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 血だまりの中に倒れていた両親。二度と会わせてもらえなかった、幼い弟。
 いつもと同じように家を出て、いつもと変わらぬ日々がつづくと疑いもしなかったのに、帰ってきた時には、もう平和な日常は奪われて二度と戻ってくることはなかった。
 あの惨状。あの喪失感。突然、足元の地面がなくなったような、わけのわからない不安、恐怖、寂しさ、家族への恋しさ。
 あれがすべて。

『貴女の村と家族を殺したのも、その男だ』

 赤い瞳の魔物は、たしかにそう言った。




 リリーベルはアルベルテュスを見た。あかの一族第六位バーミリオンを。
 それから自分の目の前にしゃがみ込み、自分と視線の高さを合わせたカレル――――八年間、恩人と信じ、兄代わりと思ってきた人の顔を見る。
 リリーベルに新しい家と家族を用意し、今日の昼には彼女に求婚してきた男性だった。
 カレルはなにも変わっていない。
 ただ、その瞳が赤く輝いているだけ。
 リリーベルは傷つけられた左腿の痛みも忘れ、ぎくしゃくした動きで顔をアルベルテュスへ向け、ふるえる唇から声をしぼり出した。

「あの…………なにかの間違い…………では? 間違い、です、きっと。だって、だって、カレルお兄さまがそんな、お兄さまはずっと…………」

「あなたにとって、その男がどんな存在かは知らないが」

 前置きしつつ、紅の一族第六位は淡々と語っていく。

「直接、貴女の故郷に赴いて調べてきた。貴女の故郷を襲ったという魔物のことと、村で唯一、生き残ったという娘の行く末を。三日間で、だいたいの事柄は調べがついた」

「私の…………故郷?」

 スノーパール城で会ったあと、顔を見せないと思ったら、そんなことをしていたのか。
 そういえば、そうだ、あの晩、自分はこの青年に過去の一部を吐露していたのだ。だが。

「わ、私の故郷なんて、正確な場所を、あなたがどうして知っているんです?」

「貴女が言っていた。スノーパール城で話した時に。『待雪草の丘』――――つまり、スノードロップヒルの村だろう? 村は廃墟になっていたが、隣の村の人間は八年前の事件を、まだしっかり覚えていた。それから貴女のことも」

「スノードロップヒル…………」

 スノードロップヒル。待雪草の丘。そう。この八年間、時には忘れてしまいそうになり、ひそかに紙に書いて記憶していた名前。リリーベルの生まれ故郷。

「村中の人間が魔物に殺され、薪拾いに行っていた八歳の少女だけが、かろうじて難を逃れた。少女は偶然、その日に訪れていた遠縁の青年に引きとられ、村を出て行った。事件のあとは周辺の聖殿から聖水をかき集め、墓と言わず村の周囲と言わずにまき散らして、魔物が戻ってこないよう浄化したそうだ」

「魔物…………」

 リリーベルは記憶をさらう。
 倒れていた両親。リリーベルに近づいてきた、あの恐ろしい存在もの
 恐怖と邪悪だけを混ぜて、煮詰めたかのような存在感。

「…………わからない…………」

 思い出せない。
 どうしても思い出せない。ここまで教えられたというのに、何故。
 あの魔物が、どんな姿形をしていたか。
 なにを見て、なにをしゃべったか。

「わからない…………思い出せません。姿も声も…………人間の姿だったか、獣だったか…………それさえ…………! 赤い瞳だけを覚えている…………あの、夕暮れの射し込んだ家の中で、爛々と輝いていた赤い瞳…………それが急に青くなって…………」

 はたと気づいた。

「待ってください。カレルお兄さまが、あの時の魔物だというなら…………瞳は、どうなるんです? あの時の魔物は、青い瞳でした。赤かった瞳が、青く変化したんです。空のような…………グレイシー嬢の瞳によく似た青…………カレルお兄さまは、紫色の瞳なのに…………」

