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season5-4:デートのかたち(viewpoint陽)
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少しだけショックだった。
野崎さんをランチに誘ったら断られてしまったからだ。だけど砂川さんと約束をしていると言っていたから仕方がない。
私はひとりで会社の外に出た。
今週はずっと野崎さんと一緒にランチを食べていたから、ひとりになるのは久しぶりに感じる。
野崎さんと私、そして輝美ちゃんとお付き合いをすることになった。多分、これはおかしな形だと思うけれど、『好き』がわからない私は、この提案を受けるのが一番良いような気がした。
人を好きになる気持ちがわからなくて、私はとても不安だった。野崎さんや輝美ちゃんから好きだと言われるのは、くすぐったいような嬉しいような気持ちになる。それは、街角で猫を見つけたとき、目があっても逃げられなかったときの嬉しさと似ていた。そしてそれがみんなの言う『好き』と同じだとは思えない。
『好き』という気持ちが理解できない私は、人として何か欠落しているようで怖かった。
だから私は考えるのをやめてしまった。
だけど錦さんのおかげで、野崎さんや輝美ちゃんと話をして、考えるのをやめることで人を傷つけることがあるのだと知った。
輝美ちゃんが涙を流したのを見て、私も悲しくなって泣いてしまった。
野崎さんは泣いている輝美ちゃんの頭をポンポンと撫でてハンカチを差し出していた。すぐに振り払われていたけれど、私はそれを見て、なんだかいいなと思ったのだ。
何がどういいと思ったのかは自分でもわからない。だけど、野崎さんと輝美ちゃんとなら、付き合うことができるんじゃないかと思った。
二人は付き合っても今までと同じでいいと言ってくれた。だけど私は今までと同じではいけないと思う。今までと同じならば、また誰かを悲しませてしまうかもしれないからだ。それは嫌だった。
だから、たとえ答えがわからなくても考え続けて変わっていこうと決めた。
その第一歩が野崎さんをランチに誘うことだった。
普段でもランチに誘うのは緊張することなのに、お付き合いをしている相手をはじめて誘うのだ。私は足が少し震えていたし、声だって震えていたと思う。
だけどそれはすごく呆気なくて、野崎さんは一秒も考えずに笑顔で頷いてくれた。ランチを食べている間も、ずっとニコニコしていた。
ランチを食べている間は少しも緊張しなかったし、野崎さんがずっとうれしそうな顔をしてくれていたから、私もうれしくなった。
お付き合いをするということがよくわかっていなかったけれど、これならできると思ったのだ。
だからそれから毎日野崎さんをランチに誘っていたのだけど、週の後半に近づくごとに、野崎さんのニコニコは小さくなって、ついに今日はランチを断られた。
私はひとりでうどん屋さんに入ってきつねうどんを注文する。
あっという間に届いたきつねうどんのどんぶりを抱えて、何がいけなかったのだろうと考えた。
お付き合いをしているからと、毎日ランチに誘ったのがいけなかったのかもしれない。
今日は砂川さんと約束があると言っていたけれど、そもそも野崎さんは私と違ってみんなと仲が良い。これまでだって砂川さんや錦さんとランチに行っていた。
きっと野崎さんを独占してしまったのがいけなかったのだ。野崎さんとランチに行くのが少し楽しかったから、調子に乗ってしまったようだ。
ちゅるちゅるとうどんをすすりながら出した結論に私は納得した。
うどんを食べ終えて店を出る。少し時間が早いので公園でのんびりすることにした。
コンビニで買ったパンをこの公園で食べることもある。遊んでいる子どもや昼休みの見知らぬ人たちの様子を眺めるのが好きだった。
ベンチに座って、途中で買ったペットボトルのミルクティーを飲む。ぼんやりと周りの人たちを眺めていると、公園の脇の道路に停まっている移動販売のお弁当屋さんが目に止まった。今日はガパオライスのお店のようだ。うどんではなくガパオライスにすれば良かったと考えていると、仲の良さそうな三人の女性が現れた。
そのときふと名案を思い付く。
野崎さんと二人でランチに行くことが続けば、野崎さんを独占してしまうことになる。だけど三人や四人でランチに行けば、独占することにはならない。
今日だって、砂川さんが了承してくれれば、野崎さんと砂川さんと私の三人でランチに行ってもよかったのだ。
どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
私は名案にウキウキしながら会社に戻った。
自席に戻り引き出しを開ける。そこにスマホがあるのを見て、昼休みに持って出るのを忘れていたことに気付いた。特に連絡もないだろうと思いつつ、念のため画面を確認するとメッセージが一件入っていた。輝美ちゃんだ。私は慌てて内容を確認する。
『お仕事中にごめんなさい。日曜日って予定ありますか? よかったらデートしませんか?』
私はその文字を読んで悩んだ。
日曜日に用事はないし、輝美ちゃんと出掛けるのも嫌じゃない。それに、今週は輝美ちゃんがアルバイトに入っていなかったから、居酒屋で顔を合わせることもなかった。
野崎さんとは毎日会社で会っているけれど、輝美ちゃんとは居酒屋か休日に会うしかない。
だけど私は『デート』とはどうすればいいものなのかわからない。
隣の席に目をやると、ランチから帰って来たばかりの野崎さんが仕事の準備をしていた。
野崎さんに尋ねれば教えてくれるかもしれないけれど、輝美ちゃんとのデートだと伝えて良いものか悩む。
野崎さん以外で質問をできそうなのは錦さんだろう。だけどいつも錦さんに甘えてしまうのも申し訳ない。用賀さんに聞いてもいいのだけど、最近は会社ではピリピリしているし、今だって昼休みが終わる前から仕事に取り掛かっていた。
メッセージを受信した時刻はお昼休みに入ってすぐだった。もうすぐ一時間が経過してしまう。
あまり返事が遅くなると、また輝美ちゃんが泣いてしまうかもしれない。
悩んだ挙句、私は悩んでいることを伝えようと思った
『日曜日、大丈夫です。だけど、デートとは何をすればいいのかわかりません』
送信を終えて一息つくと、すぐに輝美ちゃんからの返信が届いた。
『普通に遊びに行く感じで大丈夫ですよ。日曜日、楽しみにしています! 待ち合わせの場所や時間は後で送りますね』
私はホッと息を付いてスマホを引き出しの中に入れた。
どうやら輝美ちゃんは泣いてもいないし、怒ってもいないようだ。
しかし「普通に遊びに行く感じ」でデートと言えるのだろうか。
それなら私は光恵さんと遊びに行ったこともあるし、仕事終わりに野崎さんとご飯を食べに行ったこともある。それらもデートなのだろうか。
それとも、お付き合いをしている相手と出掛けることをデートと呼ぶのだろうか。
とりあえずこの疑問は保留して、仕事が終わってから訪れる予定の光恵さんに聞いてみようと心に決めた。
仕事を終えると私は急いで光恵さんがやっているカフェ&フラワー『クローゼット』に向かった。なぜ急いでいるかといえば、遅くなるとお店の閉店時間ギリギリになってしまうからだ。だけど本当はそれだけではない。少しでも早く光恵さんの顔を見て、先週からの出来事を話したいと思っていたのだ。
日曜日に野崎さんや輝美ちゃんと話して決めたことを早く報告したかった。本当はもっと早く行こうかとも思っていたのだけど、週の半ばではあまりゆっくりしていられない。だから金曜日まで我慢したのだ。
用賀さんにも光恵さんと一緒に話を聞いてほしいと思って声を掛けたけれど、まだ仕事が残っているからと断られてしまった。
光恵さんが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、用賀さんに断られたことを伝えたら、光恵さんはケラケラと笑った。
「しゅうちゃん、私と二人でいるところを見られるのが恥ずかしいんですって」
「恥ずかしい?」
光恵さんが会社に勤めていたときも、二人はよく一緒にいたのに、どうして恥ずかしいのだろう。
「私たちの関係をみんなに知られちゃったから照れくさいのよ」
