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 薪拾いから帰ってきて、家の扉を開けたリリーベルは
立ちすくんだ。
 むわっと鉄錆に似た匂いがあふれ、踏み固められた土の床に赤黒い水たまりが広がっている。
 その中央に倒れているのはリリーベルの両親。二人共、服が真っ赤に染まっている。
 カタン、と音がして、リリーベルはそちらを見た。
 恐ろしいものがいた。
 暗闇を凝縮したような存在感。赤い二つの瞳が爛々と、文字どおり輝いている。口のまわりをびちゃびちゃ舐める舌は、てらてらと赤く濡れていた。
 リリーベルは動けなかった。状況の理解を頭が拒んでいる。
 そいつが出てきた奥の部屋には、二歳の弟が寝ていたはずだが、泣き声も物音も聞こえなかった。
 恐ろしいものは舌なめずりしながらリリーベルに歩み寄り、細い首をつかまえる。
 ふいに、気配が変わった。首筋に近づけていた顔を離し、人間とは思えぬおぞましい声で、何事か言葉を発する。しかし内容はリリーベルの頭に入らない。
 赤く光っていた瞳は急激に冷めた色に変化し――――恐ろしいものは背をむけ、扉から出て行った。
 リリーベルの記憶はそこで途切れる。
 八歳の初夏の夕方。生まれ育った村を魔物に蹂躙され、ただ一人、生き残ったリリーベルはその後、村を訪ねてきた遠縁の少年カレルによって、両親の死体の横に倒れていたところを発見される。
 村はほぼ全滅で、カレルが呼んだ隣村の住人達の協力で、なんとか家族や村人達の埋葬を終えることができたのだ。
 リリーベルはカレルに手を引かれて、街にあった彼の実家に引き取られ、二年ほど彼の家で暮らす。
 そして白魔術の素質を認められたのを機に、聖殿に入り、白魔術の修業を積んで武術を習い、武装して魔物達と戦う白魔術師――――白騎士となり、頭角を現していった。
 現在、リリーベル=ホワイトは十六歳――――




 月がのぼる。
 月は太陽の眷属、昼の王の妹。暦の守り手であり、魔物の力が強まる夜に太陽の力の欠片をふりまいて、人々を魔物から守る。
 だからこの国では、太陽と月、両方の光を崇め、大事にする――――

「見張りと見回り、交代します」

 夜の、スノーパールの街を囲む城壁の上。班長同士が挨拶しあって、槍や弓をかまえた十人ほどの男の兵士達が場所を入れ替わる。兵士の中には白い長衣をまとった白魔術師が二人と、白銀の鎧を身につけた白騎士も一人ずつ、混じっている。
 白魔術師達は城壁の上に出ると、さっそく等間隔で焚かれた松明に魔除けの香を足し、城壁の所定の位置に聖水を垂らして、壁の聖化を強化していく。

「復帰ですか、白騎士リリーベル」

「はい、今夜から。夜勤、お疲れさまでした」

 休憩に入る白魔術師の一人がすれ違いざま、リリーベルの姿を見て声をかけてきた。
 あかの一族、第十一位バーガンディーを名乗る魔物の襲撃から三日。
 うち、翌日と翌々日はリリーベルは休養していた。
 第十一位を倒したあと、リリーベルは肉体と精神と魔力の深い疲労から丸一日以上眠りつづけ、目を覚ましたのは翌々日の早朝だったのだ。聖殿長の厚意でその日の役目は免除してもらい、疲労の回復に努めて、今日から務めに復帰した。
 一般に、魔物は夜に活動する。故に、犠牲が多く出るのも夜だ。
 それはこの、街全体を厚い高い石の城壁に囲まれたスノーパールも変わらない。夜に白魔術師や白騎士達が城壁の守りにあたるのは、当然の判断だった。
 愛用の鎧を身につけ腰に剣をさげ、亜麻色の髪を後頭部で一つに結ったリリーベルは、時折、街の外を見やりながら城壁の上を歩いていく。
 季節は春。やっと夜の冷えがゆるんできた頃だ。
 リリーベルは三日前の晩に思いを馳せる。
 あの晩、自分はあの紅の一族に辛勝した。
 第十一位の胸を貫き、心臓を浄化した感触は、今もこの手に残っている。自分は勝ったのだ。

(でも…………)

 リリーベルは街の外を見た。南東に、森の黒々とした影が見える。

(どうして、私は森に…………?)

