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season3-2:変化の兆し(viewpoint陽)
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ズキンズキンと脈打つように痛む頭と喉の渇きで目が覚めた。
見上げる天井が違う。くるまっている布団が違う。私を包み込む香りが違う。
ゆっくりと顔を振って辺りを見回す。目に入るすべてのものに見覚えが無かった。
私は右手で頭を押さえながら体を起こす。布団がはがれ落ちると空気が直接肌に触れるのを感じた。自分の体を見下ろすとブラジャーをつけているだけの半裸の上半身が見える。
これは一体どういう状況だろう。私は痛む頭を指先で軽く揉むようにして昨夜の記憶を辿った。
昨夜は会社帰りに野崎さんに誘われて夕食を一緒に食べた。そのときにいつも以上にお酒を飲んだ。モスコー・ミュールがおいしかったし、何より酔いたい気分だった。
以前、野崎さんからアルコール度数がビールより高いから気を付けた方がいいと聞いていたのに、その忠告を守らずに調子に乗って飲んだ。
草吹主任から会社を辞めることを聞いた。とてもショックだった。辞めてほしくない。まだ一緒にいたい。だけどそれを言ったら草吹主任を困らせてしまうから言葉にすることができなかった。
だからお酒を飲んで忘れてしまいたかった。
そこまで考えたところで、ふと引っかかるものを感じた。
言葉にできないと思っていたはずなのに、草吹主任に「辞めないで」と伝えたような気がする。夢だったのだろうか。
私は目を閉じて、さらに昨夜のことを回想した。
お酒を飲んで気分が良くなった私は、いつもよりもいっぱい話をしたような気がする。そのうち野崎さんが「帰りましょう」と言った。
私はまだ飲み足りなかったからもう一軒行こうと誘った。
そういえば食事代を支払った記憶がない。今度野崎さんにちゃんと支払おう。
ともかくお店を出てもう一軒行きたいと野崎さんに言ったら、野崎さんは困った顔で家まで送ると言ってくれたはずだ。
本当に野崎さんに迷惑をかけてしまったようだ。
その後、草吹主任に抱きついて辞めないでほしいと伝えた。
おかしい。どうして突然草吹主任が出てくるのだろう。野崎さんが呼んだのだろうか。
そういえばここはどこだろう。
私は記憶を辿るのを中断して目を開ける。そして慎重に部屋の中を見渡した。
壁際に小さなテレビがある。その前にはいくつものDVDが積み上がっていた。テレビが見にくそうだ。
テレビボードにはぬいぐるみや人形、お土産品っぽものが無造作に並べてあった。
その横の小さな本棚には漫画の本が詰め込まれている。入り切らなかったからか、縦やら横やらにしてぎっしりと詰まっている。
部屋の中央にあるローテーブルの上には飲みかけのペットボトルや雑誌が乱雑に置かれていた。
そして床にはいくつかの服が散らばっていて、その中に昨夜私が着ていた服も混ざっていた。
その横に大きな芋虫のような物体がある。少し体をずらしてその芋虫を覗き込み、毛布にくるまった野崎さんだと確認した。
そうだ。野崎さんは酔っぱらった私を野崎さんの家に連れてきて介抱してくれた。
「シワになるから上着だけでも脱ぎましょうか」
野崎さんにそう言われて私は服を全部脱ぎ捨てて放り出した。野崎さんが慌てていたのを覚えている。
下着姿でお酒を要望した私に野崎さんは「寝ましょう、ベッド使ってください」とベッドを勧めてくれたのだ。
つまり私がベッドを占領してしまったから野崎さんは芋虫のように床に転がっているのだろう。
恥ずかしさと申し訳なさで頭がさらにズキズキと痛む。
野崎さんはベッドを占領した私に怒ることもなく、クレンジングシートで化粧まで落としてくれた。顔を拭いてもらっていたら気持ちよくなってきて私はそのまま眠ってしまったのだ。
昨夜の出来事をきれいに思い出して、私が「辞めないで」と抱き着いていた相手が草吹主任ではなかったことも思い出した。なぜだか野崎さんのことが草吹主任に見えたのだ。
お酒は怖いという噂を聞いたことがあるけれど、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。自分で自分をコントロールできなくなるなんてはじめての経験だった。
私が両手で顔を覆って恥ずかしさと自己嫌悪に打ちひしがれていると「大丈夫ですか?」という声が聞こえた。
いつの間にか野崎さんも起きていたようだ。体を起こして床の上に座ったまま私を心配そうに見上げている。
「おはようございます」
私が言うと野崎さんも慌てて「おはようございます」と返した。
「吐き気とかないですか?」
「はい。ちょっと頭が痛いですけど……」
私の言葉に野崎さんはホッとしたように笑みを浮かべた。床でごろ寝をしていたからか、髪の毛が右側だけ跳ね上がっている。
「ベッドを占領してしまってすみません」
「いえ、全然大丈夫です。いくらでも使って下さい」
そう言って立ち上がった野崎さんは私を改めて見ると急にワタワタと慌てだした。
「うわっ、下着、あ、何もしてませんからっ」
私は野崎さんが何をそんなに慌てているのかよくわからない。女性同士だし下着姿を見られるくらいは平気だ。
私が少し首を傾げると「あの、服がシワになるから……」と野崎さんが言う。服を脱いだ経緯を説明しようとしてくれているようだ。
「はい」