「お付き合いをしているのに照れくさい?」
「しゅうちゃんは照れ屋さんだから」
光恵さんはそう言って微笑む。
そう聞いてもなぜ用賀さんが照れるのかよくわからない。だけどそのことを問い詰めていたら本題に入れないのでひとまず納得することにした。
幸いと言っていいのかわからないけれど、お店に私以外のお客様がいなかったので、私は日曜日の出来事を光恵さんに話した。
上手に話すことができなくて、説明を終えるまで長い時間がかかってしまう。だけど光恵さんは急かすことなくやさしい目で、何度もうなずきながら話を聞いてくれた。そして私が話し終えた瞬間、椅子から立ち上がって「陽ちゃん!」と言いながら私をガバっと抱きしめた。
本当にギュッと強く抱きしめるから、とても息苦しくなるのだけれど、光恵さんに抱きしめられるのは好きだ。
全てを受け入れてもらえるようで、心までポカポカしてくる。
それでもさすがに息苦しくなって、光恵さんの腕をポンポンと何度かタップしたら、光恵さんが名残惜しそうにゆっくりと体を離してくれた。
そういえばこのタップというものを教えてくれたのは用賀さんだった。入社してすぐの頃、光恵さんに抱きしめられてぐったりしていた私に、「苦しくなったら草吹さんの腕を何度か叩いて苦しいって伝えるようにしたら?」と言ってくれた。格闘技で降参を伝えるために使う動作らしい。そして光恵さんにも「矢沢さんがタップしたらすぐに手を放すこと」と厳しめの口調で言っていた。
あの頃から光恵さんと用賀さんはお付き合いをしていたのだろうか。
「安心したわ」
光恵さんは私の向かいの席に座り直して言った。
「えっと、心配をかけてすみませんでした」
「私が陽ちゃんの心配をするのは趣味みたいなものだから気にしなくていいのよ。私の知らないところで悩んでいる方がもっと心配なんだから」
「はい」
「この間来たときより、ずっと表情が明るくなってるね」
「はい。まだ好きな気持ちはわからないけど……野崎さんも輝美ちゃんもやさしくて……なんていうか、うれしかったから、だからいっぱい考えようって……」
「そうね。もしも考えてもわからなくて苦しくなったら、必ず話に来てね。答えは教えてあげられないかもしれないけれど、一緒に考えることくらいはできるから」
「はい。ありがとうございます」
そこでハッと光恵さんに聞こうと思っていたことを思い出した。
「あの、光恵さん、早速ひとつ聞いてもいいですか?」
「なぁに?」
「明後日、輝美ちゃんとデートの約束をしたんですけど」
「あら、素敵ね」
「デートってどうすればいいんですか?」
すると光恵さんは首を少し傾げた。
「どうすればいいって?」
「えっと、前に光恵さんと二人で遊びに行ったことがありますよね? あれはデートではないですよね?」
「ああ、私はデ……いえ、そうね、デートではないわね」
光恵さんが何を言いかけたのか少し気になったけれど話を続けた。
「だったら、デートのときは何か違うことをしなくてはいけないんでしょうか?」
「それはまだ早いんじゃない?」
「早い?」
「あ、あー、んー、そうねぇ」
そう言いながら光恵さんは腕組みをして考え込んでしまう。そんなに難しい質問だったのだろうか。光恵さんは用賀さんと付き合っているし、きっとデートもいっぱいしているはずだから、よく知っているのだと思っていた。
「特別なことはないですよ」
光恵さんではない声が降り注ぎ、驚いて顔をあげると用賀さんが立っていた。
「用賀さん……」
「あ、しゅうちゃんおかえり」
光恵さんは真上を見上げるようにして自分の背後に立つ用賀さんの顔を見ると、隣の椅子を引いた。
用賀さんは小さな声で「ただいま」と言いながらその椅子に座る。
「えっと、用賀さん、特別なことはないってどういうことですか?」
「そのままの意味ですよ」
「だけど、それだとお友だちとのお出掛けと変わらないですよね?」
「そうですね。だけど大事なのは『誰と』です」
「誰と……」
「さすがしゅうちゃん」
光恵さんは感心したように用賀さんの横顔を眺める。
「光恵さん、茶化さないでください。矢沢さん、例えば食事のことを思い浮かべてください」
「はい」
「同じ時間、同じ料理を食べる。もちろん味も同じです。だけど目の前で一緒に食事をとる人が、嫌いな人や苦手な人だったときと、仲のいい人だったら、どちらの食事がおいしいと思いますか?」
私は目を閉じて家族との食事を思い出した。息苦しくて、何を食べても味がしなかった。
だけど輝美ちゃんが働く居酒屋でのごはんはおいしい。成人をした日にはじめて飲んだビールは苦くてびっくりしたけれど、まずいとは思わなかった。
それに野崎さんと一緒に食べるランチも楽しくて料理もおいしく感じられる。
私は目を開けて用賀さんを見た。やっぱり用賀さんはすごいなと思う。
「仲のいい人と食べるごはんの方がおいしいです」
「大事なのは何を、ではなくて誰と、です。ただ遊びに行くだけでも、一緒に行く相手が好きな人なら、それだけで特別なんです。デートだからって、何かする必要はありませんよ」
「本当にそれでいいんですか? 輝美ちゃんはガッカリしませんか?」
今度は用賀さんが首を傾げる。そういえば用賀さんにはまだ野崎さんや輝美ちゃんとお付き合いをはじめたことを伝えていない。デートの相手が誰なのかわからないのだろう。
そんな用賀さんの言葉を引き継いだのは光恵さんだ。
「大丈夫よ、輝美ちゃんにとっては陽ちゃんと出掛けることがもう特別なんだから」
二人の話に納得はできたけれど、やっぱりまだ不安だった。そんな私の顔を見て光恵さんが続ける。
「もしもどうしても不安だったら、輝美ちゃんに聞いてみたら?」
「聞いてもいいんですか? 怒られませんか?」
「大丈夫よ、野崎さんも輝美ちゃんも、陽ちゃんがずっと何で悩んでいたのか知った上で付き合おうって言ってくれたんでしょう?」
私は頷いた。
用賀さんが「野崎さん? 輝美ちゃん? なんですかそれ?」と光恵さんに話し掛けていた。
光恵さんは「だから恥ずかしがらずに一緒に話を聞けばいいのに。あとで教えてあげるから」なんて言っている。
本当にデートで特別なことをしなくていいのか、それで輝美ちゃんが嫌な思いをしないか、まだ少し不安だったけれど、逃げ出さずにデートに行くことができると思えた。
日曜日、お昼には少し早い時間に輝美ちゃんと待ち合わせた。
私は待ち合わせの時間より五分早く約束の場所に着いたのに、輝美ちゃんはもう待っていた。
「待たせてしまってごめんなさい」
「いえいえ、私が待ちきれなくて早く来ちゃっただけですから」
そう言って輝美ちゃんがニコニコと笑ってくれたので少しホッとした。
すると輝美ちゃんが私のことをジッと見つめる。何か失敗してしまったかと思ってドキドキしていると、輝美ちゃんは先ほどよりもニッコリと大きな笑顔を見せた。
「今日の陽さん、すごいかわいいですね」
そう言われると少し照れくさい。
用賀さんは特別なことはしなくていいと言ったけれど、せめて服くらいはちゃんと選ぼうと、持っている中で一番かわいいと思う服を選んだ。
そもそもあまり洋服を持っていないし、動きやすさを重視しているから、かわいいと言っても、街中にいる他の女の子たちと比べたら、全然かわいくないと思う。
だけど輝美ちゃんがそう言ってくれるとちょっとうれしい。
「あの、輝美ちゃんもかわいいです」
私が言うと、輝美ちゃんは「ありがとうございます」と言いながら少し顔を赤くした。
まだデートははじまったばかりだけど、他の人とお出掛けをしたときとは少し違う感じがして、ムズムズするようなソワソワするような不思議な感じがする。
「あ、そういえば野崎満月から連絡は来てないですか?」
「野崎さん? 金曜には会社でお話しましたけど……」
「いえ、昨日とか今朝とか……」
「特にありませんけど、何か用事ですか?」
「違いますよ。あー、そう、このデートのことを知って邪魔されたらいやだなと思って」
「デートのことは野崎さんには伝えていないんですけど、伝えた方が良かったですか?」
「いやいやいやいや、伝えなくて正解です。変なこときいてごめんなさい」
そう言って輝美ちゃんは指先で頬を掻いた。
「あの、輝美ちゃんにひとつ聞きたいことがあって……」
