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悠生ゆう

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season4-1:知らないこと(viewpoint陽)

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 正直に言うと、私はあまり乗り気ではなかった。
 会社から光恵さんが開いた『カフェ&フラワー クローゼット』までは四十分程かかる。だから定時で上がってすぐに移動しても、閉店までわずかな時間しかない。そんな閉店間際に大人数で(と言っても四人だけど)押しかけるのは迷惑になるんじゃないかと思った。
 乗り気でない理由が本当にそれだったならば、私は彼女たちにそう伝えることができたと思う。だけどそれはただの口実でしかないと自分自身が十分に分かっていたから、口に出すことができなかった。
 オープンしてすぐに用賀さんと一に店を訪れたとき、光恵さんにどうして『クローゼット』という名前なのかを尋ねた。カフェの店名には似合わないような気がしたからだ。
「小さい頃、クローゼットの中に入ったことない? クローゼットの中ってシェルターだったり、ワクワクが詰まった宝箱だったり、現実と夢の国をつなぐ扉だったりしたでしょう? この場所を大人にとってのそんな場所にしたいなと思って」
 光恵さんはどこか遠くを見るようにして言った。幼い頃、どうしても辛くて泣きたくなったとき、クローゼットに入って膝を抱えていた。私にとってクローゼットは夢の国への入り口ではなかったけれど、安心できる場所だと感じていた。
 そして光恵さんの言葉の通り『カフェ&フラワー クローゼット』は私にとって安心できるクローゼットになった。
 頭の中がモヤモヤしてイライラして苦しくて、どうしていいのか分からないけれど、光恵さんのお店にいる間だけは、気持ちを落ち着かせることができた。
 仕事帰りに毎日光恵さんのお店に行く。お店から自宅までは距離があるから、いつもの居酒屋に寄ることもなくなった。夕食はコンビニのおにぎりになったけれど、それでもよかった。
 私にとって大切な場所に野崎さん、錦さん、砂川さんも行く。彼女たちに、私のクローゼットを荒らされたくないと思った。
 だけどそれが私のわがままでしかないことは分かっている。光恵さんのお店は私だけの秘密の場所ではないのだ。
 光恵さんだってみんなを連れて行けばきっと喜ぶだろう。
 電車を降りて光恵さんのお店までは十分程歩く。私が先頭を歩き、少し遅れて三人が何やら話しながら着いてきていた。
「そういえば手ぶらだけどいいのかな……」
 そう言ったのは砂川さんだった。
「忘れ物ですか?」
 錦さんがのんびりした口調で問う。
「そうじゃなくて、開店のお祝いを持ってくるべきだったんじゃないかと思って」
「あ、そっか。そういえばそうですね」
 野崎さんが砂川さんの言葉に答える。
「お祝いって何がいいだろう?」
「定番と言えばお花でしょうけど……」
「お花屋さんにお花はないですよね~」
「お茶菓子とか?」
「カフェですよ~」
「ちょっと、どうすればいいの?」
 私は三人が口々に話しているのを聞き流す。
 私は光恵さんの開店祝いに花を持って行った。確かに店で花を扱っているけれど、光恵さんは花が好きだから喜んでくれる。それに何も持っていなくても、お店に顔を出せば光恵さんは喜んでくれるだろう。そう思ったけれど私は三人の会話に入らなかった。
 いずれにしてももうすぐ到着する。閉店まであと三十分もないから、寄り道をして買い物をするような時間はない。
 そうして私は小さくため息をついた。自分がとても嫌な人間になってしまったような気がする。少し前までは成長できた、大人になれたと思ってたけれど、それはすべて錯覚だった。
