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第二章 ツル
04.何かを感じた黒茶の羽
しおりを挟むクレインは良い人だ。
ピィは、今までクレインのような人に会ったことはない。
ピィをあまり構わず、完全に放置しているかと思えば、ピィの様子はよく見てくれているようで口にしなくても必要な物は揃えてくれる。
口は悪いがその手は何よりも柔らかくて優しい。
ピィがなんだか嫌だな、と思うような事はしない、しなやかで柔らかい手だ。その手と同じく、本当に嫌だと思うような事も、クレインは言わない。本人は否定するだろうが、優しい気遣いを感じる。
こちらから話しかければ、ピィの顔を見てちゃんと答えてくれる。
その代わり、仕事中に話しかけると叱られる。
人から注意を受けた事などなかったから、驚いたと同時にくすぐったいような気持ちになった。その上でクレインは仕事が終わると、必ず、さっきはどうした、と聞いてくれる。
ピィが感じた、理解できない……多分、クレインの言う普通である事を、嫌な顔をせずに説明してくれる。
最初こそ、ふざけてんのか? などと訝しげに言っていたが、本当に知らないのだとわかったからなのか、生活する上で必要な事をわかりやすく教えてくれるのはありがたい。
――ピィは、ため息をついた。
あとどれくらいで自分の怪我は治るだろう。
魔力が強いピィは、意識が戻りここに置いてもらえると決まってすぐ、外部からはこの島を感知できない魔術をかけていた。
追われている身だ。ピィの人から外れた強さの魔術を持ってしてもいずれは見つかってしまうだろうが、対策をしないでいる事に比べたらはるかに見つかりにくいはずだ。
できるだけ長く、ここに留まりたい。
常に魔力を使い続けている為か、怪我の治りは通常より非常に遅いように思う。だが遅いとは言え、確実に治ってはきている。
身体の表面にできていた浅い擦過傷はほとんど皮膚が再生され、全て塞がるのも時間の問題だ。
皮膚の内部はまだまだ損傷が治っていないようで、一人で立ったり歩いたりすることも難儀するが、それでもここにきて既に二十日は経つ。落下から二十日もすれば、初日に比べ、だいぶ良くなってきていることは感じられる。
いつの日か治ったら、ここを出て行く約束だ。
居心地の良い島だ。食べるもの、寝る場所、太陽、水、そうしてクレイン。余分な物はないかわりに、必要なものは全て揃っている。
クレインのそばに居たい。
顔色は悪い、と言うか酷く青白いがその造作は美しく、口は悪いが人が傷つくような嫌な事は言わない優しい人だ。適度に放っておかれる距離感もこの上なく心地が良い。
クレインは織物や編み物が上手だ。あの白く長い指からは、信じられない程に美しい物が紡ぎ出される。
仕事中、近くにいても嫌がられないので最近のピィは昼間はクレインの仕事場の隅で丸くなって休んでいる。横になって寝転びながら、クレインの手元を見ている。ずっと見ていても飽きない指の動き、そこから生み出される繊細な色と柄。
クレインの様子を飽きずに眺めていたら、ふ、と息をついたクレインがこちらを見た。異常に赤い口元が緩やかな弧を描く。微笑んでくれた、と気づいてピィの顔に血が上るのを感じる。
見続けていたことがバレている気恥ずかしさ、それでも笑いかけてくれた嬉しさ、特別な物は何もいらないから、ここに、クレインの側にいたい。ずっといたい。
一生一緒にいる事はできない。
……なんて、世間知らずなピィでも理解している。むしろ、それに関しては誰より理解できている。それでもなんとかこの美しい人の近くに、できる限りで長くいられないかと思う。
一生なんて願わない。
ただもう少し、この時間を、できるだけ長く。
ずくん、と、胸の奥、腹近く、何かが反応する。性欲に近いような、だけど性欲とは何かが違う焦燥感と飢餓感がピィの身体に湧き上がる。
なんだこれは。
長い事生きてきているが、初めての感覚に戸惑う。
「おい、ピィ……お前、大丈夫か?」
様子がおかしいと思ったのか、クレインが仕事の手を止めてこちらを見つめる。
クレインの真っ赤な瞳に見詰められるとピィはいつでも浮足立つ。はずなのに、今日はどうしたことか、ただただ動悸にも似た胸の奥から腹の奥からずくんと来る何かが止まらない。
長く黒く瞳に影をつくるまつ毛をぱちぱち、と二度三度動かし、ピィ? と名を呼びながらクレインの細く長くまっすぐな足が近づいてくる。細長い脚の向こうに見える鮮やかに真っ白な羽が揺れる。
覆いかぶさるようにピィの上にとしゃがみ込み、クレインはその器用な指でピィの顔を触る。そっと、優しく、ただ熱をはかるためだけに触れられたその手に、大袈裟なほどびくりと反応してしまった。
その動きに反応してか、クレインの手が離れた。
「あ、ごめ、ごめんクレインちが」
嫌だったわけじゃない、と言いかけ、寝たままクレインの顔を見上げた。
クレインの頬にさす、普段は見られないわずかな朱色。
濡れたように潤んだ真っ赤な瞳。半分開いたようになって震える、同じく真っ赤な唇。
「あの、……クレイン……」
気を取り直したように、さっといつものクレインに戻る表情。ピィの呼びかけには応えず、立ち上がったクレインは「なんか疲れたな、茶でも入れるか」と仕事部屋を出ていってしまった。
