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46.セレスティナ
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その後。わたくしはアベルの助言に従い、戦勝会やヒルベルト様の壮行会を兼ねた新年の宴で、レオ様がアリシア・ソルに心奪われるよう、アベルに惚れ薬を使わせました。
本物の魔術師だったというアベルの母が調合した、三本の惚れ薬。
うち一本は、わたくしへの忠誠の証としてアベル自身が飲んでいましたが、今回、二本目をアベルの細工でレオ様に飲ませたのです。
「それほどまでに、公太子殿下のセレスティナお嬢様への愛は、一途で強固です。魔術の力でも借りなければ、とても他の女に心を移すなどありえぬでしょう」
それがアベルの意見でした。
わたくしも同意します。
「そう…………そうね、アベル。レオ様のお心はとても気高くて、とても意思の強い方だもの」
「恐れながら、もう一度、確認させていただきます。公太子殿下に魔術の薬を飲ませる。お許しいただけるのですね? セレスティナお嬢様」
「ええ」と、わたくしは首肯しました。
「言ったでしょう。わたくしは、ノベーラでもっとも凛々しく輝かしい存在だったレオ様が、魔女に心奪われる姿など見たくない。それが漫画本来の展開だとしても。だから、どうしてもというなら、いっそ惚れ薬を飲ませてしまいたいの。それならレオ様がアリシア・ソルを愛したのは、惚れ薬のせいだもの。レオ様の心が本当に愛しておられるのはわたくしだと、いつまでも信じることができるし、わたくしの中のレオ様の思い出も汚れることなく、永遠に美しく清いまま残せるでしょう?」
「かしこまりました」
アベルはうなずき、そのあと実際に宴でレオ様に惚れ薬を飲ませて、レオ様がアリシア・ソルに心奪われるよう仕向けることに成功しました。
魔術のせいとわかっていても、レオ様のあの美しい紫水晶のような双眸が、情熱的にあの魔女を見つめる様は、言いようもなく胸が痛みました。
けれど漫画の強制力もあったのか、レオ様は予定どおりわたくしとの婚約を破棄して、わたくしもそれを承知し、ヒルベルト様も当然わたくしをかばって、レオ様のみならず大公陛下その他の前で堂々と、わたくしにプロポーズなさったのです。
「泣くことはない、デラクルス嬢。貴女は申し分のない姫君だ、この国で貴女以上に美しく優雅な姫など、存在するだろうか。俺がもらいうけたいくらいだ、ノベーラの麗しき銀の百合。俺と共にイストリアに来るか?」
あの時のヒルベルト様の、罪作りなまでに魅惑的な笑みといったら!
わたくしは運命に従ってヒルベルト様のプロポーズを受け容れ、その場を去りました。
(さあ。このあとは、どうすればいいのかしら?)
婚約破棄イベントをクリア後。わたくしは迷います。
ヒルベルト様はわたくしを控え室まで送ってくださいました。宮殿内の、上流貴族専用の控え室です。最近は、もっぱらデラクルス公爵家専用となっていましたが。
(漫画では、婚約破棄のあとは場面転換して、家にいたはず。でも)
イストリア皇国に行くにしても、いつ行くか、どのような形で行くか、荷物はどれほどまとめるべきか、打ち合わせというか様々な確認や調整が必要です。
かといって、本格的に相談するには遅い時刻。
ヒルベルト様がノベーラ貴族なら、今からお邸に伺って、そのまま滞在して婚約を世間に知らしめる選択もあったでしょうが、ヒルベルト様はこの宮殿に滞在されている、他国の方。
レオ様との婚約が白紙になったとはいえ、ヒルベルト様のお部屋に滞在すれば、大公陛下からあれこれ言われる可能性がありますし、レオ様が魔女を溺愛する様が目に入ったり耳に届いたりする機会もあるでしょう。それは不快です。
(どうしたものかしら)
わたくしが思わず唸った時、忠実な下僕がとんでもない知らせをもたらしました。
「セレスティナお嬢様。少しよろしいですか?」
アベルがわたくしをヒルベルト様から離すと、最悪な報告を寄こしたのです。
「公太子殿下の魔術が解かれました」
「えっ…………」
