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ある婚約破棄の秘密

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「突然だけれど別れてくれ、成美なるみ。君との婚約は破棄したい。僕は今、彼女と付き合っているんだ」

 呼び出された、いつもの待ち合わせ用のカフェで。
 婚約者の辻本つじもとかけるは成美が席に着くなり、そう切り出してきた。
 翔の隣には成美の知らない若い女が座っている。

ひいらぎ萌香もえかさんだ。英会話教室で知り合ったんだ」

 翔は隣の女を、そう紹介した。
 ストレートの黒髪が似合う、清楚な雰囲気の美人だった。どことなく少女のようなあどけなさもただよい、その頼りなさはさぞかし男達の庇護欲をかきたてるだろう。
 成美はとり乱しこそしなかったものの、急速に五感から現実味が失われていく。
 すべてがあいまいな夢のようだった。

「…………本気?」

 かろうじて言葉をしぼり出した。

「来週の連休は、うちの親に会うって…………もう新幹線も予約したのに…………」

「成美には悪いと思っている。けど、成美を幸せにできないのに、成美のご両親に会うわけにいかない。心を決めた以上は、一刻も早く告げるべきだと思った。僕は君とは結婚しない。萌香と結婚する」

「ごめんなさいぃ、翔のカノさんっ」

 真正面から成美を見つめて断言した翔の言葉に、甘ったれた高い声がつづく。

「あたしは、もう少し時間をかけたほうが、って翔に言ったんですけどぉ。翔が『他の男に萌香を奪われたくないから』ってぇ…………」

 柊萌香と紹介された女が、もじもじ説明する。

「あたしも翔を他の女に奪われたくないし…………元カノさんには悪いと思ってます。でもあたし、本気で翔を愛してるんです! こんなに男の人を好きになったの、初めてなんです!」

 柊萌香は翔の腕にすがりつく。

「萌香…………」

 翔も優しいまなざしで萌香を見つめた。

(そんな…………)

 これは夢だろうか? 本当に現実なのか?
 成美とて、翔の恋人として三年ちかくを過ごしてきた。
 翔が成美以外の女にすがられて嬉しく感じているのを、瞬時に察知する。
 愕然とした。
 自分達二人の関係は、こんなに簡単に壊れてしまう程度のものだったのか。この三年間、翔が成美に見せてくれた優しさや情熱、かわしてきた会話や約束は、こんなにも簡単に無意味なものに成り下がる代物だったのか?

「そういうわけだから、元カノさんには申し訳ないけど、翔はあたしと結婚します。もう先週末から同棲してますし?」

「なっ…………!」

 勝利と優越感に満ちた柊萌香の言葉に、成美の頭が、かっ、と熱くなった。

「私とは一緒に暮らしてもいないのに…………!」

 成美は思わず立ちあがっていた。
 怒り、嫉妬、悔しさ、屈辱、その他諸々、様々な感情が入り乱れてドロドロにまじりあい、溶岩のような熱を持って成美の体内を駆けめぐり、爆発する。

「最低!! 見損なったわ!! アンタとの結婚なんて、こっちのほうからお断りよ!! 二度と私の前に姿を現さないで!! 一生、軽蔑するわ、この二股男!!」

 ばん、とカフェのテーブルを叩くと、成美はちょうどやってきたコーヒーに目もくれず、カフェを飛び出した。
 店内には翔と萌香が残される。





(悔しい、悔しい、悔しい)

 バチバチとパソコンのキーボードを叩きながら、成美は胸の内でくりかえす。

(そんなに若い女が良かったわけ!? そんなに美人と結婚したかったの!? どうせこちらは三十一歳の、可愛げないお局様よ!! だけどアンタが選んだその女だって、若いだけでロクな女じゃないからね!? 見ればわかるでしょ、あんな、あからさまに顔と若さで男を吊りまくる尻軽女!! そんな女に引っかかったアンタも、ロクな男じゃないからね!? 馬鹿みたい、若さと見た目の可愛さにだまされて! さっさと痛い目見て、勝手に破局すればいいのよ! その時になって後悔しても、私は絶対、アンタのところに戻ってなんかやらないからね!!)

