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17.アベル

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「力を見せろ、と言われることは想定していたわ。でも、その前に荷物を預かって、身体検査をすると言うの!!」

 美しく整えた銀髪をふり乱すように、セレスティナお嬢様は忠実な下僕に訴えた。
 大神殿側の要求は正当ではあった。なんといっても聖女の審査会だ。肝心の聖魔力が本物か否か。種も仕掛けもないか。入念に調べるのは至極当然である。
 だがセレスティナが聖魔力を発現させるには《聖印》が必須であり、《聖印》は旧神殿からだまって持ち出したものである。

「《聖印》は最終的にセレスティナわたくしを選ぶけれど、今見つかっても前世や漫画のことは説明できないわ。漫画では、セレスティナは大勢の神官の前で《聖印》に選ばれたから、審査会なんて必要なかったの。やっぱりそのシーンを待つべきだったのだわ、手に入れるのは早かったのよ。いったい、どうしたら…………っ」

「ご安心ください、セレスティナお嬢様。どうか、今から私の言うとおりに」

 セレスティナは青ざめながらも貴人用の控室を出て、女神官達に案内されて小さな部屋に入り、そこで外出用のドレスを脱がされ、神殿側が用意した白い衣装に着替えさせられる。脱いだドレスも帽子も手袋も手提げ袋も、すべて女神官が持っていく。
 それから、三十人ほどの病人や怪我人がずらりと並んだ広間へ案内され「重症者はおりませんので、安心して無理のない範囲で癒しを行ってください」と、大神殿長から説明をうける。
 セレスティナはうなずいて手近な患者に歩み寄り、深呼吸をして手を患者へかざしたが。

「緊張しすぎて、集中できませんわ。今だけ、その聖典を貸していただけないかしら?」

 と、一番近くに立っていた若い神官に依頼した。
 神官は大神殿長に目配せし、大神殿長がうなずくのを見て、公爵令嬢に聖典を差し出す。令嬢は笑顔でうけとると、小さいが厚みのある本の表紙をなでて、頁を少しめくった。
 それで落ち着いたのか、聖典を胸にもう一度、患者に歩み寄り、相手の手をとる。すると目を閉じた公爵令嬢の胸のあたりから、白銀の星のような光がきらきらとあふれ出して患者へ降り注ぎ、十も経たずに患者の傷と苦痛は失われた。
 患者は感激を露わにして公爵令嬢に礼をくりかえし、見守っていた神官達も一様に瞠目する。
 セレスティナは立てつづけに二人目、三人目と癒し、五人目の前でくずれるように倒れた。

「セレス!!」

 広間の隅から見守っていたデラクルス公爵が愛娘に駆け寄り、神官達も騒然となる。

「大神殿長、大神官長、審査会議長に枢機卿その他の方々。見てのとおり、娘は限界だ。本日はここまでにしていただきたい」

 公爵はその腕に娘を抱えあげると、有無を言わさぬ面持ちと威厳で告げ、神殿側もこれ以上は難しいと判断して、審査会の終了を宣言する。
 公爵令嬢は公爵に抱えられて馬車に戻り、供を引き連れ、大神殿をあとにした。
 ちなみに若い神官の一人は公爵令嬢に声をかけ損ねて「俺の聖典…………」と、去って行く公爵家の馬車を見送ったが、その後、侍従を通して「お嬢様から『お返しするのを忘れて申し訳ない』とのことです」と、無事聖典を返却された。