 情けなくて悔しくて腹立たしい。それなのに私はどうしても彼女たちの会話に入ることができなかった。
 そうしている間に光恵さんのお店に到着する。
 ドアベルを鳴らして扉を開けると、光恵さんがいつもの明るい笑顔で「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。いつもならその笑顔で私もホッとできるのだけど、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
「あ、みんなも来てくれたのね! ありがとう」
 私の後ろに三人の姿を見つけて、光恵さんの笑顔はさらにパッと明るくなった。
 私が一人で来ているときよりも光恵さんがうれしいと感じているんじゃないかと思うと胸の奥がジリジリと痛む。
 入口の正面の壁は花のコーナーになっていて、小ぶりのアレンジメントや鉢植えの花が陳列してある。そしてそれを取り囲むようにテーブル席があるので、どの席からも花を眺めることができた。
 店内に他のお客さんがいなかったので、私たちは入り口に近いテーブルについた。閉店間際のこの時間は、いつもお客さんが少ないようだ。だからこそ私も光恵さんとのんびり話せる平日の夜に来ている。一人で来るときはカウンターに座る。花を眺めることはできないけれど、光恵さんと話がしやすい。だからといってたくさん話すわけではないけれど、光恵さんの話を聞くだけでも楽しかった。
 今は、砂川さんと錦さんが並んで座り、その向かいに私は野崎さんと並んで座っている。とても居心地が悪くて、私だけカウンターに移りたいという気持ちになった。
「ご注文は?」
 テーブルの脇に立ち、光恵さんが笑顔で聞く。みんなはメニューを眺めて何を注文するか思案していた。それを横目に私はいつも飲んでいる「自家製ハーブティーを」を注文した。
「自家製って、草吹主任が作ってるんですか?」
「ブレンドは私じゃなくて詳しい人がやってくれてるんだけど、ハーブを育ててるのは私だよ」
 光恵さんがそう答えると、三人とも興味津々で自家製ハーブティーを注文した。
 光恵さんは注文を確認することなくすぐにカウンターに戻る。
「自家製ってどうやって作るんだろう?」
「楽しみですね」
 同じテーブルについているのに、楽しそうに語らう三人がとても遠く感じる。
「陽ちゃん、ちょっと手伝って」
 光恵さんのその声が救いの神のように響いた。野崎さんが「私が……」と立ち上がろうとしたことに気付かないフリをして、私はすぐさまカウンターに向かった。
 カウンターの上にはドライハーブがセットされたポットが四つ並べられている。ポットにお湯を入れたらテーブルまで運べばいいのだとすぐに理解した。
 光恵さんは「はい」と言ってお盆を私に差し出した。それを受け取ろうとしたとき「なんだか元気ない?」と小声で聞く。どうやら手伝いを頼んだのはそれを聞くためだったようだ。私は小さく首を横に振った。元気がないように見える理由が、三人と一緒にこの店に来たからだなんて言えない。
 それに光恵さんが私の様子に気付いてくれただけでもうれしかった。だからこれ以上の心配はかけたくない。
「そう?」
 光恵さんは首を傾げつつ、ポットにゆっくりとお湯を注いでいく。
 二つのポットにお湯を注ぎ終えたタイミングで、それをお盆に乗せてテーブルに運ぶ。それからすぐにカウンターに戻って残りの二つをテーブルに運んだ。
 そして光恵さんが四つのカップと砂時計をテーブルまで運んできた。
「砂時計が落ちきるまでちょっと待ってね」
 そう言って光恵さんはテーブルの真ん中に砂時計を置く。
 いつもならこうして待っている間に光恵さんと少し話をするけれど、今日はそれもできない。