 歯ぎしりしながら心の中で毒づいても、我に返ると、どっと虚しさが込みあげてくる。
 なにをどう強がっても、成美が捨てられたのは事実だ。
 悔しさに目尻に涙がにじんだ。

(あんな…………いかにも頭の軽い女に、翔を奪われるなんて…………っ)

 たしかに、若さではあの女に太刀打ちできない。
 けれど、それ以外の魅力を磨いてきたつもりだったのに。
 翔にとって最高の恋人、最高の妻になれるよう、努力を重ねてきたのに。
 思わず涙がキーボードに落ちかける、その寸前。

「ちょっといいかな、皆川みながわさん」

 遠慮がちな声が成美の耳に届いて、彼女を現実に引き戻した。

「この書類、皆川さんが用意したものだよね? こことここ、それからここも『計算がおかしい』って言われたんだけれど…………」

 部長が書類をめくって成美に差し出してきた。
「どこですか?」と成美も指摘された箇所をのぞき込み…………青ざめた。
 書類は間違いなく、計算を間違えていた。

「す、すみません、すぐ直します…………!」

 成美は慌てて書類をひったくるように受けとった。
 見直すと、指摘された以外の箇所もあちこち間違えている。普段なら絶対やらない、簡単すぎるミスばかりだ。翔達のことに気をとられるあまり、注意力が散漫になっていたのだ。
 成美は顔に羞恥がのぼる。
 この書類は明日の朝一番に必要な書類だ。おまけに今は別の急ぎの仕事も抱えている。
 今夜は残業確定だった。

(せっかくの金曜日だってのに…………)

 でも逆に、このほうがいいのかもしれない。
 金曜日の夜に一人で家に帰ってヤケ酒して、あれこれ考えてどん底に沈むよりは、残業でくたくたになるまでキーボードを打ちつづけて気をまぎらわせたほうが、残業代が出る分、まだ生産的なはずだった。
 成美は雑念をふっきるようにパソコン画面に向かう。





 その夜。望みどおり、くたくたになるほどキーボードを打ちつづけて、成美はようやく残業を終えた。どっと脳内が疲れに満たされ、机に突っ伏す。

「お疲れ様。助かったよ、皆川さん」

 優しい声と共にコーヒーがさし出される。
 内村うちむら部長だった。

「ありがとうございます。残られていたんですか?」

「皆川さんが残っているのに、僕だけ帰るわけにはいかないよ。ちょうど僕も、別件の仕事が残っていたし。書類、間に合って良かった。皆川さんのおかげだ」

「そんな…………」

 内村のお世辞に聞こえないお礼の言葉に、成美も恥じらう。
 内村は成美の上司だが成美より二歳年下で、女子社員の人気ランキング三位内に入る『有能なイケメン』である。年下には興味ない成美だが、内村大貴だいきの優しげなねぎらいの笑顔が魅力的であることは、認めざるを得なかった。

「もう八時か…………良かったら、夕食をどう? このまま帰ってコンビニ弁当というのも、わびしいし」

 誘われ、乗ってしまったのは、恋人に捨てられたばかりというだけでなく、内村の穏やかなまなざしと声が心地よかったことも大きいだろう。
 成美は内村お気に入りのレストランに案内され、彼のおごりで遅い夕食に舌鼓を打ち、ワインまでごちそうになって、気づけば、婚約者に捨てられた一件をしこたま部長に愚痴って慰められるという、至れり尽くせりのおもてなしを受けたのだった。
 そして翌朝。





「…………ヤバい」

 見知らぬ部屋の、見知らぬベッドの上で。成美は目を覚ました。
 ベッドの隣には、内村部長こと内村大貴。
 お互い、何も着ていない。
 何事かあったのは、火を見るより明らかだった。

「…………ありえない…………私ってば…………」

 成美は二日酔いに痛む頭を抱えた。

(いくら失恋で気弱になっていたからって…………酔ったはずみで部長と寝てしまうなんて、どこのレディースコミックよ!!)

