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70.アリシア

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 信じられない思いだった。
 真っ暗な嵐が突然晴れて、青い空が広がったような。
 私はビブロスに肩を抱き支えられて、かろうじて立っている。

「どうして、ここに――――」

「対価の受け取りに」

「…………」

「冗談だよ。さすがに、そんな状況じゃないのはわかる」

「…………本当に?」

「もちろん。あとで今日の分は返済してもらうけれど」

「…………」

 守銭奴ならぬ守奴も、ここまでくれば立派かもしれない。

「図書館長殿!!」

「え? どなた?」

 ルイス卿が声をあげ、教皇猊下の戸惑いの声も聞こえる。

「ビブロス!? どうして、あなたがここに…………いえ、あなたもイサーク達同様、ヒロインに篭絡されたのね。やはりあなたは魔女だわ、アリシア・ソル。悪役令嬢主人公の私から、すべてを奪っていく――――!!」

 一人で納得するデラクルス嬢に、ビブロスはいつもどおりの、どこかつまらなそうな淡々とした口調と表情で応じる。

「奪うもなにも。はじめから僕は君のものになった覚えはないよ、セレスティナ・デラクルス。ゲームヒロインも悪役令嬢も、すべては君の誤った解釈だ、誤解だよ」

 ビブロスはもう一方の手を掲げ、その上に数枚の紙が現れる。

「君から対価として受けとった、君の前世の記憶の記録だ。すべての未来が正確に記されていたわけではないけれど、でたらめというには世に隠された真実が書かれすぎていた。面倒だけれど、調べてみたよ。星々にも伝えて――――君が前世で生きていた世界にまで、接触を図る羽目になった。おかげでこの数ヶ月間、読書の時間が大幅に削られた」

 ビブロスは心底うんざりした様子だった。
 そういえば「最近、忙しい」と彼が言っていたことを、私は思い出す。

「結論から言うと。君が前世で読んでいた『マンガ』は作り話なんだよ。歴史ではなくてね。ただし事実を基にしているという点では、叙事詩にちかいと言えるかもしれない」

 デラクルス嬢は怪訝そうに眉をひそめ、私は首をかしげる。

「? どういう意味? というか…………ビブロス、あなた、デラクルス嬢の前世のこととか知っていたの? この世界はマンガじゃないの?」

「世界は世界だ。ただ目の前にあるだけの、現実だよ。僕にとっては詩も物語も、紙面の中に存在する一つの現実だけれどね」

 ぽん、と頭を一つ、なでられる。

越界眼えつかいがん、と言ってね。要は、肉眼では視認できない遠距離や、壁の向こうを透かし視る千里眼の一種だ。今在る世界を超えて、別の世界を透視する能力。透界眼とうかいがんとも呼ばれる。本来は神々の中でも、ごく一握りだけに可能な術、もしくは能力だけれど、非常に稀なことに、神以外がこの力を持って生まれて、かつ健やかに成長する例もあるんだよ。それが君の――――いや、君とアリシアが前世で読んだ『マンガ』の作者だ」

「は…………?」

「『カミヤアイカ』。君達が読んだ『マンガ』の作者は、この越界眼の持ち主だった。幼い頃から定期的に、自分が生きる世界の外、次元を超えた異なる世界の光景を、夢という形で視つづけて、かつ、健康と精神に支障をきたすことなく成人した、稀有な存在だ。本人はまったく自覚がないけれどね。で、この『カミヤアイカ』が『マンガ』を制作するにあたり、話の筋の参考にしたのが、彼女が幼い頃から視つづけてきた夢の数々なんだよ」

「え…………」

「えっと。つまりカミヤアイカさんは、自分が見た夢の内容を、そのままマンガとして描いた、ということ? カミヤアイカさんは…………私達のことを、夢で見ていたの?」

「断片的に、だけれどね。簡潔に述べれば、そういうことだ。いい話の筋が思いつかず、困り果てた末に、自分が見た夢の内容を利用することを思いついた。で、読者の反応が良かったので、そのままつづけた」

