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第3話

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 私と女性は、映画館のそばにある喫茶店で向かい合っていた。
 女性は、久我楓子(くがふうこ)と名乗った。
 先程見た、『渦』という映画の感想を聞きたいという。
 館内ではすぐに次の上映がはじまってしまう。それにあの映画館のロビーは狭く、落ち着いて話ができる雰囲気ではなかった。そこで、わざわざ喫茶店に場所を移したのだ。
 こうして向かい合って座っていると、ナンパという予測もあながち間違っていなかったのではないかと思える。
 正直、あの映画で長く語らうようなことはなかった。「イマイチでしたね」のひと言で終わらせることも可能だったと思う。
 しかし、久我さんがなぜあの映画の感想を聞きたいのかが気になった。それに、一人でいるとまた落ち込んでしまいそうな気がしたのだ。
 少しでも長く気が紛れるなら、私にとってもメリットがある。そもそもきれいな女性と話すのは嫌いじゃない。
 喫茶店で改めて見ても、久我さんは非常に整った顔立ちをした美人だと感じた。だが、残念ながら私の好みとは少し外れていた。
 久我さんはきれい過ぎて少し冷たい印象すらある。
 プライドが高く、気高い女性といった雰囲気だ。
 例えば、社内では高嶺の花と噂されているようなタイプ。自分の魅力をよく知っていて、ここぞというときに笑顔ひとつで物事を思い通りに動かすことができてしまいそうなタイプだ。
 こうして見ると確かに初対面なのだが、どこか少しだけ見覚えがあるような気がする。
 もしかしたら前世で会ったことのある人なのかもしれない。これは運命の出会いかもしれない。なんてことを考えて盛り上がれる年齢でもない。見覚えがあるような、ないような、ムズムズする気持ち悪さを隠して、私はできるだけ穏やかな口調で話す。
「それで、久我さんはあの映画の感想が聞きたいんですよね?」
「はい。熱心にご覧になっていたようですので、ぜひお聞かせ頂きたいんですが」
 熱心に見ていたわけではない。呆気に取られていただけだ。それを正直に伝えて良いものだろうか。
「それは、アンケート調査のようなものですか?」
「いえ。個人的な興味、みたいな感じです」
 これはどう解釈すればいいのだろうか。
 あの映画の関係者なのか、逆にライバル的な立場なのか。もしくは監督や役者のファンとも考えられる。
 だが、いくら考えてオブラートに包んだ言葉を選んでも、結局言えるのは「意味がわからない」ということだ。
 それに久我さんは仕事相手でも児童の保護者でもない。もしも機嫌を損ねたとしてもこの場限りだ。それほど気を使う必要はないだろう。
「映画には詳しくないので、私の理解不足かもしれませんが、正直、意味がよくわかりませんでした」
 すると久我さんは「はあ、やっぱりそうですよね」と言いながら、あからさまにがっかりした。
 だがすぐにパッと顔を上げる。
「あの……、どうしてあんなに熱心にご覧になっていたか、聞いてもいいですか?」
 久我さんの真剣な眼差しに、ややたじろぎながら私は答えた。
「あー、全編を通して意味の分からなさを貫くのも、ある意味すごいなと……」
「なるほど……」
 久我さんの肩を落とし俯く姿に少々良心が痛む。
「えーっと、でも、あの映像は疾走感がありましたよね」
 七割走っているシーンだから当然といえば当然の感想だ。むしろ、疾走感がありすぎて、ちょっと悪酔いしそうになった。
「あ、あと、主演の女優さん、あの方はかわいかったですね」
 演技の良し悪しは分からないので、見た目のかわいさを褒めるしかない。
 それに、演技といってもほとんどが疾走シーンだった。あの撮影はかなり体力を要しただろう。そう考えると女優としての根性や体の丈夫さも褒められる点かもしれない。
「ありがとうございます」
「ん?」
「あれ、私です」
「ん?」
 私は久我さんの顔をもう一度じっくり見た。そう言われれば確かに似ているようなきはするが一致はしない。
「あの映画、随分前の映画ですか?」
「いえ、最近撮ったものです」
「主演の女優さん、十代にしか見えませんでしたよ?」
「あれ、ほとんどメイクをしていないので。童顔なんですよ。今はちゃんとメイクしているので、年齢なりに見えると思うんですけど」
「年齢をお伺いしてもいいですか?」
「もうすぐ二十八になります」
 私より二歳年下だ。
 映画の中の女性はとてもそんな風には見えなかった。だが、同一人物だと言われればそんな気もしなくはない。
 私が久我さんの顔に見覚えがあるような気がしていたことにも説明がつく。
「えっと……気が付かなくてすみません」
「いえ、よく言われますから」
 そう言って笑顔を浮かべた久我さんの顔は少し幼さが浮かび、あの映画の女優の顔とだぶった。
「あー、演技のことは分からないですけど……えっと、体力があるのはいいことですよね」
「無理に褒めなくていいですよ」
 久我さんは目尻を下げて苦笑いを浮かべた。
 こうして話をしてみると、久我さんの印象は見た目とは随分違う。計算せずに変わる豊かな表情は、冷たさよりも温かみを感じる。
 メイクを変えた方がいいのではないだろうかと思うが、それは私の好みに過ぎない。