「アリシア・ソルが殿下に聖魔力を放って体内の惚れ薬を浄化し、殿下の変心は魔術によるもの、と大公陛下その他の前で、明らかにしたのです。公太子殿下は意識を失われているそうですが、じき、お目覚めになるでしょう」
「な…………!!」
わたくしは仰天しました。
けれど、考えてみればありうることでした。
アリシア・ソルは漫画の知識を持つ、転生者。そして、わたくしの聖魔力をわがものとしている、一筋縄ではいかない女です。
断罪を回避するため、あえてレオ様を癒して婚約を回避するのも、一つの選択でしょう。そうしてレオ様や大公陛下に恩を売り信頼を得て、あらためて篭絡するのです。
あの女のずる賢さ、しぶとさを甘く見ていました。
「ああ、なんてことなの。どうしたらいいのかしら、アベル。もし、レオ様に惚れ薬を飲ませたのが、わたくしと知れたら…………っ。あの魔女は、どこまでわたくしの邪魔を…………っ」
「落ち着いてくださいませ、セレスティナお嬢様。あの婚約破棄において、一番の被害者はセレスティナお嬢様です。まして、お嬢様と公太子殿下の仲睦まじさは、宮殿中の知るところ。そのセレスティナお嬢様が、なぜ殿下に惚れ薬を飲ませる必要があるのか。セレスティナお嬢様を疑う者はおりません。万一いたとしても、実際に殿下に薬を飲ませたのは私です。お嬢様は知らぬ存ぜぬを通せばよいのです。『侍従が勝手に愚行に走った』と」
「アベル…………っ」
わたくしの下僕は、どこまでも澄んだ忠誠のまなざしで、わたくしを見つめています。
「それより、宮殿を出ましょう。公太子殿下がお目覚めになれば、弁解のため、すぐにセレスティナお嬢様に会いに来るはず。当然、婚約破棄も撤回されることでしょう」
「!! そうだわ、たしかに…………!!」
今、レオ様とお会いして「あの時は正気でなかった」「婚約は破棄しない」と告げられてしまったら、苦労して整えたイベントは台無し。漫画本来の展開に進めることができなくなります。
アベルはさらに追い打ちをかけてきました。
「ヒルベルト殿下も、じきに公太子殿下の婚約破棄宣言の真相を知るでしょう」
「!!」
「その前に、ヒルベルト殿下にセレスティナお嬢様と婚約する決意を固めていただかなければなりません」
「でも、どうすれば…………!」
「これを」と、アベルはお仕着せの懐から、一枚の古びた羊皮紙を取り出しました。
「これを殿下にお見せください。ただし、見せるだけです。今夜は、まだ渡してはなりません。この羊皮紙の内容について、このあと話し合いたい。そう、お伝えするのです」
「わかったわ、アベル」
わたくしはたたまれた羊皮紙を受けとり、ヒルベルト様のもとに戻ります。
そしてヒルベルト様を控え室の中へ招き入れ、待機していた召使いをいったん下がらせると「見ていただきたいものがあるのです」と、羊皮紙を広げてみせました。
「これは…………!」
ヒルベルト様は羊皮紙に押された印章や記された文章を確認し、琥珀色の目を瞠られます。
「諸事情あって、わたくしが手に入れた品です。ですが、ヒルベルト様がお持ちになるべきかと思い、持参しました」
「それは…………いや、しかしデラクルス嬢。どうやって、このような物を」
「これ以上は、日をあらためて。わたくしは、もう帰らなくてはなりません」
ヒルベルト様はわたくしを引き留めようとなさいましたが、無理と理解なさったのでしょう。「では」と、後日あらためて会う約束を交わすと宴へと戻って行かれ、わたくしも召使いの制止にかまわず、アベル一人を供に、いそいで馬車へ走って帰宅したのです。
あとから知ることですが、この晩、宮殿は公太子に恐ろしい魔術の薬を飲ませた下手人を探し出すため、すべての出入り口が封鎖され、わたくし達もあと少し遅ければ帰れなくなっていたところでした。
宮殿では入念かつ厳しい調査がはじまって父は帰宅できず、翌日、事情聴取の役人と共に帰ってきました。
わたくしは心痛で寝込んだふりをして、ごく短時間だけ役人達と面会して、前夜の説明をします。役人達は特に怪しむ様子もなく帰っていき、父があらためて詳細を説明してきました。
「レオポルド殿下は、そなたにとりかえしのつかない傷をつけてしまったと、ひどく落胆されていた。婚約破棄は殿下の本心ではない。そなたも、これまで殿下にあれほど愛されてきたのだ、理解できるだろう。明日にでも伺候して、殿下に顔をお見せしてさしあげなさい」