「ああああ」と成美は呻いた。自分で自分を殴りたい。

「と、とにかく服を着て…………帰らないと…………」

 服をさがしてベッドから出ようとしたら、ベッドのゆれで内村が目を覚まし、「うーん」と目をこすりながら上半身を起こす。成美は頭の中が真っ白になる。

「あ…………皆川さん…………っ」

「ぶ、部長、これは…………」

 何故か、成美のほうが言い訳がましくまくしたてる。

「だ、大丈夫です、部長。私、わかっています。誰にも言いふらしたりしません。今夜のことは忘れます。私も部長も、お互い大人ですし、この程度のことで騒ぎ立てたりはしません。私も昨夜は飲み過ぎて、色々、なんというか、隙があったと思いますし。その、部長だけが悪かったとは思っていませんので! お互い、昨夜のことはお酒のせいということで、忘れましょう!! というか、忘れます!! だから…………!」

「皆川さん!」

 今にも卒倒しそうなほど動揺する成美の手をつかまえて、内村が成美を呼んだ。
 内村は予想外すぎる、とんでもない言葉を寄越してくる。

「――――僕は、忘れたくない」

「え?」

「僕は忘れたくない。昨夜のこと…………皆川さんと、こういう結果になったこと…………」

「えっ…………」

 内村の「人気アイドルに似ている」と女子達が騒ぐ、優しげかつ、甘さを含んだ顔立ち。その頬が、ぼうっと赤く染まる。
 成美はその赤を呆然と見つめた。

「こんなことになって…………この状況で言うのは、順番が違うと思うけれど。不真面目と思われるかもしれないけど。皆川成美さん、僕と…………結婚を前提に、付き合ってくれませんか? ずっと――――あなたが好きでした」

「え…………えっ!?」

 内村は成美の手をにぎりしめ、正面から顔を近づけてくる。

「今これを言うのは、色々な意味で卑怯だとわかっている。皆川さんは酔っていたんだし…………それでなくても、その、婚約者にふられたばかりで…………弱みに付け込むような真似かもしれない。でも…………それでも、皆川さんさえ良ければ…………皆川さんにその気があるなら、僕と結婚してほしい。ずっと君が好きだった。こんな言い方は良くないけれど、君が婚約者と破局したと聞いて…………僕は喜んでいる。運命だと…………神が僕にくれたチャンスじゃないかと、僕は信じているんだ」

 すぐ目の前の内村の瞳も表情も、このうえなく真剣だった。

「結婚してください、皆川成美さん」

「――――はい…………」

 気づくと成美はそう答えていた。





 四ヶ月後、成美は社内中の女子の嫉妬の視線を浴びながら、内村大貴と結婚式を挙げた。
 自分でも「早い」と思ったが、大貴が大乗り気で「結婚って、まとまる時にはまとまるんだ…………」と、つくづく思った。
 辻本翔は婚約破棄後、すぐに退職していた。彼が成美を捨てて若い娘を選んだことは会社中に知られており、「居づらくなったのではないか」というのがもっぱらの噂だった。





「おかしいな、この寺からすぐ、って聞いたんだけど…………」

 夫の大貴が手書きのメモ用紙をにらむ横で、成美はスマホで目的地を検索する。

「スマホは無理。郊外過ぎて、電波の調子が悪いわ」

「ちょっと、そこの寺で訊いてくる。君は車で休んでいて」

 大貴はメモを手に、解放された門をくぐって寺へ入って行った。庭を掃く住職に声をかけるのが見える。
 大貴と結婚して、三年。
 もともと出世頭だった夫は順調に昇進を重ね、成美も退社してやりたかったフリーランスの仕事につき、収入も安定するようになって今はまで叶いかけており、申し分のない人生を送っている。
 急ぎ足に思えた結婚も、決めてしまえば、夫の優しくも深い愛情が成美の傷ついた心をあたたかく癒し、今ではかけがえのない存在となっていた。
 今日は連休を利用して、友人が郊外にオープンした有機野菜料理のレストランを訪ね…………道に迷ったところだった。