 すると光恵さんは隣のテーブルから椅子を引き抜いて、私たちのテーブルの横に座った。
「他にお客さんもいないし、いいでしょう?」
 そう尋ねた光恵さんに、三人は笑顔で「はい」と返事をする。
「あ、あの、聞いてもいいですか?」
 そう言ったのは野崎さんだ。
「このお店って新規オープンですよね?」
「うん、そうだよ」
「失礼かもしれないんですけど、なんていうか年季が入った感じだから、ちょっと意外だったというか……」
 少し言いにくそうに尋ねた野崎さんはチラリと砂川さんと錦さんを見た。もしかしたら私が手伝いで席を外していたときに三人で話していたのかもしれない。
 光恵さんはその質問に特に気を悪くした様子もなく、ニコニコとしている。
「いい雰囲気でしょう? ここでカフェをやってた人が引退するって言ったから引き継いだの」
「ああ、そうだったんですね」
 野崎さんは納得したように頷いて改めて店内を眺める。
「少し改装してるんだけど、できるだけ元の雰囲気を残すようにしたんだよ」
「落ち着いた雰囲気で、草吹主任っぽい感じがしますね」
 そう言ったのは砂川さんだ。
「草吹主任がお花のアレンジメントをしてるんですか?」
 花のコーナーを眺めながら錦さんが質問した。
「うん、そうだよ」
「すごくかわいいですね~」
「ありがとう。実は在職中にずっとアレンジメントの勉強をしてたんだ」
 光恵さんは頬を紅潮させて笑みを浮かべる。花を褒められて本当にうれしそうだ。
 光恵さんが会社を辞めると聞いたときは本当にショックだったけれど、こうして楽しそうにしている光恵さんを見ると、これで正解だったのだと思う。
 砂時計が落ち、それぞれにハープティーを注いで飲みはじめた。
 口々にハーブティーの感想などを光恵さんに伝えていると、野崎さんが少し私に体を寄せて「大丈夫ですか?」と小声で聞いた。
 私は思わずビクッと体を震わせてしまった。野崎さんが心配そうな顔で私を覗き込んでいる。
「大丈夫です」
 私は野崎さんから目を逸らして小さな声で答えた。
 本当は大丈夫じゃない。
 そもそもの原因は野崎さんだ。野崎さんの家に泊ったとき『好き』なんて言わなければ、こんな風にモヤモヤした気持ちになることはなかった。
 困って相談したのに、雅さんや錦さんは何も教えてくれなかった。輝美ちゃんまで突然『好き』とか言い出して私を困らせた。
 そして私が心からホッとできる唯一の場所にみんなが踏み込んだ。
 大丈夫になりたいのに、全然大丈夫になれない。どうしたら大丈夫になれるのかもわからない。次々と色んなことが押し寄せて、私は息苦しかった。
「あ、ごめんなさい、もう閉店の時間を過ぎてましたね」
 砂川さんの声に時計を見ると、すでに閉店の時間を十五分も過ぎていた。
「久しぶりにみんなと話せてうれしかったからいいよー」
 光恵さんは笑顔を浮かべる。
 私はいち早く立ち上がって財布を広げた。そしてパッと目に留まったアレンジメントを一つもってレジに置く。
「陽ちゃん、また買ってくれるの? そんなにいつも買わなくてもいいよ?」
 レジに立った光恵さんが言う。私は首を横に振った。
「んー、やっぱりちょっと元気ないね?」
 光恵さんの問いに私は首を横に振る。声の出し方を忘れてしまったみたいに、何も言葉が出てこない。
 私がレジをしている背後では、他の面々がそれぞれに花を見て手に取っていた。
 私が会計を終えてレジを離れようとしたとき入口の扉が開いた。
「看板、クローズにしておいたよ」
 そう言いながら入ってきたのは用賀さんだった。そして店内にいる私たちの顔を見て、少し頬を引きつらせる。
「あ、しゅうちゃんおかえりー」
 満面の笑みで言う光恵さんに、用賀さんはさらに頬をひきつらせて「た、ただいま……」とつぶやくように言った。そして私たちの顔を見て「みんな来てたのね……」と無理やり笑みをつくる。
