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44.セレスティナ

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「お初にお目にかかる、デラクルス嬢。ノベーラの聖女候補にして、あのガラスペンやセレスティ(お菓子のトライフルのイストリア皇国での呼び名。考案者である、わたくしの名が由来です)を発明した賢女に会えるこの日を、イストリアで待ちわびていた」

 そう言って笑った、野性味と艶やかさが同居した美貌。鋭くも妖しい琥珀色の瞳。
 金糸銀糸をふんだんに用いた豪奢な装いと、それが様になる男らしい長身。堂々とした立ち居振る舞い。
 ヒルベルト殿下と初めてお会いしたのは、クエント侯国との戦争が終結する少し前。
 殿下はノベーラ大公国とイストリア皇国の親睦のため、そして自身の見聞を広めるため、ノベーラに遊学にいらした方でした。
…………正直にいえば、わたくしは最初、ヒルベルト殿下と出会うべきか迷っていました。
 漫画では、殿下はセレスティナわたくしを助けて結ばれる真の恋人、未来の夫。
 ですがこの時点では、わたくしの心はレオ様にこそ強く惹かれていました。
 裏切られ、捨てられる運命と知りつつも、レオ様がわたくしに向けてくださる愛や優しさを失いたくない、レオ様をアリシア・ソルに奪われたくないと、そればかりを祈っていたのです。
 ですから未来の公太子妃として、レオ様と共にヒルベルト殿下との交流の席が設けられた時、わたくしは(いっそ、仮病でも使って欠席してしまおうかしら)とすら考えました。
 けれど、とっておきのドレスと宝石で身を飾って、はじめて殿下とお会いした時。

(ああ、なんてこと!)

 イストリア皇国第三王子ヒルベルト殿下。

(お義兄にい様…………!!)

