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第三章 タカ
04.幸せを感じた孔雀
しおりを挟むあれからおよそ三十年。
クレインと過ごした事を思い出し、クレインの顔や、それから表情、手の動き、そんな事を毎日毎日思い出して過ごした。
幸せだった。
それまでの二百年以上、幸せとは無縁で生きてきたのだ。
それなのに、クレインと過ごしたあの三十日は。特に最後の十日程は、ピーファウルにとっては何よりも大切で楽しくて、……クレインまだ怒ってるかな……などと、思い出すたび嫌われていたらどうしよう、との懸念が頭に浮かんだが途中からはその懸念ですら楽しく、満ち足りていた。
多分、クレインはもう怒っていない。
本当のところはわからないが、次代の龍が間違いなく生きている事を感じる。完全に繋がっている存在でもないので、次代の龍が今何をしているのかなんて事を感じることはできないが、生死ぐらいははっきりと分かる。彼が今でも元気に生きていると言うことは、クレインがきちんと育ててくれていると言う事だ。
そのうち自分の身体はどんどん魔力がなくなり、そうして空に消えていくのだろう。
先代は番をその口に咥えて飛んだと言う。
心底羨ましい。それは、お互いに望んだからできた事だ。
ピーファウルの番は、……口先だけで番だと教え込んできたバルチャーは論外として。ピーファウルの唯一の番は、クレインだ。叶うことなら、ピーファウルだってクレインと共に空へと消えたい。
だめだろうな。
すぐに消えて無くなる、わけではないはずだが、ピーファウルは死んだ事がないので確かな事は言えないし、そんな不確かな事にクレインを巻き込めない。
クレインは、……今も元気でいるはずだ。
次代の龍との繋がりと同じく自分の、龍の番なのだから、生き死にくらいわかる。と、勝手に思っている。実際はどうかわからないが、生きている、はずだ。
元気で、幸せで、あの細くて美しい指で、繊細な織物を今でも作っていると信じている。
自分がこの世界から消える前に、一目会いたいと思う。だけど、会ってしまったら未練が残って、自分はこの世界から消える事に対して発狂してしまうかもしれない。
そんな事を幸福な気持ちに浸りながら夢想していたとき。
ああ。これは。
ピーファウルは気づいてしまった。
力が少しづつ抜けていくのを感じる。
これから、新たな時代がやってくる。次の代が、本人が望むかどうかはさておき、力を欲しているのだ。その証拠に、見えない何かにピーファウルの力が吸い取られていくのがわかる。
ピーファウルは、本能で動いた。
ここにいてはいけない。こんなところにいては、いけない。自分がいまいるべき場所は、こんな、暗くて寒くて悲しい記憶しかない王城なんかではなく、こんな。
窓枠に爪を引っ掛けて飛んだ。
できるだけ魔力を使いたくなくて、人型のまま、飛び立つ。自分の羽は長く飛ぶには向いていない。だからと言って、脚だって強くて太いわけでもない。
ただただ、綺麗な装飾の羽を持つ、それだけだ。
羽も爪も、どちらも全く使えない。それなのにこんな綺麗なだけの羽が価値が高いと言われているなんて、おかしな世界だ。そんなどうでも良い事を考えながら走り続ける。
もどかしい。もどかしくて、本当に発狂しそうで、ピーファウルは闇雲に本能だけを頼りに走った。
クレイン。
クレイン、会いたい。もうきっと、会えるとしたらこれが最後だ。会えたらどうしよう、会えたら何と言おう、どこまで走れば会えるのだろう。何だって良い、クレインにさえ会えたら、何だって。
通りは酷く騒然としており、それはピーファウルの美しい羽に見惚れている人もいるにはいたが……大半は、突然前触れもなく現れた魔力の塊のような存在に対してだ。魔力が減ってきていても、ピーファウルはまだ現代の龍だ。人型であっても特に隠さずにいたらその力は驚くほどだろう。
どうしよう、どこへいけば。
迷いながらも、ピーファウルは自分の魔力が持っていかれる方へと進む。
