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55.アリシア

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 人払いしたソル大神殿長様の執務室で。
 私は愕然と立ち尽くした。
 イストリア皇国による「セルバ地方を寄こせ」という、実質脅迫。
 その根拠は、百五十年前のブルカン城伯の宣誓書。
 国境地帯で、火事の夜に行方がわからなくなっていた例の文書だという。

「どうして、あれがイストリア皇帝のもとに…………やっぱり、盗んだのはアベル・マルケスですか? 私を殺しに来た時に、宣誓書も…………!?」

 ソル大神殿長様は重々しく、かつ苦々しくうなずく。

「イストリアから帰国したセルバ辺境伯の報告によれば『間違いなく例の宣誓書だった』とのことだ。ヒルベルト皇子の別荘にいる女人も、デラクルス嬢であることが確認された。さらに、デラクルス嬢が例の宣誓書をイストリア皇帝に献上したことも、本人が認めたそうだ」

「え?」

「デラクルス嬢は本人の意思でノベーラ公太子との婚約を破棄し、ヒルベルト皇子の臣に下ってイストリア皇国に来て、忠誠の証として例の宣誓書をヒルベルト皇子に、ひいてはイストリア皇帝に献上した。それがあちらの言い分だ」

「えっ…………え、え?」

 私は頭がこんがらがってきた。

「ずいぶん話が飛躍しているみたいですが…………それって、本当にデラクルス嬢ですか? よく似た偽者とかではなく?」

「セルバ辺境伯は遠縁ということで、何度もデラクルス嬢と顔を合わせている。その辺境伯が断言したのだ、疑う余地はあるまい」

 私は考え込んでしまった。

「…………アベル・マルケスは、デラクルス嬢お気に入りの侍従です。国境地帯で私を殺そうとしたのは、たしかに彼でした。あの場にいたルイス卿や他の兵士達も、顔を見れば証言できると思います。宣誓書も、あの時、アベル・マルケスが盗んでいたと考えれば、デラクルス嬢が持っていても不思議ではないですけれど…………」

 では、本当にデラクルス嬢はレオポルド殿下を捨て、ヒルベルト皇子と結ばれるつもりなのだろうか。あれほど仲睦まじく、溺愛されていたというのに?
 そこで(あれ?)と、私は気がついた。

「デラクルス嬢は、ヒルベルト皇子と結婚するつもりで、イストリアに行ったんですよね? なのに――――『臣に下った』んですか? 皇子妃ではなく?」

も臣下には違いない。皇子や皇帝に仕える、という点ではな」

「ああ、そういう…………え!?」

 一つ大きく咳払いして、ソル大神殿長様は説明した。
 いわく「デラクルス嬢はヒルベルト皇子の愛人になった」と。

「聞いた話では、デラクルス嬢は皇宮ではなく、ヒルベルト皇子の皇子領にある皇子の別荘に滞在し、皇子自身は皇宮で、婚約者である公女との結婚式の準備を進めているそうだ。別荘には大勢の商人が呼ばれているが、結婚式の準備を進めている様子はない、と。それが答えだな」

 ノベーラでもイストリアでも、神殿で式を挙げて正式に妻と認められるのは、正妻一人のみ。
 どれほど愛されても、挙式して結婚証明書に署名できなければ、愛人にすぎない。
 私はおおいに戸惑った。

「ヒルベルト皇子は、デラクルス嬢と結婚するつもりで、イストリアに連れ帰ったのでは? 少なくとも、デラクルス嬢はそのつもりですよね? それなのに別の女性と、って…………」

「皇族としては、当然かつ妥当な判断ではある」

 ソル大神殿長様は厳かに断じた。
 たしかに、正式に結婚する妻は政略で選び、個人的に気に入った女性は愛人に迎える。それが王侯貴族の男の、ごく常識的な選択だ。

「そもそも一国の、それもイストリアのような大国の、三番目とはいえ、れっきとした皇子が、本人の一存で結婚相手を決められるはずがない。皇子皇女の結婚というものは、幼い頃から山ほど縁談が持ち込まれて、皇帝や大臣が吟味に吟味を重ねてようやく決定し、それでも政局次第では破談になって、一からやり直すことも少なくないものだ。たとえ皇子本人が強固に希望したところで、候補にすら入っていなかった令嬢が突然、割り込んで認められるはずがない。公爵令嬢のデラクルス嬢こそ、そのへんの事情には詳しいはずなのだ」

 だからこそ、漫画ではデラクルス嬢が聖女になる展開があったのかもしれない。彼女自身に価値や箔をつけるために。それはともかく。

「でも浮気や不倫は、天の教えに背きますよね?」

「まったくだ!」

 ソル大神殿長様は力を込めて断言した。

「結婚もまた、天からの祝福。そう説いているのに、現実のあの階級王侯貴族のふしだらぶりときたら! 結婚は政略で決めるのが当たり前、政略で結婚したから夫婦仲は悪くて当然、愛など最初から求めていない、目的である跡継ぎを得たら、夫も妻も不倫して当然、不倫こそ純愛! 特に皇子のような身分の男が美しく教養深い愛人を抱えるのは財産家、精力家の証ときたものだ! まったく、あの不道徳者どもめは!!」