そう言いますが、殿下にお会いして婚約破棄を撤回されては、漫画の展開に戻ることができません。
かといって固辞すれば父に怪しまれるし、不敬と受けとられる危険性もあります。
わたくしは、
「あまりに衝撃的過ぎて、どなたの言葉も信じられません。ですが…………お父様がそこまでおっしゃるなら、勇気を出してもう一度、レオ様のお話を伺ってみようと思います」
と、素直に受け容れるふりをして「気持ちを整える時間をください」と、三日間の猶予を得ました。
そして翌日にはヒルベルト様に会うため、アベル一人を伴い、公爵邸を抜け出したのです。
ヒルベルト様は約束どおり、公都の王立図書館でわたくしを待っておられました。ここは王侯貴族や、王侯貴族の紹介状を持つ一握りの者しか入れないため、人目をあまり気にせずに済みますし、わたくしやヒルベルト様は自由に出入りできます。
わたくしは個室となっている閲覧席の一つへヒルベルト様を案内し、そこで、あらためて例の羊皮紙をイストリア皇国第三皇子殿下にお見せしました。
「これは…………間違いなく、本物の誓約書だ。しかしデラクルス嬢、貴女はどこで、どうやってこんな重要書類を――――」
「今は、秘密にさせてくださいませ。ただ、わたくしには有能な味方が幾人もおります。ヒルベルト様のためでしたら、この程度のことは造作もありません、とだけ」
いたずらっぽく笑いながら、わたくしは期待に胸が弾むのを抑えられませんでした。
ヒルベルト様はわたくしを気の回る女、得難い女と確信したはずです。漫画ではそうなっていたのですから。
実際、そうなりました。
「なんと…………では、もしや貴女は本当に、これを俺に預けるというのか? イストリア皇子である俺に。そのために、大勢を犠牲にしたと――――?」
「ヒルベルト様が手に入れるべき品です。わたくしの苦労など、どうということはありませんわ」
「いったい何故、そこまで。なんのために――――」
「――――おわかりになりませんか?」
わたくしの青玉の瞳が潤みます。
「ヒルベルト様に喜んでいただきたかったのです。それだけですわ。レオ様との婚約は破棄されました、わたくしは自由の身です。今のわたくしには、ヒルベルト様だけ。わたくしをさらってくださるという、あの夜の、あの言葉だけなのです!!」
「デラクルス嬢…………っ」
わたくしの熱い想いあふれる瞳を見たヒルベルト様は、耐えかねたようにわたくしの手をとり、包み込みます。
「なんという方だ。ノベーラ一の美姫、公太子の婚約者でありながら、貴女という人はそこまで俺を――――?」
「ええ、そうですわ」
わたくしも思わず、目の前の男性にすがりついていました。
「愛しています、ヒルベルト様。こんなに胸が熱くなったのは、生まれて初めて…………っ」
「デラクルス嬢!」
ヒルベルト様のたくましい両腕がしっかりとわたくしを抱きしめ、広い胸の中に閉じ込めます。わたくしは胸が激しく高鳴り、息が止まりそうなほどの酩酊感に翻弄されながら「ああ」と、熱く息をもらしました。
ヒルベルト様がわたくしの耳にささやきます。
「――――呼んでいいだろうか。『デラクルス嬢』ではなく、『セレスティナ』と」
「むろん…………もちろんです、ヒルベルト様。呼んでくださいませ、わたくしの名を。ノベーラ公太子の婚約者ではなく、ヒルベルト様の妃としての名を」
「――――ならば、いくらでも呼ぼう、セレスティナ。俺の銀の百合、美しき冬の湖、運命の恋人。俺は貴女に出会うため、ノベーラを訪れたのだ――――!!」
「嬉しい…………嬉しいです、ヒルベルト様。あなたの妃になる日を、どれほど待ち焦がれていたことか…………っ」
ヒルベルト様の唇が熱く激しく強引に、わたくしの唇を奪いました。
わたくしもほとばしる情熱に身を任せて、それを受け容れます。
そう。やっと。やっと、待ち焦がれていた漫画の展開に持っていくことができたのです。
最悪の魔女アリシア・ソルの陰謀により、婚約者であったレオ様を奪われ、不当に婚約破棄され、けれども真の運命の相手であるヒルベルト様に守られ、さらわれてイストリア皇国へ。