「あの……クレイン……、……私、……あなたも、どうしたんでしょうね……」
先ほどと同じ言葉を、言いたかった言葉を、締められた扉にかける。
何だったんだ、今のは。
視界からクレインが消えたせいか、それとも、他に原因があるのか理由はわからないが、胸の奥からせり上がってくる、あの息苦しくなるような何かは綺麗に消えた。
長いこと生きているが、あんな感覚初めてで戸惑いしか無い。でも、嫌な感じではなかった。むしろ、あのせり上がってくる何かは悦びに近いものだった。
少しよろけながら、立ち上がる。足を引きずるようにしながらも、壁に手をつき、ピィは部屋を出る。
クレインの近くにいかないといけない。そう思った。根拠なんて何もないけれど、今、近くにいかないといけない。
仕事場を出て、廊下を進む。開けたそこが、台所兼食事をする場所だ。案の定そこにはクレインがこちらに背中を向けた状態で立っていた。お茶を入れる、と言って部屋を出ていったのだから、ここにいないわけがない。と、いうか、仮にその言葉がピィの元を離れるための方便だったとしても、嘘をつかない生真面目なクレインはここにいるだろうとピィはわかっていた。
「クレイン……?」
よろよろと近づく。
こちらを向いてはくれないから、ピィが近づいていくしかない。
手を伸ばした先にある真っ白な羽にそっと触れた。クレインが反応して、密やかに震える。
途端、先程の感覚が蘇ってくる。ずくん、ずくん、と、何かがせり上がってきて、この手に触れている存在をもっと近くに感じたいような、でも離れたいような、ピィ自身にも全く理解ができない感覚だ。
離れたらきっと、先程みたいにこの感覚はすっと消えるのかもしれない。
だけど、離れたくないとピィの中の何かが強烈に訴えてくる。それを伝えるすべもないので、そのまま立ちすくみ、つやつやと手触りの良い白い羽をなで続けるしかない。
「クレイ「何か用か」
かぶせ気味に返された。
「あの、……私、なんか変なんですよね……」
「……」
「こ、こんなの、初めてで、うまく言えないんですけど……暑、くもないのに、暑いっていうか、動悸がするっていうか、なんか、……」
言葉に詰まる。何を言えば良いのかわからない。ただ、湧き上がる衝動のままについてきてしまっただけだ。だから、その衝動を伝えれば良いのだろうが、何と伝えて良いのかがわからない。
「お腹の、奥から、何かが迫り上がってくるような感じがします。でも、それが何かわかりません。
クレインなら、わかりますか……? いつも、色々な事を教えてくれるあなたなら、わかりますか……? これはどうすれば、治りますか?」
「……」
「抑えたいと思うのに、クレイン、あなたに触るこの手が止められない……もっと、近くに、……行きたいと望む欲が湧いてきます。どうして……」
「……」
「どうすれば良いか、教えてください」
クレインは何も答えず、こちらを見ようともしてくれない。
どうして良いか分からず、羽から手を離して、その肩に手をかけた。クレインの肩が跳ね上がる。黒髪の合間から覗く青白く薄い耳に、ざっと朱がのぼるのが見えた。
「離せ」
冷たい声が響く。
「クレイン……」
「お前、身体の具合は?」
「えと、まだ、自由に動けるほどは……」
「ついてこい」
クレインは歩き出す。
手が離れてしまった事で、ピィが感じていた熱い衝動のようなものはほんの少し落ち着いた。
仕方なく、真っ白に揺れる羽を見ながらついていく。
顔が見たい。薄く細めの眉毛、その下の、長く真っ直ぐな黒い睫毛に縁取られる赤い瞳。そう高くも低くもない細めの鼻、何より赤い唇。クレインを形造るその一つ一つを間近で見たい。
クレインは、寝室でも仕事場でもない部屋の前で止まる。小さく溜息をつき、腰に下げていた鍵で部屋の扉を開けて、ピィを中へと促す。
ここに来たばかりの頃、何があっても絶対に入るなと言われた部屋だ。
それほど広くない部屋の中には大きな布のかけられた機織り機が一つ、機織り機の横に様々な糸の入っているらしい木箱、壁一面の戸棚、それから毛足の長い絨毯が床に無造作に置かれている。
「絨毯、使って良いから。今日からここで休め。あの機織りの布は何があっても取るな、戸棚も開けるなよ」
「え、クレイン、ちょ」
ちょっと、と呼びかけたいのに途中でクレインはさっさと出て行ってしまった。
今日からここで休め、と言っていた。
と、いうことは、もうクレインと同じベッドで休む事はできないのか。仕事をしている様を眺める事もだめなのだろうか。どうして自分は置いていかれたのか。何か、悪い事をしてしまったのだろうか。
考えてもわからない。わからないけど、クレインが自分を近くに置きたくないと思ったのだと言う事はわかった。
ピィが感じた、あの、言葉にできない高揚感をクレインも感じてくれていたら、何かが起こりそうな気さえしたのに、クレインは全く違うものを感じていたのかもしれない。これ以上近くには居られないと思うような、そんな感覚を覚えていたのかもしれない。
ピィは、涙が出そうな、絶望的に悲しい気持ちになった。
いや、出そう、と思ったのはピィの鈍い感覚だけで、既に意識する間も無く涙は流れていた。
――涙なんてもう気が遠くなるほど長い間、流れてこなかったのに。
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