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20−2 囮

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「君と共にいられたらいいと思うんだ。本当だよ」
 クリストフは、ラシェルの手を取り、そう囁いた。
 その言葉を、はっきり否定していればよかったのだ。
 そうすれば、こんなことにはならなかったのに。

 目の前には、少しだけ痩せて、クマのできた男が、ラシェルに笑顔を向けて座っていた。
(まさか、本人が先に来るとは思わなかったわよ)

「生きていて良かった。ラシェル。どれだけ心細い思いをしてきただろう。生きていると信じていたよ」
 クリストフは悦に入っているかのように、恍惚としてラシェルを見つめた。

 どこかおかしな様子に、寒気しかしない。

 ラシェルが乗っていた馬車は、いきなり停まった。外で騎士たちの怒鳴り声が聞こえ、その声に外へ出ようとすれば、目の前にいた騎士が、馬の上から飛ばされるのが目に入った。何事が起きているのか、考える間もなく、もう一人の騎士の叫び声が聞こえて、馬がいななき、逃げて足音が遠ざかっていく。
 そうして、颯爽と現れたクリストフが、馬から飛び降りて、馬車の中に入り込んできたのだ。

 今、攻撃を行ったのは、クリストフか?

 それを確認する暇もなく、馬車の中でラシェルを抱きしめると、馬車が動き出した。
 もがいて、押しのけて、その勢いでラシェルが座席に座ってしまうと、まるで当然のように、クリストフは正面に座り込む。

「ラシェル。心配したよ。どれだけ、僕が、君を探したか。川に流されたなんて、信じてなどいなかった」

 馬車は速さを上げた。御者が替わったか、速さが違う。馬車の馬とは別の馬が走る足音も聞こえて、何人かで乗り込んできたのがわかった。
 クリストフの衣装は派手なものではなく、マントを羽織っており、王子に見えるものではない。クリストフであれば、気にせず王宮で着るような衣装を着てくるだろうが、気を遣っているところを見ると、アーロン辺りが入れ知恵をしたのだろう。

「ラシェル?」
「どうして、私が馬車に乗っているとわかったの?」
「街に入れば、公爵の馬車が見えたんだ。中に入っているのは君だとすぐにわかった。どこかに連れて行かれるのだと思って、すぐに攻撃したんだよ」
 トビアの言う通り、勘で動いているだけなのか。しかも、やはり攻撃したのはクリストフだ。

「王妃は、このことを知っているの?」
「母上? このことって、なんのことだい?」

 本当にわかっていないのか。ラシェルは寒気が止まらない。
 クリストフの雰囲気が若干違うのは、気のせいではないだろう。眠っていなかったのか、徹夜が続いて、精神面で不安定な状態で起きているみたいだ。

「アーロンも連れてきているのでしょう?」
「ラシェル。やっと会えたのに、どうして他の人たちの話をするんだい? どうして、僕が来たことを、喜んでくれないの?」

 その言葉に、身の毛がよだった。
 なにかに操られているかのような、いや、取り憑かれているかのような、焦点の合っていない人形と話しているかのようだ。
 話しているが、話が通じない。目の前にいるラシェルがどんな顔をしているのか、見えていない。

 ラシェルは眉をひそめたまま、首元をぎゅっと握りしめて固まった。身動きすれば、クリストフが手を伸ばしてきそうで、寒気しかしないからだ。

「ラシェル? 僕の声が聞こえているかい??」
「私の声が聞こえていないのは、あなたでしょう」
「どういう意味……」
「王妃は、私が死んで、なんと言っていた?」
「母上? どうしてさっきから母上のことを? 何を気にしているんだい?」

「伯爵令嬢と結婚しろとは言わなかったでしょうけれど、早く子爵令嬢は諦めろと言わなかった? 悲しまないで。悲しんでいても、先に進めない。ああ、そんなことは言わないわね。子爵令嬢が死んだのは悲しいことだわ。けれど、前を向きましょう。そんなことを言っていたのではないの?」
「それは、言っていたけれども。どうしてそんなことを?」
「本当にわからないの? 逆に感心するわ。どうしてそこまで母親に盲目なのか」