今後、わたくしは正式に聖女として認められ、ヒルベルト様と結婚してイストリア皇子妃となり、さらにはイストリア皇太子である第一皇子と第二皇子が相次いで亡くなるため、第三皇子であったヒルベルト様がイストリア皇帝として即位し、最終的にはわたくしはイストリア史上にも稀な『イストリア皇后にして聖女、聖皇后セレスティナ』と呼ばれるようになるのです。
歓喜と感激の涙がわたくしの頬をつたい、ヒルベルト様はさらに何度も口づけをくりかえされ、あまりの情熱と技巧にわたくしの膝から力が抜けて、座り込んでしまいそうになった頃。ようやく唇を解放していただきました。
そしてもう一度、強く強く、わたくしを抱きしめられたのです。
「俺は貴女をさらっていく――――抵抗しないでくれ、セレスティナ。いいな?」
「ええ、ヒルベルト様…………っ」
わたくし達が誓い合うと、閲覧室の外から「そろそろお戻りください」と、せかすアベルの声が聞こえます。
わたくしはいそいでヒルベルト様から羊皮紙を返していただき、手早く今後のことを確認し合うと、名残惜しい気持ちをこらえて一人、先に閲覧室を出ました。
「お急ぎください」
アベルに先導され、人気のない廊下へ移動すると、彼は図書館の魔王ビブロスを召喚します。
来た時同様、わたくしの図書館設立のために寄贈された本を対価に、ビブロスの力で直接、わたくしとアベルをデラクルス公爵邸のわたくしの寝室へと、運んでもらいました。
これなら、邸を抜け出す姿を召使い達に目撃される心配はないし、召使い達はわたくしが寝室にこもっていると信じて、怪しまれることもありません。
そうしてわたくしは「急に月の物がきた」と口実をもうけて、もう五日間、宮殿に伺候する日を延長すると、宮殿に伺候する前日の夜にアベルと二人、ふたたびビブロスの力で公爵邸を抜け出しました。
そして手筈どおり、すでにノベーラの宮殿を出て、イストリア皇国への帰途についていたヒルベルト様と合流しました。
婚約破棄を経て、本物の運命の相手である皇子からの求婚を受け、皇子の国へ。
漫画どおりの展開でした。
本物の魔術師だったというアベルの母が調合した、三本の惚れ薬。
うち一本は、わたくしへの忠誠の証としてアベル自身が飲んでいましたが、今回、二本目をアベルの細工でレオ様に飲ませたのです。
「それほどまでに、公太子殿下のセレスティナお嬢様への愛は、一途で強固です。魔術の力でも借りなければ、とても他の女に心を移すなどありえぬでしょう」
それがアベルの意見でした。
わたくしも同意します。
「そう…………そうね、アベル。レオ様のお心はとても気高くて、とても意思の強い方だもの」
「恐れながら、もう一度、確認させていただきます。公太子殿下に魔術の薬を飲ませる。お許しいただけるのですね? セレスティナお嬢様」
「ええ」と、わたくしは首肯しました。
「言ったでしょう。わたくしは、ノベーラでもっとも凛々しく輝かしい存在だったレオ様が、魔女に心奪われる姿など見たくない。それが漫画本来の展開だとしても。だから、どうしてもというなら、いっそ惚れ薬を飲ませてしまいたいの。それならレオ様がアリシア・ソルを愛したのは、惚れ薬のせいだもの。レオ様の心が本当に愛しておられるのはわたくしだと、いつまでも信じることができるし、わたくしの中のレオ様の思い出も汚れることなく、永遠に美しく清いまま残せるでしょう?」
「かしこまりました」
アベルはうなずき、そのあと実際に宴でレオ様に惚れ薬を飲ませて、レオ様がアリシア・ソルに心奪われるよう仕向けることに成功しました。
魔術のせいとわかっていても、レオ様のあの美しい紫水晶のような双眸が、情熱的にあの魔女を見つめる様は、言いようもなく胸が痛みました。
けれど漫画の強制力もあったのか、レオ様は予定どおりわたくしとの婚約を破棄して、わたくしもそれを承知し、ヒルベルト様も当然わたくしをかばって、レオ様のみならず大公陛下その他の前で堂々と、わたくしにプロポーズなさったのです。
「泣くことはない、デラクルス嬢。貴女は申し分のない姫君だ、この国で貴女以上に美しく優雅な姫など、存在するだろうか。俺がもらいうけたいくらいだ、ノベーラの麗しき銀の百合。俺と共にイストリアに来るか?」
あの時のヒルベルト様の、罪作りなまでに魅惑的な笑みといったら!
