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52.セレスティナ
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「聞いた? 第三皇子殿下の噂。なんでも、別荘に姫君を迎えられたとか」
通りすがりの女達の会話でした。
皇都はさすがで、平民すらこざっぱりした格好をしていますが、ただよう生活臭というか、主婦っぽさは隠せません。女達は野次馬根性丸出しでにやにやと笑い合い、ノベーラでも日本でもイストリアに来てさえ、下々の者は下世話な生き物だと実感させられます。
「あの方もお盛んねぇ。皇宮での女遊びを叱られて、外国に出されたっていうのに」
わたくしは動揺しませんでした。
ヒルベルト様が華やかな女性遍歴をお持ちであることは、漫画の記憶ですでに知っていたことですし、地位も身分もお持ちの魅力的な男性が女に囲まれるのは、自然なことです。むしろ、誰からも誘いがないほうが心配です。
重要なのは、ヒルベルト様の最愛にして絶対の存在が、わたくしであること。
どれほど女に囲まれていようと、わたくしが求めれば、即座に彼女らを切り捨てることができること。
そこさえ不変であれば、女にもてることは名誉になりこそすれ恥にはなりませんし、そこが守られているなら、多少もてるくらいのほうがヒーローと、ヒーローに愛される主人公の格も上がるというものです。
「でも、別荘に住まわせるのは、初めてじゃない? そんなに気に入った女なのかしら?」
当然です。運命で結ばれた真の恋人、未来の皇后なのですから。
「それがねぇ、なんとノベーラの姫君らしいわ」
「え? ノベーラって、ヒルベルト様が留学していた? 留学先から連れ帰ったってこと?」
「らしいわ」
わたくしは少し驚きました。
まだ、わたくしはイストリア皇帝との謁見が済んでおらず、わたくしとヒルベルト様の婚約は正式に発表されたわけではありません。それでも下層の者達に、もうここまで情報が回っているなんて。いつの時代、どこの世界でも、情報というのは必ず、どこからか漏れるようです。
「わざわざ連れ帰るなんて、よほどお気に召したのかしら。あ。それともノベーラの国王、いえ、ノベーラは大公だっけ? 大公からの貢ぎ物とか?」
わたくしは、かちん、ときました。
わたくしはヒルベルト様の運命の相手であり、未来の皇后です。そして公爵令嬢であり、聖女。そこらの一時の慰み者のように言われるのは、我慢なりません。
止めようとするアベルの手をふり払い、下世話な下賤の女達に物申してやろうとした寸前。
「それがね。どうもノベーラ公太子の婚約者らしいの! 公爵令嬢で、次期公太子妃だったのに、ヒルベルト様に心奪われて、イストリアまでついて来てしまったらしいわ!!」
「まあ!!」
女達が声を上げます。
「殿下の別荘の下働きをしている、友達から聞いたの。お月様みたいな銀の髪をした、たいそうな美人で、ノベーラの公太子からも溺愛されていたくせに、ヒルベルト様に乗り換えたんですって! ノベーラでは上へ下への大騒ぎで、ノベーラのなんとかって辺境伯まで来て連れ戻そうとしたらしいけど、自分はヒルベルト様のものだ、って追い返してしまったそうよ」
「嘘!!」
「本当に!?」
女達がきゃあきゃあ騒ぎます。
わたくしは詳細な情報の漏洩にひやひやすると同時に、自尊心をくすぐられてもいました。
いつの時代、どこの世界でも『運命の恋』というのは、女達の憧憬の的。高貴な男女の劇的な恋物語に下層の女達が胸を焦がすのは、致し方ないことかもしれません。一つの有名税とでも思って受け容れるべきでしょう。
「行きましょう、アベル」
わたくしは忠実な下僕をうながし、その場を離れようとしました。
「小なりとはいえ、一国の王妃の地位を蹴って、ヒルベルト様の愛人になるなんて。そのお姫さまは、よっぽどヒルベルト様にぞっこんなのね。ノベーラの公太子も可愛そうに」
「あら。小国の王妃より、大国の皇子の寵姫でしょ。ノベーラなんて田舎の小国だもの、たとえ愛人でも第三皇子でも、我らイストリア皇国のほうがいいに決まってるわ。責任も負わずに済むし」