 わたくしの運命の恋人は、わたくしが前世でとてもよく知る方に生き写しでした。





 前世で。わたくしは高貴な家に生まれた高貴な人間のさだめとして、父が選んだつり合いのとれた相手と結婚し、娘を一人授かりました。
 夫は、わたくしの実家に比べるとやや家格は劣るものの、誰もが知る大企業の社長の次男で重役。
 義兄は義父の後継者で、次期社長でした。
 わたくしははじめ、この義兄が苦手でした。
 夫も義兄を嫌っていました。
 義兄は幼い頃から優秀でしたが、それだけに、そうでない者の気持ちが理解できないところがあったうえ、歯に衣着せぬというか、無能な人間に「無能」とはっきり言ってしまうような、容赦のないところがありました。
 そのため夫は幼い頃からなにかと義兄と比較され、義兄自身からも貶されて、嫌な思いをしてきたと聞きます。
 夫は育ちはいいのに、どことなく朴訥とした印象があり、わたくしの友人からも、わたくしと並ぶと「なんだかちぐはぐね」と言われてしまうほどで、対照的に、義兄は昔から品の良い知的なエリート然として女子の人気も高かったそうなので、それも夫の反感の一因だったのかもしれません。
 わたくしも弟の嫁という立場上、わかりやすく失礼なことを言われるようなことはありませんでしたが、義兄がわたくしに好意的でないことは薄々伝わっていました。
 義父は自分の跡継ぎとして義兄を頼りにしてはいたけれど、義兄の性格の難しさについては義父も義母も承知しており、また本人にその気がなかったこともあり、弟である夫が義兄より先にわたくしと結婚したあとも、義兄は独身のまま。
 わたくし達の娘が婿養子を迎えて家を継ぐことになりそうだ、とさえ噂されていました。
 そんな義兄でしたが、わたくしが娘を産むと一変します。
 無垢な赤子というのは、人を変える力があるのでしょうか。
 義兄はわたくしの娘(義兄から見ると姪ですね)と対面して以来、またたく間に娘を溺愛するようになりました。
 それまで仕事人間だったのが、定時には仕事を切りあげて帰宅するようになり、誕生日やクリスマスのプレゼントを欠かさないのはもちろん、朝の幼稚舎や小学校へのお見送りも、義兄が車を出してわたくしと娘を送ってくれます。
 娘も義兄に懐き、義兄も娘と接することでどんどん人当たりがやわらかくなり、わたくしは義父や義母から「あなたが、あの子を産んでくれたおかげよ」と何度も感謝され、わたくし自身、この男性ひとはこんなにも優しく笑うことができたのか、と驚いていました。
 断っておきますが、わたくしと義兄の間に男女の何かが起きた事実は、天地神明に誓って一度たりともありません。むしろ当時のわたくしは、義兄に対して変化していく己の感情が、恋であることにすら気づいていませんでした。
 ただ、朝に義兄が娘を送ってくれる車の中、わたくしと幼い娘と義兄の三人だけで過ごす一時は、義兄を嫌う夫には申し訳ないけれど、本当に楽しく心満たされて、わたくし達こそ本当の親子であったなら…………そう感じていただけです。
 やがて娘は中等部への進級を機に「もう一人で行く」と言い出し、さらに義兄が遅い結婚を済ませたことで、わたくし達三人だけの幸せな時間は終わりました。
 義兄の妻となったのは『アリサ』。
 大学時代にわたくしに八つ当たりしてきた、あの身の程知らずの女でした。
 あの女は留学もできない家柄でありながら、わたくし達上流の世界に入り込み、よりにもよって、わたくしが心惹かれていた男性義兄の妻の座を奪ったのです。
 侵略、いえ、汚染と呼ぶべき冒涜でした。
 わたくしはやんわり、義父にあの女の危険性を訴えました。
 あの女は、理不尽な理由でわたくしに八つ当たりしてきた、卑しい性根の持ち主。
 高貴ノーブルなわたくしを妬み、僻む、厚かましい野心家です。
 そんな女を跡取りである義兄の嫁に迎えれば、どのような悪影響が生まれることか。
 ましてやあの女が義兄の子を産み、その子供がこの家の後継になりでもしたら。
 けれど義父も義母も、わたくしの忠告に耳をかたむけてはくれませんでした。
 大学卒業後すぐに嫁いで娘をもうけたわたくしと違い、あの女は海外を飛び回って三十後半に達していましたが、義父も義兄もその「海外を飛び回る」という経歴にだまされたのです。
「世界を股にかけた優秀なキャリアウーマン」と誤解したのでしょうね。わたくしに言わせれば、声高にきれいごとを叫んで善人ぶるだけの、誰にでもできる仕事にすぎませんでしたが。
 それに気づかず、あの女を一族の後継者の妻として受け容れた義父や義母には、失望を禁じ得ませんでした。義父も義母も、それほど義兄の結婚について憂慮していたと思えば、憐れではありましたが。
 案の定、結婚しても、あの女は良き嫁とはなりませんでした。
 次男の嫁とはいえ、この家に入ったのは、わたくしが先。
 ましてや、ふさわしい出自と育ちという点では、あの女とは比べものになりません。
 わたくしはどうにものんびりかまえる義母に代わり、どうにかあの女を、せめて平均的な嫁に育てあげようとあれこれ指導をくりかえしましたが、あの女は仕事を言い訳に逃げまわるばかりで、高貴な家に嫁いだ自覚が微塵もありません。
 それを夫や義母に訴えても「彼女は仕事が忙しいから」と笑うばかり。義父に至っては「彼女は海外を飛び回って、その世界では若くして知られた人だし、息子義兄もそこを気に入って結婚したのだから、あれでいいんだ」と許容しているほどでした。
 わたくしは義兄にまで「自分が許しているのだから、妻の行動については、あれこれ口をはさまないでほしい」と告げられてしまい、あの家にわたくしの味方はいませんでした。
 それでも、わたくしはあきらめませんでした。
 どうにかしてあの女の本性を暴かなければ、この家が卑しい下賤な人間にのっとられてしまう。だまされてしまった義兄を、あの女から救わなければならない。
 そう心に誓い、手を変え品を変え試行錯誤していたのに、わたくしは実の娘にまで否定されてしまったのです。

「お母さま、もういい加減にして」

 ある時。なにかの拍子に、高校生になった娘から、そう告げられました。

「伯母さま(娘から見た義兄の妻。あの身の程知らずの下賤の女のことです)は立派な方よ。家にふさわしくないのは、お母さまでしょう!?」

 あろうことか、娘はあの女をかばって、わたくしを非難してきたのです。

「伯母さまは立派だわ。大学生の時に亡くされたご友人の志を継いで、海外で困窮している人達のために力を尽くしている。伯父さまも、伯母さまのそういう人柄を認めて結婚されたの。たしかに家にいる時間は少ないけれど、それは伯母さまの力を必要とする人が大勢いるから。お母さまのように毎日毎日、自分の好きなことしかなさらない人が責めていい方ではないわ」

