はある。
だが今はそれ以上に「ここがどこなのか?」が最大の関心であり、心配事だった。
(どうしよう)
見た感じ、まったく知らない場所である。
(待っていたら、探しにくるかな…………?)
『世界を司る女神』と自己紹介していたが、その能力はどの程度のものなのだろう。
離れ離れになった透子を、すぐに発見して迎えに来てくれるだろうか。
それともまさか、何日間も待たされる事態なのか。
とてつもない不安と心細さに襲われた。
異世界に来ることを承知しはしたが、それはこんな風に「放り出されても文句は言わない」という意味ではない。
(ここはどこ…………今はどちらにいるの?)
ここが先ほどの場所から離れていても、神域なら問題はない、もしくは小さいだろう。
神の住む場所ならおそろしい獣や妖怪の類とは無縁だろうし、『実りは豊か』と言っていたので、木の実や果物をさがせば飢え死の可能性も低いのではないか。
しかし人間の世界となると話は別だ。
あの女神は『基本的な世界の構造は日本と変わらない』とも言っていた。
ということは。戸籍も身分証明書も財産も何一つ持たない女が一人で暮らしていくには、相当ハードルが高いのではないか?
少なくとも日本だったら、かなり困難な状況だ。
風が吹き、濡れて張りついた衣一枚きりの透子は思わず身震いした。
寒い。その事実が、さらに透子の不安を濃くする。
あの女神は神域を『温暖』と表現していた。
ならば『寒い』と感じたここは、神域ではないのではないか…………?
「こ、困る…………!」
透子は思わず呟いていた。
世話役や護衛をつけて生活の保証もあると聞いたから「こちらの人間社会で暮らしてみようかな」と考えられたのだ。
無一文――――実質、この服と帯しかもらっていない状態で放り出されるなら、話は別だ。
(どうしよう。どうにかして、あの女神に迎えに来てもらわないと――――)
「だれかいませんか――――?」
思わず透子は湖と空にむかって叫んでいた。
あの女神に聞こえないかと思ったのだ。
三十歳らしからぬ幼稚な行動にも思えたが、今の透子はその程度の手段しか持たないのも事実である。
「だれか――――」
もう一度、今度はもっと大きな声で叫んでみると、反応があった。
空からではなく、湖を囲んだ林の中から。
「おーい」と湖にむかって呼びかける声が聞こえたのだ。
ふりむくと西日の中、林の中からこちらへ歩み寄ってくる四、五人の姿が見えた。
全員、男だ。白っぽい、あるいは生成りっぽい色の上下を着ている。
(人がいる)
透子は少し安堵し、ついで新たな心配が生じる。
(言葉は、通じるの?)
なにぶん異世界だ。異言語の可能性は充分ある。
(あの女神は『言語と文字も理解できるようにしておいた』って言っていたけれど…………)
立ち尽くす透子の反応にかまわず、男達は歩み寄ってくる。そして口々にしゃべった。
「ほら、やっぱり女じゃねぇか」
「なんだって、こんな所に一人でいるんだ?」
「さっきの光のせいか? あれも《しきがみ》か?」
初めて聞く単語もあったが、透子はさらに安心材料が増えた。
言葉が通じるのとそうでないのとでは、雲泥の差だ。
(じゃあ、話すほうも?)