「おきれいだと思ってたら女優さんなんですね。納得です」
「正確には女優を目指していた、です。今は趣味程度に劇団に参加しているくらいです。だけど、あの映画で声を掛けられて、最後にもう一度挑戦してみようと思ったんです……でも、うん、これでスッパリと諦められます」
「ちょっと待って下さい。そんな重大な決断、私みたいな素人の感想でいいんですか?」
 初対面の私に人生の岐路ともいえる決断の片棒を担がされても困る。
「あ、ごめんなさい。でも、気にしないで下さい。九割九分は決めてたんです。ただ、あと一分の未練が断ち切れなくて」
 いやいや、そう言われても気になるでしょう。
「どうして私だったんですか? もっと映画や演技に詳しい人に聞いた方がよかったんじゃないですか?」
 すると久我さんは少し考えてから、白状ようにゆっくりと口を開いた。
「実はあの映画何回か見ていて……。映画に詳しそうな人も何人かいたんです。だけど、あまりに辛辣な意見は、ちょっと怖いというか……だから、鍋島さんに声を掛けたんです」
「なるほど。逆に映画に詳しくなさそうなほうがよかったと?」
 久我さんの気持ちも分からなくはない。
「いえ、やさしそうな人に見えたので。それに、どうせお話するなら、好みの人がいいじゃないですか」
「好み?」
 私が聞き返すと久我さんは慌てて両手を振りながら「そういう意味じゃなくて」と否定した。
「例えば怖そうな人とか、すごく年上とかだと、やっぱり声が掛けづらいじゃないですか」
 好みの人云々というのは、本当に「そういう意味」ではないのだろう。年齢が近くて、同性で、映画に詳しくなさそうな私がちょうどよかったというだけだ。
 そして私が久我さんの誘いにのったのは、一人になりたくなかったからだ。あの人のことを思い出していなかったら断っていたかもしれない。
 こうして久我さんと喫茶店で話しているのも、色々な偶然か重なったに過ぎない。
「もうお芝居は止めてしまうんですか?」
「演じることは好きなので、趣味として劇団は続けると思います」
「ぜひ一度拝見してみたいです」
「ええ、機会があればぜひ」
 おそらくそんな機会は来ないだろう。
 社交辞令だということは久我さんも分かっていると思う。そもそも、連絡先すら知らないのだから。
 この喫茶店を出て別れたら二度と会うことはない。
「それじゃあ、そろそろ出ましょうか」
 私はテーブルの端に置かれた伝票に手を伸ばす。
「あ、私がお誘いしたので、ここは私が」
 そう言って久我さんが伝票を奪い去った。
「えっと……、それではお言葉に甘えてご馳走になります」
 ここで「いえいえ私が」なんて問答をしても時間の無駄だ。
 会計をする久我さんより一足先に喫茶店を出ると、日はかなり傾いていた。
 そういえば大学時代も映画を見たあと、日が暮れるまで片想いの彼女と語り合った。
 ハンバーガーショップでお互いに一番安いドリンクを買い、割り勘でポテトを一つ買う。
 二人で一つのポテトをつまみながら何時間も話しをしたものだ。
 話すのはもっぱら彼女の方で、私は聞いているだけだったけれど、私はその時間がとても好きだった。
 あのとき私はどうして彼女に惹かれたのだろう。何がきっかけだったか覚えていない。気が付いたときには夢中だったような気がする。
 会計を済ませた久我さんが店から出てきた。
「ご馳走さまです」
 私は久我さんに頭を下げる。
「こちらこそありがとうございました」
 久我さんも頭を下げた。
 この儀礼的なあいさつを交わし終えれば、偶然が生み出した久我さんとの束の間の関係は終了する。
 明日からは思い出すことすらない、はずだったが、私に少し気まぐれ心が疼いた。
「ところで久我さん、お腹すきませんか?」
 私が声を掛けると久我さんは、眉を上げて「え?」と言った。
 そんな言葉を掛けられるとは思っていなかったのだろう。少しマヌケな顔に、少し唇の端が上がってしまった。
「実は今日、ちょっと落ち込んでいたんですよ。映画を見たのもそのせいなんですけど……久我さんとお話してとても楽しい気持ちになれました。そのお礼がしたいので、お時間があれば、夕食をご一緒しませんか?」
 久我さんは少し俯き、上目遣いに私の様子を伺う。私の言葉の真意を測りかねているのだろうか。
「えっと……割り勘なら」
 久我さんが迷っていたのは「お礼」という部分だったようだ。
 久我さんの了承を得て、私たちは並んで歩き出した。
「久我さんは何か食べたいものはありますか?」
「あ、なんでも大丈夫です」
 なんでも置いているような居酒屋に行くのが楽だけど、それも味気ない気がする。
「それなら、嫌いな食べ物はありますか?」
「いえ、好き嫌いなく何でもよく食べます」
 久我さんの返事は小学生の児童のようだ。だからついつい「いいお返事ですね」と笑って言ってしまい、久我さんを赤面させてしまった。
「なら、好きな食べ物は?」
「うーん、お肉、かな?」
「お肉、いいですね。それなら焼肉はどうです?一人だと行きづらいし、ご一緒してもらえるとうれしいんですけど」
「はい、焼肉好きです」
 久我さんは笑顔で答える。私は頷いて焼肉店を目指した。
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