もしかしたら、バルチャーも向かっているかもしれない。ここ二十年程はピーファウルの世話も特にやることが無いと、巡察隊の医官としての仕事に重きをおいて働いていたはずだが、あまりに強い魔力が出現したのを感じたとしたら、あの男ならば気がつくはずだ。次代の龍が、と。
その証拠に、ピーファウルが城を抜け出したと言うのに追手がかからない。
街に散っていた巡察隊が王城に向かっているのを見かけ、龍の交代を察知したものが隊員たち全てに召集をかけたのだろうと納得した。
だが、その後すぐ。
あんなに強く感じていた魔力が突然弱くなる。
次代の龍に何かがあったようにも思えないが、なぜこんなに。
これ程少ない魔力では先程慌てふためいていた人間たちは、次代の龍を追うことは難しいだろう。
ピーファウルにとっては好都合だ。微弱であっても龍の魔力が出ている限り、ピーファウルは追うことができる。
走って、細い糸を手繰り寄せるように走って。そうして、城下町の隅っこまで走った。
この細い魔力の気配は、町外れの一件の店まで繋がっていた。
予想通り誰もこの細い糸を追えなかったようで、周囲は閑散としている。中心地で騒ぎが起こっていたから、そちらにでているのかもしれない。
建物に近づくに連れ、その建物をはっきりと認め、ピーファウルの背中には震えが走った。
ガラス張りの小さなお店だ。向かって左側のガラスに青や水色、紺色等を織り込んだ織物がかけてある。
正面についている青い扉のすぐ上には、金色の細い文字で素っ気なく「織布店」と書いてある。
あまりに素っ気ない出で立ちの店だけど、ピーファウルにはわかる。
ここは、クレインの店だ。
懸念していた通り、自身が王城から逃げ出し捕まった後、あの島が攻撃された事を知った。クレインがその後どうなったのか気にはなったが、自分が接触したらクレインは尋問を受け次代の龍も捕らえられると分かっていたから、我慢して探したりはしなかった。クレインの身を案じて、苦しくて、辛くて、いつもどうにかなりそうだと思ってはいたけど、顔には出さず、過ごし続けた。
禍いや災厄を払いに空を飛んでいるとき、この空の下、どこかにクレインが元気でいるはずだと思い、それを心の拠り所にしていた。
「……こんなに近くに、いたんですね」
思わず声が出た。
どこか目立たない浮島にでも移り住んだのかと勝手に思っていた。まさか町外れとは言え城下町にいるとは思いもよらず。
緊張しながらも一歩づつ店に近づき、扉の横についている呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした時。
中から慌てたような足音が聞こえ、扉の横のガラス越しに近づいてくるのが見えたのは、ピーファウルが心底から会いたくて夢にまで見たクレインその人で。
ああ、クレインだ。
本当に、本物のクレインだ。
慌てた顔でこっちに走ってきてる。
ずっと考えていた、もしもクレインに会えたなら何を話そうかと。でも、全て頭から飛んでしまった。好きと伝えたかった気もするが、そんな話しじゃなくてまずは当時の謝罪を……? 謝罪なんて、彼は望んではいないんじゃないのか。それとも、お久しぶりですお元気ですかと挨拶をするべきか。
ピーファウルの頭の中は、混乱のあまりまともに機能していない。
がちゃりと扉が開き、クレインの顔を見ようとした瞬間、頭からばさりと大きな布がかけられた。
「え?」
そのままクレインはピーファウルを抱き上げて肩へと担ぎ、部屋の中へと引き返した。ようだ。多分。顔まで全て覆われているのでわからないが、足音から察するにそうなのだろう。
しかし、この自分を抱え上げているのがクレインだなんて。夢か。夢なのか。自分が消える前に、神様がくれた贈り物か何かなのか。もしくはこれはクレインではなく別の人か。
お互い何も言わずにいるが、何か言わなくても良いのか。ピーファウルは何か伝えたい。でも、言葉が浮かばない。クレインは? 別に話すことなんて無いと思っている?