一応返事をしたけれど、なぜそんな説明をするのか分からない。
しばらく私の顔をジッと見ていた野崎さんは「もしかして、昨夜のこと、覚えてます?」と聞いた。
「はい」
「覚えて……うっ、くぅ……よかったぁ」
野崎さんはやけに力を込めて言う。酔って記憶を無くすことがあるという話を聞いたことがある。私がそうならなかったことをこんなに心配してくれるなんてやっぱり野崎さんはいい人だ。
「化粧まで落としてもらって。本当に何から何まですみません」
「眠りかかってましたけど、それも覚えてるんですか?」
「はい」
私の返事を聞いた野崎さんは「ほはぁ~」と大きな息をついた。
「あ、あの状態で記憶があるなんて、矢沢さんはお酒が強いんですね」
「そうでしょうか」
昨夜は前後不覚になっていたのだからお酒が強いとは言えないような気がする。
「あ、服! 昨日のはアレなんで、とりあえず私のTシャツでも……あっ、そ、そうだ! 喉乾いてますよね。水、水持ってきます。あと、一応二日酔いの薬も」
そうして野崎さんはバタバタと慌てた様子で水や着替えを渡してくれた。
野崎さんが用意してくれたペットボトルの水を飲むと、一気に喉が潤っていく。喉だけではなくて細胞のひとつひとつが水分を吸って蘇っていくようだ。
「本当にご迷惑をかけてしまってすみませんでした」
野崎さんから借りた服を着てベッドから降りた私は改めて謝罪した。
「いえ、全然いいんですけど……。あの、どうしてあんな無茶な飲み方をしたのか、聞いてもいいですか?」
野崎さんはそう言うと神妙な顔で私を見た。教えたくないと言えば野崎さんはこれ以上追求することはないと思う。
恥ずかしい失態だし、その理由を説明するのも恥ずかしいけれど、あれだけ迷惑をかけて「教えたくない」なんて許されないような気がした。
それに野崎さんなら私のことを馬鹿にしたりしないと思う。
「あの……み、草吹主任が会社を辞めると聞いて、それがショックで……」
草吹主任が会社を辞めるのが寂しくて荒れていたなんて、本当に子どもみたいで恥ずかしい。
「やっぱり……」
野崎さんは昨夜の私の態度から察していたのか特に驚く様子はなかった。
「情けないですよね、それくらいのことで取り乱すなんて……」
「いえ、そんなことないですよ。大切な人と離れるのは寂しいですから」
野崎さんはそう言って笑ってくれた。やっぱり野崎さんは私なんかよりもずっと大人だなと思う。
すると野崎さんが突然モジモジしはじめた。
「えっと、あの……もしかして、矢沢さんは……草吹主任のことが、好き、なんですか?」
草吹主任は大切で大好きな人だ。それは草吹主任が会社を辞めたとしても変わらない。
「はい」
私が素直に返事をすると、野崎さんが突然床に手を付いてうなだれてしまった。何か間違った返事をしただろうか。
「あの、野崎さん?」
「あ、いえ、大丈夫です、すみません。そうですよね、好きですよね、アハハ」
なんだか乾いた笑いを浮かべて野崎さんが言った。
上司のことを離れたくないほど好きなんていうのはおかしいおかもしれない。
「草吹主任は私が小学生のころの教育実習の先生なんです」
「え?」
「あの頃は、今よりもずっと人と話すのが苦手で……でも先生、草吹主任だけはちゃんと聞いてくれて」
「そうだったんですか」
「教育実習が終わってからもずっと私のことを気に掛けてくれていて。だから一緒に働けるのがすごくうれしくて。ちゃんと成長してることを見てもらいたくて」
「えっと、それってもしかして、家族みたいな感じですか? お母さん……じゃないか、お姉さんみたいな?」
野崎さんにそう問われてもピンとこなかった。私の家族は私に無関心だ。草吹主任とは全然違う。だけど野崎さんが言おうとしたことは理解できた。
「そうですね、本当の家族以上に家族のような人です」
「ほぅ、そっか、そうなんですね。よかったぁ」
「よかった?」
私が首を傾げると野崎さんは両手を振って「いえ、違うんです」と慌てた。
「えっと、あの、そういう存在なら寂しいのも仕方ないというか、当然だと思いますよ!」
野崎さんが力強く言ってくれたのでなんだか私の気持ちも少し軽くなる。
「それにほら、草吹主任のことだから、辞める理由もネガティブなことじゃなくて、ポジティブなことですよね?」
私は驚いて野崎さんの顔を見る。野崎さんはキョトンとした顔で私を見返した。
「草吹主任が辞める理由?」
私はその理由を聞いていない。聞こうともしなかった。草吹主任が辞めるという事実に驚き、悲しくてそこに思い至れなかった。自分の想いだけでいっぱいになっていた。
「理由……知りません……」
そう言葉にしたところで私は慌てて俯いた。なんだか涙が出そうだったからだ。
草吹主任ともっと一緒にいたいという自分の気持ちばかりで、草吹主任の門出を祝うことができないなんて最低だと思った。
「え? あの、どうしたんです?」
野崎さんの慌てたような声が聞こえたけれど、私は声を出すことも顔を上げることもできない。少しでも動いたらきっと本当に涙が出てしまう。
すると急に視界の端に影が落ちた。そして次の瞬間、やわらかな何かが私に当たり体が温かさに包まれる。野崎さんが私を抱きしめていた。
「あの、大丈夫です。えっと、私がいますから。草吹主任の代わりには全然足りないと思いますけど、その……」
そして野崎さんの腕にキュッと力が込められる。
「私、矢沢さんが好きです」