「はい、なんですか?」
「私、デートってどうすればいいのかわからなくて……。会社の先輩に聞いたら、特別なことはしなくていいって言われて。本当にそれでいいのかなって……」
「陽さんとこうして待ち合わせをして、一緒に過ごせることがもう特別だから他はなにもいらないですよ」
「本当に?」
「はい。あ、でもそうですね。せっかくだからデートらしいことをひとつだけ、いいですか?」
「はい」
返事をすると輝美ちゃんは私の手を握った。
「手を繋いで歩きましょう」
「えっ」
「イヤですか?」
「イヤ、ではないけど……手を繋いだことなんてないから」
「やった! 陽さんにとっても特別なことですね」
輝美ちゃんはとてもうれしそうだった。手を繋ぐなんて少し照れくさくはあったけれど、輝美ちゃんがうれしそうだから、私も少しうれしくなった。
「どこか行きたいところはありますか?」
「いえ、特には……」
こんな返事しかできない自分が少し情けない。だけどデートで行く場所なんてどんなに考えても私にはわからない。
「だったら映画でも見ませんか? ちょっと面白そうな映画がやってるんです」
「映画って、映画館で?」
「映画館って苦手でしたか?」
私は首を横に振る。実は一度も映画館に行ったことが無かったのだ。子どもの頃、同級生が親と一緒に映画館に行ったという話をしているのを聞いたことがあるが、私の両親は私を映画館に連れていってはくれなかった。
高校生になると、友だち同士で映画を見に行ったという話を耳にしたけれど、私にはそんな友だちがいなかった。
大人になっても、ひとりで映画館に行く勇気がなくて、結局いままで一度も映画館に入ったことが無い。
「いえ、行きたい……」
「よかった。じゃあ、映画の前にランチにしましょう」
輝美ちゃんはやっぱりニコニコと笑う。私が頷くと、輝美ちゃんは私の手を引いて歩き出した。
輝美ちゃんが連れて行ってくれたのは、ちょっとおしゃれなカフェレストランだった。私たちが普段行っているランチのお店よりもかなりおしゃれな雰囲気でちょっぴり緊張する。
さらに私を緊張させたのは、輝美ちゃんが入り口で店員さんに「予約していた河野です」と言ったことだ。
店員さんに店の中庭が見える窓際の席に案内された。椅子にすわってすぐに私は輝美ちゃんに小声で話しかける。
「あ、あの、デートってこんなすごいお店でご飯をたべなくちゃいけないの?」
値段も少し高そうだ。こんなお店を予約して食事をしなくてはいけないなんて、用賀さんは教えてくれなかった。これが特別なことでなければ何が特別なのだろう。
すると輝美ちゃんはケラケラと笑いながら手を振った。
「いえいえ、今日だけは特別です」
「デートだから……?」
「まぁ、初デートだからっていうのもあるんですけど……」
輝美ちゃんがそう言ったとき、店員さんが料理を運んできたのでさらに驚いてしまった。なぜならまだ注文をしていなかったからだ。
「え?」
呆然と店員さんの動きを見ていた私に、輝美ちゃんが眉尻を下げて笑う。
「陽さん、ごめんなさい。勝手に料理を注文しちゃって」
「輝美ちゃんが注文したの?」
いつの間にと思ったけれど、もしかしたら予約をしたときにすでに注文したのかもしれない。
「一応、陽さんの食の好みは知っているので、好きな料理だと思うんですけど」
確かに居酒屋で私が食べている料理をずっと見ているから輝美ちゃんなら私の好き嫌いは把握しているだろう。
「えっと、でも……」
いくつかの皿が並べられて、最後に小さなホールケーキが置かれた。
「これは本当に今日だけの特別なランチです。陽さん、三日前がお誕生日だったでしょう?」
「あっ」
輝美ちゃんの言葉ではじめて自分の誕生日を思い出した。
成人のときは自分でも意識していたのだけど、幼い頃から誕生日を祝う習慣がなかったので、基本的には自分の誕生日を意識していない。
「本当は当日にお祝いしたかったんですけど、都合が合わなくて……。メッセージを送ろうかとも思ったんですけど、今日はサプライズでお祝いしたかったので我慢しました」
「えっと、びっくりして……」
「陽さん、お誕生日おめでとうございます」
「あ、あり、がとう……」
成人のときも、輝美ちゃんはこうして誕生日を祝ってくれた。
だから私の誕生日を知っていることに不思議はない。だけど居酒屋にはたくさんのお客さんがいる。それなのに私の誕生日を覚えていてくれたことがとてもうれしく感じた。
それから誕生日のランチを食べ、プレゼントにブレスレットを貰い、映画を見た。
今日だけは特別だと言って、輝美ちゃんがすべてお金を支払ってくれた。うれしかったけれど、申し訳ない気持ちになる。
そして、輝美ちゃんがうれしそうにしていたことは私もうれしかったのだけど、不安も大きくなってきた。
お付き合いをするということは、輝美ちゃんが私にしてくれたのと同じように、私も輝美ちゃんに何かをしてあげなければいけないのだと思う。
私にはそれをする自信がなかった。
輝美ちゃんとのデートは夕食を食べて解散になった。
それほど遅い時間ではなかったけれど、私は思っていたより疲れたみたいで、月曜日は寝坊をして、会社に着いたのは始業時間間際になってしまった。
「矢沢さんがギリギリなんて珍しいですね」
すでに仕事の準備を終えていた野崎さんが私を見て言った。
「はい、ちょっと寝坊をしてしまって……」
「お疲れですか?」
「少し……昨日は輝美ちゃんとデートだったんです」
「え?」
野崎さんが少し大きな声を出した。内緒にするべきだったのだろうか。だけど内緒にしなくてはいけないというルールは決めなかった。
「そ、そうですか。デートはどうでしたか?」
野崎さんがすぐに笑顔でそう聞いてくれたので、少しホッとした。
「楽しかったです」
「そうですか、よかったですね」
野崎さんは目を細めて言った。
「はい」
私は返事をしながらパソコンの電源を入れて仕事の準備をはじめる。
「あれ、そのブレスレット、かわいいですね」
野崎さんの言葉に、私はブレスレットをつけた左手首を見る。普段、あまりアクセサリーをつけないので少し照れくさい。だけど野崎さんの言う通り、小さな花をデザインした華奢なブレスレットは本当にかわいいと思う。
「かわいいです」
「矢沢さんがそういうのを着けてるのって珍しいですね」
「変ですか?」
せっかく輝美ちゃんがプレゼントしてくれたから、出来るだけ身に着けようと、今朝は遅刻しそうだったけれどブレスレットは忘れずに着けてきた。だけどやっぱりかわいすぎて似合わないのかもしれない。
「いえ、すごく似合ってますよ」
野崎さんの言葉にホッとした。
「よかった。輝美ちゃんに貰ったんです」
「へぇ、輝美ちゃん、がんばりましたね」
「誕生日だから特別だってご飯も奢ってくれました」
「そうなんです……ね? え? 誕生日?」
「はい」
「矢沢さんの誕生日ですか?」
「はい」
「えっと、誕生日はいつだったんですか?」
「十月三日です」
すると野崎さんはがっくりとうなだれる。
「すみません、私、知らなくて……何も用意してません……」
それでようやく野崎さんが落ち込んだ理由がわかった。
「いえ、私も忘れていたので」
「自分の誕生日を忘れたんですか?」
「はい。おかしいですか?」
「ちょっと……でも矢沢さんっぽい気もしますね」
「そうですか?」
首をひねりながら尋ねると、野崎さんはクスクスと笑う。
「それなら、今日はランチを奢らせてください」
「いえ、それは悪いので……」
「誕生日は、年に一度みんなからチヤホヤされて、我儘を言ってもいい日なんですよ」
「そうなんですか?」
すると野崎さんはケラケラと笑いながら「そうです」と言った。
輝美ちゃんからは毎週のようにデートの誘いがあった。輝美ちゃんはデートの度に私が普段行かないようなところに連れて行ってくれる。
それは新鮮で楽しい。だけど毎週末デートをすることに少し疲れを感じていた。それに輝美ちゃんが私にしてくれる色々なことを返せない自分がもどかしい。
だけど私は輝美ちゃんの誘いを断らなかった。付き合うと決めた日、「嫌だったら断ってもいい」と言われたけれど、断って輝美ちゃんが悲しんだり泣いたりするかもしれないと思ったら断ることはっできなかった。
