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記憶を失った侯爵夫人ですが、夫と人生やり直します。

記憶は戻りませんでした。

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 私、エラフィーネ・デル・オブライア・ハーマヒュール侯爵夫人は、ある日お屋敷内ですっ転び頭を打ち、記憶を失った。

 いつか戻るであろうと思っていた記憶は全く戻らず、未だなお、自分の過去を思い出せずにいる。

「さあ、二人とも、私の信頼できるお友達を教えていただけます?」
 私はずらりと議事録……ならぬ、過去の「わたし」が書いた日記を並べた。

 「わたし」は古い日記も全て侯爵家に持ち込んでいた。感想などは書かれておらず起きた事実が書かれている日記を、私は目の前にいる二人に見せる。

「読んでいいのか?」
「構いません。安心してください。ラファのことも書いてありますよ」

 ふわふわ金髪を揺らしてエメラルドグリーンの瞳をこちらに向けたのは、私の夫であるラファエウだ。私がにっこり笑顔で返すと、ラファエウはポッと頬を染めた。

「どうせ、転んだ、迷子になったとか書いてあるんじゃないですか?」

 鼻で笑ったのは弟のオスカーだ。赤毛を掻き上げてラファエウと睨み合う。
 仲の良い夫と弟の攻防を見ながら、私はうふふと笑った。

「安心してちょうだい。オスカーが泣いた、転んだ、追い掛けてきた、も書いてありますからね」
「書いてあるんですか……」
「やはり書いてあるのか……」

 二人はがっかりしながら古い方から日記を手に取った。パラパラとめくり自分について書いてあることに気付くと、がっくりと肩を下ろす。

「クローゼットの奥深くに隠してあったので、もっと面白いものが書いてあると思ったんですけれど、残念だわ」
「いえ、十分です、姉上。ちょっと、私の描写が細かくないですか!? 何ですか、この、鼻血出しながら追い掛けてきたって! 鼻血!? 転んで鼻血出して、姉上を追い掛けましたけれど!!」
「まあ、本当にあったのね。覚えていなくて残念だわ」
「いいんですよ、それは忘れて。ああ、侯爵。あなたの記述もありますよ。蛙の卵にからまって悲鳴上げたって」

 ラファエウは口を閉じ、頬を染めたままパラパラと日記をめくり聞いていないふりをする。
 幼い頃の字なので読むのは大変だろうが、二人は一生懸命読んでくれる。古いことが書いてあるので懐かしそうに読んでくれた。

「それで、お友達なのだけれど、お茶会で会っても問題なさそうな方はいらっしゃるかしら?」
「この方が良いと思います。姉上と一番仲が良かった」

 オスカーが指差した名前は、ジル。幼い頃から知っている人物のようだ。古い日記から名前が載っている。

「ジルベルト・ディ・ナ・アルチュセール伯爵夫人だな」
「ラファもご存じですか?」
「何度も会ったことがある。結婚式にも来ていただいた。一番の親友なのではないだろうか」

 顔も知らぬ「わたし」の友人。私にはお茶会に出ようにも「わたし」がしばらくお茶会を断っていたこともあり、お誘いのお手紙はほとんどなかった。

 しかし、最近パーティにラファエウと積極的に参加するようになり、その招待が届くようになったのだ。だが、記憶がない今、早々易々とお茶会に参加することは難しい。
 そのため、親しい友人に協力を得ようとしているわけだが。

「古いご友人ですから、問題ないと思います。まずはこの方にお会いする約束をされるのが良いでしょう。姉上の笑顔の毒舌にさらに被せてくる方ですから」

 聞き捨てならないことを言われたのだが、ラファエウが隣でうんうん頷くので間違いはなさそうだ。

「一度会ってみたらどうだ? この方なら、きっと問題ないだろう……」

 その最後の間が気になるのだが、オスカーも顔色悪くぽそりと言った。

「問題が起きるのは、きっとこちらですよ……」

 二人の勧めもあり、私はジルベルト伯爵夫人に連絡を取ったのである。






「忙しいのは聞いていたけれど、落ち着いて良かったわ。まあ、落ち着くのは遅かったように思うけれど?」

 うねった金髪と明るい茶色の瞳で華やかな雰囲気を持つジルベルトは、口端を上げながらも鋭い視線を向けてきた。

 ジルベルトに連絡を取ればすぐに返事が戻り、侯爵家で二人会うことになったのだが、開口一番、ジルベルト伯爵夫人はそう口にした。
 笑っていても、どこか怒りが滲み出ているような。けれど久し振りなのは間違いないので、うふふと笑っておく。