「用賀さんもいらっしゃったんですか? でももう閉店ですよ?」
 野崎さんが少し首を傾げながらきいた。
「ん? ええ、まぁ……」
 歯切れの悪い返事をする用賀さんに代わって光恵さんが答える。
「しゅうちゃんは閉店のお手伝いに来てくれてるの」
「閉店の手伝い?」
 野崎さんは選んだアレンジメントをレジに出しながら聞いた。
「お掃除とか、レジの集計とか」
「へー、そうなんですね」
 野崎さんは不思議な顔をしながら会計を済ませる。
「でも、仕事終わってからわざわざ来るの大変ですよね」
 次に聞いたのは砂川さんだ。
「ねー、私ひとりで大丈夫だって言うのに、しゅうちゃん信用してくれないの」
 光恵さんは少し頬をふくらませながら砂川さんの会計をする。
 光恵さんがカフェをオープンしてすぐ、私は用賀さんと一緒にこのカフェを訪れた。それでもそのときにはそんな話をしていなかった。あの日以降、そうすることになったのだろうか。私だって毎日のようにこの店に来ているのだから手伝うこともできたのに。そう思うとまた胸の奥で嫌な気持ちが湧いてきた。
 最後にレジに立ったのは錦さんだった。アレンジメントを二つ持っている。
「草吹主任と用賀さんは一緒に住んでるんですか?」
 軽い口調で尋ねる錦さんの言葉に一堂が注目した。そして光恵さんはそれまでと変わらず軽い口調で「うん、そうだよー」と答える。
 それから一拍おいて、右手で頭を抱えて俯く用賀さんに気付いた光恵さんが「あれ、まだ言っちゃダメだった?」と尋ねた。
「そ、それってどういうことですかっ!」
 誰よりも早く我に返って大声を上げたのは砂川さんだった。
 すると光恵さんはそれには答えず、様子を伺うように用賀さんを見る。用賀さんは諦めたようにフゥと小さく息を付いた。
「この店は元々私の祖母の店で、草吹主任のたっての希望で引き継いだものです」
 私以外の三人は興味深そうな顔で用賀さんの言葉に耳を傾けていた。だけど私はそれ以上聞きたくないと思っていた。胃が重苦しいし、なんだか背筋に冷たいものが走る。
「それでね、やっと一緒に住めることになったの」
 うれしそうに言ったのは光恵さんだった。
「同じ会社に勤めている間はダメだってしゅうちゃんが頑なだったから」
 光恵さんの言葉に、みんなそれぞれに驚きや感嘆の声を上げている。だけど私はそのことに驚きはしなかった。気付かないフリをしていただけで、私はずっと前から光恵さんと用賀さんがただの同僚以上に仲がいいことを知っていたような気がする。だけど知りたいと思わなかったから目を塞いでいた。
 光恵さんのことも用賀さんの好きだけど、それでもすごく嫌だった。何が嫌なのか分からないけれど、嫌だという気持ちが胸の奥から湧き出して止めることができない。
「私、帰ります」
 私は小声でなんとか言ったけれど、騒いでいるみんなの耳には届かなかったかもしれない。だけど私はこれ以上その場にいることができなくて店を飛び出した。
「矢沢さん!」
 そんな野崎さんの声が聞こえたような気がするけれど、私は振り向かずに前に進んだ。
 ずっと前から分かっていた。私は何かが欠落している。
 野崎さんのように笑えないのも、輝美ちゃんのように人と話ができないのも、光恵さんのように人にやさしくできないのも、全部私が不完全な人間だからだ。
 だから誰もが当たり前に知っている『好き』という気持ちがよく分からない。
 闇雲に走って息が切れてきて立ち止まったとき、私は自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。家に帰りたくて駅に向かっていたはずなのに、まったく違う場所に来てしまったようだ。
 もう走る気力もない。
 私は建物の隙間にしゃがみこんだ。もう何もかもが嫌だった。このまま消えてしまいたい。
「みーつけた」