(たしかに畑に囲まれていて、新鮮な野菜を手に入れるには好都合だろうけど…………郊外過ぎるでしょ。おかげで電波が届かないじゃない)

 助手席でため息をついた成美は、なんとなく目の前の寺の門の中を見つめていて、その光景を目にとめた。
 寺の裏手に集まった墓石。その列の中に。

(あの人…………どこかで見たような…………?)

 気になり、手持無沙汰もあって、成美は車を降りて門をくぐった。
 墓石の間を歩いていくと、ある墓石の前で、黒い着物を着た女が一人、立っている。
 はっきりと顔を判別できる距離まで近づいた瞬間、成美は雷に打たれるようにその顔を思い出した。

「ひいらぎ…………もえか!!」

 着物の女もふりむく。
 間違いなかった。
 三年経って、なお、こんなにするりとこの名が飛び出してきたことに、成美は驚いた。

「ひょっとして…………皆川成美さん? 三年前にお会いした」

 三年ぶりの柊萌香は、相変わらず美しかった。
 むしろ三年が経ち、その美しさに磨きがかかったようだ。
 清楚だが、どこか少女のように頼りなかった女は、今は凛とした輝きを備え、これはこれで惹かれる男が後を絶たないだろうと思わせる艶を放っていた。

「どうして、ここに…………」

 成美は呻くように問う。三年たっても、進んで会いたい相手ではない。
 しかし柊萌香は成美の気持ちなど知らぬかのように、落ち着きはらって答えた。

「親戚の法事です。皆川さんは…………」

「どうして、ここに?」と問おうとした口を止め、柊萌香は成美の腹に視線を落とす。

「おめでたですか?」

「え? ええ」

 妊婦用ワンピースを着た成美の腹は隠しようもなくふくれ、子供がいるのは明らかだった。大貴が「車で休んでいて」と勧めたのも、それが理由だ。夫婦待望の第一子だった。

「おめでとうございます。出産予定はいつ頃ですか?」

「あ、来月末よ。確実ではないけど…………」

 柊萌香にほほ笑みと共に祝福され、成美は戸惑う。
 三年前とは正反対の、しっとりと落ち着いた大人の態度だ。
 別人のような雰囲気に成美が戸惑っていると、夫の声が迎えに来た。

「ああ、いた。車にいないから心配したよ、成美」

 墓石の間から笑顔と共に、夫の大貴がやってくる。

「あれ? お話し中――――」

 大貴は柊萌香の存在に気がつき、妻に見せる屈託ない笑顔を引っ込め、真面目な顔になる。

「ううん――――」

 成美は首をふり、いそいで夫をうながした。夫まで柊萌香の毒牙にかかってはたまらない。

「なんでもないの。行きましょう。――――さよなら、柊さん」

 成美は一言だけ、柊萌香に挨拶する。

「さようなら。どうかお幸せに――――」

 何故か、柊萌香は手をそろえて頭をていねいにさげた。
 和装にふさわしい、楚々とした仕草だった。





 大貴は妻の体を気遣いながら、墓地を離れていく。
 まさか、ここで柊萌香に会うとは思わなかった。
 妻は、成美はなにか気づいただろうか。いや、そんなそぶりはない。
 成美に気づかれぬよう大貴がそっとふりかえると、柊萌香はまだこちらを見ていて、大貴の視線に気づいたのか、ふたたび頭をさげてきた。
 大貴もかるい会釈でそれに応じ、妻を車に連れていく。