 聖殿で目を覚ましたあと。リリーベルは、森の泉のそばで眠っていたところを捜索の兵士達に発見された、と教えられた。それも一頭の狼が兵士達を誘導し、リリーベルのもとにたどり着いた時は、別の二頭が彼女を守るようにそばにいたという。兵士がリリーベルに駆け寄ると、狼達は森の奥に姿を消してしまったそうだ。
 周囲の人間は「凶悪な魔物を倒した白騎士に、神が狼を守護に遣わしたのだろう」なんて言っているけれど。
 実のところ、リリーベルはあの第十一位を倒したあとの記憶がない。
 倒した直後に別の人影を見たような気もするが、はっきりしない。
 自力で泉まで移動したのだろうか? なんのために? 

(それに…………)

 リリーベルの胸が小さくうずく。
 白い肌に黒い髪。美しい赤の印象。
 起きて以来ずっと、脳裏におぼろな面影がちらついている。

(誰かに会ったような…………でも誰に? 思い出せない…………)

「あ、あのっ」

 見張りの兵士に声をかけられて、物思いを覚まされる。少年のように若い新米兵士だ。

「騎士リリーベル=ホワイトですよね? 聞きました、紅の一族の『位階持ち』を倒したって。すごいです、尊敬します」

 この地上に存在する、すべての魔物の支配者たる一族、紅の一族。
 彼らは人間に酷似した容姿と高い知性を持ち、強大な魔力と尽きぬ若さを有して、人間の生き血を糧とする。
『位階持ち』は、その紅の一族の中でも特に強力な十三体のことで、第一位を筆頭に第十三位まで存在し、それぞれが抜きん出た強さを持つと伝わっている。
 実際、リリーベルが対峙した第十一位も、これまでに戦ってきた魔物達とはくらべものにならぬ強敵であり、赤い瞳をのぞけば普通の人間とほぼ変わらなかった。

「オレ、その日は非番で…………実際の戦いは見損ねたんです。でも、街のやつらが噂しています。騎士リリーベルがいればスノーパールは安泰、また紅の一族が現れても、騎士リリーベルが倒してくれるって」

 新米兵士の瞳は純粋で、悪気や、自身の言葉を疑う気持ちは欠片もなく、ただただ憧憬に輝いている。
 だが当のリリーベルはそこまで楽観できない。むしろ買いかぶりすぎだと思う。

「私はそんなたいした人間ではありません。あの紅の一族を倒せたのは、あの晩が十三夜月だったのと、大勢の兵士や白魔術師達の助力あってのことです」

 ひかえめに語るが、新米兵士は「すごいすごい」と連発して聞いていない。「持ち場に戻れ」と先輩兵士から拳骨をくらって、しぶしぶ戻っていった。
 リリーベルは空を見あげた。
 星々の中に、白い居待ち月が登っている。
 第十一位と戦った三日前の夜が、十三夜月だったのは僥倖だった。
 白魔術の力は月の満ち欠けに左右される。太陽の欠片である月の光が強ければ強いほど、白魔術の力は強化され、逆に魔物は力を発揮しづらくなる。最大は満月だが、十三夜月なら、かなりの強化が期待できた。
 その事実はあの第十一位も知っていたはずだが、知ったうえで、あの夜に襲ってきたのだ。「第十一位たる自分の力は、十三夜月ごときで弱まるものではない。白魔術師だの白騎士だの、人間ごときの術が多少強化されたところで、恐れるに足らず」という理屈から。
 それで倒されたのだから、軽挙としか言いようがない。