 馬車の中で、この閉鎖された空間に、二人きりでいるだけで、気持ちが悪くなってくる。
 緊張しているのか、首元で握った手に汗をかいていた。

「君を離宮に送ったことは、僕の間違いだった。落ち着くまではと思っていただけなんだ」
 クリストフにとって、母親の盲目さと言われて思いつくのが、それしかないのか。

 思いついたことは、ラシェルを離宮へ送ったことについてだ。王妃の提案に頷いて、ラシェルが遠い場所へ移動されることになり、事故にあったことを悔やみはじめる。
 一人で後悔を話しているが、そんなことはもうどうでもいい。

(トビア、水辺はないの?)
『水の近くを通らないんだよ。川を渡る橋まで待つしかないかも』

 川を渡る橋。王宮から公爵領へ来る途中の、ラシェルが逃げた橋だ。今は修理されて通れるはずだが、そこまでまだ時間がかかる。
 だが、他に水がないのならば、再び川に逃げ込むしかない。川が近づいたらば、理由をつけて馬車を止めて貰えばいい。
 それしかないが、

『ラシェル、道が違う。別のところへ向かってる』
「クリストフ、どこに向かっているの!?」
「王宮だよ? 当然じゃない」

 だが、道が違う。敢えて川を避ける気か。

(まさか、私が、落ちた場所だから?)

 ふと、笑いが漏れた。
 そこに気遣えて、なぜ他のことに気遣えないのだ。

「早く王宮に帰ろう。こんなに心配することなんてなかったよ。君がいなくて、ずっとつらかった」
 もう、笑いしか出ない。どこまでも愚かな考えに、呆れを通り越して、おかしな笑いが出てくる。

「冗談でしょう? 死にに行く趣味なんてないわ」
「何を言っているんだい?」
「本当にわかっていないの? そこまでくると、呆れを通り越して、うんざりするわ。あなたの母親が、何をしたのか。そこまで気づかないってありえる!?」

 もう、我慢ができない。
 クリストフのおかしさに、ラシェルの頭までおかしくなりそうだ。

「ラシェル、どうし……」
「あなたの母親が、私を殺そうとしたのに!? あなたの母親が、全ての元凶なのに、よくもそこまで能天気でいられるのか、笑いしか出てこないわ!」
「何を、言って」
「そうよ、何を言っているの。あなたと言い合う気も起きないわ。私を心配しているのならば、私を、今すぐここで、下ろしてちょうだい!」
「ラシェル。何を言っているん、」

 クリストフは動揺しながら、しかしラシェルの眼光に、一瞬閉口した。口を開け閉めして、脱力したかのように、背もたれに寄りかかる。
 しばらく沈黙が続いた。クリストフはなにかを考えようとしているのか、目を左右に動かして、何度も瞬きをする。

「これは、どの道を通っているの」
「王宮へ帰る道だよ。当然だろう?」
「そんなに私を殺したいの?」
「さっきから、何を言っているんだい。母上がどうして、君に何をするって言うんだ?」
「さあ。人を陥れたり、殺したり? 何でもするのではないの?」
「母上が、どうして」

「たくさんいる婚約者候補たちに聞いたらどう? 何人かはよく知っているでしょうから。ああでも、このことは知らないかもしれないわ。……ブルダリアス公爵ご夫婦が、どうして亡くなったのか」
「ラシェル、何を言って。母上が、何をしたって言うんだ!」
「別にいいのよ。信じなくて。私もあなたを信じたりしないから。そうでしょう? 葬式に他人の死体が使われようと、私が殺されそうになろうと、あなたは誰がそんな真似をしたのか、なにも疑おうとしないのだから」

 そう口にした時、ラシェルは突然馬車の扉を開けた。

「ラシェル!?」
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