 明るい声が頭の上からした。そっと顔を上げるとそこにいたのは錦さんだった。立ち上がって逃げようとした私の腕を錦さんが掴む。そして割れ物に触れるように柔らかく私を抱きしめた。
 光恵さんとは違う温かさと匂いがした。
「大丈夫ですよ」
 錦さんは言う。何が大丈夫なのかよく分からなかったけれど、なんだかとても安心できた。
「ごめんなさい」
 なぜか錦さんが謝る。その理由がよくわからない。
「私、矢沢さんのことがよくわかってなかったから、ちょっと追い詰めちゃったかなって思って」
「追い詰めた?」
 錦さんに抱き締められたまま会話が続く。
「雅がちょっと厳しいこと言っちゃったでしょう? 私が止めておくべきでした」
「それは……」
「雅のこと、許してあげてくださいね。長い間振り向いてもらえない人に片想いをしてたから、つい熱が入っちゃったんです」
「雅さんが? でも、錦さんと……」
「ふふっ、ちょっと複雑なんです」
 錦さんがクスクスと笑う振動が私に伝わる。
「それから、私は輝美のことを焚きつけちゃったから」
「焚きつけたって?」
「輝美から告白されたんじゃないんですか?」
「どうして知って……」
「やっぱり」
 錦さんは静かに私の体を離した。私はもう逃げる気がなくなっていたから、そのまま錦さんを見上げる。
「矢沢さんは不器用で恋愛経験が少なくて奥手なだけだと思ってたんですけど、ちょっとそれとは違うんじゃないですか?」
 私はどう答えていいのかわからなかった。自分でもよくわからないのだ。
「別に無理に誰かを好きになる必要なんてないんですよ」
「でも雅さんは……」
「相手の気持ちを無視して無かったことにしまうのと、向き合った結果お断りするのは全然違いますよ」
 だけど私には好きがわからない。だから向き合うことも出来ていないんじゃないかと思う。
「あと、そんなに焦る必要もないですよ」
 そうなのだろうか。
「焚きつけてる私が言っても説得力ないか」
 錦さんはさらにクスクスと笑った。何がおかしいのか私にはさっぱりわからない。
「私もちょっと焦ってたのかなぁ」
 錦さんはどこかぼんやりとした口調で言った。
「私、ずっと誰かを好きになることなんてなかったですよ。周りの人たちのこと、なんだか面倒くさいなって思ってましたし。雅のことを好きだなと思って……どうしてよりによって一番面倒くさそうな人を好きになっちゃったんでしょうね」
 その言葉はもう私に対して話し掛けているような感じではなかった。
「保育園で好きな人ができる人もいますし、一生好きな人ができない人もいます。だから焦ったり自分を追い詰めたりしないでください。そのままでいいんですよ」
 錦さんはそう言ったけれど、本当にこのままでいいとは思えない。私は人として何かが足りない。その足りない何かが多すぎる。
「それから、草吹主任がずっと心配そうにしてましたよ」
「あ……急に飛び出したから……」
 あの態度は良くなかったと思う。
「まぁ、それもそうなんですけど、みんなでお茶を飲んでる間も、ずっと心配そうに見てましたよ」
「え?」
 そういえば、私はずっと自分のカップしか見ていなかった。光恵さんが、みんなが、どんな表情をしていたのかを全く思い出せない。
 今から戻って光恵さんに謝った方がいいだろうかと考えたとき、錦さんが口に人差し指を当てて「しゃがんで静かにしていてください」と言って背を向けた。
 何が起きたのかわからなかったけれど、私はとりあえずその指示に従ってその場にしゃがみこむ。
「あ、日和さん」
 聞こえてきたのは野崎さんの声だった。私は野崎さんに見つからないように体をさらに小さくした。
「矢沢さん見た?」
「んー、見てないよ。もうお家に帰ったんじゃない?」
 錦さんは平然と嘘をついた。
「そっか、そうだよね……そうならいいんだけど」
「連絡はしてみたの?」