 寺の門をくぐる前、成美は一度だけうしろをふりかえった。
 まだ墓地にいた柊萌香の隣に、一人の男が立っている。
 二人の距離は明らかに近く、寄り添うようで、とても友人や親戚の距離感ではない。
 どういうことだ、と成美は思った。
 あなた柊萌香は翔と結婚したんじゃないのか。翔が私を捨ててあなたを選んだのは、たった三年前なのに、あなたはもう、別の男といるのか。
 激情に似た問いが頭の中を駆けめぐり、思わず成美は足をとめて、墓地へ引き返しそうになる。が。

「成美? どうした?」

 大貴の穏やかな声が成美の足を、心を引き止めた。
 成美は夫の優しい顔を見あげる。
 そうだ。今の自分には夫が、大貴がいる。まして、お腹には彼との子が。
 翔のことも柊萌香のことも、今の自分にはどうでもいい事柄だ。彼らがどんな人生を送っていようと、それは今の成美には関係ない。
 今は、そしてこの先は、大貴とお腹の子のことだけを考えて生きていくのだ。

「ううん、なんでもない」

 成美は笑顔を大貴に返して、車に乗った。
 車が動き出して寺を離れる。





「さっきの女性ひと、誰だったんだ?」

 夏生なつおが萌香に訊ねる。
 萌香はに答えた。

の元婚約者さん。三年前に別れた」

「ああ」と夏生は合点がいった。

「例の、萌香が翔さんの恋人のをした時の」

「そう。まさか、ここで会うとは思わなかったけど」

「…………いいのか?」

 夫が萌香に訊ねた。

「なにが?」

「翔さんの病気のことを教えなくて。あの人、今も萌香が翔さんの――――お義兄さんの恋人だって、信じているんだろ? 今日ここで――――お義兄さんので再会したのも、なにかの縁とか導きじゃないか?」

 夏生は萌香のすぐそばの墓石を見た。
 墓石には『辻本家の墓』と刻まれている。
 くすっ、と萌香は笑った。艶のある魅力的な笑みだ。

「導きとか、夏生もそういうこと信じるのね。少し意外。――――でも、いいの。それが翔の望みだったから」

 萌香はきっぱりと言いきった。
 視線の先には、とっくに成美達が出ていった寺の門がある。
 柊萌香と辻本翔は実の兄妹だ。幼い頃に両親が離婚して、兄は父に、萌香は母に引きとられ、萌香は『柊』姓になった。
 その後も定期的に連絡はとり、兄が就職すると直に会って食事などしていたのだが、三年前、兄に深刻な病気が見つかった。
 病状は末期で手の施しようがなく、すでに余命は一年をきっていた。
 兄は驚き、苦悩した果てに、婚約者に真実を隠す道を選んで、彼女と別れるために妹に「恋人のふりをしてほしい」と頼んだ。「まだ、妹がいることは言っていないから」と――――
 萌香は最初、反対した。
 隠すのは良くない。自分が婚約者の立場なら、愛する人の真実は知っておきたいし、最後までそばにいて支えつづけたい。きっと兄の婚約者も、そう言うはずだ。そう主張した。
 だが兄はゆずらなかった。

『成美に余計な心労や負担をかけたくない。どうせ、もう助からないなら、無駄な時間や金銭は使ってほしくないんだ。この先の成美の人生は、新しい幸せのためだけに使わせたい』

『でも――――!』

『成美には、もっとふさわしい男がいる。内村は仕事もできて、人柄も信頼できる。成美を真剣に愛しているのに、俺がいたから黙って身を引いたんだ。内村となら、成美は幸せになれる。もう、内村には話を通してあるんだ――――』

 ある意味、入院の準備だの、遺書の手配や遺品の処分だの、どんな終活よりも真剣に入念に、兄は皆川成美と別れた。
 萌香を新しい恋人と偽り、彼女に乗り換えたふりをし、恋人を泣かせる罪悪感を押し殺して皆川成美に別れを告げ、そして何度も『成美を頼む』『絶対に幸せにしてくれ』と内村にくりかえして、身を引いた。
 最初は躊躇していた内村も、兄の懇願に背を押され、真実は墓場まで持って行く覚悟を決めて、皆川成美にプロポーズした。
 内村からプロポーズ成功の報告を聞いた兄は、上司にだけ病気の件を明かすと、ひっそりと会社を辞めた。そして入院生活がはじまり、院内で内村と皆川成美の挙式報告を聞くと――――静かに息を引きとったのだ。
 萌香は言った。