自分を抱えている存在に触りたいのに、頭から足元まで垂れ下がる大きな布を掛けられていてはそれも難しい。
話したい、話してほしい、触りたい、触ってほしい、顔が見たい、こちらを見てほしい。
色々な感情が渦巻きすぎて、涙が出そうで我慢するために歯を食いしばったら変な声が出た。
「ピィ、お前何唸ってんだ」
クレイン。
クレイン。
返したかった言葉は声にはならず、ピーファウルはひたすらに歯を食いしばる。声が出せない、声を出したら叫んでしまいそうだ。
「ほんっと……しょうがないな、お前は」
布越しに腰のあたりを優しく撫でるように叩かれた。落ち着け、と言いたいのかもしれない。
「……すき、……すきです、クレイン、あなたが、すきなんです」
ようやく絞り出すように告げた言葉は、謝罪でも挨拶でもなく、告白だ。何も考えられずに口を開いたら出てきてしまった言葉だ。
それを聞いたクレインは、少し笑ったようだった。知ってるよ、と聞こえた。
少し歩いて、また扉を通り、すぐに布をまくるような音が聞こえた。
柔らかく床に下ろされる。身体を覆っている布はまだ被ったままだ。これから、この先、どうすれば。何もできずに立ち尽くす。
「いつまでそうやってんだ、出てこい。会わせたい人がいる」
「会わせたい……」
のろのろと布を外す。
目の前に目を閉じて横たわるのは、30年近く前にピーファウルが作った次代の龍だ。大きな天幕の中に、自分たちはいるらしい。
「この布……魔力を……通さない?」
自分に掛けられていた布も、天幕としてこの場所を広く覆う布も、魔力を外に通さないようだ。なぜ。どうして……。
クレインがこちらを見て笑う。
「魔封じの縄があるだろ、あれを解いて糸にして、布を織った。この天幕と、さっきお前に被せたやつと、息子を覆うやつで全部だけど」
「……そんな事、できるんですか」
「……龍の布、織る必要なくなったから。仕事以外、他にやることもないしな。
……いつか、この日が来ると思ってたし。
あんな強い魔力を隠すこともできずにいたら速攻で居場所が特定されるだろ、それ、なんか良くない気がしたから。何かあった時のために隠せるもの用意しとかないとと思って」
クレインが凄いものを作り出している間に、自分は一体何をしていたのか。ただ鬱々と過ごしていたような気がして、ピーファウルは恥ずかしくなった。
「まだ、起きないかな……」
クレインは、そこにぐったりと横たわる青色……と言うには紫色の強い人型の龍に目をやる。
「こいつ……空龍になり始めてから身体中の羽の色が元の色から変わったんだけど……これも、魔術?」
「……はい、人間で生活していられるうちには目立たず、普通の……本当に普通の生活を送って欲しかったんです」
「普通に育てたよ」
「クレインなら、……そうしてくれると思って、託したんです」
顔が見たいのに、目を上げられない。これは、後ろめたさだ。
「ピィ、お前……なんでこっち見ないの」
「クレインを怒らせていたら、本当に、申し訳なく……」
「いいから、顔あげて」
恐る恐る、視線を上げた。
胸元まで伸びる黒く真っ直ぐに艶めく髪。全く変わっていない。
更にあげる。
青白い肌に綺麗な顎の線、真っ赤な唇。片方の口角が少しだけ上がり、ほんの少し笑っているのだと分かった。
更に、あげる。
真っ赤な瞳。それを縁取る真っ直ぐに伸びる黒い睫毛。目尻には細やかにシワがより、やはりクレインは笑っているのだと言う事が知れた。
「クレイン……」
「なんだ」
「クレイン」
「なんだよ」
「好きです、毎日、毎時間、あなたの事を考えて生きてきました。本当に本当に、……好きなんです……」
「ああ、俺も」
「会いたくて、いつも会いたくて、禍から国を守り続けたら、クレインも無事でいられるから、いつかまた会えると思って頑張って、……本当に本当に、会いたかったんです」
「ああ、俺も、おんなじ」
「クレイン」
とうとう我慢ができずに、涙がこぼれた。両手で顔を覆い、声を上げて子供のように泣いてしまったがすぐにその両手を掴まれる。うぇぇ、と情けない声が出た。情けないのは声だけではなく、きっと顔も。ひどいことになっているはずだ。
ぺろり、と頬の涙を舐められる。
「やっぱり、甘い。昔思ったんだよな、なんでこいつの涙は甘いんだ? って。龍の涙は皆甘いのか?」
「わから、わからな、」
頑張って答えようとしているのに、今度は唇を舐められた。ビク、と腰の辺りが反応する。
「こっちはやっぱり甘くないな」
クレインが、目の前で笑っている。自分の手をつかんでいるのはクレインの手で。ここはクレインの家で。自分は今ピーファウルではなく、ピィと呼ばれて。
「……お前、いつも泣いてんなぁ」
「ふ、普段は、泣かないんですっ……クレイン、の、前だけ、泣けてくるんです……っ」
「ひでぇ顔……かわいいからいいけど」
「……私、まだ、かわいいですか……っ、あなたから見て、わたしは」
「世界で一番かわいい俺だけのピィ、いつでもお前はかわいいよ。なあ、そろそろ、きて、はい」
目の前でクレインが両手を広げた。
魔力はどんどん吸い取られていく。
身体はだるく、力も入りづらくなっていくのを感じる。
それでもピィは、人生で一番の幸せを感じながら目の前で両手を広げるクレインを見つめる。
そうして。
ぐしゃぐしゃの顔で、龍としての力ももう無くなって、三十年も前に勝手に卵を押し付けて目の前からいなくなった自分を、それでも尚世界で一番かわいいと言ってくれるクレインに、ようやく抱きついた。
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