「――――っ!」

 デラクルス嬢が目をみはる。

「問題は、夢で得た情報が断片的だったこと。わからない部分はで埋めるしかない。さらに読者の反応や流行を意識して、夢の筋書きの一部を変更アレンジしている。君達が読んだ『マンガ』は、その変更された筋書きのほうなんだよ」

「っ!!」

「え、じゃあ、ということは…………」

 私は懸命に頭を回転させる。
 前世を思い出して以来、ずっと抱えていた懸念事項。

「私が、レオポルド殿下や他の子息達を誘惑して、ノベーラ公太子妃になるために殿下と一緒にデラクルス嬢を罠にはめて、でもイストリア皇子にばれて断罪されて、私は追放されて娼館に送られて、病気になって苦しみながら死ぬ、という結末は――――」

「人物設定に関しては、それなりに忠実に写しとったようだけれどね。展開については『そちらのほうが読者の食いつきがいい』ということで、そういう形に変更したらしい。実際の展開は君が知る通りだよ。君はレオポルドを誘惑していないし、セレスティナ・デラクルスを罠に嵌めてもいない。国外追放は――――まあ、今から悪事を働けば、なるんじゃないかな?」

「働かないわよ!!」

 私は即答していた。そして、どっ、と膝から力が抜ける。

「大丈夫かい?」

 ビブロスが抱き寄せるように肩を支えてくれた(珍しく優しい)。でなければ、その場にへたり込んでいたはずだ。

「…………断罪はないんだ…………」

 声がふるえ、涙がにじんだ。
 前世を思い出してから、半年以上。
 ずっとずっと、今日まで常に心の隅に巣くっていた黒い不安が、雲散霧消した瞬間だった。

「良かった…………」

 涙があふれ、無意識に目の前の黒い服にすがりつくと、指の長い手がいたわるように私の頭をなでてくれる(本当に珍しく優しい)。
 納得いかないのはデラクルス嬢だった。

「冗談じゃないわ!! 悪役令嬢主人公と信じて、そのために生きてきたのに、すべてが作り話!? 創作だというの!?」

「全部ではないけれどね」

「同じ事よ!!」

 デラクルス嬢は頭をふった。

「漫画の世界と思ったからこそ、ヒルベルト皇子を選んで、ブルガトリオ様の妃となったのに!! すべてが作り話フィクション!? だまされたわ、花宮愛歌! どうして本当の未来にそって描かなかったの、そうすれば、わたくしがこんな苦労をすることはなかった! 間違えることなんてなかったのに!!」

「前世の記憶になんか、頼るからだよ」

 ビブロスはばっさり断言した。

「前世なんて珍しいものじゃない。誰でも数回は経験しているものだ。むしろ誕生が初めてという魂のほうが珍しいんだよ、思い出すか出さないかの違いだ。そして忘れて生まれてくることには、意味がある。今回はまさにその事例だ。おとなしく忘れておればいいものを、なまじ魔術を用いてまで思い出そうとこだわるから、足を引っ張られた」

「そんな…………っ」

 淡々とした魔王の言葉と、デラクルス嬢の絶望の声を聞きながら、私も肝を冷やしていた。
 私はデラクルス嬢ほど前世の知識に頼らなかったが、それは危険性を知っていたからではない。単純に、詳細を思い出せなかっただけだ。そんな魔術があることすら知らなかった。
 その私だって、自分が断罪されるゲームヒロインと思ったからこそ、デラクルス嬢達から逃れるために王立学院を自主退学し、断罪回避のために人々を癒しつづけた。
 でも、もしこれが、すべてを手に入れて幸せになれると、あらかじめ知っている悪役令嬢側に生まれ変わっていたら。
 あるいは、もしも最初から今のこの未来がわかっていたら。
 デラクルス嬢のように、私も手に入るはずのない幸せを求めて、幻に手を伸ばしつづけていたのかもしれない。
 そう考えると、とても彼女を笑うことはできなかった。
 一方、ビブロスは特に同情も共感もしていない様子だ。