(でも…………あんな幸運はおそらく、あれきり…………)

 残る位階持ちの全員が、あの第十一位のような軽率な性質とは考えにくい。きっと次に出会う位階持ちは、あの第十一位より強力で、かつ、慎重な者ばかりだろう。
 だが、その強敵達を倒していかなければ、リリーベル達人間は神から与えられたこの大地を、魔物からとり戻すことはできないのだ。
 ため息をつくと、城壁の外で壁に沿って集まる人々の姿が目にとまった。街の中に入れなかった人々だ。
 基本的に、夜に城壁の中で過ごすことができるのは、市民権を持つ住人だけだ。だから市民権を持たない流れ者や物乞い、低級娼婦や男娼、芸人達といった下層の民や、閉門に間に合わなかった旅人達は、城壁の門を囲むように集まって、野宿をしたり客をとったりして夜をしのぐ。
 門の中には入れないが、城壁は毎日、聖水や香で聖化されているので低級な魔物は近づかないし、門の側にいれば何事か起きても即、門番に助けを求めることができるからだ。
 リリーベルは腰のベルトにさげた小袋から聖水の小瓶を一つ、とり出すと、祝福の呪文を唱えて中身を城壁の下へ撒いた。爽やかな風が吹いて聖水の滴を霧のように散らし、祝福された聖水が外の人々の頭上に広がる。

「また、そのようなことを。大事な聖水と魔力をあんな者達になど、もったいない」

 近くに立っていた、顔見知りの見張りの中年兵士があきれる。
 リリーベルは笑って歩き出した。
 城壁の下にいた人間達の何人かは、リリーベルの姿と彼女の行為に気づいて、祈るように手を合わせる。
 しばらくして。城壁の外から複数の悲鳴があがった。

「敵襲! 魔物です!!」

 兵士の誰かが叫ぶ。
 リリーベルは即座に駆け出し、城壁の階段を降りて門に急行する。

「開門!!」

 槍兵と弓兵がついてきているのを確認して、門番に叫んだ。
 ちなみに白魔術師は城壁上に残る。白騎士と違って戦闘的な技術は持たないため、城壁上から援護にまわるのだ。
 門の中に入ろうと押し合っていた人々の間を縫って飛び出すと、悲鳴の聞こえる方へ草原を走る。すぐに、人間達を襲っている三頭の獣の姿を発見した。
 狼のようだが狼ではない。三体とも牛ほどの大きさがあり、巨大な牙は口内に収まりきらず、目が爛々と赤く光っている。

「歩兵はうしろに! 弓兵、矢を!!」

 リリーベルの指示に従い、槍を持っていた兵士が下がって、弓兵が次々に矢を放つ。矢はあらかじめ聖水に浸けて聖化されており、一本が突き刺さった狼は「ギャウン!」と苦痛の声をあげた。
 無傷の狼が怒りをはらんだ唸り声をあげ、身の程を知らぬ人間達に跳びかかる。
 リリーベルは低い体勢をとって走り出すと、跳びかかったことで逆に空いてしまった狼の下の空間にすべり込み、浄化の力を宿して白く輝く剣を突きあげ、露わとなった狼の腹を斬り裂いた。
 狼は激しい苦痛の声をあげて、地面に転がる。白騎士の浄化の力を宿した刃に斬られた傷口は、黒く炭化して血すら流れない。
 のたうつ魔物に兵士二人が駆け寄り、やはり聖化された長剣と槍でとどめを刺した。
 その間にリリーベルは残り二体の、より矢傷が深そうな魔物を背後の兵士達に残して、自分は傷が浅い一体と対峙する。
 魔物は襲い来る浄化の刃に気づいて戦闘態勢をとるが、短剣のような白い光が飛んできて、狼の背に深く刺さった。城壁上の白魔術師からの攻撃だ。狼は苦痛の声をあげる。
 その隙を逃さず、リリーベルの剣が狼の首を斬った。
 巨大な狼の太い首のほぼ半分が切断され、切り口が炭化する。
 三体目は弓兵三人が射た三本の聖化した矢に移動を阻まれ、二本の傷を受け、最後にリリーベルの剣に横腹を深く貫かれて、魔物としての生を終えた。
 リリーベルも兵士達も身を寄せ合っていた野宿の者達も、そろって安堵の息を吐き出す。

