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12 ー逃亡すればー

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「大丈夫か?殆ど休憩とらなくて走ってきたけど」

 シェインは川に顔をつっこんで、がぶがぶと水を飲み続けた。
 水を飲み終えると肩で息をしながらよろよろと歩いて、茂みにぺたりと座り込んだ。相当疲れたのだろう。

 翠嵐に日が隠れはじめ、辺りは赤色に染まってきていた。
 もう夕方だ。下に見えるふもとの町も、赤色の屋根と白壁に朱がうつり、とても美しかった。
 位置にして、山を下った町の近く。町には寄らず、次の山を少し登った所だった。
 この辺りは山が続き、一つ山を下りても大きな町はない。入り込んで人々に混じって旅人のふりをするにも無理がある。その為町には入らずに山麓を走り、滝近くの川でシェインは足を止めた。
 滝の下から町に向かって川が続いているが、人気はない。
 だから、今晩はこの辺りで休むことにした。水も補給しておきたい。
 ロンは水袋に水を入れて、眠れる場所を探した。シェインはぐったりしていて、今動くのは無理だと寝転んでいる。そこでずっと休ませてやりたいが、川に近すぎて追っ手に見付かりやすかった。
 ロンは少々川から離れた場所に幹の太い木を見付け、シェインをそちらに呼んだ。

「風が出てきたね」
 夕日はすぐに落ち、空が薄暗くなってくると少し肌寒くなってきて、ロンはシェインのマントを出すと上にかけてやった。
 火を焚きたいが煙が出るので、そこは我慢だ。
 携帯食の芋とハムを出してシェインとわけながら食べた。水でおとした薬草入りの紅茶を飲ませると、シェインもやっと落ち着いたようだった。
「香り高いけど、ちゃんと飲んどけよ。これ疲れをとる効能あるから。傷、平気か?」
「ああ、何ともない」
 治療の術は成功しているが、随分長く走ったのでロンは気になるのだ。無理するなと言っても、やはり無理する形になった。
 先程戦った薬師が技の少ない薬師で良かったと、心底ほっとしていた。あれがもしリングであれば、抵抗できても逃げる余裕はなかっただろう。そう思って、ロンは唇を噛んだ。
 実のところ、逃亡している現実味がなかったのだ。
 逃亡することがどんなことか分かっていたのに、それを忘れていた。追われ続ける苦しみをあれ程体験したのに、深く遠い所に閉じ込めて思い出さないようにしていた。
 もっと早く、思い出すべきだったのに。

「俺、薬師としての知識はある方だと思ってたけど、駄目だな。あんな簡単な罠、すぐ気付くのに、考えてなかった」
 あの罠が存在すると分かっていたのに、警戒しなかった。薬師として知識が豊富でも、その能力を応用しなければ何の意味もない。
「俺がお前に頼んだのは、俺の傷を見ることだけだ。誰もお前に戦いの手助けをしろとは言っていない」
「でも…」
 母がセウの補助をしたようにはいかないが、少しくらいなら助けは出せるはずだ。シェインの傷を増やさない為に、手助けができるかもしれない。
 シェインは立ち上がると身をすり寄せて、ロンの背中を包むように寝そべった。
「お前は、本当に腕がいいんだな」
「え?」
「リングが人を誉めたのは初めて聞いた。世辞で言っているとは思わなかったが、そこまで信じていなかった」
「そんなに、褒められたわけじゃないし」
 リングがロンに言った言葉は、確か、中々、だ。中々腕がいい。その程度の誉め方だった。
「いや、それだけでかなりの賛美だ。リングは他人に感想を述べたりしない。俺の怪我を一瞬で治した力も、結構驚いた」
 ロンは頬を染めた。セウや村人に感嘆されたり誉められたりはするが、王都から来たシェインに言われると、本当に腕がいいのだと信じられる気がした。
 近くに他の薬師がいないので、目指しているのは母だけだ。まるで母の腕がとてもいいのだと言われている気がして、素直にうれしくなった。
「お前は薬師の本業だけやってくれればいい。無理に戦いの手助けをして、お前に怪我をされたら俺が困る。もしお前が怪我をしても、俺はお前を治してやる力はないんだから」
 背中がほんのり温かくなって、ロンは無言で頷いた。再び守られる立場になっても、薬師としての手伝いはできる。怪我をされるのは嫌だが、治療ができるのはロンだけなのだ。
 シェインの言葉は確信をついている。それだけに納得して、もう一度深く頷いた。
「いい子だ」
 瞬いた瞳は相変わらず綺麗な緑で、暗闇の中でもはっきりと見えた。立ち上がって顔にすり寄ってくるので、シェインの頭をなでてやった。ごろごろ鳴らす喉は猫みたいだ。

 人間の姿で会った時から話を続けて、シェインが何か悪事を働いたようには感じなかった。兵士に追われ薬師に狙われるような何かをシェインがしたとしても、それはきっと倫理に基づいたことなのではないかと思った。

 だから、聞かなかった。

 パンドラ、と言う言葉の意味を。

 聞けばすごく恐くなる気がしたから。

「お前の薬は、あとどれくらいもつんだ?」
「え?」
 唐突に言われて、ロンはシェインの緑と目を合わせた。
「男になる薬」
「えっと」
 今日は何時頃薬を飲んだだろうか。
「あと一、二時間くらいかな。何で?」
 シェインの喉を触ると、更にごろごろ言った。触るのが気持ち良くて、腕の中に抱き締めたくなるぐらいだ。
「一度町によりたい。これからは男二人組として追っ手がかかるだろうから、女の姿でいてもらった方が助かる」
「人間の姿に戻るのか?そりゃ、一日経てば少しは違うだろうけど」
「豹の姿じゃお前を守れない。それに…」
「それに?」
 間をおくと、目の前にいるシェインの目が笑った気がした。
「キスができないから」
 そう言って軽く口付けると、目が点になったロンを気にせずその唇を優しく舐めた。
「豹の姿じゃ難しい」
 ロンの頭の中で何かが破裂して、そこから平手が飛ぶのに時間はかからなかった。

 その後、ロンが鞄を離さず眠ったのは言うまでもない。
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