「連続で不幸もあったし、仕方がないわ。招待してくれて嬉しく思うのよ。でも、私に何か隠していることでも?」
「え、なぜ、そうなるのかしら?」
「いつもと、どことなく雰囲気が違うわ……」
「あら、そう思われる? うふふ」

 親しい友達だというのは本当のようだ。遠慮なく指摘するあたり、さすが「わたし」の友達というところだろうか。
 どこかおかしな雰囲気でもあるのか、ジルベルトはこちらをじっと見遣る。

「ちょっとクマがあるわよ。まだ忙しいのではないの?」
「ああ、これは……」

 記憶を失ってからお屋敷のお仕事を学び直しているとは、まだ言えない。私はもう一度うふふと笑っておく。

(昨夜は資料を読み耽ってしまったのよね。そこまで忙しくはなかったのだけれど)

「最近旦那と仲が良いからって、余裕を見せなくてもいいのよ?」

 噂は聞いていると言ってカップを片手にしながら、舌打ちしそうな顔を向けてくる。随分と砕けた態度を見せてくれる方だ。

「あら、あなたは違うの?」
「あの、ど腐れ、最近ギャンブルを始めて」
「どくさ……、ギャンブル?」

 近況を窺うついでに、昔の話を聞こうと思っていたのだが、ジルベルトは「わたし」を信頼してくれているのだろう。歯に衣着せぬ物言いをして口外しにくいことを語った。

「紹介を得たらしいのだけれど、病的にのめりこんでいるのよ。偉い人に誘われて断れなかったらしいのだけれど、今じゃ、まああ」

 ラファエウに聞いたところ、夫のアルチュセール伯爵は大人しめで、ジルベルトと二人でいると印象が薄まるような方らしい。

「とても真面目な方だったのでは? そういった場所に通っていらっしゃるの?」
「いいえ、主催者が身分の低い者の屋敷を借りて行っているみたい。場所はいろいろ変えているそうよ」
「それは、何か問題があった時、困るのは身分の低い方では……?」
「そうよ。せこいでしょう? どなたからかの紹介かは教えてくれないから、なおさら心配なのよ。ギャンブルなんて縁のない人だったのに、人って変わるのね。最近太り始めていたのが痩せてきたから、見目は良くなった気はするけれど。ギャンブルで精神使うのかしら?」

 冗談混じりに言うが、とても心配しているのだろう。憂えた顔が気掛かりだといっていた。

「それで、何かあったのではないの? 結婚してから忙しいと言ってお茶会もパーティもパスするとは言っていたけれど、最後に手紙を交わしてから音沙汰なしで心配していたら、いつの間にかパーティに参加していると噂が入ったのよ! それから連絡をよこしたと思ったら、二人きりで会いたい? 手紙の文章が少し丁寧だったのも気になっていたわよ。さあ、吐きなさい!」

 ジルベルトはずずいと近寄った。
 親しい友人にはパーティも茶会も難しいことは伝えていたようだ。メイドたちも同じことを言っていたので周囲にはその説明をしていたのだろう。
 しかし、あまりにも長く放置していたことにお怒りだ。

 ジルベルトは手紙を送ってくれていた。会える暇はあるのかと問われていたので丁度良いと返事を書いたのだが、文章が他人行儀だっただろうか。

「嬉しいわ。心配してくれていたのね」

 うふふと笑うと、ジルベルトは少しばかり頬を染めてよそを向いた。何だか誰かを思い起こさせるような仕草だ。

(「わたし」の友達だけあるわね。お話ししていると安心してくるわ)