「あの短時間であんな機転を利かせるなんて、さすがはアベルだわ」

 公爵邸に帰宅すると、セレスティナは頃合いを見て自室でアベルと二人きりになる。
 絹張りのソファに腰かけたセレスティナの手には、一冊の聖典。
 それを開くと大胆にもページがくりぬかれて、白銀色の水晶のような玉が収められている。
 アベルが考案した、《聖印》の隠し場所だった。
 携帯用の小型の聖典なら、外出時にハンカチなどと一緒に手提げ袋に入れるのは貴婦人の嗜みなので、誰かに見られても怪しまれることはない。そういう計算だ。
 大神殿での着替えの際、セレスティナは手提げ袋を女神官に預けた。大神殿側は何食わぬ顔で返却してきたが十中八、九、中身をあらためていただろう。
 だが、その時点ですでに《聖印》と聖典はアベルが隠し持ち、隙を見て、広間で証人として立ち合っていた若い神官のものと入れ替えた。
 セレスティナは緊張をよそおってアベルが指定した神官から聖典を借り、《聖印》を手元にとり戻して、患者を癒したのである。

「今回の件で、わたくしが星銀の聖魔力の持ち主だと、大神殿側に証明できたわ。これでいい加減、漫画本来の展開に戻って欲しいけれど――――」

「きっとうまくいきます。ご安心ください」

 アベルはセレスティナお気に入りの高級茶葉とベリータルトで、主人をねぎらう。

 

 

 その翌日。セレスティナが宮殿を訪れるたび開かれる、公太子との内輪のお茶会で。
 アベルは隙を見つけて、レオポルドにささやいた。

「セレスティナお嬢様は、大神殿の聖神官見習いアリシア・ソルを不安視しております」

と。

「私は、セレスティナお嬢様こそ真の聖女と信じております。しかしアリシア・ソルは巷で聖魔力を振りまき、着実に信奉者を増やしているとのこと。神殿側とて、未来の公太子妃より、身内から聖女を出すほうが好都合。故にお嬢様は、聖女の地位を狙うアリシア・ソルと後見の大神殿は、遠からずお嬢様の排除に動き出すだろう。そう、恐れておられるのです」

「ティナが…………なんてことだ、ティナがそこまで怯えているのに気づかなかったとは」

「殿下がお気づきにならなかったのは、当然にございます。セレスティナお嬢様は、なにより殿下に負担をかけることを嫌がっておられました。このような些末なことで殿下のお心をわずらわせてはいけない、絶対に殿下に悟られてはならない、と決意されていたのです。私が今こうして殿下にお伝えしているのも、私の独断です。あとで、お嬢様からお𠮟りをうけねばなりません」

「ティナが、そこまで私のために…………」

 レオポルドの紫水晶の瞳が、感激に切なく潤む。

「よく教えてくれた、アベル。そなたがティナ付きで本当に良かった。ティナには私が知ったこと、知らせずにおいてくれ」

 公太子は紫の瞳に信頼をのぞかせて平民の侍従をねぎらい、侍従も恭しく頭をさげる。
 レオポルドにとってアベルは、愛しい婚約者に付き添う異性ではあるが、あくまで侍従。身分がはるか格下の平民と割り切っているので、嫉妬などの感情は持っていない。セレスティナ本人もそう扱っている事実が、レオポルドの安心材料となっている。
 アベルも、権力者に対する従順さは良き従者の条件の一つであり、これをクリアしなければセレスティナのそばにいられぬと理解しているので、頭ぐらい何度でも下げられる。
 特にレオポルドは、これからセレスティナのために動いてもらわねばならぬ道具である以上、良好な関係の維持は不可欠だった。
「しかし」と、レオポルドは形よい眉間にうっすらしわを寄せる。

「ティナがそこまで案ずる以上、なにか手立てを講じるべきだろう。大神殿もアリシア・ソルを利用して人心を集め、寄付なども相当額にのぼっていると聞く。大公陛下も、神殿の影響力が増すことは望まれていない。なにか、これ以上の伸張を削ぐ方法があればいいのだが」

「おそれながら。私めに一つ、献策をお許し願えますでしょうか」

 アベルは恭しく公太子殿下の耳にささやいた。

 

 

 レオポルドとの密談を済ませたアベルは、宮殿の廊下で意外過ぎる人物と再会した。
 朗らかで心優しい二歳年下の少女、エレナ。
 デラクルス公爵領にいた頃の、父にさだめられた許嫁だ。
 アベルは最初、声をかけてきた人物が何者か、本気でわからなかった。相手が、アベルの記憶の中よりはるかに高価な衣装を着た、上品な令嬢に変身していたから、だけではない。