「あ、あの」
透子は意を決して口を開いた。
異文化とのファーストコンタクトである。
「ん?」
五組の視線にいっせいに集中され、居心地の悪さを覚える。
「ここは、どこですか?」
男達は顔を見合わせた。一人が答える。
「ここは『ゆうれん湖』っすよ。この先に夕蓮の街があります。ここはまあ、この街の名物みたいな場所っすね」
「ゆうれん湖…………ですか」
確認しながら、透子はほっとした。
(良かった。こちらの言語をしゃべれているみたい)
ハードルがまた一つ下がった。
安堵を深めつつ、刻一刻と暗くなっていく西日の中、間近で見ると、男達はあまり上品な風体ではなかった。屈強な体をしているが服は着崩し、良くて『日雇いの肉体労働者』、悪くて『素行不良』の印象をうける。
全員、前合わせの上着に布の帯を締め、それが透子に(ヨーロッパ系ファンタジー世界じゃないんだ)と、どうでもいい失望を与えた。
あの女神にこの世界の映像を見せてもらった時から疑っていたが、実際に目の当たりにして確信を得た。どうせ異世界に転移するなら、ロココとかベルサイユとか『エマ』みたいな時代のドレスを着てみたかった…………というのは、女性なら誰もが一度は考える、異世界転移にともなう妄想ではなかろうか。
「んで? お姐さんはどうしてここに? さっきの空の光は、お姐さんの《しきがみ》っすか?」
真ん中の、ひときわ大柄な一人が訊ねてくる。リーダー格だろうか。
「光、ですか?」
「さっき光ったでしょ。空の隅っこが、ぱあっと」
「私は見てませんけれど…………」
透子は高速で頭を回転させる。
本当に見ていないが、こちらが人間の世界とすれば、神域にいたはずの透子が移動した際、空が光るくらいの異変はあってもおかしくない気はする。
が、それを正直に言って不都合はないか。
それに。
「あの、《しきがみ》って、なんですか?」
二度聞いた単語だが、意味はわからない。こちらの世界特有の単語だろうか。
(日本だったら、陰陽師が使役する『式神』だけれど…………)
男達は首をかしげ、顔を見合わせる。
「《しきがみ》は《しきがみ》でしょ。女の守護者だ。それ以外にない」
「ええ…………? ええと…………」
もう少し詳しく、と透子は困惑した。
同時に「これ以上、訊くのはマズイかも」と思う。
男達の反応から見て《しきがみ》はこちらの世界では常識的な知識と思われる。
それを知らない、と言えば「どうしてこんな常識も知らないんだ」となり、自然、出自を疑われるだろう。
(日本…………「異なる世界から来ました」って言ったら…………怪しまれるだけよね?)
考え込んだ透子は、無意識に手を口もとに持ってくる。
その生まれたての赤子のように真っ白な手の甲に、男の一人が声をあげた。
「待て!」
「きゃっ!」
大きな手が突然、乱暴に透子の手首をつかんだ。透子は驚きの声をあげるが、つかんできた男は頓着せず、透子の左手の甲を仲間達にさらす。
「見ろ! 《印》がない!! 《無印》だ!!」
「なに!?」
時刻は夕暮れ。空の半分以上は青い闇へと塗り替えられ、残る陽光はわずか。
その薄闇にも、透子の手は白々と浮びあがって見える。
「本当だ…………《印》がない…………」
「《しきがみ》がいないのか…………!?」
ざわ、と雰囲気が変わる。
(なに…………? 《印》って、なんのこと…………?)
詳しい事情はわからない。が、よくない事態に進んでいる気がした。
「あの、放してください…………!」
透子は手を振りほどこうとしたが、男の手はびくともしない。
それどころか透子を引き寄せて顎をつかみ、顔を上向かせた。
「ツイてるぜ! 《無印》なうえに、若い! おまけに可愛い顔をしてるじゃねぇか! とんだ拾いもんだ、どっかの遊郭から逃げてきたのか!?」
『遊郭』という単語に、ざあっ、と透子の額から血の気が引いた。
時代劇などは観ないが、その程度の単語の意味は知っている。
「ヤバくないか? 兄貴。足抜けなら追手がいるはずだ。下手したら、オレ達が足抜けさせたって疑われないか?」
「足抜けの手助けは私刑じゃねぇか」
別の男達が不安げに透子を捕まえる男に問う。
「まあ、待て」
透子を捕まえた男が、透子の生乾きの左袖を大きくめくった。
やはり真っ白い二の腕が露わになる。
ぴゅう、と誰かが口笛を吹いた。
「入れ墨がねぇ! 店の商品じゃねぇぞ! こいつは本当で拾いもんだ!! 若くて可愛い《無印》のうえ、遊女じゃないときた!! こいつは高く売れるぞ、酒代どころじゃねぇ!!」
「おお!!」
周囲の男達も、どっと歓声をあげた。
透子は最悪な状況を悟り、力いっぱい抵抗する。
「放して!!」
透子は自由な右手で男の胸を押すが、見た目どおり、男の胸も肩もかたいタイヤのような感触で、透子が男の腕を叩いてもびくともしない。
逆にその抵抗が、男の笑みをますます薄汚いものに変化させていく。
「本当に《しきがみ》がいないんだな。そんなんで、なんでこんな所にいるんだ。家出か? おとなしく母親か姉妹の所にいりゃあ、危ない目に遭わずに済んだのによぉ」
黄昏の中、にやにやと見おろしてくる顔に『下心』と大書きされているのが見える気がした。他の男達も透子を囲んで、好き勝手なことを言ってくる。
「兄貴、売る前に、オレ達にも味見させてくださいよ」
「オレもですよ。タダで女とヤレる機会なんて、まずないぜ」
「いっそ売るんじゃなく、オレ達で飼っちまうか? 《しきがみ》がいないなら、抵抗もできねぇだろ。飽いてから売ればいいんだ」
かわされる会話に、透子は半狂乱になりかけた。必死で手足を動かし、男の手や胸をなぐっては足を蹴る。
「放して!! 誰か!!」
せいいっぱい叫ぶが、男達の下品な笑い声が大きくなるばかりだ。
内心で例の女神を罵倒した。
(あの女神様は、どうしているの!? 生活や安全は保証する、と言ったのに! 約束を守る気があるなら、今すぐ助けて!!)