 愕然とし、かろうじてしゃべっている状態のリリーベルに、紅の一族第六位は無情に告げる。

「俺が覚えている限り、そいつのもともとの瞳の色はだった。他の一族にも確認してきたから、間違いない。紅の一族入りした結果、赤味が強くなり、十年かけて紫に変化したんだ。もう十年後には、完全に赤くなっているだろう」

 リリーベルは呼吸が止まった気がした。
 とうてい、そばのカレルの瞳を確認する勇気はない。

「貴女の故郷を見に行った。貴女の家も…………隣村で仕入れた情報が間違っていなければ、見たと思う。村にも家にも、魔力が残っていた。おかげで話は早かった。魔力の実物があれば、特定は容易い。これがそこらの低級な魔物なら、早々に魔力が薄れて特定が困難だったはずだ」

 アルベルテュスはカレルを見やる。

「八年が経ち、かつ、聖水も撒かれていながら、あれだけの魔力を残すあたり、わずか五年で位階を得ただけはある。総括すると、その男は十年前に紅の一族入りし、八年前に貴女の村と貴女を襲って、五年前に第十三位ピンクの位階を得たんだ」

「嘘…………」

 リリーベルは思わずカレルを見ていた。

「嘘ですよね…………お兄さま…………お兄さまがそんな、あの時の魔物だなんて…………私を…………私の村を、父さん母さん、弟を襲っていたなんて…………」

 もし、この時、カレルが「違う」と言っていれば。
 たとえ赤い瞳のままだったとしても、リリーベルはぎりぎりの端でカレルを選び、アルベルテュスの言葉を『偽り』と断じていたかもしれない。
 それだけの年月を『家族』と思って過ごしてきたし、『兄』と呼んで信頼するだけの様々なものを、彼からもらってきたのだ。
 この八年間、リリーベルはたしかにカレルを『優しい兄』と認識してきた。
 けれど。

「そうだよ」

 カレルはいつもの――――あるいはいつも以上に優しい口調で、リリーベルに肯定した。

「私が殺した」

 リリーベルは周囲の音が消えた気がした。

「あの日、あの時、あの場所で、私はどうにも耐え難い喉の渇きに襲われた。紅の一族入りして間もなかった頃で、私はしょっちゅう強烈な飢餓感に悩まされた。だから、目についた君の村を襲った。小さな村なら、たいした守りもほどこされていないし、白魔術師がいる可能性も低かったからね。片っ端から襲ったよ。男も女も、子供も老人も。老人の血はまずいけれど、邪魔してきたり、顔を見られたりしたから、殺した。特にうまいのは、若い娘だ。それと子供。いくらでも腹に入る」

 紅の一族第十三位の言葉に、紅の一族第六位の言葉が割り込む。

「一族入りしたばかりの頃は大なり小なり、生き血への渇望に苛まれるが。お前は特に性質が悪い。俺達、紅の一族は本来、必要以上の血は飲まないし、まして、ついでで殺すなど論外だ。無用に殺せばその分、将来の糧が減る、と教えられたはずだぞ。しかも、よりによって将来、子を産む可能性がある若い娘を殺すとはな。女は慎重に扱えと伝えられたはずだ」

 舌打ちと共に語ったアルベルテュスの声には、たしかに嫌悪感が混じっていた。
 ただし、殺人への嫌悪ではない。
 一族の者でありながら、一族の将来を脅かす行為を犯したことに対する嫌悪感だった。
 対してカレル――――紅の一族第十三位の顔にも声にも罪悪感はない。
 そっと、優しくリリーベルの頬に手を添えた。

「ああ、その表情かお。その表情だよ、リリーベル。八年経ち、八年分成長しても、君のその表情は変わらない。君はあの時も、この美しい緑の瞳に、今と同じ絶望や恐怖を映して動けずにいた。本当に変わらない」