 私は正直に言うことにした。実は、とまずは始まりの記憶喪失の話をする。すると、一度目を見開いて大きく首を振り、冗談でしょ? と問い返してきた。

「本当に!? 記憶も戻っていなくて。って、はあ!? 笑ってする話じゃないでしょう!!」
 呆れて物が言えないと、ジルベルトは背もたれに仰反るほど後ろに引く。

「侯爵は何をしていたの!? 医者には!? 侯爵からもオスカーからも、何も聞いていないわよ!!」
 今にも殴り込みに行きそうなほど勢いよく立ち上がるので、私は何とか宥めようとした。

「親しい方にお話を聞きたくて、それで今回連絡を差し上げたの。オスカーとラファエウにあなたが良いだろうと勧められたわ」
「侯爵とオスカーのことも覚えていないの?」
「残念だけれど……」

 それは本当に残念なことだ。母に会いに実家にも行ったのだが、何も思い出すことはなかった。
 それについてはもう諦めもある。それよりも今は現実を見なければならない。

「それでお茶会などに出席したいと思っていて。パーティはラファエウがいるけれど、お茶会にラファエウを連れて行くわけにはいかないでしょう。あと、王女様のこともあるし」
「王女!? また何か!?」

 ジルベルトは眉を吊り上げた。ミカエル王太子殿下の腹違いの妹であるシャルロット王女の話は、もちろん知っているようだ。

「あの腐れ王女。侯爵から全く興味持たれていないのに、鬱陶しいわね……」

 ぼそりという言葉は間違いなく耳に入る。私は苦笑いで返すしかない。

 シャルロット王女の話は、実家に帰った際オスカーの奥様から詳しく聞いた。ミカエル王太子殿下からも話はあり、シャルロット王女のラファエウに対するアプローチは幼少からしつこかったと耳にしている。
 その上、母親のマルレーヌ第二夫人も侯爵家を欲しがっている雰囲気があり、侯爵を継いだラファエウは二人の標的だった。

 しかし、お義母様が王妃と友人同士で王妃派だったため、その願望は「わたし」が嫁ぐことによって大きく打ち砕かれたのだ。

 シャルロット王女はラファエウと結婚するつもりだったが、それが叶わなかった分、私に攻撃的というわけである。

 記憶を失ってから被害に遭ったことはないが、これから茶会やパーティの参加を増やしていけば、被害に遭う可能性は高くなるのかもしれない。

「ミカエル王太子殿下も大変なようね。マルレーヌ第二夫人がバスチアン王子を生んでから派閥を増やし、第二夫人派が増えたと聞いているわ。色気のある狡猾な女には、男が群がりやすいということよ」

 先頃、マルレーヌ第二夫人の動きが不穏で、ミカエル王太子殿下も頭を痛ませているらしい。
 ラファエウは王太子殿下と仲が良く、自身も王太子殿下派である。私の周囲はシャルロット王女とマルレーヌ第二夫人に敏感だ。

「バラデュール公爵も第二夫人派なのではないかって、噂が出てきているものね。第二夫人につく人は増えているわ」

 バラデュール公爵とは王弟のことである。王と良く似た方だが芸術を好まれるようで、あまり政治に興味がないとか。しかしそのバラデュール公爵まで第二夫人派となれば、勢力図が大きく変わることになる。

「王女に目を付けられているのに、記憶がないままおかしなことを口にでもすれば、確かにまずいわね」

 大っぴらに記憶喪失も言えないし、だからといってあまり親しくない相手にとぼけた対応もできないことがある。それを防ぐためにも協力者はほしいのだ。
 ジルベルトは理解したと大きく頷いてくれる。

「細かいお話になると分からないことが出てくるでしょうから、少しでも協力してくれると嬉しいわ」
「もちろんよ。まずは仲間内で会いましょう。変に思われても大丈夫なお友達とね。少しずつでも、何かを思い出せれば……」

 ジルベルトはそう言って、私の手をぎゅっと握ってくれた。その力強さに、私は気持ちが穏やかになるのを感じた。
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