そこまで言うと矢沢さんはゆっくりと私の体を離した。こぼれそうになっていた涙はすっかり引っ込んでしまった。
「ありがとうございます」
私は言う。
「本当に野崎さんはやさしいですね」
「え、あ、え?」
「野崎さんと仲良くなれてよかったです」
「あ、はい……」
「草吹主任のことは寂しいですけどがんばります。いつまでも甘えてちゃいけないですよね」
「あ、そう、ですか……そうですね」
野崎さんは少し頬を引きつらせたような笑みを浮かべた。また何か変なことを言ってしまったのだろうか。
野崎さんに話を聞いてもらって気持ちがスッキリしていた。草吹主任が辞めることはやっぱり寂しい。だけどそんなことばかりを言ってはいられない。
草吹主任に辞めた後どうするのかを聞いたら、ずっと夢だったカフェを開くのだと言っていた。
野崎さんの言った通り、草吹主任は次の目標に向かって前進するために会社を辞めるのだ。
だったら私は笑顔で草吹主任を見送りたい。
草吹主任は間もなく退職することを他の社員たちにも公表した。
みんな残念がっていたけれど、中でも砂川さんがとてもショックを受けていたようだった。野崎さんは砂川さんを必死で慰めていた。
やっぱり野崎さんはやさしい人なのだなと思う。そして草吹主任がみんなに慕われていたことを確認してうれしくなった。
私は大人として成長できている姿見せて、草吹主任に安心してもらえるように、今まで以上に仕事をがんばることにした。
それに、いざというときにはきっと野崎さんが助けてくれる。それがとても心強い。
そんなある金曜日。
野崎さんが片付けをはじめたのを確認して声を掛ける。
「あ、あの、今日は時間ありますか? よかったら食事でも……」
野崎さんには本当にお世話になりっぱなしだ。そのお礼がしたかった。それに野崎さんをランチや夕食に誘おうと思っていたのに、これまで一度も誘えていない。草吹主任が会社を去るまでにぜひとも実行しておきたかった。
野崎さんは目を丸くして私を見た後、満面の笑みを浮かべて「よろこんで!」と居酒屋の店員さんのように元気な返事をしてくれた。
そうして二人で会社を出ようとしたとき、野崎さんが「あっ」と声を上げた。
「いかん、今日は雅と約束してたんだった」
「雅さん? 野崎さんの大学のお友だちですか?」
「はい」
「それなら、私は別の日でも……」
「いえ、大丈夫です。多分。それに待ち合わせの場所、矢沢さんのいきつけのあの居酒屋なんですよ」
「そうなんですか」
「私と食事しなくても、矢沢さん、あそこにいきますよね?」
「はい」
「だったら同じことなので、きっと大丈夫です」
野崎さんは納得したように笑った。雅さんとは一度同席をしたことがあるがちゃんと話したことはない。苗字は何だっただろう。野崎さんが「雅」と呼んでいるので、つい「雅さん」と言ってしまったが、ほとんど初対面の人をそんな風に呼ぶのは失礼かもしれない。
野崎さんに雅さんの苗字を聞こうとしたとき「今日は二人で帰るんですか?」と錦さんが歩み寄ってきた。
「ああ、うん。これから食事でもってことになって」
「えー、いいなぁ。私も一緒に行っていいですか?」
錦さんは野崎さんではなくて私を見て言った。多分、私の方が会社では先輩だからだろう。
「野崎さんがいいのなら」
すると野崎さんは顔をしかめて考える仕草をしてから「ま、いっか」とつぶやいた。
「んじゃ、日和さんも一緒に行こう」
野崎さんがそう言うと、錦さんは笑顔で「わーい」と言うと野崎さんの腕に抱きついた。
野崎さんは本当にすごいと思う。人と話すのが苦手な私とも気さくに接してくれるし、同期の錦さんや一年上の砂川さんとも仲がいい。入社してたった半年程度なのに色んな人と仲良くなっている。
私も野崎さんを見習ってもっと人と接するようにしよう。そうしたら草吹主任も喜んでくれるはずだ。
三人で連れ立っていつもの居酒屋に行く。
いつもは一人なのでカウンター席だが、今日は皆で来ているのでテーブル席だ。
野崎さんが「あとで二人来るはずなので……」と言ったので、六人掛のテーブルに案内された。
野崎さんに勧められて私は奥の席に座り、錦さんに勧められて野崎さんが私の隣に座った。そして錦さんは私の正面の席に座る。
野崎さんが雅さんの到着を待つ必要はないと言ったので、オーダーを聞きに来た店員さんに三人分の飲み物を注文した。野崎さんはモスコー・ミュールではなくシャンディー・ガフという飲み物を頼んでいた。私はこの間飲み過ぎて反省したのでいつも通りビールを頼み、錦さんはウーロンハイをオーダーした。
「野崎さん、シャンディー・ガフってどんなものですか?」
「えっと、ビールのジンジャーエール割りなんです。見た目はビールっぽいですよ」
「へー、満月さんってオシャレなお酒知ってるんだねー」
「この間、雅に教えてもらったばっかりなんだけど、軽くて飲みやすいから気に入っちゃって」
「そうなんだー」
錦さんはニコニコと笑って野崎さんを見ている。
私もなんだかシャンディー・ガフというお酒が気になってきた。
ビールを薄めるのだからアルコール度数は低いのだろう。少し飲んでみたい。心の中で二杯目にはそれをオーダーしようと決める。
「そういえば輝美ちゃんはいないんですね」
野崎さんが店内をグルっと見回して言った。
「大学が忙しいみたいで、最近はあまりバイトに入っていないんです」
輝美ちゃんと一緒にご飯を食べてから、バイトに入っているのを見掛けたのは一度だけだ。そのときに連絡先を交換したのだけれど、特に輝美ちゃんから連絡はない。