「…………本当を言えばね。私もちょっとは、教えてしまおうかと思ったことはあるのよ? 成美さんに翔兄さんの病気を告げてしまおう。翔兄さんと内村さんは裏で話がついていたのよ、って――――」

 妹はうっすら笑う。

「だって――――私だったら、愛する人が病気で苦しんでいるのに、自分だけ幸せになるなんて、できない。最後までそばにいたいと思うし…………成美さんもじゃないか、って思ったし。…………正直、ちょっと許せなかったの。翔兄さんは日に日に弱っていくのに、あの人は何も知らず、周囲に祝福されて、別の男と幸せになって――――」

「でも」と萌香はつづけた。

「そういうのもすべてひっくるめて、翔兄さんは別れを選んだのよね。なにも言わず――――あの人がなにも知らず、すべてを誤解したまま別の男と幸せになっても、自分は一生恨まれたとしても、軽蔑されたとしても、それでも彼女成美が幸せなら――――そう、兄さんは望んだのよね――――」

 萌香は寂しげに笑った。

「お兄さんらしい――――」

 磨かれた墓石の表面が、午後の日差しにきらりと光る。
「行きましょうか」と萌香は夏生をうながした。
「ねえ」と夫を見あげる。

「夏生は兄さんみたいに、秘密を持たないでね?」

「持たない」

 短いが、たしかに宣言して、夏生は妻の肩を抱いて墓地を出ていく。





 車の窓の外を田んぼが流れていく。

「道を一本、間違えていたんだ。地図が間違っていたんだよ」

「あの子は本当に、地図関連はあてにならないんだから…………」

 笑いながら運転する夫に、成美も友人のドジをぼやく。
 車がカーブした際、車窓に先ほどの寺が小さく見えた。
 きっともう、柊萌香に会うことはあるまい。彼女にも、彼女を選んだ翔にも――――
 ふいに、強い感情が成美の胸にせりあがってきた。

「どうした? 成美」

 驚いて夫が声をかけてくる。
 成美は気づいた。

「…………え…………?」

 成美は自分が泣いていることに気づいた。
 滴が頬からしたたり落ちて、胸や身ごもった腹を濡らしている。

「どうして…………」

「気分が悪いのか? それとも、もしかしてお腹が――――」

「ううん、違う。違うの。そうじゃない――――」

 成美は慌てて袖で涙をぬぐう。
 胸に優しい面影がよみがえる。
 優しい、優しい、成美を見つめる翔の笑顔。
 ああ、そうだ。翔は優しい人だった。
 優しくて、優しくて…………人が良すぎるほど優しい人で、見ていた成美が時々「いつか、この優しさが翔自身を苦しめる羽目にならないか」と心配になってしまうほど――――
 成美は車窓を見る。角を曲がりきってしまって、寺はもう見えない。
 成美の胸から、原因不明の哀しみの波も引いていく。
 ただ、一つの事実を思い出した。
 翔は優しい人だった。お人好しなほど、優しい人だった。
 ただ、それだけ。
 それだけだ。
 あの女柊萌香と予想外の場所で再会を果たし、それを思い出した。それだけだ。
 成美は涙を拭き、心配する夫に「大丈夫」と笑顔を見せる。

「あ、あれね。やっと着いたわ」

 目的地である友人のレストランの駐車場に車が停まり、成美はお腹をさすりながら、夫に手をとられて車を降りた。

「お腹、ぺこぺこ。がっつり食べたい」

「僕も。レストランの売り上げに、たっぷり貢献できそうだね」

 成美は笑いながら、夫、そしてお腹の子供の三人でレストランに入っていく。
 優しい風が一回だけ吹いて、昔の婚約者が遠いどこかで優しく笑っている気がした。
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