上 下
28 / 36

10−2 名前

しおりを挟む
「蜘蛛!?」

 空から見えていたのは、タワシのような毛を持った巨大な蜘蛛だ。口元からか、音がカチカチと聞こえる。その音に呼び寄せられるように、他の蜘蛛が集まってきた。

 日がまだあるからか、近くまで近付いてこない。だが、時間の問題だ。
 届いた枝に捕まり、足をかけて振りながら体を持ち上げる。肩が痛むが、言っていられない。一回登ってしまえば、すぐ次の枝がある。その枝に手を伸ばした途端、足に高熱をかけられたような痛みを感じた。

 木から気体が発せられた。いや、木に付いた酸が木の皮を溶かして、気体を発していた。着物が溶けてふくらはぎの辺りに穴が空いている。それが肌にも付いたか、血が滲んでいた。

「やだ。助けて」
 呟くように口にしながら、華鈴は木に登った。蜘蛛たちはガサガサと近寄っては酸を飛ばしてくる。それが着物に当たり、足にも触れた。ジンジンと痛む足元を気にしている余裕もない。なんとか地上から離れた場所まで登ったが、蜘蛛たちはまだ集まって増えてきている。
 どれだけ集まってくるのか。日が隠れると、あっという間に蜘蛛たちに囲まれてしまった。

「朝になるまで待つしかないわ。大丈夫。高い場所なら平気って言ってたもの」

 自分に言い聞かせるように口にするが、蜘蛛の数が多すぎて、カタカタと震えてくる。それに、朝まで待っても、どうやって戻れば良いのか。燐家がどちらにあるかもわからない。じっとしていれば酸が当たったところが痛んでくる。捻った足首は腫れ始めていた。

 どんどん空は闇に覆われて、今日に限って月も星も見えず、辺りは急速に暗くなっていた。華鈴の目には遠くの山と空の境界くらいで、山の中はすでに黒に溶け込んでいる。そこから足音が届いてくるが、一体どれだけの数が集まっているかもわからない。

 カツカツと木を叩く音が耳に届く。蜘蛛が足の爪先で木をこづいている。登ろうとしてくるのか、前足を上げてカニのように身体を傾けてくるが、普通の蜘蛛のように木を伝うことはできなそうだ。しかし、何匹も木に足をかけてくるので、気を抜くこともできない。

 もう少し、上に登った方が良いだろうか。そうでもしないと、安心できない。蜘蛛たちから視線を逸らし、上空を見上げれば、再び足が急激な痛みに襲われた。酸を飛ばしてきているのだ。

「いたっ!」

 酸はあちこちから飛んできて、足袋を溶かす。足の甲が痛みで痺れた。遠くからも飛ばしてくるため、蜘蛛同士で争い始める。飛ばした酸が仲間に当たってしまうのだ。それでも気にせず酸を飛ばし、華鈴の足元を狙ってくる。
 しかも、高いところには登ってこないと聞いていたのに、ひしめき合ってお互いの身体を足場にして足を伸ばしてきた。

 よじ登ってでももっと上に行かなければ、蜘蛛が距離を縮めてくる。しかし、登った木が細すぎたか、それ以上登っても華鈴の体重を支え切れるかわからない。下は崖で、もう暗くて見えないが、木々がうっそうとしていた。また落ちても今度は無事であるかもわからない。

 ぎりぎりまでよじ登って、蜘蛛の酸を避けようとしたが、もう限界だ。すでに足はぼろぼろで、酸によって着物の裾は溶けていた。ジクジクとした痛みは足全体に広がり、どこに当たったかもわからなくなっていた。

(誰か助けて)

 誰が助けに来てくれるというのか。華鈴がどこにいるかなんて、わかるはずがない。

『名前を呼べばいい』
 ふと、睦火の言葉が頭の中によみがえる。

『なにかある前に、ちゃんと僕の名前を呼ぶんだよ』

 睦火の名前は、

「きゃあっ!」
 飛ばされた酸が足首に振りかかる。その時、華鈴の足がずるりと枝からずり落ちた。もたれていた木から身体が離れて、手のひらが空を掴んだ。背中から暗闇に吸い込まれるように落ちる。