「《種》がどうなってもいいのか!?」と叫びかけた、その時。
「いてっ!」
透子を囲んでいた男の一人がとうとつに声をあげた。
「なんだ!?」とリーダー格の男が驚く間もなく、ひゅん、ひゅん、と風切り音がたてつづけに響き、合わせて「いてぇ!!」「誰だ!!」と透子を囲んでいた男達から声があがる。
「ぐあっ!!」と、透子をがっちりとつかんでいた男も声をあげ、手をゆるめた。
透子はとっさに力いっぱい男の手を振りほどき、全力で走り出す。
「来い!!」
正面から声が聞こえ、透子はとっさにその方向へと走っていく。
「待て!!」
男達が声をあげて追いかけてこようとしたが、その顔につぎつぎ固い物が激突して、追跡を阻まれる。
「走れ!!」
夕闇の中、林を出たところに一つの人影が立っており、腕を大きくふって、なにかを投げる仕草をくりかえしている。
「こっちだ!!」
人影は持っていた礫を投げ終えると、駆け寄ってきた透子の二の腕をつかんで走り出した。
林の中に飛び込む。
「待て、この女…………!」
下草を蹴り、小石や小枝が散らばって木々の根が張り巡らされた地面を、透子はつかまれた腕に引きずられるように走り抜ける。靴も靴下もはいていない裸足だが、追ってくる声が恐ろしすぎて、痛みを感じる余裕はない。
「こっちだ」
引っぱる腕は急激に方向転換したかと思うと、突然、固い物に背中を押しつけられ、「頭を低くしろ」と鋭く命じられた。
「しゃべるなよ」
若い男の声がすぐそばから聞こえる。どうも大きな岩かなにかの影に隠れているようだ。
「どこに行った!!」「あっちか!?」と怒鳴る声と下草をかきわける足音が、しばらく聞こえていたが、だんだん遠ざかって行き、やがてまったく聞こえなくなった。
人影がほっと一息ついたのがわかった。が、透子は安心できない。心臓が高鳴り、今にも男達が戻ってくるのではないかという不安で手がふるえる。
「立てるか?」
相手が立ちあがり、それにともなって透子もひっぱりあげられる。
「こっちだ。しゃべらずについて来いよ」
腕をつかんでいる手が誘導する。
ほぼ真っ暗なのに、腕は確信のある足どりでまっすぐ進み、しばらく行くと林を抜けて、拓けた場所に出た。街灯もなにもない地面のままの道が左右に伸びて、夜空が広がっている。
右の道は小高い丘につづく坂道。
左の道の先には、街のものと思しき光が見えた。
引っぱってきた相手は「ふう」と一つ息を吐き出す。そして透子をふりかえる。
「さっさとここを離れろ。家はどこだ? 送っていく。もう、あんな所をうろつくなよ?」
警戒を解いていない、かたい声がうながす。
「…………家…………」
透子は我知らず、涙がにじみだした。
「帰れません…………」
今さらながらに実感が湧く。
「帰り方が、わからないんです…………っ」
(三十にもなって)と心の中で己を恥じながらも、透子は泣き出してしまうのをとめられなかった。
「ええ…………?」と恩人が困惑の声をもらす。
せまい範囲だったが、暮れはじめた空の中では、その明るさは明白だった。
「…………なんだ?」
帰路についていた紅霞は足を止め、空を見あげる。
ざぶん、と大きな音が耳元で響いた。ついで、全身を呑み込む冷たい水の感触。
透子は必死で手足を動かす。長い袖と裾と自分の髪がからみついて邪魔だったが、幸い、水面に顔を出すことができた。
「はっ、はっ、はあっ…………」
立ち泳ぎしながら、必死で空気を肺にとり込む。
何度も深呼吸をくりかえし、ようやく呼吸が整ってきた。
「はあ…………」
大きくため息をつく。