就活はうまくいっているのだろうか。毎日のように顔を合わせていたから、お店に入って輝美ちゃんの声が聞こえないのは寂しいと感じる。
きっと草吹主任が会社を去った後もこんな気持ちになるのだろう。
ついついそんなことを考えて気持ちが暗くなってしまった。そのときオーダーしていた飲み物が届いたので三人で乾杯をする。
「今日、本当に私たちも同席していいんですか?」
念のためにもう一度野崎さんに確認してみた。
「ああ、雅ですか? 大丈夫……大丈夫かな? 多分……あ、どうだろう……」
野崎さんが急にしどろもどろになる。
「どういった用件なんですか?」
ただ一緒に飲もうというだけならば野崎さんがそんな返事をするとは思えない。
「えっと、雅が恋人を紹介してくれることになってて……」
「それは私と錦さんは席を外した方がいいんじゃないですか?」
そんなプライベートな席に無関係な人間が参加していいとは思えない。
「そ、そうですかね……あ、日和さんは知らないよね。雅っていうのは私の大学時代の友だちでね……」
野崎さんが錦さんに雅さんの説明をしようとしたとき「いらっしゃいませー」という店員さんの声が響く。入り口に目をやると雅さんの姿が見えた。
雅さんはすぐに私たちに気付いて表情を変えることなく私たちの座るテーブルに歩み寄った。
雅さんの後ろにはなぜか輝美ちゃんの姿がある。
「雅さんと、輝美ちゃん?」
不思議な組み合わせだけど、雅さんもこの近くに住んでいると言っていたからこのお店にも良く来ているのかもしれない。
「え? ええー!」
野崎さんが中腰になって叫んだ。
「満月、うるさい。迷惑」
雅さんは冷たい視線を野崎さんに送ると空いていた錦さんの隣の席に座った。
そして輝美ちゃんは野崎さんの隣と雅さんの隣を見比べて「うぐ」と喉をならしてから雅さんの隣に座った。
「ちょ、ちょ、説明してよ。雅の恋人って、輝美ちゃんなの?」
野崎さんが前のめりになって言う。
「そんな訳ないでしょう」
答えたのは輝美ちゃんだった。
「へ?」
首を捻る野崎さんをよそに、雅さんは片手を上げて店員さんを呼ぶ。
「私、ウーロンハイ、輝美ちゃんは?」
「えっと……ビールにします」
「料理は頼んだの?」
雅さんが野崎さんに聞く。
「あ、まだ」
「じゃあ、輝美ちゃんが適当に頼んで。メニューはよく知ってるでしょう?」
「人使い荒っ、分かりましたよ」
そう言って少し膨れながらも、輝美ちゃんは店員さんにいくつかの料理を注文した。
そうして一息ついたところで野崎さんがハッと思い出したように雅さんを見た。
「それで、どうして輝美ちゃんと一緒なの?」
「お店の前でウロウロしてたから誘った」
「いやぁ、バイトは入ってなかったんですけど、陽さんがいるかな? って思ってちょっと寄ったんです」
輝美ちゃんは私を見て笑みを浮かべる。なんだか久しぶりに見る輝美ちゃんの笑顔はホッとする。
「じゃあ、恋人は都合が悪くなったの? それとも遅れてくるの?」
私はハッとした。雅さんが来る前に席を外そうと思っていたのにタイミングを逸してしまった。今からでも席を外した方がいいだろうか。
「おまたせしました」
店員さんが雅さんと輝美ちゃんのお酒をテーブルに置いた。
「とりあえず喉が渇いた。乾杯する?」
野崎さんは納得できないような顔をしたままグラスを持ち上げた。そうして私たちは二回目、雅さんと輝美ちゃんははじめての乾杯をする。
なんだかこうして見回すと不思議なメンバーが集まっている。こんな風にたくさんの人で飲み会をしたことははじめてかもしれない。
野崎さんが入社する前にもたまに草吹主任に誘ってもらって、用賀さんと三人で飲みに行ったことはある。でもそれくらいだ。
野崎さんと出会って、私のまわりは確かに変化していた。
雅さんがウーロンハイをグビリとのんでコップを置くのを見届けて野崎さんが改めて聞く。
「で、どうなの? 意地悪してないで教えてよ」
「あ、あの……」
私は頑張ってその会話に入った。
「私たち、席を外しましょうか?」
雅さんは私の顔をチラリと見ると微笑みながら「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ」と言った。
野崎さんは「ねぇ、みやびー」と子どものように駄々をこねている。やっぱり同級生の前だと私の前とは少し違うんだなと思いながらその横顔を眺める。
「だから、いるじゃない」
雅さんが言う。
「いる? どこに?」
野崎さんは慌てて店内を見回した。すると雅さんがケタケタと笑い出す。
「どこ見てるの? 目の前にいるでしょう?」
そう言って雅さんは隣に座る日和さんを見た。それまで黙っていた日和さんは雅さんをチラリと見てクスクスと笑いはじめる。
「え? え? え? どういうこと?」
野崎さんは雅さんと日和さんを交互に指さして戸惑いの声を上げた。さすがに私も驚いてしまった。
雅さんの恋人は日和さん。恋人というのは私が理解している恋人という意味で正しいはずだ。つまり二人は女性同士でお付き合いをしているということになる。
世の中に同性のカップルがいることは知っていたけれど、こうして知り合いから同性の恋人を紹介されたのははじめてだ。
「どういうことって、日和が私の恋人なんだよ」
そう言うと雅さんは錦さんの肩を抱き寄せた。
「うふふ、満月さん、驚いた?」
錦さんは満足そうな笑顔を浮かべて野崎さんを見る。