わたくしの足が石畳に吸いつきます。
「それにお姫さま本人も、裾の中のほうはねぇ」
女の含み笑いに「どういうこと?」と周囲の女も興味津々です。
「ノベーラから連れてきた若い侍従を、片時も離さないんですって。ヒルベルト様の愛人になってからも、朝から晩までべったり。いくら気位高くて気品があっても、貴族の令嬢が若い男を常に侍らせるなんて、普通じゃないでしょ。それに美女神風を好んで、よく着ているそうよ」
「え。べーヌス風って、不倫相手をお探しの貴族のご夫人の間で流行している、あの肩も腕も丸出しのドレス? 『娼婦と変わらない』って、お堅い年配男性からひんしゅくを買いまくっている、あの?」
わたくしは聞き間違えたかと思いました。
「その、べーヌス風! ヒルベルト様も、本当にお人が悪いわ。田舎から来た、なにも知らない初心なご令嬢に『皇都の最新流行』と偽って娼婦の格好をさせて、日が暮れてから朝遅くまで、たっぷりご堪能! おかわいそうに、ご令嬢ったら、ご自分が皇子妃になれると本気で信じて、囲い者と気づいていないのは、令嬢ご本人だけだそうよ!!」
「まあっ、悪い男性!!」
どっ、と笑い声があがり、女達がげらげら腹を抱えました。
わたくしはただただ、血の気が引いていき、指先から体温が失われます。
「仮にも大公妃になるはずだった姫君が、女遊びの激しい皇子様の愛人だなんて。ヒルベルト様ったら、本当に意地悪。その令嬢も、とんだ悪魔に引っかかったわねぇ」
「そう? 小国とはいえ、公太子妃の道があったのに捨てたのは、自分でしょ? いくら自国より大国だからって、婚約者でもない男について国を出るなんて、まともな令嬢のやることじゃないわ。今時、平民の娘だって、もう少し冷静よ」
「そもそもヒルベルト様は、エポス公国の公女様と婚約してるじゃない。ノベーラでは知られてないのかしらね? 知ってたら、軽はずみはしなかったかもしれないのに、お気の毒に」
「うーん。でもヒルベルト様は、わかっててやったのかも?」
「どういうこと?」
「つまり公太子の婚約者――――未来のノベーラ公太子妃を、ヒルベルト様が愛人にして娼婦のように扱うことで『お前達ノベーラは、イストリアにとってこの程度』って、暗に主張してるんじゃない? ノベーラは怒るけど、国力差を考えれば、安易に反撃できない。それをわかってて、見せしめとして愛人にしたのよ。『しょせんイストリアの属国に過ぎないくせに、独立国顔をするな』ってね。ヒルベルト様って、そういうところがおありだもの」
「そういえば、ノベーラとかクエントとか、あのあたりの小国群には厳しいものね。イストリアから独立した国々ばかりだから」
「そうそう」
ひとしきり笑い合った女達は、「それじゃ」と別れて散っていきます。
けれど、わたくしはその場を動くことができませんでした。
「セレスティナお嬢様」
「アベル…………」
「セレスティナお嬢様、お気をたしかに。下賤の女達の言葉です。真に受けてはなりません」
「でも、アベル!」
「早く、この場を離れましょう。大神殿の者が、いつ《聖印》の紛失に気づくとも限りません」
わたくしはアベルに肩を支えられながら、ふらふらと大神殿前の広場を去りました。頭の中を膨大な情報と感情が渦巻いて、わたくしを翻弄します。
「いったい、どういうことなの」
「セレスティナお嬢様」
「わたくしが愛人だなんて!! ヒルベルト様に婚約者がいるなんて!! なにも聞いていないわ!!」
「セレスティナお嬢様。――――お嬢様はノベーラにいた頃、大公陛下や公太子殿下から、ヒルベルト様の婚約について何事か聞いたことはなかったのですか?」
「――――っ。エポス公国の公女との縁談が進んでいるらしい、とは何度か聞いたわ。でも、縁談よ!? 婚約ではないわ!! ヒルベルト様は、あんなにわたくしを愛していると、わたくしを妻に、皇子妃にしてくださると…………!!」
そこでわたくしは、はた、と足を止めました。
「セレスティナお嬢様?」
「いえ…………」
声がふるえます。
「ヒルベルト様は…………わたくしと結婚すると、おっしゃったかしら?」
「お嬢様!?」