わたくしは運命に従ってヒルベルト様のプロポーズを受け容れ、その場を去りました。
(さあ。このあとは、どうすればいいのかしら?)
婚約破棄イベントをクリア後。わたくしは迷います。
ヒルベルト様はわたくしを控え室まで送ってくださいました。宮殿内の、上流貴族専用の控え室です。最近は、もっぱらデラクルス公爵家専用となっていましたが。
(漫画では、婚約破棄のあとは場面転換して、家にいたはず。でも)
イストリア皇国に行くにしても、いつ行くか、どのような形で行くか、荷物はどれほどまとめるべきか、打ち合わせというか様々な確認や調整が必要です。
かといって、本格的に相談するには遅い時刻。
ヒルベルト様がノベーラ貴族なら、今からお邸に伺って、そのまま滞在して婚約を世間に知らしめる選択もあったでしょうが、ヒルベルト様はこの宮殿に滞在されている、他国の方。
レオ様との婚約が白紙になったとはいえ、ヒルベルト様のお部屋に滞在すれば、大公陛下からあれこれ言われる可能性がありますし、レオ様が魔女を溺愛する様が目に入ったり耳に届いたりする機会もあるでしょう。それは不快です。
(どうしたものかしら)
わたくしが思わず唸った時、忠実な下僕がとんでもない知らせをもたらしました。
「セレスティナお嬢様。少しよろしいですか?」
アベルがわたくしをヒルベルト様から離すと、最悪な報告を寄こしたのです。
「公太子殿下の魔術が解かれました」
「えっ…………」
「アリシア・ソルが殿下に聖魔力を放って体内の惚れ薬を浄化し、殿下の変心は魔術によるもの、と大公陛下その他の前で、明らかにしたのです。公太子殿下は意識を失われているそうですが、じき、お目覚めになるでしょう」
「な…………!!」
わたくしは仰天しました。
けれど、考えてみればありうることでした。
アリシア・ソルは漫画の知識を持つ、転生者。そして、わたくしの聖魔力をわがものとしている、一筋縄ではいかない女です。
断罪を回避するため、あえてレオ様を癒して婚約を回避するのも、一つの選択でしょう。そうしてレオ様や大公陛下に恩を売り信頼を得て、あらためて篭絡するのです。
あの女のずる賢さ、しぶとさを甘く見ていました。
「ああ、なんてことなの。どうしたらいいのかしら、アベル。もし、レオ様に惚れ薬を飲ませたのが、わたくしと知れたら…………っ。あの魔女は、どこまでわたくしの邪魔を…………っ」
「落ち着いてくださいませ、セレスティナお嬢様。あの婚約破棄において、一番の被害者はセレスティナお嬢様です。まして、お嬢様と公太子殿下の仲睦まじさは、宮殿中の知るところ。そのセレスティナお嬢様が、なぜ殿下に惚れ薬を飲ませる必要があるのか。セレスティナお嬢様を疑う者はおりません。万一いたとしても、実際に殿下に薬を飲ませたのは私です。お嬢様は知らぬ存ぜぬを通せばよいのです。『侍従が勝手に愚行に走った』と」
「アベル…………っ」
わたくしの下僕は、どこまでも澄んだ忠誠のまなざしで、わたくしを見つめています。
「それより、宮殿を出ましょう。公太子殿下がお目覚めになれば、弁解のため、すぐにセレスティナお嬢様に会いに来るはず。当然、婚約破棄も撤回されることでしょう」
「!! そうだわ、たしかに…………!!」
今、レオ様とお会いして「あの時は正気でなかった」「婚約は破棄しない」と告げられてしまったら、苦労して整えたイベントは台無し。漫画本来の展開に進めることができなくなります。
アベルはさらに追い打ちをかけてきました。
「ヒルベルト殿下も、じきに公太子殿下の婚約破棄宣言の真相を知るでしょう」
「!!」
「その前に、ヒルベルト殿下にセレスティナお嬢様と婚約する決意を固めていただかなければなりません」
「でも、どうすれば…………!」
「これを」と、アベルはお仕着せの懐から、一枚の古びた羊皮紙を取り出しました。
「これを殿下にお見せください。ただし、見せるだけです。今夜は、まだ渡してはなりません。この羊皮紙の内容について、このあと話し合いたい。そう、お伝えするのです」
「わかったわ、アベル」
わたくしはたたまれた羊皮紙を受けとり、ヒルベルト様のもとに戻ります。
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「これは…………!」