「驚くよ、驚くに決まってるじゃん。いつの間にそういうことになったの?」
「日和とは大学の頃から付き合ってるよ」
「そう、だから会社で満月さんと会ってびっくりしちゃった」
「なにそれ! なんで私、知らないの?」
「そんなの言ってないからじゃない」
「えー、ひどいよー」
うれしそうに笑う雅さんと日和さんに、野崎さんは涙目で抗議をしている。
そんな野崎さんの横顔を見ながら何かが心の奥に引っかかった。
「えーっと、あのー」
輝美ちゃんが軽く右手を挙げて話をさえぎった。
「話は一旦落ち着いた感じ? 席替えがしたいんですけど」
「席替え? 日和の隣は譲らないよ?」
「誰がそこの間に入りたいって言った? あんたのことが苦手だからあんたの隣が嫌なの」
そう言って輝美ちゃんはクルリと首を振って私を見る。
「陽さんの隣がいい」
すると野崎さんが「矢沢さんの隣は譲らない!」と叫んだ。
「だから、あんたが奥に行けばいいでしょう」
「あ、そうか」
野崎さんはすぐに納得したようで「席替えいいですか?」と私に聞いた。
私はそれに頷いて席を立つ。
しかし移動をしようとしたとき、椅子の足につまずいてバランスを崩してしまった。それを野崎さんが支えてくれる。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
そのとき急に胸の奥に引っかかっていた何かが取れた気がした。
野崎さん、私、輝美ちゃんという並びに変わり、みんなで色々な話をする。
賑やかな会話は私の耳に確かに届いていたけれど、頭の中は別のことでいっぱいになっていた。
もしかして、この間の野崎さんが言ってくれた「好き」は会社の先輩としてとか、会社の同僚としてという意味の「好き」とは違うものだったのだろうか。
私はそっと野崎さんの横顔を伺う。
野崎さんはまだ納得しきれない顔で雅さんから日和さんとの馴れ初めを聞き出そうとしていた。
見上げる天井が違う。くるまっている布団が違う。私を包み込む香りが違う。
ゆっくりと顔を振って辺りを見回す。目に入るすべてのものに見覚えが無かった。
私は右手で頭を押さえながら体を起こす。布団がはがれ落ちると空気が直接肌に触れるのを感じた。自分の体を見下ろすとブラジャーをつけているだけの半裸の上半身が見える。
これは一体どういう状況だろう。私は痛む頭を指先で軽く揉むようにして昨夜の記憶を辿った。
昨夜は会社帰りに野崎さんに誘われて夕食を一緒に食べた。そのときにいつも以上にお酒を飲んだ。モスコー・ミュールがおいしかったし、何より酔いたい気分だった。
以前、野崎さんからアルコール度数がビールより高いから気を付けた方がいいと聞いていたのに、その忠告を守らずに調子に乗って飲んだ。
草吹主任から会社を辞めることを聞いた。とてもショックだった。辞めてほしくない。まだ一緒にいたい。だけどそれを言ったら草吹主任を困らせてしまうから言葉にすることができなかった。
だからお酒を飲んで忘れてしまいたかった。
そこまで考えたところで、ふと引っかかるものを感じた。
言葉にできないと思っていたはずなのに、草吹主任に「辞めないで」と伝えたような気がする。夢だったのだろうか。
私は目を閉じて、さらに昨夜のことを回想した。
お酒を飲んで気分が良くなった私は、いつもよりもいっぱい話をしたような気がする。そのうち野崎さんが「帰りましょう」と言った。
私はまだ飲み足りなかったからもう一軒行こうと誘った。
そういえば食事代を支払った記憶がない。今度野崎さんにちゃんと支払おう。
ともかくお店を出てもう一軒行きたいと野崎さんに言ったら、野崎さんは困った顔で家まで送ると言ってくれたはずだ。
本当に野崎さんに迷惑をかけてしまったようだ。
その後、草吹主任に抱きついて辞めないでほしいと伝えた。
おかしい。どうして突然草吹主任が出てくるのだろう。野崎さんが呼んだのだろうか。
そういえばここはどこだろう。
私は記憶を辿るのを中断して目を開ける。そして慎重に部屋の中を見渡した。
壁際に小さなテレビがある。その前にはいくつものDVDが積み上がっていた。テレビが見にくそうだ。
テレビボードにはぬいぐるみや人形、お土産品っぽものが無造作に並べてあった。
その横の小さな本棚には漫画の本が詰め込まれている。入り切らなかったからか、縦やら横やらにしてぎっしりと詰まっている。
部屋の中央にあるローテーブルの上には飲みかけのペットボトルや雑誌が乱雑に置かれていた。
そして床にはいくつかの服が散らばっていて、その中に昨夜私が着ていた服も混ざっていた。
その横に大きな芋虫のような物体がある。少し体をずらしてその芋虫を覗き込み、毛布にくるまった野崎さんだと確認した。
そうだ。野崎さんは酔っぱらった私を野崎さんの家に連れてきて介抱してくれた。
「シワになるから上着だけでも脱ぎましょうか」
野崎さんにそう言われて私は服を全部脱ぎ捨てて放り出した。野崎さんが慌てていたのを覚えている。
下着姿でお酒を要望した私に野崎さんは「寝ましょう、ベッド使ってください」とベッドを勧めてくれたのだ。
つまり私がベッドを占領してしまったから野崎さんは芋虫のように床に転がっているのだろう。
恥ずかしさと申し訳なさで頭がさらにズキズキと痛む。
野崎さんはベッドを占領した私に怒ることもなく、クレンジングシートで化粧まで落としてくれた。顔を拭いてもらっていたら気持ちよくなってきて私はそのまま眠ってしまったのだ。