「ヒルベルト様は…………わたくしを愛している、とはおっしゃるけれど…………わたくしを『妃にする』と言ったことは、一度でもあったかしら? いつも、いつも『運命の恋人』とか『俺の百合』という言い方で…………叔父上にも『別荘の女主人だ』と…………そう、別荘の女主人! 財力を持つ男が、愛人に邸を与えるのは、よくあること…………っ!!」
「お嬢様!」
足元から闇がせりあがり、呑み込まれていく気がしました。
ヒルベルト様の男らしく情熱的な台詞の数々が、耳の奥にこだまします。
『ノベーラの聖なる姫君、麗しき銀の百合。俺と共にイストリアに来るか?』
『呼んでもいいだろうか。「デラクルス嬢」ではなく「セレスティナ」と』
「そうだわ…………」
悪しきパズルが一欠片、一欠片はまっていくような、恐ろしい点と点がつながっていくような感覚に、膝から力が抜けていきます。
「ヒルベルト様は『イストリアに来るか』と訊かれたのよ。『結婚するか』ではなく『来るか』と。それに…………わたくしのことを『セレスティナ』と呼んでおられるわ。親愛の情からと思っていたけれど…………二人きりの非公式な場だけでなく、叔父上とお会いしていたあの席でも――――貴族令嬢を意味する『嬢』をつけずに、ただ呼び捨てで…………『デラクルス嬢』がよそよそしいとしても『セレスティナ嬢』と呼ぶことはできるのに。レオ様も普段は『ティナ』でも、公の場では『セレスティナ嬢』と呼んでいたわ。ヒルベルト様は…………わたくしを貴族令嬢として扱っていない…………!?」
「セレスティナお嬢様。先に、次の神殿に向かいましょう。殿下の件は、そのあとで」
アベルがわたくしをうながしましたが、わたくしはそれどころではありませんでした。
「ヒルベルト様は、いまだにわたくしをイストリア皇帝に紹介していないわ。わたくしが何度『早くお会いしたい』と言っても、作法の勉強やドレスの支度が先だ、と言って…………あの方はわたくしを、下賤な妾扱いしていた…………? ただの慰み者だと…………!?」
「お嬢様!!」
わたくしの脳裏に、あの別荘でヒルベルト様と過ごした時間が、次々よみがえります。
「わたくしが『まだ結婚していません』と言ったのに、ヒルベルト様はわたくしを我が物になさったわ。それは、それだけあの方の愛が深く強いのだと、我慢できぬほど愛され求められているのだと思ったからこそ、わたくしもあの方を受け容れたのに。あれはたんに、ただの慰み者だったから? ドレスのことも、人前で平然とわたくしに愛を語っていたのも、わたくしへの愛ゆえではなく、愛人と軽んじていただけの態度だった、と――――そういうことなの!?」
わたくしの内に燃えあがるような怒りが生まれます。
「こんな屈辱は初めてだわ…………っ!!」
わたくしはセレスティナ・デラクルス。デラクルス公爵令嬢にして、次の聖女。未来の皇后。
「真の聖女たるわたくしが、ここまで愚弄されるなんて…………イストリア皇子といえど、許される行為ではないわ! 無礼、いえ、乱心にもほどがあるわ、ヒルベルト様はいったい、なにをお考えなの!?」
わたくしはアベルにヒルベルト様の居場所をたずねました。
「ヒルベルト様に直に確認するわ、でなければ納得できない!」
「お待ちください、セレスティナお嬢様。ヒルベルト殿下は『マンガ』におけるセレスティナお嬢様の真の運命の相手。高貴な姫が、下賤な女の噂話を真に受けてどうします」
「それは…………っ」
わたくしも躊躇しました。
女遊びの激しかったヒーローが、ただ一人の主人公と出会い、その純粋な愛情にうたれて誠実な人間に成長する、というのも一つの定番です。
(ヒルベルト様も、そういうキャラクターなのだとしたら…………)
だとすれば、この件は、わたくし達の愛が試される試練の可能性もあります。
わたくしは額を押さえました。
「漫画どおりだったら…………レオポルドがセレスティナとの婚約を破棄して、ヒルベルトがセレスティナにプロボースして…………そうよ、プロポーズ!! 漫画ではきちんと『俺の妃になってほしい』と言っていたわ! どうして、その違いに気づかなかったのかしら、漫画どおりの展開、としか思っていなかった…………!!」