濡れて顔にはりついた前髪を指で梳き、周囲を見渡す。
案の定というか、水の上だった。
池――――湖だろうか。水は澄んで暮れはじめた空の色に染まり、岸にちかい水面には緑の大きな葉が無数に広がっている。蓮の葉に見えるが、確証はない。ここが『異世界』である以上、よく似た別の植物の可能性はある。
とりあえず、すぐ先に見える岸を目指した。
人生で今ほど、泳げる事実に感謝した時はない。
手足にまつわりつく長い袖や裾に並行しながら、透子は必死で水をかき、どうにかこうにか 足がつく場所にまでたどり着いた。ざぶざぶと足を動かし、草におおわれた地面に裸足の足を乗せて、やっと安堵のため息をつく。
濡れた髪をしぼり(新しい肉体はやたら髪が長かったので、大変だった)、裾や袖もしぼれるだけしぼって、ようやく一息つけた。
「ここ…………どこ…………?」
空を見あげながら、透子は途方に暮れた。
突然、現れたあの黒い靄がなんだったのか、という疑問はある。
だが今はそれ以上に「ここがどこなのか?」が最大の関心であり、心配事だった。
(どうしよう)
見た感じ、まったく知らない場所である。
(待っていたら、探しにくるかな…………?)
『世界を司る女神』と自己紹介していたが、その能力はどの程度のものなのだろう。
離れ離れになった透子を、すぐに発見して迎えに来てくれるだろうか。
それともまさか、何日間も待たされる事態なのか。
とてつもない不安と心細さに襲われた。
異世界に来ることを承知しはしたが、それはこんな風に「放り出されても文句は言わない」という意味ではない。
(ここはどこ…………今はどちらにいるの?)
ここが先ほどの場所から離れていても、神域なら問題はない、もしくは小さいだろう。
神の住む場所ならおそろしい獣や妖怪の類とは無縁だろうし、『実りは豊か』と言っていたので、木の実や果物をさがせば飢え死の可能性も低いのではないか。
しかし人間の世界となると話は別だ。
あの女神は『基本的な世界の構造は日本と変わらない』とも言っていた。
ということは。戸籍も身分証明書も財産も何一つ持たない女が一人で暮らしていくには、相当ハードルが高いのではないか?
少なくとも日本だったら、かなり困難な状況だ。
風が吹き、濡れて張りついた衣一枚きりの透子は思わず身震いした。
寒い。その事実が、さらに透子の不安を濃くする。
あの女神は神域を『温暖』と表現していた。
ならば『寒い』と感じたここは、神域ではないのではないか…………?
「こ、困る…………!」
透子は思わず呟いていた。
世話役や護衛をつけて生活の保証もあると聞いたから「こちらの人間社会で暮らしてみようかな」と考えられたのだ。
無一文――――実質、この服と帯しかもらっていない状態で放り出されるなら、話は別だ。
(どうしよう。どうにかして、あの女神に迎えに来てもらわないと――――)
「だれかいませんか――――?」
思わず透子は湖と空にむかって叫んでいた。
あの女神に聞こえないかと思ったのだ。
三十歳らしからぬ幼稚な行動にも思えたが、今の透子はその程度の手段しか持たないのも事実である。
「だれか――――」
もう一度、今度はもっと大きな声で叫んでみると、反応があった。
空からではなく、湖を囲んだ林の中から。
「おーい」と湖にむかって呼びかける声が聞こえたのだ。
ふりむくと西日の中、林の中からこちらへ歩み寄ってくる四、五人の姿が見えた。
全員、男だ。白っぽい、あるいは生成りっぽい色の上下を着ている。
(人がいる)
透子は少し安堵し、ついで新たな心配が生じる。
(言葉は、通じるの?)