昨夜の出来事をきれいに思い出して、私が「辞めないで」と抱き着いていた相手が草吹主任ではなかったことも思い出した。なぜだか野崎さんのことが草吹主任に見えたのだ。
お酒は怖いという噂を聞いたことがあるけれど、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。自分で自分をコントロールできなくなるなんてはじめての経験だった。
私が両手で顔を覆って恥ずかしさと自己嫌悪に打ちひしがれていると「大丈夫ですか?」という声が聞こえた。
いつの間にか野崎さんも起きていたようだ。体を起こして床の上に座ったまま私を心配そうに見上げている。
「おはようございます」
私が言うと野崎さんも慌てて「おはようございます」と返した。
「吐き気とかないですか?」
「はい。ちょっと頭が痛いですけど……」
私の言葉に野崎さんはホッとしたように笑みを浮かべた。床でごろ寝をしていたからか、髪の毛が右側だけ跳ね上がっている。
「ベッドを占領してしまってすみません」
「いえ、全然大丈夫です。いくらでも使って下さい」
そう言って立ち上がった野崎さんは私を改めて見ると急にワタワタと慌てだした。
「うわっ、下着、あ、何もしてませんからっ」
私は野崎さんが何をそんなに慌てているのかよくわからない。女性同士だし下着姿を見られるくらいは平気だ。
私が少し首を傾げると「あの、服がシワになるから……」と野崎さんが言う。服を脱いだ経緯を説明しようとしてくれているようだ。
「はい」
一応返事をしたけれど、なぜそんな説明をするのか分からない。
しばらく私の顔をジッと見ていた野崎さんは「もしかして、昨夜のこと、覚えてます?」と聞いた。
「はい」
「覚えて……うっ、くぅ……よかったぁ」
野崎さんはやけに力を込めて言う。酔って記憶を無くすことがあるという話を聞いたことがある。私がそうならなかったことをこんなに心配してくれるなんてやっぱり野崎さんはいい人だ。
「化粧まで落としてもらって。本当に何から何まですみません」
「眠りかかってましたけど、それも覚えてるんですか?」
「はい」
私の返事を聞いた野崎さんは「ほはぁ~」と大きな息をついた。
「あ、あの状態で記憶があるなんて、矢沢さんはお酒が強いんですね」
「そうでしょうか」
昨夜は前後不覚になっていたのだからお酒が強いとは言えないような気がする。
「あ、服! 昨日のはアレなんで、とりあえず私のTシャツでも……あっ、そ、そうだ! 喉乾いてますよね。水、水持ってきます。あと、一応二日酔いの薬も」
そうして野崎さんはバタバタと慌てた様子で水や着替えを渡してくれた。
野崎さんが用意してくれたペットボトルの水を飲むと、一気に喉が潤っていく。喉だけではなくて細胞のひとつひとつが水分を吸って蘇っていくようだ。
「本当にご迷惑をかけてしまってすみませんでした」
野崎さんから借りた服を着てベッドから降りた私は改めて謝罪した。
「いえ、全然いいんですけど……。あの、どうしてあんな無茶な飲み方をしたのか、聞いてもいいですか?」
野崎さんはそう言うと神妙な顔で私を見た。教えたくないと言えば野崎さんはこれ以上追求することはないと思う。
恥ずかしい失態だし、その理由を説明するのも恥ずかしいけれど、あれだけ迷惑をかけて「教えたくない」なんて許されないような気がした。
それに野崎さんなら私のことを馬鹿にしたりしないと思う。
「あの……み、草吹主任が会社を辞めると聞いて、それがショックで……」
草吹主任が会社を辞めるのが寂しくて荒れていたなんて、本当に子どもみたいで恥ずかしい。
「やっぱり……」
野崎さんは昨夜の私の態度から察していたのか特に驚く様子はなかった。
「情けないですよね、それくらいのことで取り乱すなんて……」
「いえ、そんなことないですよ。大切な人と離れるのは寂しいですから」
野崎さんはそう言って笑ってくれた。やっぱり野崎さんは私なんかよりもずっと大人だなと思う。
すると野崎さんが突然モジモジしはじめた。
「えっと、あの……もしかして、矢沢さんは……草吹主任のことが、好き、なんですか?」
草吹主任は大切で大好きな人だ。それは草吹主任が会社を辞めたとしても変わらない。
「はい」
私が素直に返事をすると、野崎さんが突然床に手を付いてうなだれてしまった。何か間違った返事をしただろうか。
「あの、野崎さん?」
「あ、いえ、大丈夫です、すみません。そうですよね、好きですよね、アハハ」
なんだか乾いた笑いを浮かべて野崎さんが言った。
上司のことを離れたくないほど好きなんていうのはおかしいおかもしれない。
「草吹主任は私が小学生のころの教育実習の先生なんです」
「え?」
「あの頃は、今よりもずっと人と話すのが苦手で……でも先生、草吹主任だけはちゃんと聞いてくれて」
「そうだったんですか」
「教育実習が終わってからもずっと私のことを気に掛けてくれていて。だから一緒に働けるのがすごくうれしくて。ちゃんと成長してることを見てもらいたくて」
「えっと、それってもしかして、家族みたいな感じですか? お母さん……じゃないか、お姉さんみたいな?」
野崎さんにそう問われてもピンとこなかった。私の家族は私に無関心だ。草吹主任とは全然違う。だけど野崎さんが言おうとしたことは理解できた。
「そうですね、本当の家族以上に家族のような人です」
「ほぅ、そっか、そうなんですね。よかったぁ」
