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「リリーベル」

 低い美声が優しく呼ぶ。
 リリーベルは目を開けた。
 思ったとおり、目の前に赤い瞳の青年の顔があって、こちらをのぞき込んでいる。
 時刻は深夜。月はまだ出ていない。
 だがリリーベルは彼の艶やかな黒髪も、なめらかな白い肌も、形の良い鼻も色香を含んだ口もとも、すべて明瞭に見える気がした。
 アルベルテュスはほっとしたように穏やかに笑っていて、これが魔物の支配者たるあかの一族第六位バーミリオンとは、とうてい信じられない。

「良かった。目が覚めたか」

 リリーベルの亜麻色の頭を、大きな手が支えているのが感触でわかる。アルベルテュスの反対側の手がリリーベルの頬をなでる。
 リリーベルは視線だけで自分を見おろした。
 どうやら自分は彼の膝に乗り、彼の腕に支えられる格好で、横にちかい体勢になっているらしい。普段なら「おろしてください」と言っているところだが、今回は彼の支えに甘えることにした。鎧の下の服が、脇腹からあふれた血でべったりと濡れている。

「貴女は本当に無謀だ。貴女を最優先できなかった俺が言うことではないが」

 リリーベルはほほ笑んだ。
 今は怒る気も憎む気もわかない。
 かわりに、たった今、見た夢の話をする。

「あなたが夢に出てきました」

「俺が?」

「場所はわかりません。どこか遠いところ。私達は人間でも魔物でもなかった」

 白い長い指がリリーベルの額をなでる。
 リリーベルはその感触を心地よく感じる。

「私はあなたの話を聞いていました。あなたは私に、いろいろな話をしてくれました。王都のことや、私の知らない土地の話…………」

「光栄だ。貴女の夢に現れることを許されて、そこまで耳をかたむけてくれたとは」

 リリーベルはもう一度、笑う。
 怪我をした左腿と脇腹の感覚が麻痺して、痛みのかわりに冷たさを感じる。手足に力が入らない。

「紅の一族も白騎士も関係なく…………ただ話を聞くだけなら…………あなたともう少し、話してみたかった…………」

「少しと言わず、これからいくらでも。貴女が望むなら、月が登って月が沈み、太陽が昇って太陽が沈むまで、ずっと」

 額をなでていたアルベルテュスの手が、いつの間にか籠手を外されたリリーベルの手をとり、彼女の指に、爪の先に、手の平にキスを捧げていく。

「どうか俺のものに、リリーベル。俺はずっと貴女に恋している」

 リリーベルは苦く笑った。
 その頼みは聞き入れてあげられない。

「私の心は、私自身のものです。たとえ神といえど、それは曲げられない。どうしてもと望むなら、私が差しあげられるのは、私の死体だけです」

「かまわない。髪の一本、眼差しの一つでも、貴女が自分の意志で俺に許すのであれば。貴女の死体を俺に与えるというなら、その死体に永遠に朽ちぬあか魔術をほどこし、俺一人だけが知る祭壇に置いて、昼も夜も貴女の望む話を語りつづけよう」

 リリーベルの胸を、不思議な感情の波が襲って満たした。
 寂しさに似ているけれど、寂しくはない。
 ふりかえればいつでも、この人は自分のそばにいると信じられた。
 リリーベルは告げた。

「それでは、あなたのお好きなように。たかが死体ですが、あなたが望むなら、好きなようにお持ちください」

 初めて彼の頼みを聞き入れたと思うが、リリーベルは視界が霞んでアルベルテュスの表情を見分けられない。
 せめて、きちんと笑顔を作れていることを祈るばかりだ。
 体に残っていた最後の力が失われていき、意識が急激に遠のく。