お付き合いをしていても、私は輝美ちゃんに何もしてあげられない。だから、せめてデートには必ず行こうと決めたのだ。
だけど、わからないのは野崎さんの方だった。
野崎さんとは週の半分くらいはランチを一緒に食べたけれど、休日には一度もデートをしていなかった。何度か週末の予定を尋ねられたことがあるけれど、輝美ちゃんとの約束があることを伝えると、「だったら私は遠慮しようかな」と言ってそれ以上誘うことはない。
「輝美ちゃんとの約束は土曜日なので、日曜日は大丈夫ですよ」
と言ったこともある。だけど野崎さんは
「連日デートじゃ疲れちゃいますよね。日曜はゆっくり休んでください」
と言って笑顔を浮かべていた。
そうして十一月に入って少し経ったとき、野崎さんに週末の予定を尋ねられた。
「えっと、土曜日に輝美ちゃんとデートの約束をしています」
野崎さんは「そっか……」と言いながら少し考える仕草を見せた。なんだか申し訳ない気持ちになる。
「お疲れかもしれないですけど、日曜日、時間をもらえませんか? どうしても行きたいところがあるんです」
「デートですか?」
「はい」
野崎さんはニッコリと笑った。
「野崎さんとのデートははじめてですね」
「え? あ、そうですね」
そう言って野崎さんは照れ臭そうに頭を掻いた。
日曜日。
待ち合わせはお昼を少し過ぎた時間になった。私が疲れているといけないからと、野崎さんが遅い時間を指定してくれたのだ。
だから私は、朝ゆっくりと起きて、少し早い昼食を食べてから待ち合わせの場所に向かった。
待ち合わせの場所に到着して辺りを見回したけれど野崎さんの姿はまだない。数分待っていると「遅くなってすみません」と言いながら野崎さんが走ってきた。
野崎さんは挨拶もそこそこに「行きましょう!」と言って歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
たどり着いたのは大きなイベントホールだ。入り口には『キャット博』の文字と猫の写真が入った大きな看板あった。
「行きたいところって、ここですか?」
「はい。先にチケットを買っておいたので早速入りましょう」
私はうなづいて野崎さんの後に続いて入場した。
「あ、野崎さん、チケット代を……」
「矢沢さんの誕生日にランチを奢っただけなので、これは一ヶ月以上遅れた誕生日プレゼントだと思ってください。輝美ちゃんのプレゼントに比べたらショボイですけどね」
野崎さんの言葉に私は首をブンブンと横に振った。
輝美ちゃんがくれたプレゼントや食事はとても素敵だったけれど
野崎さんが連れてきてくれた、このキャット博が見劣りするとは思わない。
その証拠に、まだ入り口をくぐってパンフレットを受け取っただけなのに、密やかにテンションが急上昇していた。
「でも、その……私、何も返せなくて……」
「んー、そっか……。それなら、次の私の誕生日には、どこか矢沢さんのおすすめの場所に連れて行ってください」
「私の?」
「はい」
ニコニコ笑っている野崎さんを見つめて私は少し考える。野崎さんを連れていくことができるおすすめの場所なんて思いつかない。
「野崎さんのお誕生日っていつですか?」
「八月二十日です」
「もう終わってますね……」
「はい、次の誕生日まで一年近くありますから、ゆっくり素敵な場所を探してください。嫌ですか?」
「いえ、探しておきます」
それだけの時間があれば、一カ所くらい野崎さんを連れていきたい場所が見つかるような気がした。
野崎さんにも輝美ちゃんにもしてもらうばかりで心苦しかったけれど、野崎さんに少しでも返すことができるのだと思ったら気持ちが少し楽になる。
今度、輝美ちゃんの誕生日も聞いておこうと考えていると、野崎さんが目のまえに手を出してきた。
「約束です」
野崎さんは右手の小指を立てている。指切りの催促だと気付いて、私は自分の小指を野崎さんの小指に絡ませた。
指切りをしていた手を離すと、野崎さんが「さて、どこから回りますか?」と聞いた。
私は開場マップに視線を落とす。
猫たちが自由に遊んでいるのを見学出来るスペースや、保護猫の譲渡のお見合いスペース、猫の写真パネル展示、キャットフードや猫グッズなどの物販コーナー、猫の相談会スペース、猫に関するトークショーなど盛りだくさんだった。
どれも見たいものばかりだけど、やっぱりまずは本物の猫を見たい。
「えっと、猫……」
そう言ってから、この会場は猫のものばかりだったことに気がついた。だけど野崎さんは私が言いたかったことがわかったようで「やっぱりそうですよね」と笑いながら会場マップを見て「あっちみたいです」と会場の奥を指差して歩きはじめた。
私もその後を追っていたのだけど、気が急いていたのか、いつの間にか野崎さんを追い越して先を歩いていた。
会場のほぼ中央に作で仕切られたスペースがあった。キャットタワーやクッションなどが置かれていて、その中に十数匹の猫がいた。見物客は透明な衝立の外から猫たちの様子を眺めるようになっていた。
お昼過ぎだからか、多くの猫たちはお昼寝をしている。
「あー、みんな寝てますね。午前中に来た方が良かったかな?」
「いえ、寝てるのもかわいいです」
私は思い思いの場所でくつろぎながら昼寝を満喫している猫たちの姿を食い入るように見つめる。時々尻尾を振ったり、寝返りを打ったり、そんな姿は何時間でも眺めていられそうだ。
比喩ではなく、本当に時間を忘れて猫を眺めてしまった。はたと気付いて隣にいた野崎さんを見上げると、野崎さんと目が合った。
「本当に猫が好きなんですね」
「はい」
「飼わないんですか?」
「いつか飼いたいと思ってます」
「早く飼えるといいですね」
「はい」
「あと十五分くらいしたら、はじめて猫を飼う人向けのトークショーがあるみたいですけど、聞きにいきますか?」
「行きたいです」
「じゃぁ、もう少ししたら移動しましょう」
「はい」
そうして私はまた猫の姿に視線を戻した。
野崎さんの言う通り、五分程経ってからステージスペースに移動して、はじめて猫を飼うときの注意点などを聞いた。野崎さんがバッグの中に入っていたメモとペンを貸してくれたので、私は必死にメモを取った。
その後、保護猫スペースで保護猫たちを見ながら説明を聞いたり、世界中の猫たちの自由な姿を映したパネル写真を眺めたり、猫たちを見学できるスペースに戻ったりと会場内を歩き回った。
そうして最後に物販コーナーでいくつか猫グッズを買ったときにはイベントの閉場時間間近になっていた。
野崎さんと並んで会場を出たけれど、あと三周は回りたい気持ちだった。
「矢沢さん、疲れていませんか?」
「大丈夫です。楽しかったです」
「それなら良かった」
野崎さんは笑う。その笑顔を見て、野崎さんとほとんど話をしていなかったことを思い出した。私はたくさん猫を見られてとても楽しかったけれど、野崎さんは楽しめたのだろうか。
「野崎さんは楽しかったですか?」
「はい、すごく楽しかったです」
野崎さんは笑っている。その笑顔が本物なのかよくわからない。私は勝手にひとりで楽しんでしまっていたから、野崎さんが楽しめたとは思えないのだ。
それに輝美ちゃんとのデートとは違い過ぎる。
私は猫に夢中で全然話をしなかったし、移動をしている間も手を繋いでいなかった。これは本当にデートと呼んでもいいのだろうか。
「あの……」
帰る道すがら、私は野崎さんに尋ねてみた。
「輝美ちゃんとのデートとはちょっと違っていて……これもデートでいいんでしょうか?」
すると野崎さんはキョトンと目を丸くしてから苦笑いを浮かべた。
「私もデートらしいデートをしたことがないので、これが正しいのかわからないんですけど、私は楽しかったし、矢沢さんも楽しかったのなら、それでいいんじゃないでしょうか」
「そうなんですか?」
「多分……。あ、前に雅に聞いたら、日和さんとのデートは、家の中でお互いに好きなことをしている、とかって言ってましたよ」」
「え? それもデートなんですか?」
「多分……」
デートというものはひとつの決まった形があるわけではないようだ。だけど奥が深くて私にはまだ難しい。
そうして野崎さんとは駅で別れて帰宅した。
ほとんど休憩を取らず、ずっと会場を歩き回っていたから体はヘトヘトだったし、足も痛くなっていたけれど心は軽くなっていた。