「詩人や作家が面白おかしく話を盛るなんて、よくあることだよ。それを『事実に沿っていない』と責めるのは、お門違いだ。特に『カミヤアイカ』の『マンガ』はファンタジー幻想を銘打っていた。現実を描いていなくて、なにが悪いんだい? 君だって前世で読んだ時には、あの内容を事実だなんて微塵も思ってはいなかっただろう?」

 数多の書物を収集する図書館の魔王は、わずかに首をかしげた。

「君が今ここに在るのは、君が選択した結果だ。『カミヤアイカ』も誰も、君に強要なんてしていない。ただ君が情報を集めて分析して、判断して選んだ、その結果だよ。実際、君にはノベーラに留まる選択肢もあったし、むしろそちらこそを周囲に望まれていた。それを、わざわざ壊してまで出てきたのは、君自身だろう?」

「違う、違う、わたくしはだまされていただけ…………! ヒルベルト様もブルガトリオ様も花宮愛歌も、みな、わたくしをだましたのよ!!」

 デラクルス嬢は叫んで顔をおおう。

「ティナ!」

 膝が折れかけた細身を、すかさずレオポルド殿下が支えた。

「魔性め!! ティナを侮辱するか!!」

「あそこまでいいように振り回されて、なお愛せるのは、いっそ感心するね」

 ビブロスが声に呆れを含ませて言う。
 その点は私も同感だった。
 色々欠点はあるし、はた迷惑だし、その大半がデラクルス嬢故だが、そこまでただ一人への気持ちを貫ける、という点ではレオポルド殿下は随一だった。
 はた迷惑だけれど。

「経緯は知らないが、ティナを傷つける者なら、私は容赦しない。魔王ならなおさらだ。アリシア・ソル共々、ここで死んでもらう!」

「文系の自覚はあるけれど、さすがに竜の物真似をしているだけの人間には負けないよ。ブルガトリオ自身ならまだしもね」

「これでもか!!」

 レオポルド殿下の手から緋と黒の炎が飛び出す。

「ビブロス!!」

 私はとっさに前へ出かけたが、私の肩を抱くビブロスの手がそれを止めた。
 炎は私達を中心に丸く球体を描いて、左右と頭上を背後へと流れていく。ビブロスはなにかしたようにも見えない。

「くっ、この…………!!」

 レオポルド殿下は、またもや炎を放った。周囲が緋と黒に塗り替えられるが、私達にはなんの影響もない。私の盾の時と違って、熱さえ感じなかった。
 まるでガラスの箱の中から外の業火を見物するようだ。ルイス卿や教皇猊下達も、なんだか物珍し気に四方を見渡している。

「おのれ、ビブロス…………っ!!」

 アベルが歯ぎしりするのが見えた。

「殿下、ここはいったん撤退を…………!」

 彼がレオポルド殿下を見た、その時だった。
 ふっ、と唐突に炎が消滅する。

「殿下?」

「レオ様?」

 レオポルド殿下は汗まみれだった。荒い呼吸をくりかえし、胸を、腹を、肩や全身を押さえて、かきむしる。

「あ、あ、あ」

「レオ様!?」

 一瞬、緋髪に漆黒の瞳の姿がゆらいだかと思うと、緋と黒の光を放って、炎が上空へと吹き出した。あおられたデラクルス嬢が悲鳴をあげ、アベルが駆け寄って支える。

「え、なに? どうしたの!?」

「ブルガトリオの魔力が公太子から離れたんだよ」

 ビブロスは言った。

「君はやっぱり、魔術師としては三流だ、アベル・マルケス。魔術に関しては、母親のほうがはるかに手練れだった。自分が体内に魔物を宿していたからこそ、公太子にブルガトリオの魔力を宿すことを思いついたんだろうが、堕とされたとはいえ、ブルガトリオは神だ。君が宿していた魔物達とは、力も格も根本から異なる。いくらアリシアの聖魔力で弱っていたとはいえ、人間一人の器に収められるはずがないだろう。やり方が雑すぎるんだよ」

 アベルが憎悪の炎を瞳に燃やして、ビブロスをにらみつける。
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