「よかった?」
私が首を傾げると野崎さんは両手を振って「いえ、違うんです」と慌てた。
「えっと、あの、そういう存在なら寂しいのも仕方ないというか、当然だと思いますよ!」
野崎さんが力強く言ってくれたのでなんだか私の気持ちも少し軽くなる。
「それにほら、草吹主任のことだから、辞める理由もネガティブなことじゃなくて、ポジティブなことですよね?」
私は驚いて野崎さんの顔を見る。野崎さんはキョトンとした顔で私を見返した。
「草吹主任が辞める理由?」
私はその理由を聞いていない。聞こうともしなかった。草吹主任が辞めるという事実に驚き、悲しくてそこに思い至れなかった。自分の想いだけでいっぱいになっていた。
「理由……知りません……」
そう言葉にしたところで私は慌てて俯いた。なんだか涙が出そうだったからだ。
草吹主任ともっと一緒にいたいという自分の気持ちばかりで、草吹主任の門出を祝うことができないなんて最低だと思った。
「え? あの、どうしたんです?」
野崎さんの慌てたような声が聞こえたけれど、私は声を出すことも顔を上げることもできない。少しでも動いたらきっと本当に涙が出てしまう。
すると急に視界の端に影が落ちた。そして次の瞬間、やわらかな何かが私に当たり体が温かさに包まれる。野崎さんが私を抱きしめていた。
「あの、大丈夫です。えっと、私がいますから。草吹主任の代わりには全然足りないと思いますけど、その……」
そして野崎さんの腕にキュッと力が込められる。
「私、矢沢さんが好きです」
そこまで言うと矢沢さんはゆっくりと私の体を離した。こぼれそうになっていた涙はすっかり引っ込んでしまった。
「ありがとうございます」
私は言う。
「本当に野崎さんはやさしいですね」
「え、あ、え?」
「野崎さんと仲良くなれてよかったです」
「あ、はい……」
「草吹主任のことは寂しいですけどがんばります。いつまでも甘えてちゃいけないですよね」
「あ、そう、ですか……そうですね」
野崎さんは少し頬を引きつらせたような笑みを浮かべた。また何か変なことを言ってしまったのだろうか。
野崎さんに話を聞いてもらって気持ちがスッキリしていた。草吹主任が辞めることはやっぱり寂しい。だけどそんなことばかりを言ってはいられない。
草吹主任に辞めた後どうするのかを聞いたら、ずっと夢だったカフェを開くのだと言っていた。
野崎さんの言った通り、草吹主任は次の目標に向かって前進するために会社を辞めるのだ。
だったら私は笑顔で草吹主任を見送りたい。
草吹主任は間もなく退職することを他の社員たちにも公表した。
みんな残念がっていたけれど、中でも砂川さんがとてもショックを受けていたようだった。野崎さんは砂川さんを必死で慰めていた。
やっぱり野崎さんはやさしい人なのだなと思う。そして草吹主任がみんなに慕われていたことを確認してうれしくなった。
私は大人として成長できている姿見せて、草吹主任に安心してもらえるように、今まで以上に仕事をがんばることにした。
それに、いざというときにはきっと野崎さんが助けてくれる。それがとても心強い。
そんなある金曜日。
野崎さんが片付けをはじめたのを確認して声を掛ける。
「あ、あの、今日は時間ありますか? よかったら食事でも……」
野崎さんには本当にお世話になりっぱなしだ。そのお礼がしたかった。それに野崎さんをランチや夕食に誘おうと思っていたのに、これまで一度も誘えていない。草吹主任が会社を去るまでにぜひとも実行しておきたかった。
野崎さんは目を丸くして私を見た後、満面の笑みを浮かべて「よろこんで!」と居酒屋の店員さんのように元気な返事をしてくれた。
そうして二人で会社を出ようとしたとき、野崎さんが「あっ」と声を上げた。
「いかん、今日は雅と約束してたんだった」
「雅さん? 野崎さんの大学のお友だちですか?」
「はい」
「それなら、私は別の日でも……」
「いえ、大丈夫です。多分。それに待ち合わせの場所、矢沢さんのいきつけのあの居酒屋なんですよ」
「そうなんですか」
「私と食事しなくても、矢沢さん、あそこにいきますよね?」
「はい」
「だったら同じことなので、きっと大丈夫です」
野崎さんは納得したように笑った。雅さんとは一度同席をしたことがあるがちゃんと話したことはない。苗字は何だっただろう。野崎さんが「雅」と呼んでいるので、つい「雅さん」と言ってしまったが、ほとんど初対面の人をそんな風に呼ぶのは失礼かもしれない。
野崎さんに雅さんの苗字を聞こうとしたとき「今日は二人で帰るんですか?」と錦さんが歩み寄ってきた。
「ああ、うん。これから食事でもってことになって」
「えー、いいなぁ。私も一緒に行っていいですか?」
錦さんは野崎さんではなくて私を見て言った。多分、私の方が会社では先輩だからだろう。
「野崎さんがいいのなら」
すると野崎さんは顔をしかめて考える仕草をしてから「ま、いっか」とつぶやいた。
「んじゃ、日和さんも一緒に行こう」
野崎さんがそう言うと、錦さんは笑顔で「わーい」と言うと野崎さんの腕に抱きついた。
野崎さんは本当にすごいと思う。人と話すのが苦手な私とも気さくに接してくれるし、同期の錦さんや一年上の砂川さんとも仲がいい。入社してたった半年程度なのに色んな人と仲良くなっている。
私も野崎さんを見習ってもっと人と接するようにしよう。そうしたら草吹主任も喜んでくれるはずだ。
三人で連れ立っていつもの居酒屋に行く。