「なんてことを…………!」

 わたくしは耳を疑いました。
 わたくしが産んだ、わたくしの娘。
 誰よりわたくしを間近で見てきて、わたくしの高貴のすべてを受け継いでいなければならないはずの実の娘が、いつの間にかあの下賤の女にたぶらかされていたのです。
 わたくしは必死で娘を諭しました。

「わたくしは高貴な家の女として、この家の嫁として、日々使命を果たしています。ふさわしくないのは、あの女のほうです。わたくしの高貴を受け継ぐ唯一の娘であるあなたが、それを理解できなくて、どうします!?」

 けれど娘は、とうにあの女に洗脳されきっていました。
「馬鹿馬鹿しい」と、さも汚らわしい言葉を聞いたかのように吐き捨てます。

「高貴、高貴。お母さまのおっしゃる『高貴』とは、なに? いつも血筋がどうの、ふさわしい家柄がどうのとおっしゃるけれど、お母さまのなさることといったら、毎日毎日エステやヘアサロンやジムに通って、ハイブランドのお店で服や靴やアクセサリーを購入して、やれパーティーだの、お茶会だの、観劇だの、ヨーロッパ旅行だのと、遊びまわるだけ。その全部が、お父さまのお金。ご自分はいっさい働かず、口を開けば『勉強は進んでいるの?』『お仕事の調子はいかが?』、それから『次は、どんなお菓子を作ろうかしら』。あとは伯母さまや、伯母さまのような働く女性の悪口ばかり。これのいったいどこが『高貴』な在り様なの?」

 わたくしは呆然としました。この娘はいったい、なにを学んできたのでしょう。

「わたくしが身なりに気を遣うのは、立場にふさわしい装いをする必要があるからです。わたくしがパーティーでみすぼらしい姿をさらせば、恥をかくのは、あなたのお父様ですよ? お茶会や観劇も、人脈作りの一つ。わたくしが陰からお父様を支えることで、お父様はお仕事に専念できるのだから、お父様がそのための予算を出すのは当然でしょう。高貴な人間には相応の装いや教養というものが必要なの、もう高校生なら、その程度は理解なさい」

「人脈というけれど、お茶会のメンバーも話題も、いつも同じ。そもそもお母さまが招待される方は、自分が我が儘を通せるような格下の方ばかり。ご自分が気を遣わなければならないような格上の方とは、仲良くしようとなさらないじゃない。教養だって、お母さまの上のお姉さまはジャズピアニストとして、下のお姉さまは美術史の専門家として活躍されているけれど、お母さまは『たくさん習い事をした』というわりには、今はなに一つ、つづけていないわ。家のことも料理はコック、掃除や洗濯は家政婦さんに任せて、お父さまがお付き合いされている方々への時候の挨拶やお礼状すら、今は秘書に丸投げ。それで、どうして自分が使命を果たしていると誇れるの? いつも伯母さまに偉そうに嫁の役目を説いているけれど、ただ難癖をつけて伯母さまの仕事を否定しているだけだわ、姑の嫁いびりと同じよ、本当に恥ずかしい」

「あなたという娘は…………っ」

 わたくしは怒りで言葉を失いました。
 我が子が見知らぬ化け物にとってかわられた気がしました。
 わたくしから生まれ、誰より高貴なわたくしの血を継いでいるはずの我が娘が、わたくしの使命を理解しないばかりか、あの下賤な女の味方すらしている。
 この娘は、高貴を理解する知性を持たないのでしょうか? 夫の血が悪かったとでもいうのでしょうか?
 わたくしとほとんど身長差がなくなった娘は、まっすぐわたくしの目を見つめてきます。
 そこに宿る強い怒り、悔しさ、情けなさ…………そして軽蔑。
 母親のわたくしが、何故そんな目で見つめられなければならないのでしょう。わたくしは誰より高貴な存在というのに。
「とにかく」と、娘は強い口調で念を押してきました。

「もう伯母さまには関わらないで。伯母さまのなさることに、いちいち口を出さないで。伯母さまのお仕事は、伯父さまも理解したうえで力を貸しておられるの。お祖父さま(義父のことです)もご承知だもの、なにも知らないお母さまが首を突っ込む話ではないの。これ以上、伯母さまや伯父さまに迷惑をかけないで。お父さまも心苦しく思われているのに」