「それはまだだけど『無事に帰りましたか?』なんて送ってもいいのかな?」
「別にいいんじゃない?」
 私はドキドキしていた。携帯はマナーモードになっていただろうか。確かめたいけど無暗に動いたら野崎さんに見つかってしまいそうな気がする。
「いや、でもさ、なんだか今日の矢沢さん、様子がおかしかったし」
「んー? そうだった?」
 錦さんはまた平然と嘘をついた。錦さんだって私を心配して追いかけて来てくれたのだと思う。
 それに野崎さんにも心配をかけてしまった。
 でもそもそも、野崎さんが悪いのだ。野崎さんが私に『好き』だなんて言ったせいで……。本当にそうだろうか。野崎さんが悪いのだろうか。誰かに好きだと伝えることはいけないことなのだろうか。
 野崎さんの言った『好き』が私の考えていた『好き』とは違うかもしれないと思ったとき、私はどう感じていただろう。怒ってはいなかった。不快でもなかった。ただ、どうすればいいのか分からなかっただけだ。
 考えても分からなくて悩んでいたとき、輝美ちゃんからも『好き』だと言われた。それで苛立ってしまったのだ。
 仲良くなれたと思っていた人たちが、私の知らない話をはじめて、私だけがそれについていけなくて苦しかった。だから怒って、考えること自体を放棄した。
「どう見てもおかしかったでしょう? それに、今日は私のことを避けてたみたいな感じだったし……」
 ツキリと胸に痛みが走った。野崎さんは悪くないのに、野崎さんのせいにして避けていた。
「え~、避けられてたのは今日だけじゃないでしょう?」
「へ?」
「今週はずっと避けられてたんじゃない?」
「嘘……え? 本当に?」
「私にはそう見えたけど~」
「どうしよう。私、何かしたのかな?」
「ん? 雅のことで私に嫉妬してたこと?」
「ウグっ! べ、別に嫉妬とかじゃなくて、その……友だちだと思ってたのに教えてもらえなかったのが……」
「満月さんが矢沢さんに告白したこと?」
「なんで知って……って雅か……。でも矢沢さんは気付いてないと思うよ。それに今は、草吹主任のことで精神的にも大変だと思うし。あぁ、私は何やってたんだろう。雅のことなんて放っておいて、ちゃんと矢沢さんをサポートしなきゃいけなかったのに! 私、本当に馬鹿だ」
「そうだねー」
 錦さんはうれしそうな笑い声を立てながら相づちを打った。錦さんはもっとふわふわしてのんびりした人だと思ってたけれど、ちょっと違うようだ。錦さんにからかわれてうなだれている野崎さんの姿を想像したら少し面白いと思ってしまった。
「ねえ満月さん、矢沢さんに満月さんの気持ちがちゃんと伝わっていたとしたらどうするの?」
「どうするって……返事を聞くとか?」
 それは当たり前のことだと思う。だけど私はその返事自体をどうすればいいのかわからずにいる。
「じゃあ、OKだった?」
「うれしいに決まってるじゃん」
「断られたら?」
「それはショックだけど……。でも仕方ないよね」
「諦めるんだ」
「そういうことじゃなくて、矢沢さんの気持ちは矢沢さんのものでしょう。だから仕方ないじゃない。だけど私の気持ちは私のものだから、諦めることはないと思うよ。まだ出会って半年も経ってないからさ、もっと時間をかけて好きになってもらえるように努力すると思う」
「無理じゃない? 満月さんが努力なんて」
「一体雅からどんな風に聞いてるのさ!」
 野崎さんが叫ぶと、錦さんは楽しそうな笑い声をあげた。
「あともうひとつ聞いてもいい?」
 錦さんは少し真剣な声で言う。
「なに?」
「矢沢さんのどこを好きになったの?」
「なっ、なんでそんなことを教えなきゃいけないのっ」
「言えないの?」
「そうじゃないけど恥ずかしいじゃん」
「私には聞いたくせに」
 そういえばみんなで一緒に居酒屋に行ったとき、野崎さんがしつこいくらいに雅さんのどこを好きなのか聞いていたっけ。確かあのとき錦さんは雅さんの顔が好きだと言っていた。