わたくしは頭を抱えます。
「漫画では、ヒルベルトは堂々とセレスティナを自分の馬車に乗せて、二人一緒にノベーラの宮殿から出立して…………イストリアに到着したら、すぐに皇帝に謁見していた。だからセレスティナは、早々にヒルベルトの婚約者として扱われて…………そもそも漫画では、ヒルベルトは女に囲まれていても、婚約者はいない設定だったはず、どうしてこんなに違うの!?」
「セレスティナお嬢様…………」
わたくしは涙がとまらず、知らず知らずのうちにアベルにすがっていました。
「セレスティナお嬢様。一度、ノベーラに帰国しましょう。ヒルベルト皇子にだまされていた、そう、レオポルド殿下に訴えるのです。レオポルド殿下なら、お嬢様の力に――――」
「――――いいえ」
わたくしは、すぐにはうなずけませんでした。
「なにかの間違い、誤解という可能性もあるわ。やはりヒルベルト様に直接お訊きしないと、真実はわからない…………っ」
わたくしは決めました。
「ヒルベルト様にお会いするわ。皇宮に参ります」
「しかし」
「わたくしはヒルベルト様の婚約者よ? そしてデラクルス公爵令嬢であり、真の聖女でもあるわ。わたくしがイストリア皇宮を訪問するのに、なんの支障があって?」
「ですが、セレスティナお嬢様――――」
その時、通りすがった男達の会話が耳に届きました。
「――――で、皇帝陛下が視察の途中だろ? ドゥオの都でヒルベルト殿下と合流するそうだ。ドゥオの都は殿下の皇子領内だからな」
「で、一家で植物園の見物か。あの皇后陛下は本当に花がお好きだなぁ」
わたくしはアベルを見ました。
「アベル」
「いけません、セレスティナお嬢様。今は《聖印》を優先すべきです。後日、落ち着いてヒルベルト殿下のお戻りを待ちましょう」
「待てないわ、すぐにビブロスを呼んで!」
「しかし」
なおも渋るアベルを、わたくしは押しきりました。
「あなたは、誰の侍従なの!? わたくしの下僕でしょう!? わたくしの命に従いなさい! わたくしの望みを叶えて!!」
アベルははじかれたように表情をひきしめると、人気のない道をさがして、図書館の魔王を召喚しました。
通りすがりの女達の会話でした。
皇都はさすがで、平民すらこざっぱりした格好をしていますが、ただよう生活臭というか、主婦っぽさは隠せません。女達は野次馬根性丸出しでにやにやと笑い合い、ノベーラでも日本でもイストリアに来てさえ、下々の者は下世話な生き物だと実感させられます。
「あの方もお盛んねぇ。皇宮での女遊びを叱られて、外国に出されたっていうのに」
わたくしは動揺しませんでした。
ヒルベルト様が華やかな女性遍歴をお持ちであることは、漫画の記憶ですでに知っていたことですし、地位も身分もお持ちの魅力的な男性が女に囲まれるのは、自然なことです。むしろ、誰からも誘いがないほうが心配です。
重要なのは、ヒルベルト様の最愛にして絶対の存在が、わたくしであること。
どれほど女に囲まれていようと、わたくしが求めれば、即座に彼女らを切り捨てることができること。
そこさえ不変であれば、女にもてることは名誉になりこそすれ恥にはなりませんし、そこが守られているなら、多少もてるくらいのほうがヒーローと、ヒーローに愛される主人公の格も上がるというものです。
「でも、別荘に住まわせるのは、初めてじゃない? そんなに気に入った女なのかしら?」
当然です。運命で結ばれた真の恋人、未来の皇后なのですから。
「それがねぇ、なんとノベーラの姫君らしいわ」
「え? ノベーラって、ヒルベルト様が留学していた? 留学先から連れ帰ったってこと?」
「らしいわ」
わたくしは少し驚きました。
まだ、わたくしはイストリア皇帝との謁見が済んでおらず、わたくしとヒルベルト様の婚約は正式に発表されたわけではありません。それでも下層の者達に、もうここまで情報が回っているなんて。いつの時代、どこの世界でも、情報というのは必ず、どこからか漏れるようです。
「わざわざ連れ帰るなんて、よほどお気に召したのかしら。あ。それともノベーラの国王、いえ、ノベーラは大公だっけ? 大公からの貢ぎ物とか?」