「縁があって、ドラード伯爵夫人と面識を得ることができて。夫人のご厚意で、何年か公都の伯爵家で行儀見習いとして雇っていただいたあと、夫人の遠縁の養女という体で、今は下位だけれど、大公妃殿下の侍女としてお仕えしているの」

 田舎の平民の娘にとっては、絵に描いたような出世である。

「おめでとう、エレナ。いや、エレナ嬢。あなたの未来が、幸せと良縁に恵まれますよう」

 アベルは通り一遍の祝福の言葉を贈ると、名家の侍従として完璧な一礼を見せ、立ち去ろうとする。しかし。

「待って、アベル。お願いだから、もう少しお話しさせて。私、ずっと心配だったの。マルケス小父様は投獄されて、あなたは公都の公爵家に連れていかれて…………あなたがいなくなって、私がどれほど泣いたことか…………っ。私はあなたの許嫁になれて本当に嬉しかったし、公都に来たのも、あなたに会えるかもしれないと思ったからこそ――――!」

「エレナ嬢。私は平民で、父親にいたっては罪人です。養子とはいえ、伯爵家に連なる方と親しくできるような身分ではありません」

 可憐な令嬢のすがるような訴えを、アベルは丁重に冷淡にさえぎる。

「今の私は、ただ一人にお仕えすることが至上の喜びであり、生きる理由です。私の主が望まぬ限り、今後あなたとお会いすることはないでしょう」

 幼なじみの瞳に涙と絶望が浮かび、その泣き顔に淡々と背を向け、アベルは去っていく。
 後日。デラクルス公爵邸へ、セレスティナ宛てにドラード伯爵夫人からお茶会の招待状が届く。

「ドラード夫人とは親しくないし、特にわたくし達の派閥というわけでもないはず。どうして急に?」

 首をかしげる主君に、アベルは先日の、宮殿での幼なじみとの再会を伝える。

「報告が遅れて申し訳ございません。『関わる気はない』と伝えておいたのですが」

「まあ、そういう事だったの。アベルにも許嫁がいたのね」

 セレスティナは招待状と自身の下僕の顔を見比べる。

「アベルは、よく仕えてくれるもの。あなたの献身には、できる限り報いたいわ。アベルが会いたいと言うなら、そうしてあげたいけれど…………あなたはどうなの? アベル。やはりその許嫁と、将来は結婚など望んでいるのかしら?」

 青玉サファイアの瞳に不安と寂しさをゆらめかせ、アベルの主君が忠実な下僕を見上げる。

「わたくしは…………アベルがいなくなるのは、不安だわ。前世や漫画のことを相談できるのはアベルだけだし、これまでも色々助けてもらったもの。あなたがいなくなったら、わたくしは…………っ」

「ありえません」

 セレスティナの足元に跪き、アベルは断言する。

「私の心身も能力も、すべてセレスティナお嬢様ただ一人に捧げたもの。まして、お嬢様は将来の公太子妃として聖女として、これから様々な困難に見舞われる身ではありませんか。どうして、お一人になどできましょう」

 瞳を潤ませた主君をまっすぐに見つめ、アベルは清々しいほどの笑顔を見せる。

「どうぞ、伯爵夫人の招待はお断りください。お嬢様の望みが私の望みです」

「でも…………あなたは、それでいいの? アベルだって結婚や、家庭を持つことを望んだりはしないの? わたくしがここで夫人にお断りして、あなたは後悔しない?」

「いたしません」

 力強い即答だった。

「私はセレスティナお嬢様にお仕えすることが至上の喜び、幸福です。どうして、お嬢様のおそばを離れられましょう。セレスティナお嬢様が私を手放したくないと望んでくださる、これ以上の光栄はございません」