そして野崎さんが私と輝美ちゃんをフラワー&カフェ『クローゼット』に呼び出したのは、その次の週末だった。
野崎さんをランチに誘ったら断られてしまったからだ。だけど砂川さんと約束をしていると言っていたから仕方がない。
私はひとりで会社の外に出た。
今週はずっと野崎さんと一緒にランチを食べていたから、ひとりになるのは久しぶりに感じる。
野崎さんと私、そして輝美ちゃんとお付き合いをすることになった。多分、これはおかしな形だと思うけれど、『好き』がわからない私は、この提案を受けるのが一番良いような気がした。
人を好きになる気持ちがわからなくて、私はとても不安だった。野崎さんや輝美ちゃんから好きだと言われるのは、くすぐったいような嬉しいような気持ちになる。それは、街角で猫を見つけたとき、目があっても逃げられなかったときの嬉しさと似ていた。そしてそれがみんなの言う『好き』と同じだとは思えない。
『好き』という気持ちが理解できない私は、人として何か欠落しているようで怖かった。
だから私は考えるのをやめてしまった。
だけど錦さんのおかげで、野崎さんや輝美ちゃんと話をして、考えるのをやめることで人を傷つけることがあるのだと知った。
輝美ちゃんが涙を流したのを見て、私も悲しくなって泣いてしまった。
野崎さんは泣いている輝美ちゃんの頭をポンポンと撫でてハンカチを差し出していた。すぐに振り払われていたけれど、私はそれを見て、なんだかいいなと思ったのだ。
何がどういいと思ったのかは自分でもわからない。だけど、野崎さんと輝美ちゃんとなら、付き合うことができるんじゃないかと思った。
二人は付き合っても今までと同じでいいと言ってくれた。だけど私は今までと同じではいけないと思う。今までと同じならば、また誰かを悲しませてしまうかもしれないからだ。それは嫌だった。
だから、たとえ答えがわからなくても考え続けて変わっていこうと決めた。
その第一歩が野崎さんをランチに誘うことだった。
普段でもランチに誘うのは緊張することなのに、お付き合いをしている相手をはじめて誘うのだ。私は足が少し震えていたし、声だって震えていたと思う。
だけどそれはすごく呆気なくて、野崎さんは一秒も考えずに笑顔で頷いてくれた。ランチを食べている間も、ずっとニコニコしていた。
ランチを食べている間は少しも緊張しなかったし、野崎さんがずっとうれしそうな顔をしてくれていたから、私もうれしくなった。
お付き合いをするということがよくわかっていなかったけれど、これならできると思ったのだ。
だからそれから毎日野崎さんをランチに誘っていたのだけど、週の後半に近づくごとに、野崎さんのニコニコは小さくなって、ついに今日はランチを断られた。
私はひとりでうどん屋さんに入ってきつねうどんを注文する。
あっという間に届いたきつねうどんのどんぶりを抱えて、何がいけなかったのだろうと考えた。
お付き合いをしているからと、毎日ランチに誘ったのがいけなかったのかもしれない。
今日は砂川さんと約束があると言っていたけれど、そもそも野崎さんは私と違ってみんなと仲が良い。これまでだって砂川さんや錦さんとランチに行っていた。
きっと野崎さんを独占してしまったのがいけなかったのだ。野崎さんとランチに行くのが少し楽しかったから、調子に乗ってしまったようだ。
ちゅるちゅるとうどんをすすりながら出した結論に私は納得した。
うどんを食べ終えて店を出る。少し時間が早いので公園でのんびりすることにした。
コンビニで買ったパンをこの公園で食べることもある。遊んでいる子どもや昼休みの見知らぬ人たちの様子を眺めるのが好きだった。
ベンチに座って、途中で買ったペットボトルのミルクティーを飲む。ぼんやりと周りの人たちを眺めていると、公園の脇の道路に停まっている移動販売のお弁当屋さんが目に止まった。今日はガパオライスのお店のようだ。うどんではなくガパオライスにすれば良かったと考えていると、仲の良さそうな三人の女性が現れた。
そのときふと名案を思い付く。
野崎さんと二人でランチに行くことが続けば、野崎さんを独占してしまうことになる。だけど三人や四人でランチに行けば、独占することにはならない。
今日だって、砂川さんが了承してくれれば、野崎さんと砂川さんと私の三人でランチに行ってもよかったのだ。
どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
私は名案にウキウキしながら会社に戻った。
自席に戻り引き出しを開ける。そこにスマホがあるのを見て、昼休みに持って出るのを忘れていたことに気付いた。特に連絡もないだろうと思いつつ、念のため画面を確認するとメッセージが一件入っていた。輝美ちゃんだ。私は慌てて内容を確認する。
『お仕事中にごめんなさい。日曜日って予定ありますか? よかったらデートしませんか?』
私はその文字を読んで悩んだ。
日曜日に用事はないし、輝美ちゃんと出掛けるのも嫌じゃない。それに、今週は輝美ちゃんがアルバイトに入っていなかったから、居酒屋で顔を合わせることもなかった。
野崎さんとは毎日会社で会っているけれど、輝美ちゃんとは居酒屋か休日に会うしかない。
だけど私は『デート』とはどうすればいいものなのかわからない。
隣の席に目をやると、ランチから帰って来たばかりの野崎さんが仕事の準備をしていた。
野崎さんに尋ねれば教えてくれるかもしれないけれど、輝美ちゃんとのデートだと伝えて良いものか悩む。
野崎さん以外で質問をできそうなのは錦さんだろう。だけどいつも錦さんに甘えてしまうのも申し訳ない。用賀さんに聞いてもいいのだけど、最近は会社ではピリピリしているし、今だって昼休みが終わる前から仕事に取り掛かっていた。
メッセージを受信した時刻はお昼休みに入ってすぐだった。もうすぐ一時間が経過してしまう。
あまり返事が遅くなると、また輝美ちゃんが泣いてしまうかもしれない。
悩んだ挙句、私は悩んでいることを伝えようと思った
『日曜日、大丈夫です。だけど、デートとは何をすればいいのかわかりません』
送信を終えて一息つくと、すぐに輝美ちゃんからの返信が届いた。
『普通に遊びに行く感じで大丈夫ですよ。日曜日、楽しみにしています! 待ち合わせの場所や時間は後で送りますね』
私はホッと息を付いてスマホを引き出しの中に入れた。
どうやら輝美ちゃんは泣いてもいないし、怒ってもいないようだ。
しかし「普通に遊びに行く感じ」でデートと言えるのだろうか。
それなら私は光恵さんと遊びに行ったこともあるし、仕事終わりに野崎さんとご飯を食べに行ったこともある。それらもデートなのだろうか。
それとも、お付き合いをしている相手と出掛けることをデートと呼ぶのだろうか。
とりあえずこの疑問は保留して、仕事が終わってから訪れる予定の光恵さんに聞いてみようと心に決めた。
仕事を終えると私は急いで光恵さんがやっているカフェ&フラワー『クローゼット』に向かった。なぜ急いでいるかといえば、遅くなるとお店の閉店時間ギリギリになってしまうからだ。だけど本当はそれだけではない。少しでも早く光恵さんの顔を見て、先週からの出来事を話したいと思っていたのだ。
日曜日に野崎さんや輝美ちゃんと話して決めたことを早く報告したかった。本当はもっと早く行こうかとも思っていたのだけど、週の半ばではあまりゆっくりしていられない。だから金曜日まで我慢したのだ。
用賀さんにも光恵さんと一緒に話を聞いてほしいと思って声を掛けたけれど、まだ仕事が残っているからと断られてしまった。
光恵さんが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、用賀さんに断られたことを伝えたら、光恵さんはケラケラと笑った。
「しゅうちゃん、私と二人でいるところを見られるのが恥ずかしいんですって」
「恥ずかしい?」
光恵さんが会社に勤めていたときも、二人はよく一緒にいたのに、どうして恥ずかしいのだろう。
「私たちの関係をみんなに知られちゃったから照れくさいのよ」
「お付き合いをしているのに照れくさい?」
「しゅうちゃんは照れ屋さんだから」
光恵さんはそう言って微笑む。
そう聞いてもなぜ用賀さんが照れるのかよくわからない。だけどそのことを問い詰めていたら本題に入れないのでひとまず納得することにした。