わたくしは、かちん、ときました。
わたくしはヒルベルト様の運命の相手であり、未来の皇后です。そして公爵令嬢であり、聖女。そこらの一時の慰み者のように言われるのは、我慢なりません。
止めようとするアベルの手をふり払い、下世話な下賤の女達に物申してやろうとした寸前。
「それがね。どうもノベーラ公太子の婚約者らしいの! 公爵令嬢で、次期公太子妃だったのに、ヒルベルト様に心奪われて、イストリアまでついて来てしまったらしいわ!!」
「まあ!!」
女達が声を上げます。
「殿下の別荘の下働きをしている、友達から聞いたの。お月様みたいな銀の髪をした、たいそうな美人で、ノベーラの公太子からも溺愛されていたくせに、ヒルベルト様に乗り換えたんですって! ノベーラでは上へ下への大騒ぎで、ノベーラのなんとかって辺境伯まで来て連れ戻そうとしたらしいけど、自分はヒルベルト様のものだ、って追い返してしまったそうよ」
「嘘!!」
「本当に!?」
女達がきゃあきゃあ騒ぎます。
わたくしは詳細な情報の漏洩にひやひやすると同時に、自尊心をくすぐられてもいました。
いつの時代、どこの世界でも『運命の恋』というのは、女達の憧憬の的。高貴な男女の劇的な恋物語に下層の女達が胸を焦がすのは、致し方ないことかもしれません。一つの有名税とでも思って受け容れるべきでしょう。
「行きましょう、アベル」
わたくしは忠実な下僕をうながし、その場を離れようとしました。
「小なりとはいえ、一国の王妃の地位を蹴って、ヒルベルト様の愛人になるなんて。そのお姫さまは、よっぽどヒルベルト様にぞっこんなのね。ノベーラの公太子も可愛そうに」
「あら。小国の王妃より、大国の皇子の寵姫でしょ。ノベーラなんて田舎の小国だもの、たとえ愛人でも第三皇子でも、我らイストリア皇国のほうがいいに決まってるわ。責任も負わずに済むし」
わたくしの足が石畳に吸いつきます。
「それにお姫さま本人も、裾の中のほうはねぇ」
女の含み笑いに「どういうこと?」と周囲の女も興味津々です。
「ノベーラから連れてきた若い侍従を、片時も離さないんですって。ヒルベルト様の愛人になってからも、朝から晩までべったり。いくら気位高くて気品があっても、貴族の令嬢が若い男を常に侍らせるなんて、普通じゃないでしょ。それに美女神風を好んで、よく着ているそうよ」
「え。べーヌス風って、不倫相手をお探しの貴族のご夫人の間で流行している、あの肩も腕も丸出しのドレス? 『娼婦と変わらない』って、お堅い年配男性からひんしゅくを買いまくっている、あの?」
わたくしは聞き間違えたかと思いました。
「その、べーヌス風! ヒルベルト様も、本当にお人が悪いわ。田舎から来た、なにも知らない初心なご令嬢に『皇都の最新流行』と偽って娼婦の格好をさせて、日が暮れてから朝遅くまで、たっぷりご堪能! おかわいそうに、ご令嬢ったら、ご自分が皇子妃になれると本気で信じて、囲い者と気づいていないのは、令嬢ご本人だけだそうよ!!」
「まあっ、悪い男性!!」
どっ、と笑い声があがり、女達がげらげら腹を抱えました。
わたくしはただただ、血の気が引いていき、指先から体温が失われます。
「仮にも大公妃になるはずだった姫君が、女遊びの激しい皇子様の愛人だなんて。ヒルベルト様ったら、本当に意地悪。その令嬢も、とんだ悪魔に引っかかったわねぇ」
「そう? 小国とはいえ、公太子妃の道があったのに捨てたのは、自分でしょ? いくら自国より大国だからって、婚約者でもない男について国を出るなんて、まともな令嬢のやることじゃないわ。今時、平民の娘だって、もう少し冷静よ」
「そもそもヒルベルト様は、エポス公国の公女様と婚約してるじゃない。ノベーラでは知られてないのかしらね? 知ってたら、軽はずみはしなかったかもしれないのに、お気の毒に」
「うーん。でもヒルベルト様は、わかっててやったのかも?」
「どういうこと?」
「つまり公太子の婚約者――――未来のノベーラ公太子妃を、ヒルベルト様が愛人にして娼婦のように扱うことで『お前達ノベーラは、イストリアにとってこの程度』って、暗に主張してるんじゃない? ノベーラは怒るけど、国力差を考えれば、安易に反撃できない。それをわかってて、見せしめとして愛人にしたのよ。『しょせんイストリアの属国に過ぎないくせに、独立国顔をするな』ってね。ヒルベルト様って、そういうところがおありだもの」