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「諸事情あって、わたくしが手に入れた品です。ですが、ヒルベルト様がお持ちになるべきかと思い、持参しました」
「それは…………いや、しかしデラクルス嬢。どうやって、このような物を」
「これ以上は、日をあらためて。わたくしは、もう帰らなくてはなりません」
ヒルベルト様はわたくしを引き留めようとなさいましたが、無理と理解なさったのでしょう。「では」と、後日あらためて会う約束を交わすと宴へと戻って行かれ、わたくしも召使いの制止にかまわず、アベル一人を供に、いそいで馬車へ走って帰宅したのです。
あとから知ることですが、この晩、宮殿は公太子に恐ろしい魔術の薬を飲ませた下手人を探し出すため、すべての出入り口が封鎖され、わたくし達もあと少し遅ければ帰れなくなっていたところでした。
宮殿では入念かつ厳しい調査がはじまって父は帰宅できず、翌日、事情聴取の役人と共に帰ってきました。
わたくしは心痛で寝込んだふりをして、ごく短時間だけ役人達と面会して、前夜の説明をします。役人達は特に怪しむ様子もなく帰っていき、父があらためて詳細を説明してきました。
「レオポルド殿下は、そなたにとりかえしのつかない傷をつけてしまったと、ひどく落胆されていた。婚約破棄は殿下の本心ではない。そなたも、これまで殿下にあれほど愛されてきたのだ、理解できるだろう。明日にでも伺候して、殿下に顔をお見せしてさしあげなさい」
そう言いますが、殿下にお会いして婚約破棄を撤回されては、漫画の展開に戻ることができません。
かといって固辞すれば父に怪しまれるし、不敬と受けとられる危険性もあります。
わたくしは、
「あまりに衝撃的過ぎて、どなたの言葉も信じられません。ですが…………お父様がそこまでおっしゃるなら、勇気を出してもう一度、レオ様のお話を伺ってみようと思います」
と、素直に受け容れるふりをして「気持ちを整える時間をください」と、三日間の猶予を得ました。
そして翌日にはヒルベルト様に会うため、アベル一人を伴い、公爵邸を抜け出したのです。
ヒルベルト様は約束どおり、公都の王立図書館でわたくしを待っておられました。ここは王侯貴族や、王侯貴族の紹介状を持つ一握りの者しか入れないため、人目をあまり気にせずに済みますし、わたくしやヒルベルト様は自由に出入りできます。
わたくしは個室となっている閲覧席の一つへヒルベルト様を案内し、そこで、あらためて例の羊皮紙をイストリア皇国第三皇子殿下にお見せしました。
「これは…………間違いなく、本物の誓約書だ。しかしデラクルス嬢、貴女はどこで、どうやってこんな重要書類を――――」
「今は、秘密にさせてくださいませ。ただ、わたくしには有能な味方が幾人もおります。ヒルベルト様のためでしたら、この程度のことは造作もありません、とだけ」
いたずらっぽく笑いながら、わたくしは期待に胸が弾むのを抑えられませんでした。
ヒルベルト様はわたくしを気の回る女、得難い女と確信したはずです。漫画ではそうなっていたのですから。
実際、そうなりました。
「なんと…………では、もしや貴女は本当に、これを俺に預けるというのか? イストリア皇子である俺に。そのために、大勢を犠牲にしたと――――?」
「ヒルベルト様が手に入れるべき品です。わたくしの苦労など、どうということはありませんわ」
「いったい何故、そこまで。なんのために――――」
「――――おわかりになりませんか?」
わたくしの青玉の瞳が潤みます。
「ヒルベルト様に喜んでいただきたかったのです。それだけですわ。レオ様との婚約は破棄されました、わたくしは自由の身です。今のわたくしには、ヒルベルト様だけ。わたくしをさらってくださるという、あの夜の、あの言葉だけなのです!!」
「デラクルス嬢…………っ」
わたくしの熱い想いあふれる瞳を見たヒルベルト様は、耐えかねたようにわたくしの手をとり、包み込みます。
「なんという方だ。ノベーラ一の美姫、公太子の婚約者でありながら、貴女という人はそこまで俺を――――?」
「ええ、そうですわ」
わたくしも思わず、目の前の男性にすがりついていました。
「愛しています、ヒルベルト様。こんなに胸が熱くなったのは、生まれて初めて…………っ」