幸いと言っていいのかわからないけれど、お店に私以外のお客様がいなかったので、私は日曜日の出来事を光恵さんに話した。
上手に話すことができなくて、説明を終えるまで長い時間がかかってしまう。だけど光恵さんは急かすことなくやさしい目で、何度もうなずきながら話を聞いてくれた。そして私が話し終えた瞬間、椅子から立ち上がって「陽ちゃん!」と言いながら私をガバっと抱きしめた。
本当にギュッと強く抱きしめるから、とても息苦しくなるのだけれど、光恵さんに抱きしめられるのは好きだ。
全てを受け入れてもらえるようで、心までポカポカしてくる。
それでもさすがに息苦しくなって、光恵さんの腕をポンポンと何度かタップしたら、光恵さんが名残惜しそうにゆっくりと体を離してくれた。
そういえばこのタップというものを教えてくれたのは用賀さんだった。入社してすぐの頃、光恵さんに抱きしめられてぐったりしていた私に、「苦しくなったら草吹さんの腕を何度か叩いて苦しいって伝えるようにしたら?」と言ってくれた。格闘技で降参を伝えるために使う動作らしい。そして光恵さんにも「矢沢さんがタップしたらすぐに手を放すこと」と厳しめの口調で言っていた。
あの頃から光恵さんと用賀さんはお付き合いをしていたのだろうか。
「安心したわ」
光恵さんは私の向かいの席に座り直して言った。
「えっと、心配をかけてすみませんでした」
「私が陽ちゃんの心配をするのは趣味みたいなものだから気にしなくていいのよ。私の知らないところで悩んでいる方がもっと心配なんだから」
「はい」
「この間来たときより、ずっと表情が明るくなってるね」
「はい。まだ好きな気持ちはわからないけど……野崎さんも輝美ちゃんもやさしくて……なんていうか、うれしかったから、だからいっぱい考えようって……」
「そうね。もしも考えてもわからなくて苦しくなったら、必ず話に来てね。答えは教えてあげられないかもしれないけれど、一緒に考えることくらいはできるから」
「はい。ありがとうございます」
そこでハッと光恵さんに聞こうと思っていたことを思い出した。
「あの、光恵さん、早速ひとつ聞いてもいいですか?」
「なぁに?」
「明後日、輝美ちゃんとデートの約束をしたんですけど」
「あら、素敵ね」
「デートってどうすればいいんですか?」
すると光恵さんは首を少し傾げた。
「どうすればいいって?」
「えっと、前に光恵さんと二人で遊びに行ったことがありますよね? あれはデートではないですよね?」
「ああ、私はデ……いえ、そうね、デートではないわね」
光恵さんが何を言いかけたのか少し気になったけれど話を続けた。
「だったら、デートのときは何か違うことをしなくてはいけないんでしょうか?」
「それはまだ早いんじゃない?」
「早い?」
「あ、あー、んー、そうねぇ」
そう言いながら光恵さんは腕組みをして考え込んでしまう。そんなに難しい質問だったのだろうか。光恵さんは用賀さんと付き合っているし、きっとデートもいっぱいしているはずだから、よく知っているのだと思っていた。
「特別なことはないですよ」
光恵さんではない声が降り注ぎ、驚いて顔をあげると用賀さんが立っていた。
「用賀さん……」
「あ、しゅうちゃんおかえり」
光恵さんは真上を見上げるようにして自分の背後に立つ用賀さんの顔を見ると、隣の椅子を引いた。
用賀さんは小さな声で「ただいま」と言いながらその椅子に座る。
「えっと、用賀さん、特別なことはないってどういうことですか?」
「そのままの意味ですよ」
「だけど、それだとお友だちとのお出掛けと変わらないですよね?」
「そうですね。だけど大事なのは『誰と』です」
「誰と……」
「さすがしゅうちゃん」
光恵さんは感心したように用賀さんの横顔を眺める。
「光恵さん、茶化さないでください。矢沢さん、例えば食事のことを思い浮かべてください」
「はい」
「同じ時間、同じ料理を食べる。もちろん味も同じです。だけど目の前で一緒に食事をとる人が、嫌いな人や苦手な人だったときと、仲のいい人だったら、どちらの食事がおいしいと思いますか?」
私は目を閉じて家族との食事を思い出した。息苦しくて、何を食べても味がしなかった。
だけど輝美ちゃんが働く居酒屋でのごはんはおいしい。成人をした日にはじめて飲んだビールは苦くてびっくりしたけれど、まずいとは思わなかった。
それに野崎さんと一緒に食べるランチも楽しくて料理もおいしく感じられる。
私は目を開けて用賀さんを見た。やっぱり用賀さんはすごいなと思う。
「仲のいい人と食べるごはんの方がおいしいです」
「大事なのは何を、ではなくて誰と、です。ただ遊びに行くだけでも、一緒に行く相手が好きな人なら、それだけで特別なんです。デートだからって、何かする必要はありませんよ」
「本当にそれでいいんですか? 輝美ちゃんはガッカリしませんか?」
今度は用賀さんが首を傾げる。そういえば用賀さんにはまだ野崎さんや輝美ちゃんとお付き合いをはじめたことを伝えていない。デートの相手が誰なのかわからないのだろう。
そんな用賀さんの言葉を引き継いだのは光恵さんだ。
「大丈夫よ、輝美ちゃんにとっては陽ちゃんと出掛けることがもう特別なんだから」
二人の話に納得はできたけれど、やっぱりまだ不安だった。そんな私の顔を見て光恵さんが続ける。
「もしもどうしても不安だったら、輝美ちゃんに聞いてみたら?」
「聞いてもいいんですか? 怒られませんか?」
「大丈夫よ、野崎さんも輝美ちゃんも、陽ちゃんがずっと何で悩んでいたのか知った上で付き合おうって言ってくれたんでしょう?」
私は頷いた。
用賀さんが「野崎さん? 輝美ちゃん? なんですかそれ?」と光恵さんに話し掛けていた。
光恵さんは「だから恥ずかしがらずに一緒に話を聞けばいいのに。あとで教えてあげるから」なんて言っている。
本当にデートで特別なことをしなくていいのか、それで輝美ちゃんが嫌な思いをしないか、まだ少し不安だったけれど、逃げ出さずにデートに行くことができると思えた。
日曜日、お昼には少し早い時間に輝美ちゃんと待ち合わせた。
私は待ち合わせの時間より五分早く約束の場所に着いたのに、輝美ちゃんはもう待っていた。
「待たせてしまってごめんなさい」
「いえいえ、私が待ちきれなくて早く来ちゃっただけですから」
そう言って輝美ちゃんがニコニコと笑ってくれたので少しホッとした。
すると輝美ちゃんが私のことをジッと見つめる。何か失敗してしまったかと思ってドキドキしていると、輝美ちゃんは先ほどよりもニッコリと大きな笑顔を見せた。
「今日の陽さん、すごいかわいいですね」
そう言われると少し照れくさい。
用賀さんは特別なことはしなくていいと言ったけれど、せめて服くらいはちゃんと選ぼうと、持っている中で一番かわいいと思う服を選んだ。
そもそもあまり洋服を持っていないし、動きやすさを重視しているから、かわいいと言っても、街中にいる他の女の子たちと比べたら、全然かわいくないと思う。
だけど輝美ちゃんがそう言ってくれるとちょっとうれしい。
「あの、輝美ちゃんもかわいいです」
私が言うと、輝美ちゃんは「ありがとうございます」と言いながら少し顔を赤くした。
まだデートははじまったばかりだけど、他の人とお出掛けをしたときとは少し違う感じがして、ムズムズするようなソワソワするような不思議な感じがする。
「あ、そういえば野崎満月から連絡は来てないですか?」
「野崎さん? 金曜には会社でお話しましたけど……」
「いえ、昨日とか今朝とか……」
「特にありませんけど、何か用事ですか?」
「違いますよ。あー、そう、このデートのことを知って邪魔されたらいやだなと思って」
「デートのことは野崎さんには伝えていないんですけど、伝えた方が良かったですか?」
「いやいやいやいや、伝えなくて正解です。変なこときいてごめんなさい」
そう言って輝美ちゃんは指先で頬を掻いた。
「あの、輝美ちゃんにひとつ聞きたいことがあって……」
「はい、なんですか?」
「私、デートってどうすればいいのかわからなくて……。会社の先輩に聞いたら、特別なことはしなくていいって言われて。本当にそれでいいのかなって……」