なにぶん異世界だ。異言語の可能性は充分ある。
(あの女神は『言語と文字も理解できるようにしておいた』って言っていたけれど…………)
立ち尽くす透子の反応にかまわず、男達は歩み寄ってくる。そして口々にしゃべった。
「ほら、やっぱり女じゃねぇか」
「なんだって、こんな所に一人でいるんだ?」
「さっきの光のせいか? あれも《しきがみ》か?」
初めて聞く単語もあったが、透子はさらに安心材料が増えた。
言葉が通じるのとそうでないのとでは、雲泥の差だ。
(じゃあ、話すほうも?)
「あ、あの」
透子は意を決して口を開いた。
異文化とのファーストコンタクトである。
「ん?」
五組の視線にいっせいに集中され、居心地の悪さを覚える。
「ここは、どこですか?」
男達は顔を見合わせた。一人が答える。
「ここは『ゆうれん湖』っすよ。この先に夕蓮の街があります。ここはまあ、この街の名物みたいな場所っすね」
「ゆうれん湖…………ですか」
確認しながら、透子はほっとした。
(良かった。こちらの言語をしゃべれているみたい)
ハードルがまた一つ下がった。
安堵を深めつつ、刻一刻と暗くなっていく西日の中、間近で見ると、男達はあまり上品な風体ではなかった。屈強な体をしているが服は着崩し、良くて『日雇いの肉体労働者』、悪くて『素行不良』の印象をうける。
全員、前合わせの上着に布の帯を締め、それが透子に(ヨーロッパ系ファンタジー世界じゃないんだ)と、どうでもいい失望を与えた。
あの女神にこの世界の映像を見せてもらった時から疑っていたが、実際に目の当たりにして確信を得た。どうせ異世界に転移するなら、ロココとかベルサイユとか『エマ』みたいな時代のドレスを着てみたかった…………というのは、女性なら誰もが一度は考える、異世界転移にともなう妄想ではなかろうか。
「んで? お姐さんはどうしてここに? さっきの空の光は、お姐さんの《しきがみ》っすか?」
真ん中の、ひときわ大柄な一人が訊ねてくる。リーダー格だろうか。
「光、ですか?」
「さっき光ったでしょ。空の隅っこが、ぱあっと」
「私は見てませんけれど…………」
透子は高速で頭を回転させる。
本当に見ていないが、こちらが人間の世界とすれば、神域にいたはずの透子が移動した際、空が光るくらいの異変はあってもおかしくない気はする。
が、それを正直に言って不都合はないか。
それに。
「あの、《しきがみ》って、なんですか?」
二度聞いた単語だが、意味はわからない。こちらの世界特有の単語だろうか。
(日本だったら、陰陽師が使役する『式神』だけれど…………)
男達は首をかしげ、顔を見合わせる。
「《しきがみ》は《しきがみ》でしょ。女の守護者だ。それ以外にない」
「ええ…………? ええと…………」
もう少し詳しく、と透子は困惑した。
同時に「これ以上、訊くのはマズイかも」と思う。
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それを知らない、と言えば「どうしてこんな常識も知らないんだ」となり、自然、出自を疑われるだろう。
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考え込んだ透子は、無意識に手を口もとに持ってくる。
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「待て!」
「きゃっ!」
大きな手が突然、乱暴に透子の手首をつかんだ。透子は驚きの声をあげるが、つかんできた男は頓着せず、透子の左手の甲を仲間達にさらす。
「見ろ! 《印》がない!! 《無印》だ!!」
「なに!?」
時刻は夕暮れ。空の半分以上は青い闇へと塗り替えられ、残る陽光はわずか。
その薄闇にも、透子の手は白々と浮びあがって見える。
「本当だ…………《印》がない…………」
「《しきがみ》がいないのか…………!?」
ざわ、と雰囲気が変わる。
(なに…………? 《印》って、なんのこと…………?)