「死体が残りましたね。さらに聖水をかけて、焼却を」

 リリーベルの指示に、兵士達は慣れた手つきで魔物の死体に聖水をかけはじめる。
 白魔術の浄化の力に完全に炭化、霧散せずに死体が残ったということは、まだ魔物化が完全ではなかった証だ。しかし念には念を入れて、残った死体にはさらに聖水をかけて焼却し、完全に消滅させる。
 この作業は兵士達の仕事で、リリーベルが手を貸す必要はない。リリーベルは愛用の剣に破損がないか、月の光に照らして確認すると、まだ不安そうに身を寄せ合っている人々に近づいて、声をかけた。

「怪我をなさった方はいませんか?」

 ぱらぱらと手を挙げる者がおり、リリーベルは彼らを集めて浄化の術をほどこしていく。
 単に「怪我をして可哀想」というだけではない。魔物につけられた傷は聖水や白魔術で浄化しておかないと、そこから魔物化が進んだり、魔物を呼び寄せたりするからである。




 一連のその光景を、少し離れた南東の森から、一対の赤い瞳が見守っていた。
 紅の一族第六位バーミリオンアルベルテュスである。
 人間をはるかにしのぐ彼の視力は、この距離、この月下でも、支障なく目当ての人物を見分けることができる。
 アルベルテュスは大樹の枝の上に立ちながら、城壁のそばで起きた戦闘に目を凝らしていた。
 正確には、その戦闘に加わっていた中の、ただ一人に。
 スノーパールの街の白騎士リリーベル=ホワイト。
『ホワイト』は聖殿に所属する白魔術師全員に一律に与えられる姓で、集めた情報によれば彼女はただの市民階級なので、実質的には姓を持たないはずだ。
 だから本来の名は、ただの『リリーベル』。
 百合の花と鐘。白い百合と、祝福の鐘のイメージ。
 あの夜と同じく、亜麻色の髪を一つに結って、白銀の鎧を身に付けている。狼達を倒した動きには無駄がなく、まだ少し頼りない部分は残るものの、あと二年も経験を積めば、ちょっとした熟練者の域にも到達すると思われた。
 アルベルテュスは彼女を見つめながら、生まれて初めて味わう、不可思議な感情に浸る。
 彼女を見ているだけで満足できる。
 彼女を見ているだけで飢餓感に苛まれる。
 見ていて飽きない。もっともっと、彼女の情報が欲しい。
 アルベルテュスは自分の状態がおかしいことを自覚している。こんな様を他の同胞に知られれば、大笑いされるか、嘲笑されるかだろう。
 自分でも己の行動を顧みて恥ずかしく思うが、止めることができない。

(リリーベル)

 男でも女でも、アルベルテュスはこれまで人間に惹きつけられたことは、一度もない。
 だから、こんな風に特定の一人が気になった時、どう行動すればいいのかわからない。
 わかるのは。

(呼びたければ、呼ぶ。触れたければ、触れる。それが我ら紅の一族の在り方――――)

 やりたいことをやり、やりたいようにやる。
 それを阻む者は何人たりとも容赦しない。
 それが、この地上最強にして最上位の一族の流儀であり、生き方だった。
 むろん、紅の一族第六位も、また――――
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