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16.アベル

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 アベル・マルケス。
 父はデラクルス公爵領の公爵家の城に勤める経理係の一人。
 母は生粋の魔女。
 愛で結ばれた夫婦でなく、打算でつながった愛人関係だ。
 父は自分の出世に母の魔術を利用し、母は自分の血が流れる子供が欲しかった。
 母はマルケスを種馬に選び、うまく身ごもってアベルを産むと、喜々として息子を自分好みに『改良』していった。自分の魔術の道具、様々な魔物の器として。
 アベルの肉体と心もそれによく応え、十歳になる頃には複数の魔物の移植に耐えられるだけの頑強さと適合性を備えて、それ以上に心が、それを不思議ともおぞましいとも思わない作りに成長していた。
 母の人形であること、優れた魔女の優れた道具であること、それを疑問に思わぬこと。
 それがアベルの存在意義であり、望まれたすべてであり、彼自身も受け容れた現実だった。
 しかし二人の関係と日々はとうとつに断ち切られる。
 アベルが十三歳の時、マルケスの不正が明るみになり、逮捕されたのだ。
 家に押しかけた公爵の私兵から、魔女だった母は逃げおおせた。
 しかし自分が逃げるのにせいいっぱいで、アベルまでは手が回らなかった。
 魔女ブルハは断腸の思いで自身の『最高傑作』をあきらめ、姿を消し、アベルは父や父の本妻家族と共に縄をかけられ、公爵家の城の中庭へ引き出された。
 父と連座して投獄される。そう聞いても、アベルは怒りも絶望もしなかった。
 自分の未来を悲観するには、彼は感情や意志というものを奪われ過ぎていた。
 だから公爵令嬢のとりなしによって牢獄行きをまぬがれた時、実はアベルは困った。
 彼は母の命令をうけて動く人形であり、母との別離は生きる理由と目的の消失だった。
 アベルは比喩でなく「この先どう生きるか」わからなくなってしまい、途方に暮れたのだ。

(どうすればいい)

 主人だった母の帰りを待つか? だが、あの狡猾な魔女のこと。顔が知られているこの地には二度と戻るまい。行先の手がかりもないし、なにより母は「追ってこい」と命じなかった。
 考えた末、あることを思い出して、アベルは公爵令嬢の私室のバルコニーへ登り、彼女と対面した。そして訊ねた。
 何故自分を助けたのか、と。
 彼女が自分を助けた理由が判明すれば、生きる目的ができるかもしれない、と考えたのだ。
 しかし令嬢は「処罰がおかしいと思ったから助けた」だけだと言う。
 困ったアベルは、さらにひらめいた。
 いつか聞いた「命を助けられた礼に、恩人に一生仕えた」という話を思い出したのだ。

「私は貴女に命を助けていただきました。お礼に貴女の提案通り、貴女のために働きます。貴女に忠誠を誓いましょう、セレスティナ・デラクルスお嬢様」

 自分が道具である以上、アベルには命令を下す誰かが必要だ。令嬢がその「誰か」になるなら、跪くのになんの抵抗もない。主人が母から令嬢に交替しただけのことである。
 魔女ブルハが己の息子を道具としてしか見ていなかったように、アベルも母を「命令を出す存在」としか見ていなかった。とどのつまり、命令をくれるなら誰でもよかった。
 アベルは公爵令嬢に、母が置いて行った惚れ薬を献上した。
 そして自ら申し出て、惚れ薬を飲んだ。
 デラクルス公爵令嬢は「自分には前世の記憶がある」と言い出す妙な少女だったが、問題なかった。お嬢様がいうのだから、そうなのだろう。自然と、そう思えた。
 そうしてアベルは公都のデラクルス公爵邸に引きとられ、二年が経つ頃には公爵はアベルの能力を認めて彼を必要としていたし、セレスティナお嬢様にいたっては、前世についてさらに踏み込んだ情報をアベルに教えてきたばかりか、相談を持ちかけるようにすらなっていた。
『ヒドイン』について教えられたのも、この頃だ。
 この漫画世界の最悪の魔女。傾国の悪女。悪役令嬢セレスティナ・デラクルスの敵。