「リリーベル」

 アルベルテュスはまぶたを閉じた人間の娘の名を呼ぶ。

「この野郎…………!!」

 どす黒い憎悪に塗り固められた罵声が、背後から飛んできた。
 アルベルテュスはリリーベルを両腕に抱いたまま、首だけうしろをふりかえる。
 頭が完全に吹き飛んで、胴体の半分近くを失った四体目の異形の魔物の中身をかきわけるようにして。
 紅の一族第十三位ピンクカレルが姿を現した。
 騎士団の鎧は汚れ、金色の髪も乱れてはいるが、足取りはしっかりして体重を感じさせず、たいした被害を受けていないのは明らかだ。

「魔物の中に逃げ込んで、浄化の直撃を避けたか。リリーベルが起きている間に姿を現さなかったのは、気が利くな。おかげで彼女を失望させずに済んだ」

「図に乗るな。リリーベルは私のものだ。すぐに彼女を置いて、さがれ。そうすれば、リリーベルに触れた手を斬りおとすだけで済ませてやる」

「紅の一族ともあろう者が、刃物などに頼るな。俺達の武器はいつでも、この身とこの魔力、それだけだ」

 カレルは眉をつりあげる。

「リリーベルを渡せ! 私のものだ!!」

「死体の所有権を与えられたのは、俺だ。それにお前は、生きた彼女を求めていなかったか?」

「死体でも使い道はある。ひとまず私の血を与えて、『生ける屍』としてよみがえらせる。早ければ早いほど、生前の意識や記憶、人格を、完全にちかい状態で復活させられる」

「だから、お前は彼女に拒まれるんだ」

 アルベルテュスは呆れた様子でリリーベルを抱えなおし、立ちあがって歩き出した。
 カレルとは反対の方向へと。

「…………私の言うことが聞こえないのか?」

「第六位が、どうして第十三位の命令をきかなければならない? 俺のほうが強いのに」

 カレルの表情が悪鬼のそれとなる。
 もはや問答は無用。カレルは腰の剣を抜き、そこに自身の魔力を大量に送る。
 大きくふりかぶり、自身の魔力を塊としてアルベルテュスの背中めがけて放出した。
 赤い光の刃が地面を削って、リリーベルを抱えたアルベルテュスの背に迫る。
 寸前。
 漆黒の雷がカレルの背を貫いて落ちた。
 轟音。
 分厚い石の城壁がふるえ、城壁上の兵士達も、城壁の下にいたコーデリア・ホワイトやスノーパール城伯も、耳をふさいでちぢこまる。
 雷は黒い炎を生み、炎はカレルの肉体を焼き、地面に転がったままだった四体目と五体目の魔物の死体をも焼き尽くして、消えた。
 雷を落としたアルベルテュスは十数秒、背後を確認しただけで、顔を戻す。
 腕の中のリリーベルの顔に、愛しそうに自分の頬を寄せた。
 雷の落ちた瞬間、カレルの首だけ飛んで、肉体ともども焼かれるのをまぬがれたのは、偶然だろうか。
 おそらくアルベルテュスの故意だろう。
 カレルの首は、自分を殺した同族の男が、自分が手に入れようとしていた娘に口づける光景をその目に焼きつけながら、またたく間に老人のように干からびて塵となった。
 夜空の下に静けさが戻ってくる。
 何事も起きぬ時間が長くなるにつれ、一人、また一人と、事態の収束を察していった。
 城壁の上下で人の声が聞こえ出す。




 スノーパールの伝承に語られる白騎士、リリーベル=ホワイト。
 片田舎出身だが、類稀な白騎士だった彼女は十六歳の若さで魔物達の王族、紅の一族の第十一位バーガンディーと第十三位を浄化し、巨大な魔物からスノーパールの街を守って、英雄となった。
 しかし、魔物との戦いで命を落とした彼女は死後、白騎士の中でも特に優れた武勲と人柄を有した者のみに与えられる『聖騎士』の称号を聖殿から与えられ、女性であったことから、人々の間では『聖女騎士』の通り名で語られるようになる――――
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