「デラクルス嬢!」
ヒルベルト様のたくましい両腕がしっかりとわたくしを抱きしめ、広い胸の中に閉じ込めます。わたくしは胸が激しく高鳴り、息が止まりそうなほどの酩酊感に翻弄されながら「ああ」と、熱く息をもらしました。
ヒルベルト様がわたくしの耳にささやきます。
「――――呼んでいいだろうか。『デラクルス嬢』ではなく、『セレスティナ』と」
「むろん…………もちろんです、ヒルベルト様。呼んでくださいませ、わたくしの名を。ノベーラ公太子の婚約者ではなく、ヒルベルト様の妃としての名を」
「――――ならば、いくらでも呼ぼう、セレスティナ。俺の銀の百合、美しき冬の湖、運命の恋人。俺は貴女に出会うため、ノベーラを訪れたのだ――――!!」
「嬉しい…………嬉しいです、ヒルベルト様。あなたの妃になる日を、どれほど待ち焦がれていたことか…………っ」
ヒルベルト様の唇が熱く激しく強引に、わたくしの唇を奪いました。
わたくしもほとばしる情熱に身を任せて、それを受け容れます。
そう。やっと。やっと、待ち焦がれていた漫画の展開に持っていくことができたのです。
最悪の魔女アリシア・ソルの陰謀により、婚約者であったレオ様を奪われ、不当に婚約破棄され、けれども真の運命の相手であるヒルベルト様に守られ、さらわれてイストリア皇国へ。
今後、わたくしは正式に聖女として認められ、ヒルベルト様と結婚してイストリア皇子妃となり、さらにはイストリア皇太子である第一皇子と第二皇子が相次いで亡くなるため、第三皇子であったヒルベルト様がイストリア皇帝として即位し、最終的にはわたくしはイストリア史上にも稀な『イストリア皇后にして聖女、聖皇后セレスティナ』と呼ばれるようになるのです。
歓喜と感激の涙がわたくしの頬をつたい、ヒルベルト様はさらに何度も口づけをくりかえされ、あまりの情熱と技巧にわたくしの膝から力が抜けて、座り込んでしまいそうになった頃。ようやく唇を解放していただきました。
そしてもう一度、強く強く、わたくしを抱きしめられたのです。
「俺は貴女をさらっていく――――抵抗しないでくれ、セレスティナ。いいな?」
「ええ、ヒルベルト様…………っ」
わたくし達が誓い合うと、閲覧室の外から「そろそろお戻りください」と、せかすアベルの声が聞こえます。
わたくしはいそいでヒルベルト様から羊皮紙を返していただき、手早く今後のことを確認し合うと、名残惜しい気持ちをこらえて一人、先に閲覧室を出ました。
「お急ぎください」
アベルに先導され、人気のない廊下へ移動すると、彼は図書館の魔王ビブロスを召喚します。
来た時同様、わたくしの図書館設立のために寄贈された本を対価に、ビブロスの力で直接、わたくしとアベルをデラクルス公爵邸のわたくしの寝室へと、運んでもらいました。
これなら、邸を抜け出す姿を召使い達に目撃される心配はないし、召使い達はわたくしが寝室にこもっていると信じて、怪しまれることもありません。
そうしてわたくしは「急に月の物がきた」と口実をもうけて、もう五日間、宮殿に伺候する日を延長すると、宮殿に伺候する前日の夜にアベルと二人、ふたたびビブロスの力で公爵邸を抜け出しました。
そして手筈どおり、すでにノベーラの宮殿を出て、イストリア皇国への帰途についていたヒルベルト様と合流しました。
婚約破棄を経て、本物の運命の相手である皇子からの求婚を受け、皇子の国へ。
漫画どおりの展開でした。
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私の名前はエリザベート・ノイズ
公爵令嬢である。
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ここは乙女ゲームの世界だ。そして私は悪役令嬢に生まれかわった。そのことを5歳の誕生パーティーの夜に知るのだった。
父はアフレイド・ノイズ公爵。
ノイズ公爵家の家長であり王国の重鎮。
魔法騎士団の総団長でもある。
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⭐️第16回 ファンタジー小説大賞参加中です。応援してくれると嬉しいです
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