 あの集まりは驚いたり戸惑ったりすることがあったけれど楽しかった。またあんな風に楽しい時間を過ごすことができるだろうか。
「う……。うぅ……。最初の頃は矢沢さんが何を考えているかよく分からなかったし、年下の先輩ってやりづらいと思ってたんだけど……」
 そうだ。野崎さんはあの居酒屋で雅さんにそんな話をしていた。私は少しでも野崎さんと仲良くなろうとして頑張ったけどうまくできなかった。それがどうして『好き』になるのだろう。
「合宿研修のときにさ、矢沢さん、すごくがんばってくれて。私の方が年上なのに、私は全然矢沢さんを助けられなくて……。ちゃんと話してみたら、私が矢沢さんのことを誤解してただけなんだって気付いたんだよ。一生懸命で、でも不器用でそんなところがかわいいなぁって……って、もういいでしょう! こんな話をしている場合じゃないんだって。私、もう一回駅まで見てくるから」
 野崎さんは最後に叫ぶような調子で言った。そして走り去る足音が私の耳に届く。
 その足音が聞こえなくなると錦さんがゆっくりと振り返った。
 錦さんは私に聞かせるために野崎さんにあれこれと質問をしたのだと思う。野崎さんの話を聞いても、私は自分がどうすればいいのかよくわからない。だけど、今日のように勝手に拗ねて考えないようにするのは違うということだけはわかった。
「これからどうしますか?」
 錦さんが私に手を差し出す。私はその手を取って立ち上がった。
「えっと……」
 今から駅に向かったら野崎さんと鉢合わせをしてしまいそうな気がする。今はまだ、自分の頭の中を整理する時間が欲しい。
「私、このお花を雅の家に届けるつもりなので、よかったら一緒に帰りますか?」
「いえ……もう一度光恵さんのお店に行こうと思います。まだお店にいるかは分からないですけど」
「それじゃあお店の前まで送りますよ」
 そう言って錦さんは私の手を引いて歩き出そうとする。
「あ、いえ、ひとりで大丈夫です」
「お店までの道、わかりますか?」
 闇雲に走ってここまできたから、ここがどこなのかわからない。だけど錦さんや野崎さんが現れたのだから、店からさほど離れてはいないだろう。
「スマホで調べれば……」
「調べるより私が案内した方が早いですよ」
 錦さんはそう言ってグイッと私の手を引っ張った。私はそれ以上断ることもできなくて足を進めることにした。
 なぜか錦さんは私の手を放してくれなかったので、手をつないだ状態で光恵さんの店へと向かった。
「草吹主任のようにはできませんけど、私も話を聞くくらいはできますからいつでも言ってくださいね」
 錦さんはニコニコと笑いながら言う。
「えっと……どうして……」
 今まで錦さんとちゃんと話したことはない。どちらかといえば、錦さんはあまり私に近寄ろうとしなかった印象がある。
「んー、ちょっとかき混ぜ過ぎたかなぁって反省しました。あと、思ったより矢沢さんのことが好きだったからですね」
「好き?」
「はい。でも恋愛的な好きじゃありませんよ。今のところ、私は雅のことが好きですし」
「はい」
 私も錦さんのことが好きだと思った。それが恋愛的な好きではないということはわかる。こうした好意と恋愛とはどう違うのだろう。
 錦さんはそれを知っている。そして光恵さんや用賀さん、野崎さんも輝美ちゃんも知っている。私だけが知らないことが苦しい。
 だけど錦さんはこうして私の手を引いてくれる。苦しいけれど逃げるのだけは止めよう。
 そんなことを考えている間に『カフェ&フラワー クローゼット』が見えてきた。お店にはまだ明かりがついている。
 その明かりを見たら、なんだかとてもホッとした。
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