「陽さんとこうして待ち合わせをして、一緒に過ごせることがもう特別だから他はなにもいらないですよ」
「本当に?」
「はい。あ、でもそうですね。せっかくだからデートらしいことをひとつだけ、いいですか?」
「はい」
返事をすると輝美ちゃんは私の手を握った。
「手を繋いで歩きましょう」
「えっ」
「イヤですか?」
「イヤ、ではないけど……手を繋いだことなんてないから」
「やった! 陽さんにとっても特別なことですね」
輝美ちゃんはとてもうれしそうだった。手を繋ぐなんて少し照れくさくはあったけれど、輝美ちゃんがうれしそうだから、私も少しうれしくなった。
「どこか行きたいところはありますか?」
「いえ、特には……」
こんな返事しかできない自分が少し情けない。だけどデートで行く場所なんてどんなに考えても私にはわからない。
「だったら映画でも見ませんか? ちょっと面白そうな映画がやってるんです」
「映画って、映画館で?」
「映画館って苦手でしたか?」
私は首を横に振る。実は一度も映画館に行ったことが無かったのだ。子どもの頃、同級生が親と一緒に映画館に行ったという話をしているのを聞いたことがあるが、私の両親は私を映画館に連れていってはくれなかった。
高校生になると、友だち同士で映画を見に行ったという話を耳にしたけれど、私にはそんな友だちがいなかった。
大人になっても、ひとりで映画館に行く勇気がなくて、結局いままで一度も映画館に入ったことが無い。
「いえ、行きたい……」
「よかった。じゃあ、映画の前にランチにしましょう」
輝美ちゃんはやっぱりニコニコと笑う。私が頷くと、輝美ちゃんは私の手を引いて歩き出した。
輝美ちゃんが連れて行ってくれたのは、ちょっとおしゃれなカフェレストランだった。私たちが普段行っているランチのお店よりもかなりおしゃれな雰囲気でちょっぴり緊張する。
さらに私を緊張させたのは、輝美ちゃんが入り口で店員さんに「予約していた河野です」と言ったことだ。
店員さんに店の中庭が見える窓際の席に案内された。椅子にすわってすぐに私は輝美ちゃんに小声で話しかける。
「あ、あの、デートってこんなすごいお店でご飯をたべなくちゃいけないの?」
値段も少し高そうだ。こんなお店を予約して食事をしなくてはいけないなんて、用賀さんは教えてくれなかった。これが特別なことでなければ何が特別なのだろう。
すると輝美ちゃんはケラケラと笑いながら手を振った。
「いえいえ、今日だけは特別です」
「デートだから……?」
「まぁ、初デートだからっていうのもあるんですけど……」
輝美ちゃんがそう言ったとき、店員さんが料理を運んできたのでさらに驚いてしまった。なぜならまだ注文をしていなかったからだ。
「え?」
呆然と店員さんの動きを見ていた私に、輝美ちゃんが眉尻を下げて笑う。
「陽さん、ごめんなさい。勝手に料理を注文しちゃって」
「輝美ちゃんが注文したの?」
いつの間にと思ったけれど、もしかしたら予約をしたときにすでに注文したのかもしれない。
「一応、陽さんの食の好みは知っているので、好きな料理だと思うんですけど」
確かに居酒屋で私が食べている料理をずっと見ているから輝美ちゃんなら私の好き嫌いは把握しているだろう。
「えっと、でも……」
いくつかの皿が並べられて、最後に小さなホールケーキが置かれた。
「これは本当に今日だけの特別なランチです。陽さん、三日前がお誕生日だったでしょう?」
「あっ」
輝美ちゃんの言葉ではじめて自分の誕生日を思い出した。
成人のときは自分でも意識していたのだけど、幼い頃から誕生日を祝う習慣がなかったので、基本的には自分の誕生日を意識していない。
「本当は当日にお祝いしたかったんですけど、都合が合わなくて……。メッセージを送ろうかとも思ったんですけど、今日はサプライズでお祝いしたかったので我慢しました」
「えっと、びっくりして……」
「陽さん、お誕生日おめでとうございます」
「あ、あり、がとう……」
成人のときも、輝美ちゃんはこうして誕生日を祝ってくれた。
だから私の誕生日を知っていることに不思議はない。だけど居酒屋にはたくさんのお客さんがいる。それなのに私の誕生日を覚えていてくれたことがとてもうれしく感じた。
それから誕生日のランチを食べ、プレゼントにブレスレットを貰い、映画を見た。
今日だけは特別だと言って、輝美ちゃんがすべてお金を支払ってくれた。うれしかったけれど、申し訳ない気持ちになる。
そして、輝美ちゃんがうれしそうにしていたことは私もうれしかったのだけど、不安も大きくなってきた。
お付き合いをするということは、輝美ちゃんが私にしてくれたのと同じように、私も輝美ちゃんに何かをしてあげなければいけないのだと思う。
私にはそれをする自信がなかった。
輝美ちゃんとのデートは夕食を食べて解散になった。
それほど遅い時間ではなかったけれど、私は思っていたより疲れたみたいで、月曜日は寝坊をして、会社に着いたのは始業時間間際になってしまった。
「矢沢さんがギリギリなんて珍しいですね」
すでに仕事の準備を終えていた野崎さんが私を見て言った。
「はい、ちょっと寝坊をしてしまって……」
「お疲れですか?」
「少し……昨日は輝美ちゃんとデートだったんです」
「え?」
野崎さんが少し大きな声を出した。内緒にするべきだったのだろうか。だけど内緒にしなくてはいけないというルールは決めなかった。
「そ、そうですか。デートはどうでしたか?」
野崎さんがすぐに笑顔でそう聞いてくれたので、少しホッとした。
「楽しかったです」
「そうですか、よかったですね」
野崎さんは目を細めて言った。
「はい」
私は返事をしながらパソコンの電源を入れて仕事の準備をはじめる。
「あれ、そのブレスレット、かわいいですね」
野崎さんの言葉に、私はブレスレットをつけた左手首を見る。普段、あまりアクセサリーをつけないので少し照れくさい。だけど野崎さんの言う通り、小さな花をデザインした華奢なブレスレットは本当にかわいいと思う。
「かわいいです」
「矢沢さんがそういうのを着けてるのって珍しいですね」
「変ですか?」
せっかく輝美ちゃんがプレゼントしてくれたから、出来るだけ身に着けようと、今朝は遅刻しそうだったけれどブレスレットは忘れずに着けてきた。だけどやっぱりかわいすぎて似合わないのかもしれない。
「いえ、すごく似合ってますよ」
野崎さんの言葉にホッとした。
「よかった。輝美ちゃんに貰ったんです」
「へぇ、輝美ちゃん、がんばりましたね」
「誕生日だから特別だってご飯も奢ってくれました」
「そうなんです……ね? え? 誕生日?」
「はい」
「矢沢さんの誕生日ですか?」
「はい」
「えっと、誕生日はいつだったんですか?」
「十月三日です」
すると野崎さんはがっくりとうなだれる。
「すみません、私、知らなくて……何も用意してません……」
それでようやく野崎さんが落ち込んだ理由がわかった。
「いえ、私も忘れていたので」
「自分の誕生日を忘れたんですか?」
「はい。おかしいですか?」
「ちょっと……でも矢沢さんっぽい気もしますね」
「そうですか?」
首をひねりながら尋ねると、野崎さんはクスクスと笑う。
「それなら、今日はランチを奢らせてください」
「いえ、それは悪いので……」
「誕生日は、年に一度みんなからチヤホヤされて、我儘を言ってもいい日なんですよ」
「そうなんですか?」
すると野崎さんはケラケラと笑いながら「そうです」と言った。
輝美ちゃんからは毎週のようにデートの誘いがあった。輝美ちゃんはデートの度に私が普段行かないようなところに連れて行ってくれる。
それは新鮮で楽しい。だけど毎週末デートをすることに少し疲れを感じていた。それに輝美ちゃんが私にしてくれる色々なことを返せない自分がもどかしい。
だけど私は輝美ちゃんの誘いを断らなかった。付き合うと決めた日、「嫌だったら断ってもいい」と言われたけれど、断って輝美ちゃんが悲しんだり泣いたりするかもしれないと思ったら断ることはっできなかった。
お付き合いをしていても、私は輝美ちゃんに何もしてあげられない。だから、せめてデートには必ず行こうと決めたのだ。
だけど、わからないのは野崎さんの方だった。