 ほほ笑み、カレルはリリーベルの耳に己の唇を近づける。

「知っているかい? 本当に喉が渇くとね、悠長にちまちま吸っていられなくなるんだ。血が欲しくて欲しくて、口の中も喉の中も、すべて血でいっぱいにしたくてたまらなくなる。首に牙を刺して少しずつ、なんて、やっていられない。だから噛みつき、引き千切るんだ。これが一番、手っとり早い。頭から血をかぶって、あふれた内臓に顔を突っ込んで味わうんだよ」

「やめてください……」

「君の弟もうまかった」

 耳を押さえようとしたリリーベルの両手首を捕えて、カレルは笑った。

「体は小さかったけれどね。幸い健康で、やわらかい肉の中に血がたっぷり流れていた。だからそれを丹念に味わったよ。首を抜いて滴る血を飲み、肉をぐちゃぐちゃに噛んで、最後の一滴までしぼりとった。ああ、君の両親を殺したのは、血が目的じゃない。赤ん坊を素直に渡さなかったからさ」

 リリーベルの脳裏に、最後に見た両親の姿がよみがえる。

「君の血は、どんな味がするんだろうね? 姉弟なのだから、きっと似た味じゃないかな。あの時もそう思って、君の血も飲むつもりでいたんだ。ああ、それなのに…………」

 カレルはリリーベルの両頬をはさんだ。
 心からもったいなさそうに、それでいて、うっとりと焦がれるように赤い目を細める。

「君の恐怖は美しかった。絶望は可憐だった。まだ、たった八歳の少女でありながら、私はあの時、君の恐怖と絶望に魅了された。君を手に入れたくて、たまらなくなった。殺すのはもったいないと感じてしまったんだ。わかるかい? この葛藤が」

 カレルは赤い瞳をいっそう赤く輝かせ、一方的にしゃべっていく。

「私は君の血を飲んでみたかった。一方で、君を生かしたまま私のものにしたかった。生きたままの君の恐怖を、絶望を、存分に味わいたかったんだ。とても迷ったよ。心底ね。そして結論をくだした。私は君を生かし、生きたままの君の血と心を、心ゆくまで味わうことにしたんだ」

 リリーベルの視界の端が霞む。恐怖か、怒りか、哀しみか。涙がにじみ出していることに、本人が気づいていない。

「私は君を助けた。あの村でただ一人、君だけは生かして残し、あか魔術で私の姿も声も忘れさせた。そして、いったん村を出て『久々に訪ねてきた遠縁』という体で、君の前に現れ直したんだ」

 カレルは籠手を外し、素手でリリーベルの目尻を拭く。

「泣いているね、リリーベル。あの時のように」

 優しい声が耳に、心に沁み込んできて、黒く蹂躙していく。

「私は君を連れ帰った。そして君を手元に置いて育て、年頃になるのを待とうと思った。正直、君が聖殿入りしたのは計算外だった。ましてや白騎士に、なんて。こうなるとわかっていたら、騎士団に入団などしなかったのに」

 歯ぎしりの音が聞こえた。

「それでも、私は君を待った。いつか君が、自分から私のもとに戻ってくる、私のものになることを受け容れる日が来る、と信じてね。その時こそ、私は本当に、完全に君を私のものにするつもりだった。なのに…………」

 カレルの赤い瞳が憤怒に輝き、表情に憎悪が宿る。

「あんな男に、横から手を出されるとはねぇ――――!!」

 アルベルテュスは真っ向からその灼熱の視線を受け止め、笑みを浮かべた。嘲笑だった。

「リリーベルは、私のものだ。八年前、私がこの娘を見つけ、八年間、私がこの娘を育ててきた。すべてはこの時のため。リリーベルは私のもの、紅の一族だろうが上位だろうが、他の男に渡しはしない――――!!」

 カレルはリリーベルの顔をつかんだ。
 そして赤い瞳を輝かせたまま、優しく、優しく、とても優しく訊ねてきた。

「さあ、リリーベル。返事をくれないか? 私は君に結婚を申し込んだ。君は、どう返答してくれるんだい? 君を八年間『妹』として守りつづけたこの私を、どう評価してくれるんだ――――?」
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