「そういえば、ノベーラとかクエントとか、あのあたりの小国群には厳しいものね。イストリアから独立した国々ばかりだから」
「そうそう」
ひとしきり笑い合った女達は、「それじゃ」と別れて散っていきます。
けれど、わたくしはその場を動くことができませんでした。
「セレスティナお嬢様」
「アベル…………」
「セレスティナお嬢様、お気をたしかに。下賤の女達の言葉です。真に受けてはなりません」
「でも、アベル!」
「早く、この場を離れましょう。大神殿の者が、いつ《聖印》の紛失に気づくとも限りません」
わたくしはアベルに肩を支えられながら、ふらふらと大神殿前の広場を去りました。頭の中を膨大な情報と感情が渦巻いて、わたくしを翻弄します。
「いったい、どういうことなの」
「セレスティナお嬢様」
「わたくしが愛人だなんて!! ヒルベルト様に婚約者がいるなんて!! なにも聞いていないわ!!」
「セレスティナお嬢様。――――お嬢様はノベーラにいた頃、大公陛下や公太子殿下から、ヒルベルト様の婚約について何事か聞いたことはなかったのですか?」
「――――っ。エポス公国の公女との縁談が進んでいるらしい、とは何度か聞いたわ。でも、縁談よ!? 婚約ではないわ!! ヒルベルト様は、あんなにわたくしを愛していると、わたくしを妻に、皇子妃にしてくださると…………!!」
そこでわたくしは、はた、と足を止めました。
「セレスティナお嬢様?」
「いえ…………」
声がふるえます。
「ヒルベルト様は…………わたくしと結婚すると、おっしゃったかしら?」
「お嬢様!?」
「ヒルベルト様は…………わたくしを愛している、とはおっしゃるけれど…………わたくしを『妃にする』と言ったことは、一度でもあったかしら? いつも、いつも『運命の恋人』とか『俺の百合』という言い方で…………叔父上にも『別荘の女主人だ』と…………そう、別荘の女主人! 財力を持つ男が、愛人に邸を与えるのは、よくあること…………っ!!」
「お嬢様!」
足元から闇がせりあがり、呑み込まれていく気がしました。
ヒルベルト様の男らしく情熱的な台詞の数々が、耳の奥にこだまします。
『ノベーラの聖なる姫君、麗しき銀の百合。俺と共にイストリアに来るか?』
『呼んでもいいだろうか。「デラクルス嬢」ではなく「セレスティナ」と』
「そうだわ…………」
悪しきパズルが一欠片、一欠片はまっていくような、恐ろしい点と点がつながっていくような感覚に、膝から力が抜けていきます。
「ヒルベルト様は『イストリアに来るか』と訊かれたのよ。『結婚するか』ではなく『来るか』と。それに…………わたくしのことを『セレスティナ』と呼んでおられるわ。親愛の情からと思っていたけれど…………二人きりの非公式な場だけでなく、叔父上とお会いしていたあの席でも――――貴族令嬢を意味する『嬢』をつけずに、ただ呼び捨てで…………『デラクルス嬢』がよそよそしいとしても『セレスティナ嬢』と呼ぶことはできるのに。レオ様も普段は『ティナ』でも、公の場では『セレスティナ嬢』と呼んでいたわ。ヒルベルト様は…………わたくしを貴族令嬢として扱っていない…………!?」
「セレスティナお嬢様。先に、次の神殿に向かいましょう。殿下の件は、そのあとで」
アベルがわたくしをうながしましたが、わたくしはそれどころではありませんでした。
「ヒルベルト様は、いまだにわたくしをイストリア皇帝に紹介していないわ。わたくしが何度『早くお会いしたい』と言っても、作法の勉強やドレスの支度が先だ、と言って…………あの方はわたくしを、下賤な妾扱いしていた…………? ただの慰み者だと…………!?」
「お嬢様!!」
わたくしの脳裏に、あの別荘でヒルベルト様と過ごした時間が、次々よみがえります。