野崎さんとは週の半分くらいはランチを一緒に食べたけれど、休日には一度もデートをしていなかった。何度か週末の予定を尋ねられたことがあるけれど、輝美ちゃんとの約束があることを伝えると、「だったら私は遠慮しようかな」と言ってそれ以上誘うことはない。
「輝美ちゃんとの約束は土曜日なので、日曜日は大丈夫ですよ」
と言ったこともある。だけど野崎さんは
「連日デートじゃ疲れちゃいますよね。日曜はゆっくり休んでください」
と言って笑顔を浮かべていた。
そうして十一月に入って少し経ったとき、野崎さんに週末の予定を尋ねられた。
「えっと、土曜日に輝美ちゃんとデートの約束をしています」
野崎さんは「そっか……」と言いながら少し考える仕草を見せた。なんだか申し訳ない気持ちになる。
「お疲れかもしれないですけど、日曜日、時間をもらえませんか? どうしても行きたいところがあるんです」
「デートですか?」
「はい」
野崎さんはニッコリと笑った。
「野崎さんとのデートははじめてですね」
「え? あ、そうですね」
そう言って野崎さんは照れ臭そうに頭を掻いた。
日曜日。
待ち合わせはお昼を少し過ぎた時間になった。私が疲れているといけないからと、野崎さんが遅い時間を指定してくれたのだ。
だから私は、朝ゆっくりと起きて、少し早い昼食を食べてから待ち合わせの場所に向かった。
待ち合わせの場所に到着して辺りを見回したけれど野崎さんの姿はまだない。数分待っていると「遅くなってすみません」と言いながら野崎さんが走ってきた。
野崎さんは挨拶もそこそこに「行きましょう!」と言って歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
たどり着いたのは大きなイベントホールだ。入り口には『キャット博』の文字と猫の写真が入った大きな看板あった。
「行きたいところって、ここですか?」
「はい。先にチケットを買っておいたので早速入りましょう」
私はうなづいて野崎さんの後に続いて入場した。
「あ、野崎さん、チケット代を……」
「矢沢さんの誕生日にランチを奢っただけなので、これは一ヶ月以上遅れた誕生日プレゼントだと思ってください。輝美ちゃんのプレゼントに比べたらショボイですけどね」
野崎さんの言葉に私は首をブンブンと横に振った。
輝美ちゃんがくれたプレゼントや食事はとても素敵だったけれど
野崎さんが連れてきてくれた、このキャット博が見劣りするとは思わない。
その証拠に、まだ入り口をくぐってパンフレットを受け取っただけなのに、密やかにテンションが急上昇していた。
「でも、その……私、何も返せなくて……」
「んー、そっか……。それなら、次の私の誕生日には、どこか矢沢さんのおすすめの場所に連れて行ってください」
「私の?」
「はい」
ニコニコ笑っている野崎さんを見つめて私は少し考える。野崎さんを連れていくことができるおすすめの場所なんて思いつかない。
「野崎さんのお誕生日っていつですか?」
「八月二十日です」
「もう終わってますね……」
「はい、次の誕生日まで一年近くありますから、ゆっくり素敵な場所を探してください。嫌ですか?」
「いえ、探しておきます」
それだけの時間があれば、一カ所くらい野崎さんを連れていきたい場所が見つかるような気がした。
野崎さんにも輝美ちゃんにもしてもらうばかりで心苦しかったけれど、野崎さんに少しでも返すことができるのだと思ったら気持ちが少し楽になる。
今度、輝美ちゃんの誕生日も聞いておこうと考えていると、野崎さんが目のまえに手を出してきた。
「約束です」
野崎さんは右手の小指を立てている。指切りの催促だと気付いて、私は自分の小指を野崎さんの小指に絡ませた。
指切りをしていた手を離すと、野崎さんが「さて、どこから回りますか?」と聞いた。
私は開場マップに視線を落とす。
猫たちが自由に遊んでいるのを見学出来るスペースや、保護猫の譲渡のお見合いスペース、猫の写真パネル展示、キャットフードや猫グッズなどの物販コーナー、猫の相談会スペース、猫に関するトークショーなど盛りだくさんだった。
どれも見たいものばかりだけど、やっぱりまずは本物の猫を見たい。
「えっと、猫……」
そう言ってから、この会場は猫のものばかりだったことに気がついた。だけど野崎さんは私が言いたかったことがわかったようで「やっぱりそうですよね」と笑いながら会場マップを見て「あっちみたいです」と会場の奥を指差して歩きはじめた。
私もその後を追っていたのだけど、気が急いていたのか、いつの間にか野崎さんを追い越して先を歩いていた。
会場のほぼ中央に作で仕切られたスペースがあった。キャットタワーやクッションなどが置かれていて、その中に十数匹の猫がいた。見物客は透明な衝立の外から猫たちの様子を眺めるようになっていた。
お昼過ぎだからか、多くの猫たちはお昼寝をしている。
「あー、みんな寝てますね。午前中に来た方が良かったかな?」
「いえ、寝てるのもかわいいです」
私は思い思いの場所でくつろぎながら昼寝を満喫している猫たちの姿を食い入るように見つめる。時々尻尾を振ったり、寝返りを打ったり、そんな姿は何時間でも眺めていられそうだ。
比喩ではなく、本当に時間を忘れて猫を眺めてしまった。はたと気付いて隣にいた野崎さんを見上げると、野崎さんと目が合った。
「本当に猫が好きなんですね」
「はい」
「飼わないんですか?」
「いつか飼いたいと思ってます」
「早く飼えるといいですね」
「はい」
「あと十五分くらいしたら、はじめて猫を飼う人向けのトークショーがあるみたいですけど、聞きにいきますか?」
「行きたいです」
「じゃぁ、もう少ししたら移動しましょう」
「はい」
そうして私はまた猫の姿に視線を戻した。
野崎さんの言う通り、五分程経ってからステージスペースに移動して、はじめて猫を飼うときの注意点などを聞いた。野崎さんがバッグの中に入っていたメモとペンを貸してくれたので、私は必死にメモを取った。
その後、保護猫スペースで保護猫たちを見ながら説明を聞いたり、世界中の猫たちの自由な姿を映したパネル写真を眺めたり、猫たちを見学できるスペースに戻ったりと会場内を歩き回った。
そうして最後に物販コーナーでいくつか猫グッズを買ったときにはイベントの閉場時間間近になっていた。
野崎さんと並んで会場を出たけれど、あと三周は回りたい気持ちだった。
「矢沢さん、疲れていませんか?」
「大丈夫です。楽しかったです」
「それなら良かった」
野崎さんは笑う。その笑顔を見て、野崎さんとほとんど話をしていなかったことを思い出した。私はたくさん猫を見られてとても楽しかったけれど、野崎さんは楽しめたのだろうか。
「野崎さんは楽しかったですか?」
「はい、すごく楽しかったです」
野崎さんは笑っている。その笑顔が本物なのかよくわからない。私は勝手にひとりで楽しんでしまっていたから、野崎さんが楽しめたとは思えないのだ。
それに輝美ちゃんとのデートとは違い過ぎる。
私は猫に夢中で全然話をしなかったし、移動をしている間も手を繋いでいなかった。これは本当にデートと呼んでもいいのだろうか。
「あの……」
帰る道すがら、私は野崎さんに尋ねてみた。
「輝美ちゃんとのデートとはちょっと違っていて……これもデートでいいんでしょうか?」
すると野崎さんはキョトンと目を丸くしてから苦笑いを浮かべた。
「私もデートらしいデートをしたことがないので、これが正しいのかわからないんですけど、私は楽しかったし、矢沢さんも楽しかったのなら、それでいいんじゃないでしょうか」
「そうなんですか?」
「多分……。あ、前に雅に聞いたら、日和さんとのデートは、家の中でお互いに好きなことをしている、とかって言ってましたよ」」
「え? それもデートなんですか?」
「多分……」
デートというものはひとつの決まった形があるわけではないようだ。だけど奥が深くて私にはまだ難しい。
そうして野崎さんとは駅で別れて帰宅した。
ほとんど休憩を取らず、ずっと会場を歩き回っていたから体はヘトヘトだったし、足も痛くなっていたけれど心は軽くなっていた。
そして野崎さんが私と輝美ちゃんをフラワー&カフェ『クローゼット』に呼び出したのは、その次の週末だった。
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