「アベルったら」

 セレスティナは笑顔を見せ、目尻をぬぐう。

「嬉しいわ、アベル。あなたには、この先もずっとわたくしの側にいて、わたくしを支えてほしいの。漫画ではなるとわかっていたけれど、あなたに許嫁がいると聞いて、不安になったの。でも、あなたがそこまで望むなら、夫人の招待はお断りするわ。だから、これからもわたくしの側を離れないで」

「世界の果てまでもお供します」

「ありがとう、アベル。本当に、転生してはじめて、あなたのような頼もしい信頼できる存在に出会ったわ。前世では、あなたのように献身的な人はいなかったもの」

「ニホンのことですか?」

「ええ。あの国はとにかく、平等ばかり尊ぶ社会だったから。あなたのように、高貴な存在に対する絶対の忠義心を持つ人間なんて存在しなかったのよ」

「それは。ご苦労様なさったのですね」

「本当にね」

 主君は笑って機嫌を直し、アベルが淹れた紅茶を飲んでジンジャークッキーを摘まむ。
 翌日。ドラード伯爵邸には、セレスティナ・デラクルス嬢から欠席の返事が届いた。
 夫人から話を聞いた幼なじみは、嘆いたか。
 アベルはなにも知らないし、知りたいとも思わない、知る必要もない。

(どうでもいい)

 セレスティナお嬢様のための香草茶を用意しながら、アベルは心から思う。
 まぶたを閉じれば、いまだありありと思い出す、あの夜の衝撃。

『私の体、私の命、私の忠誠のすべてを、貴女一人だけに捧げます。麗しき公爵令嬢、可憐なるセレスティナ。私は生涯、貴女だけの下僕ものです』

 あの夜。アベルは魔女である母の調合した媚薬を飲み、セレスティナの下僕となった。
 それはアベルにとって、世界がひっくり返るに等しい大変化だった。
『息子』という肩書の、魔女が作った魔術のための道具。父の仕事と、都合のいい結婚のための道具。道具としてしか見ない親、優しいだけが取り柄の無害で平凡な許嫁。
 そして、それらに不平も疑問も愛着も抱かぬアベル自身。
 アベルにとって人生や世界とは、暗い色調に塗りつぶされた単色の視界のことだった。
 それ以外の人生が存るなど、考えたこともなかった。
 けれどあの晩、アベルの視界世界は一変した。
 生まれて初めて経験する、鮮明な多色の世界。多幸感。
 胸を満たす熱、焦れる気持ち、はやる想い、全身をかきむしりたくなるようなもどかしさ。
 たとえ魔術による薬が原因でも、自分は間違いなく今、セレスティナに恋している。
 彼女が望むなら、アベルは花でも宝石でも大公妃や聖女の地位でも、世界でも天国でも地獄でも好きなだけ捧げるし、必要ならすべての力と命を投げ出してもかまわない。
 セレスティナがアリシア・ソルを排除したいと言うなら、そうするし、レオポルドと結婚したい、皇国の皇子妃になりたいと言うなら、そうするだけだ。
 アベルには「セレスティナと結婚したい」「結ばれたい」という願望すらない。
 彼が平民だから身分をわきまえている、というわけではない。
 アベルにとってもっとも重要なのはセレスティナであり、彼女の望みの前では、自分の望みなど小石程度の重さも持たないだけである。
 いずれセレスティナを奪っていく男への嫉妬の念すら、今のアベルには心地よい。
 自分の主君は、セレスティナ・デラクルス。
 大切なのはセレスティナお嬢様、ただ一人。
 彼女の幼稚さも自己顕示欲が強くて独善的な性格も、だからこそアベルにあれこれ動く理由を与えてくれる。
 自分アベルはセレスティナに恋し、それゆえに極彩色の生きる実感を、人の心というものを手に入れ、その事実一つだけで、彼が地獄の底までもセレスティナに付き従う理由には充分だった。

 

 

 数日後。ノベーラ大公の名のもとに、大神殿の聖神官見習いアリシア・ソルに従軍の命令が下される。
 陰には公太子レオポルドの働きかけがあった。
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