「アリシア・ソルは、わたくしが十七歳の時に出会うはずよ。癖のないストロベリーブロンドにミントグリーンの瞳で、平民だけれど聖魔力を発現させたので、宮殿仕えの聖神官になるため、礼儀作法や教養を習いに学院に奨学生として入学してくるの」

 そのストロベリーブロンドの少女に、アベルは出会った。偶然だった。
 家令の指示で使いに出た帰り道、デラクルス公爵邸へと急いでいると「アリシア」と呼ぶ声を聞く。アベルが足をとめてふりかえると、母親らしき女に呼ばれて駆けてきたのは、ストロベリーブロンドの少女だった。癖のない髪がさらさらゆれている。

「早く帰らないと。お父さんもトマスもアルセリアも、待ちくたびれているわよ、アリシア」

 ミントグリーンの瞳をきらきらさせて母の手をとった少女は、容姿や年頃を考慮しても、セレスティナお嬢様が警戒していた『ヒドイン』に違いない。
 アベルは方向転換して母娘を尾行し、少女の家を特定した。
 いったん公爵邸に帰って「遅い」と家令の説教をうけ、普段どおりに夕食をとって他の使用人達同様ベッドに入ると、皆が寝静まるのを待って、窓からこっそり公爵邸を抜け出す。
 平民が暮らす地区は真っ暗だったが、魔物の視力を借りられるアベルはやすやすと目的の家にたどり着き、住人が寝静まっていることを確認すると、ズボンの裾をめくった。
 左右の足にからみつく赤黒い痣が動き出し、道端へと這い出す。

「行け」

 アベルが命じると赤黒い蛇はしゅるしゅる這って壁を登り、窓にたどり着いた。
 窓は閉じられていた。が、貴族や富豪の家のようにガラスが嵌まっているわけではない。ただの木戸だ。
 木の板は蛇が触れるとたちまち燃え出し、穴があいてしまう。
 その穴から二匹の蛇は室内に侵入し、三十を数え終える前に、窓から明るい光と激しい熱気があふれる。さらには悲鳴が複数。大人と子供の声だ。

(狙いは子供だ。ストロベリーブロンドの少女)