 なんという言い草でしょう。
 けれど娘はさらに禍々しい言葉を吐きました。

「高校を卒業したら、わたしはこの家を出ます。将来は、伯母さまのお仕事を手伝いたいの。だから、その分野に強い大学を受験します。お母さまの勧める大学には行きません」

「!!」

「お母さまの生き方を、わたしがどうこうしようとは思いません。お母さまは、お母さまのお好きなように暮らしてください。そのかわり、わたしも好きなように生きます。わたしは絶対、お母さまのようにはならない。お母さまのいう『高貴』なんて、わたしには関係ない――――」

 わたくしは絶句しました。
 娘は背中を向け、わたくしはいそいで、その背を追います。
 この家の嫁として高貴な女として、聞き捨てるわけにはいかない暴言でした。

「待ちなさい! この家を出るなんて、志望校を変えるなんて、いえ、それよりあの女の手伝いをするとは、どういうことです!? あなたは、この家の跡継ぎ! ふさわしい婿をとって、いずれはお義父様やお義兄様の跡を継ぐ義務があるのですよ!? そんな我が儘、お父様だって許すはずがないでしょう!!」

「お父さまにはすでにお話して、許しをもらっています」

「えっ…………」

「お祖父さまにも。お祖母さまや伯母さま、伯父さまも賛成してくれました。わたしの好きなようになさい、って」

「なん…………っ」

「…………お母さまには、まだ黙っていなさい、と言われたの。お父さまや伯父さまに。お母さまに言えば絶対に反対する、折を見てお父さまからお話しするから、それまで待ちなさい、って。だから本当は、今ここで話すつもりはなかったのだけれど…………」

「そんな…………みな、わたくしになにも言わず…………っ」

 わたくしは呆然としました。
 娘の言い分にも呆れ果てましたが、それ以上に夫や義父や義兄達、わたくし以外のこの家の者全員が娘の意見に賛同し、母親のわたくし一人をのけ者にしていた事実に絶望しました。
 わたくしはずっと努力してきたのに…………。
 この家にふさわしいのは、誰より高貴なのは、わたくしなのに…………。

「あの女のせいで…………」

 無意識にわたくしの口が動きます。
 そう、すべてはあの女のせい。
 あの卑しい下賤の女が、身の程知らずにもこの家に乗り込んで来たから。
 義兄を誘惑したから。
 あんなに優秀で立派な男性が、どうしてあんな卑しい女にだまされてしまったのか。
 あれほど可愛がっていたわたくしの娘を、どうしてあの女に汚染されるがままにしていたのか。
 わたくしと義兄と娘。三人で楽しく車に乗り、幼稚舎や小学校まで送っていた、あのきらめく日々はどこへ失われてしまったのか。
 わたくしはあの日々がつづいてさえいれば良かったのに――――
 けれど娘はわたくしに追い打ちをかけます。

「もうやめて、お母さま」

 うんざり…………というより、憐れなものを見下ろす視線でした。

「伯母さまは本当にすばらしい方よ。意志が強くてたくましくて、愛情深くて今も亡くなったお友達を忘れずに、その方の志を継いで…………お母さまには理解できない生き方でしょうけれど、わたしは、伯母さまは誰より高く遠くに飛べる人だと思っているわ――――」

 その言葉を耳にした時、わたくしの中に鮮烈に一つの面影がよみがえります。
 大学時代、悔し涙を流していたあの女を慰め、励ましていた女。
 だいそれた未来を語りながら、なに一つ成し遂げず、大学一つ卒業しないで死んだ偽善者の女。
 あの薄っぺらいきれいごとばかりの、意識だけ高い女の面影がよみがえり、目の前の娘と重なります。

「――――お母さま?」

 娘が不思議そうに、心配そうにこちらをのぞきこんできます。
 いえ、もはや目の前の女は、わたくしの知る、わたくしの産んだ娘ではありませんでした。

「わたくしを母と呼ばないで! お前は、わたくしの娘じゃない! わたくしの娘を返しなさい――――!!」

 わたくしは叫んでいました。
 そのまま両腕をあゲ、むスメの肩 つか 、ハゲし ユサ っテ――――
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