 怒涛の早口による長口上だった。
 目を丸くした私に「とにかく」と、ソル大神殿長様は咳払いしてつづける。

「おそらく別荘にいるという『デラクルス嬢』は今後、皇宮どころか、皇子の本宅への出入りも許されぬだろう。それは妻の特権だ。別荘でひたすら、夫ですらない『ご主人様』の訪れを待ち、仮に子を産んでも婚外子だ。イストリア皇族と認められることはない。それどころかデラクルス嬢の立場の弱さを考えれば、貴族として認められるかすら怪しい」

「そういうものですか? どうして?」

「もし、デラクルス嬢がノベーラにおれば、婚約を決めた大公陛下や父親のデラクルス公爵、公爵家の血筋が後ろ楯となってデラクルス嬢の立場と名誉を守り、愛人扱いなど許しはしなかった。だが、皇国にはがない。どれほど高貴な令嬢でも、駆け落ち、すなわち身一つで他国に移れば、力を持たぬ、ただの娘だ。皇子や皇国側に粗略に扱われても、当人の抗議以外にはなんの抵抗の術も持たず、持つこともできまい」

 さらには身一つで来たため、デラクルス嬢にはヒルベルト皇子以外に頼れる存在がいない。
 ドレスも肌着も宝石も化粧品も、住む邸もちょっと散歩するだけの庭園も、日々の食事やデザートすら、ヒルベルト皇子の財力と寵愛にすがらなければ、得ることができないのだ。
 そう、ソル大神殿長様は説明してくれた。
 ノベーラ屈指の名門貴族の令嬢、未来の公太子妃として育った彼女には、屈辱に違いない。

「かといってデラクルス嬢には、もうノベーラに帰国する道もない。大公陛下は『デラクルス公爵令嬢セレスティナは、不慮の事故により急死』と発表することを決定された。令嬢の愚行に頭と胸を痛めていたデラクルス公爵は蒼白で、最後まで陛下に再考を求めていたそうだが、大臣達も賛成で一致している。近日中に正式な発表と盛大な葬儀が行われるだろう」

「事故死…………デラクルス嬢がヒルベルト皇子と逃げた事実はない、という意味ですか?」

「単に、デラクルス嬢の愚行や、公太子殿下の負った『寝取られた男』『捨てられた男』という不名誉を隠すためだけではない。今後、仮にどれほどデラクルス嬢に人物がその名を名乗っても、絶対に本人とは認めない。そういう意思表示だ」

 たとえデラクルス嬢がどれほど悔い改めてノベーラに戻ったとしても、ノベーラの宮殿と大公家は彼女を受け容れることはない。そういう意思表示だった。

「…………ヒルベルト皇子やイストリア側も、ノベーラ側の発表の裏の意味を理解するだろう。ゆえに今後、デラクルス嬢がどれほどヒルベルト皇子達を非難しても、イストリア側は聞き流して終わりだ。彼女は無力な一介の外国人に成り下がった」

「例の宣誓書を皇帝に献上したらしいのに? 功績ですよね?」

「褒美として、皇国内での身分を保証する程度のことはするだろう。が、それでも行くあてのない令嬢一人だ。重用する理由はない。ヒルベルト皇子に任せて終わり、であろうな」

「白銀色の聖魔力を発現させています。聖女かもしれない人材なのに、それでも?」

「その聖魔力も、出所が怪しい」

「え?」

「こちらの話だ。まあ、イストリアは大国で、ノベーラより人口もはるかに多い。その分、聖神官も多い。大皇国時代から医学の発展にも力を入れており、ノベーラほど聖魔力を特別視していない国だ」

「そういうものですか…………」

(第三皇子に見初められて、一緒に皇国に行って溺愛されつづける…………と考えれば、マンガどおりの筋書きではあるんだろうけれど…………)

 私は考え込んでしまった。
 デラクルス嬢はこの先、どう動くのか。
 あきらめて愛人の立場に甘んずるのか、それとも別の都合のいい男に乗り換えるのか。
 あるいは正妻から皇子妃の座を奪おうと画策するかもしれないし、ひょっとしたら男とこの世に愛想を尽かして、神殿に入るかもしれない。

(ヒーローと世界に愛される主人公なら…………突然、すごい能力が覚醒したり、美男の聖獣とか精霊王とかに溺愛されて、ノベーラや皇国を乗っとり、なんてことは…………)

 ない。と断言できないのが、つらいところだ。

(マンガの詳細を思い出せないのが、つらい。万一、悪役令嬢デラクルス嬢が強力な竜王とか精霊王とかを味方につけて、それで聖女と認められたら…………)

 私もふたたび立場が危うくなる。

(癒しと大学新設をしっかり果たして、世間の評価を上げて…………他に、もっと確実な手があれば…………)

 デラクルス嬢が『失踪』したおかげで、公都ではすっかり「アリシア・ソル聖神官こそ、真の聖女」という評価がさだまり、セルバ地方の一件でもあらためて「誰でもアクセスできる医療」の重要性が民に実感され、医科大学や薬草園の新設にも追い風が吹いている。
 今の状況を維持できれば、なにかあっても即、処刑だの娼館行きだのにはならない。…………かもしれないが。
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