「わたくしが『まだ結婚していません』と言ったのに、ヒルベルト様はわたくしを我が物になさったわ。それは、それだけあの方の愛が深く強いのだと、我慢できぬほど愛され求められているのだと思ったからこそ、わたくしもあの方を受け容れたのに。あれはたんに、ただの慰み者だったから? ドレスのことも、人前で平然とわたくしに愛を語っていたのも、わたくしへの愛ゆえではなく、愛人と軽んじていただけの態度だった、と――――そういうことなの!?」
わたくしの内に燃えあがるような怒りが生まれます。
「こんな屈辱は初めてだわ…………っ!!」
わたくしはセレスティナ・デラクルス。デラクルス公爵令嬢にして、次の聖女。未来の皇后。
「真の聖女たるわたくしが、ここまで愚弄されるなんて…………イストリア皇子といえど、許される行為ではないわ! 無礼、いえ、乱心にもほどがあるわ、ヒルベルト様はいったい、なにをお考えなの!?」
わたくしはアベルにヒルベルト様の居場所をたずねました。
「ヒルベルト様に直に確認するわ、でなければ納得できない!」
「お待ちください、セレスティナお嬢様。ヒルベルト殿下は『マンガ』におけるセレスティナお嬢様の真の運命の相手。高貴な姫が、下賤な女の噂話を真に受けてどうします」
「それは…………っ」
わたくしも躊躇しました。
女遊びの激しかったヒーローが、ただ一人の主人公と出会い、その純粋な愛情にうたれて誠実な人間に成長する、というのも一つの定番です。
(ヒルベルト様も、そういうキャラクターなのだとしたら…………)
だとすれば、この件は、わたくし達の愛が試される試練の可能性もあります。
わたくしは額を押さえました。
「漫画どおりだったら…………レオポルドがセレスティナとの婚約を破棄して、ヒルベルトがセレスティナにプロボースして…………そうよ、プロポーズ!! 漫画ではきちんと『俺の妃になってほしい』と言っていたわ! どうして、その違いに気づかなかったのかしら、漫画どおりの展開、としか思っていなかった…………!!」
わたくしは頭を抱えます。
「漫画では、ヒルベルトは堂々とセレスティナを自分の馬車に乗せて、二人一緒にノベーラの宮殿から出立して…………イストリアに到着したら、すぐに皇帝に謁見していた。だからセレスティナは、早々にヒルベルトの婚約者として扱われて…………そもそも漫画では、ヒルベルトは女に囲まれていても、婚約者はいない設定だったはず、どうしてこんなに違うの!?」
「セレスティナお嬢様…………」
わたくしは涙がとまらず、知らず知らずのうちにアベルにすがっていました。
「セレスティナお嬢様。一度、ノベーラに帰国しましょう。ヒルベルト皇子にだまされていた、そう、レオポルド殿下に訴えるのです。レオポルド殿下なら、お嬢様の力に――――」
「――――いいえ」
わたくしは、すぐにはうなずけませんでした。
「なにかの間違い、誤解という可能性もあるわ。やはりヒルベルト様に直接お訊きしないと、真実はわからない…………っ」
わたくしは決めました。
「ヒルベルト様にお会いするわ。皇宮に参ります」
「しかし」
「わたくしはヒルベルト様の婚約者よ? そしてデラクルス公爵令嬢であり、真の聖女でもあるわ。わたくしがイストリア皇宮を訪問するのに、なんの支障があって?」
「ですが、セレスティナお嬢様――――」
その時、通りすがった男達の会話が耳に届きました。
「――――で、皇帝陛下が視察の途中だろ? ドゥオの都でヒルベルト殿下と合流するそうだ。ドゥオの都は殿下の皇子領内だからな」
「で、一家で植物園の見物か。あの皇后陛下は本当に花がお好きだなぁ」
わたくしはアベルを見ました。
「アベル」
「いけません、セレスティナお嬢様。今は《聖印》を優先すべきです。後日、落ち着いてヒルベルト殿下のお戻りを待ちましょう」
「待てないわ、すぐにビブロスを呼んで!」
「しかし」
なおも渋るアベルを、わたくしは押しきりました。
「あなたは、誰の侍従なの!? わたくしの下僕でしょう!? わたくしの命に従いなさい! わたくしの望みを叶えて!!」
アベルははじかれたように表情をひきしめると、人気のない道をさがして、図書館の魔王を召喚しました。
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