詳しい事情はわからない。が、よくない事態に進んでいる気がした。
「あの、放してください…………!」
透子は手を振りほどこうとしたが、男の手はびくともしない。
それどころか透子を引き寄せて顎をつかみ、顔を上向かせた。
「ツイてるぜ! 《無印》なうえに、若い! おまけに可愛い顔をしてるじゃねぇか! とんだ拾いもんだ、どっかの遊郭から逃げてきたのか!?」
『遊郭』という単語に、ざあっ、と透子の額から血の気が引いた。
時代劇などは観ないが、その程度の単語の意味は知っている。
「ヤバくないか? 兄貴。足抜けなら追手がいるはずだ。下手したら、オレ達が足抜けさせたって疑われないか?」
「足抜けの手助けは私刑じゃねぇか」
別の男達が不安げに透子を捕まえる男に問う。
「まあ、待て」
透子を捕まえた男が、透子の生乾きの左袖を大きくめくった。
やはり真っ白い二の腕が露わになる。
ぴゅう、と誰かが口笛を吹いた。
「入れ墨がねぇ! 店の商品じゃねぇぞ! こいつは本当で拾いもんだ!! 若くて可愛い《無印》のうえ、遊女じゃないときた!! こいつは高く売れるぞ、酒代どころじゃねぇ!!」
「おお!!」
周囲の男達も、どっと歓声をあげた。
透子は最悪な状況を悟り、力いっぱい抵抗する。
「放して!!」
透子は自由な右手で男の胸を押すが、見た目どおり、男の胸も肩もかたいタイヤのような感触で、透子が男の腕を叩いてもびくともしない。
逆にその抵抗が、男の笑みをますます薄汚いものに変化させていく。
「本当に《しきがみ》がいないんだな。そんなんで、なんでこんな所にいるんだ。家出か? おとなしく母親か姉妹の所にいりゃあ、危ない目に遭わずに済んだのによぉ」
黄昏の中、にやにやと見おろしてくる顔に『下心』と大書きされているのが見える気がした。他の男達も透子を囲んで、好き勝手なことを言ってくる。
「兄貴、売る前に、オレ達にも味見させてくださいよ」
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「放して!! 誰か!!」
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「来い!!」
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「待て!!」
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「走れ!!」
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「こっちだ!!」
人影は持っていた礫を投げ終えると、駆け寄ってきた透子の二の腕をつかんで走り出した。
林の中に飛び込む。
「待て、この女…………!」
下草を蹴り、小石や小枝が散らばって木々の根が張り巡らされた地面を、透子はつかまれた腕に引きずられるように走り抜ける。靴も靴下もはいていない裸足だが、追ってくる声が恐ろしすぎて、痛みを感じる余裕はない。
「こっちだ」
引っぱる腕は急激に方向転換したかと思うと、突然、固い物に背中を押しつけられ、「頭を低くしろ」と鋭く命じられた。
「しゃべるなよ」
若い男の声がすぐそばから聞こえる。どうも大きな岩かなにかの影に隠れているようだ。
「どこに行った!!」「あっちか!?」と怒鳴る声と下草をかきわける足音が、しばらく聞こえていたが、だんだん遠ざかって行き、やがてまったく聞こえなくなった。
人影がほっと一息ついたのがわかった。が、透子は安心できない。心臓が高鳴り、今にも男達が戻ってくるのではないかという不安で手がふるえる。
「立てるか?」
相手が立ちあがり、それにともなって透子もひっぱりあげられる。
「こっちだ。しゃべらずについて来いよ」
腕をつかんでいる手が誘導する。
ほぼ真っ暗なのに、腕は確信のある足どりでまっすぐ進み、しばらく行くと林を抜けて、拓けた場所に出た。街灯もなにもない地面のままの道が左右に伸びて、夜空が広がっている。
右の道は小高い丘につづく坂道。
左の道の先には、街のものと思しき光が見えた。
引っぱってきた相手は「ふう」と一つ息を吐き出す。そして透子をふりかえる。
「さっさとここを離れろ。家はどこだ? 送っていく。もう、あんな所をうろつくなよ?」
警戒を解いていない、かたい声がうながす。
「…………家…………」
透子は我知らず、涙がにじみだした。
「帰れません…………」
今さらながらに実感が湧く。
「帰り方が、わからないんです…………っ」
(三十にもなって)と心の中で己を恥じながらも、透子は泣き出してしまうのをとめられなかった。
「ええ…………?」と恩人が困惑の声をもらす。
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