 アベルは念じる。蛇は宿主の命令を忠実に実行した。

「やめて――――お父さん、お母さん、トマス、セリア――――――――!!」

 少女特有の甲高い悲鳴が聞こえて、木戸が燃え落ちた窓からいっそう激しく炎があふれる。
 家の左右向かいからも声があがった。

「火事だ!! 隣の家が燃えているぞ!!」

「大変だ、すぐに消せ!! 水だ!!」

 隣家、いや周辺の住人達が異変に気づいて、次々飛び出してくる。
 アベルは舌打ちした。
 標的の死体を確認するまでは留まる予定だったが、アベルの存在が公になれば、デラクルス公爵家は放火犯を雇っていたと、不名誉な噂が立ってしまう。
 公爵の名誉が汚れるのはどうでもいいが、セレスティナの名誉は汚せないし、なにより放火犯とばれて公爵邸を馘首クビになるのは論外だ。
 アベルはその場を離れ、夜陰に乗じて公爵邸へ戻った。アベルが抜け出したことに気づく者はいなかった。
 その後、少女の近所に聞き込みして「一家全員、焼死した」という話も聞いた。
――――アベルは知らなかった。
 もし、彼がもう少し現場で粘っていたら。窓から室内をのぞくなりしていれば。
 彼は目撃することができたかもしれない。
 アリシアという少女が、魔物に襲われたことで、身を守ろうとする本能から炎の蛇への対抗策――――聖魔力を目覚めさせた瞬間を。
 そして少女はある魔王の手で燃え盛る家の中から助け出され、命をつないだ。
 隣人達はそれを知らなかったので「姿が見えないということは、一緒に死んだのだろう」と推測しただけだった。
 アベルは愛するお嬢様のため、後の禍根を摘みとったつもりでいたし、摘みとることができて満足だった。けれど、それをセレスティナお嬢様に告げることはなかった。
 セレスティナのために、下僕の自分が手を汚したこと。
 それを知っているのは自分だけで良いし、セレスティナが知る必要はない。
 そういう配慮からだったし、その選択は結果として大正解だった。
 何故なら当のアリシアはアベルの達成感や献身をよそに、引きとられた女子神殿と大神殿ですくすく成長して、漫画どおり、セレスティナが十七歳になった年に新入生アリシア・ソルとしてセレスティナの前に現れたのだから。
 その事実を、愛するセレスティナお嬢様の口から聞いた時のアベルの心中やいかばかりか。
 アベルはアリシアの抹殺を誓った。復讐に燃えた、といっても過言ではない。
 彼女が大勢の人々から必要とされていても、アベルには関係ない。
 アベルにとっては、セレスティナの命令がすべて。
 セレスティナの望みがアベルの望みであり、セレスティナが「いずれ皇国の第三皇子と結婚して聖女になる」と信じるなら、それを叶えるのがアベルの役目で存在意義だった。
 魔王の召喚も聖印の入手も、狩猟大会で毒蛇にノベーラ大公と聖神官達を襲わせ、セレスティナが大公を癒すよう舞台を整えたのも、すべてはセレスティナの望みのため。ただそれだけ。
 狙いどおり、白銀の聖魔力を発現させたセレスティナは一気に聖女候補にのし上がった。
 あとはアリシア・ソルを排除するだけ。
 アベルはセレスティナの審査会の日を待って、アリシア・ソルを襲った。
 聖女候補のアリシア・ソルになにかあれば、もう一人の聖女候補であるセレスティナに疑いの目が向くことは、容易に想像できる。
 そこでアベルは、あえてセレスティナの聖女審査会の日を選んだのだ。
 侍従としてセレスティナお嬢様に同行して大神殿に入り、他の供と一緒に控え室で待機すると見せかけ、口実をもうけて部屋を出る。
 そして人気のない廊下で魔王ビブロスを召喚し、彼の力でアリシア・ソルのもとに移動した。
 魔王にアリシア・ソルを殺させなかったのは、対価の都合だ。魔王なら彼女を殺せるだろうが、強力な聖魔力を持つアリシア・ソルの暗殺には法外な対価が要求される。一介の侍従のアベルはむろん、デラクルス公爵令嬢であるセレスティナにも用意が難しいような稀覯本だ。現実的な手段ではない。
 そこで暗殺そのものは自ら手を下すことに決め、移動のみをビブロスに頼ったのだ。
 ビブロスなら、人間が徒歩で一時間かかる距離も一瞬で移動できる。仮にアリシア・ソルを殺す現場を目撃されても「その時、自分は大神殿にいた」と主張できるし、共に待機する同僚達も「アベルが部屋を出たのは短時間、とても旧神殿までは往復できない」と証言するだろう。
 セレスティナについては言わずもがな。審査のために彼女をとり囲んだ高位神官達が、彼女の無実を証明する。
 そうしてアベルはアリシア・ソルのもとにむかい、旧神殿の中庭にいた彼女に炎の蛇を放った。今度こそ必ず殺す、その決意と共に。
 計画はあっさり失敗した。
 アリシア・ソルに叩きつけた一番強い魔物も二番目に強い魔物もそれ以外も、アリシア・ソルの聖魔力に、やすやすと浄化されてしまったのだ。
 アベルは失望した。
 どう見ても戦闘には無縁な、平穏に生きてきた生ぬるい少女。
 それがやすやすと、最高傑作として磨き抜かれたアベルの能力を超えてしまう。
 怒りさえ覚えた。
 アベルは即、方針を変更した。彼は魔術以外にも人を殺す技術をいくつか体得しており、その一つを用いてアリシア・ソルを殺そうとしたが。

『アベル、助けて!!』

 他ならぬアベルの唯一絶対の主人、セレスティナお嬢様の声が届いたのだ。
 アベルは何かあった時のため黒い石のピアス――――周囲に気づかれずに会話できる魔術の道具を、セレスティナお嬢様に持たせていた(セレスティナは「スマホみたいな物ね」と言っていた)。その魔術の道具を通して、セレスティナがアベルに危機を訴えたのだ。
 アベルは即、計画を中止し、ビブロスと取引してセレスティナのもとに駆けつけた。
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