「きゃああっ!」
 身体が重力に引き寄せられて急降下する。悲鳴が遠のいていくほどの速さなのに、睦火の顔が思い浮かんだ。

 睦火の名前は、彼の本当の名前ではない。華鈴にはずっと見えていた。

『本当の名前を呼んではいけないよ。彼らの名前は大切だから。その名前を、そんな風に呼んではいけない。仕返しをされて、殺されてしまうかもしれないから』

 でも、ひいじい、彼は、私に名を呼べと言った。

「ーーーー紫焔シエン! 助けて!!」

「やっと、僕の名前を呼んだね」

 ふわりと身体が浮いた。闇に落ちるはずの華鈴の身体は温かな腕に抱かれ、ゆっくりと上昇する。

「紫焔……」
「うん。迎えにくるのが遅くなってごめんね」
「紫焔。紫焔」
「うん。もう大丈夫だよ。だから、うちに帰ろう」

 睦火ーー、紫焔は、緩やかに微笑む。泣きじゃくる華鈴に、紫焔は華鈴を抱いたまま、そっと頬に口付けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

小児科医、姪を引き取ることになりました。

sao miyui
キャラ文芸
おひさまこどもクリニックで働く小児科医の深沢太陽はある日事故死してしまった妹夫婦の小学1年生の娘日菜を引き取る事になった。 慣れない子育てだけど必死に向き合う太陽となかなか心を開こうとしない日菜の毎日の奮闘を描いたハートフルストーリー。

後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ
キャラ文芸
【第7回キャラ文大賞参加作品です。お楽しみいただけましたら投票お願いいたします。】 中華後宮を舞台にしたライトな謎解きものです。全16話。 「──嫌、でございます」  男装の女官・碧燿《へきよう》は、皇帝・藍熾《らんし》の命令を即座に断った。  彼女は後宮の記録を司る彤史《とうし》。何ものにも屈さず真実を記すのが務めだというのに、藍熾はこともあろうに彼女に妃の夜伽の記録を偽れと命じたのだ。職務に忠実に真実を求め、かつ権力者を嫌う碧燿。どこまでも傲慢に強引に我が意を通そうとする藍熾。相性最悪のふたりは反発し合うが──

まさか、、お兄ちゃんが私の主治医なんて、、

ならくま。くん
キャラ文芸
おはこんばんにちは!どうも!私は女子中学生の泪川沙織(るいかわさおり)です!私こんなに元気そうに見えるけど実は貧血や喘息、、いっぱい持ってるんだ、、まあ私の主治医はさすがに知人だと思わなかったんだけどそしたら血のつながっていないお兄ちゃんだったんだ、、流石にちょっとこれはおかしいよね!?でもお兄ちゃんが医者なことは事実だし、、 私のおにいちゃんは↓ 泪川亮(るいかわりょう)お兄ちゃん、イケメンだし高身長だしもう何もかも完璧って感じなの!お兄ちゃんとは一緒に住んでるんだけどなんでもてきぱきこなすんだよね、、そんな二人の日常をお送りします!

気付いたら異世界の娼館に売られていたけど、なんだかんだ美男子に救われる話。

sorato
恋愛
20歳女、東京出身。親も彼氏もおらずブラック企業で働く日和は、ある日突然異世界へと転移していた。それも、気を失っている内に。 気付いたときには既に娼館に売られた後。娼館の店主にお薦め客候補の姿絵を見せられるが、どの客も生理的に受け付けない男ばかり。そんな中、日和が目をつけたのは絶世の美男子であるヨルクという男で――……。 ※男は太っていて脂ぎっている方がより素晴らしいとされ、女は細く印象の薄い方がより美しいとされる美醜逆転的な概念の異世界でのお話です。 !直接的な行為の描写はありませんが、そういうことを匂わす言葉はたくさん出てきますのでR15指定しています。苦手な方はバックしてください。 ※小説家になろうさんでも投稿しています。

イケメン歯科医の日常

moa
キャラ文芸
堺 大雅(さかい たいが)28歳。 親の医院、堺歯科医院で歯科医として働いている。 イケメンで笑顔が素敵な歯科医として近所では有名。 しかし彼には裏の顔が… 歯科医のリアルな日常を超短編小説で書いてみました。 ※治療の描写や痛い描写もあるので苦手な方はご遠慮頂きますようよろしくお願いします。

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

処理中です...