いつもは一人なのでカウンター席だが、今日は皆で来ているのでテーブル席だ。
野崎さんが「あとで二人来るはずなので……」と言ったので、六人掛のテーブルに案内された。
野崎さんに勧められて私は奥の席に座り、錦さんに勧められて野崎さんが私の隣に座った。そして錦さんは私の正面の席に座る。
野崎さんが雅さんの到着を待つ必要はないと言ったので、オーダーを聞きに来た店員さんに三人分の飲み物を注文した。野崎さんはモスコー・ミュールではなくシャンディー・ガフという飲み物を頼んでいた。私はこの間飲み過ぎて反省したのでいつも通りビールを頼み、錦さんはウーロンハイをオーダーした。
「野崎さん、シャンディー・ガフってどんなものですか?」
「えっと、ビールのジンジャーエール割りなんです。見た目はビールっぽいですよ」
「へー、満月さんってオシャレなお酒知ってるんだねー」
「この間、雅に教えてもらったばっかりなんだけど、軽くて飲みやすいから気に入っちゃって」
「そうなんだー」
錦さんはニコニコと笑って野崎さんを見ている。
私もなんだかシャンディー・ガフというお酒が気になってきた。
ビールを薄めるのだからアルコール度数は低いのだろう。少し飲んでみたい。心の中で二杯目にはそれをオーダーしようと決める。
「そういえば輝美ちゃんはいないんですね」
野崎さんが店内をグルっと見回して言った。
「大学が忙しいみたいで、最近はあまりバイトに入っていないんです」
輝美ちゃんと一緒にご飯を食べてから、バイトに入っているのを見掛けたのは一度だけだ。そのときに連絡先を交換したのだけれど、特に輝美ちゃんから連絡はない。
就活はうまくいっているのだろうか。毎日のように顔を合わせていたから、お店に入って輝美ちゃんの声が聞こえないのは寂しいと感じる。
きっと草吹主任が会社を去った後もこんな気持ちになるのだろう。
ついついそんなことを考えて気持ちが暗くなってしまった。そのときオーダーしていた飲み物が届いたので三人で乾杯をする。
「今日、本当に私たちも同席していいんですか?」
念のためにもう一度野崎さんに確認してみた。
「ああ、雅ですか? 大丈夫……大丈夫かな? 多分……あ、どうだろう……」
野崎さんが急にしどろもどろになる。
「どういった用件なんですか?」
ただ一緒に飲もうというだけならば野崎さんがそんな返事をするとは思えない。
「えっと、雅が恋人を紹介してくれることになってて……」
「それは私と錦さんは席を外した方がいいんじゃないですか?」
そんなプライベートな席に無関係な人間が参加していいとは思えない。
「そ、そうですかね……あ、日和さんは知らないよね。雅っていうのは私の大学時代の友だちでね……」
野崎さんが錦さんに雅さんの説明をしようとしたとき「いらっしゃいませー」という店員さんの声が響く。入り口に目をやると雅さんの姿が見えた。
雅さんはすぐに私たちに気付いて表情を変えることなく私たちの座るテーブルに歩み寄った。
雅さんの後ろにはなぜか輝美ちゃんの姿がある。
「雅さんと、輝美ちゃん?」
不思議な組み合わせだけど、雅さんもこの近くに住んでいると言っていたからこのお店にも良く来ているのかもしれない。
「え? ええー!」
野崎さんが中腰になって叫んだ。
「満月、うるさい。迷惑」
雅さんは冷たい視線を野崎さんに送ると空いていた錦さんの隣の席に座った。
そして輝美ちゃんは野崎さんの隣と雅さんの隣を見比べて「うぐ」と喉をならしてから雅さんの隣に座った。
「ちょ、ちょ、説明してよ。雅の恋人って、輝美ちゃんなの?」
野崎さんが前のめりになって言う。
「そんな訳ないでしょう」
答えたのは輝美ちゃんだった。
「へ?」
首を捻る野崎さんをよそに、雅さんは片手を上げて店員さんを呼ぶ。
「私、ウーロンハイ、輝美ちゃんは?」
「えっと……ビールにします」
「料理は頼んだの?」
雅さんが野崎さんに聞く。
「あ、まだ」
「じゃあ、輝美ちゃんが適当に頼んで。メニューはよく知ってるでしょう?」
「人使い荒っ、分かりましたよ」
そう言って少し膨れながらも、輝美ちゃんは店員さんにいくつかの料理を注文した。
そうして一息ついたところで野崎さんがハッと思い出したように雅さんを見た。
「それで、どうして輝美ちゃんと一緒なの?」
「お店の前でウロウロしてたから誘った」
「いやぁ、バイトは入ってなかったんですけど、陽さんがいるかな? って思ってちょっと寄ったんです」
輝美ちゃんは私を見て笑みを浮かべる。なんだか久しぶりに見る輝美ちゃんの笑顔はホッとする。
「じゃあ、恋人は都合が悪くなったの? それとも遅れてくるの?」
私はハッとした。雅さんが来る前に席を外そうと思っていたのにタイミングを逸してしまった。今からでも席を外した方がいいだろうか。
「おまたせしました」
店員さんが雅さんと輝美ちゃんのお酒をテーブルに置いた。
「とりあえず喉が渇いた。乾杯する?」
野崎さんは納得できないような顔をしたままグラスを持ち上げた。そうして私たちは二回目、雅さんと輝美ちゃんははじめての乾杯をする。
なんだかこうして見回すと不思議なメンバーが集まっている。こんな風にたくさんの人で飲み会をしたことははじめてかもしれない。
野崎さんが入社する前にもたまに草吹主任に誘ってもらって、用賀さんと三人で飲みに行ったことはある。でもそれくらいだ。
野崎さんと出会って、私のまわりは確かに変化していた。
雅さんがウーロンハイをグビリとのんでコップを置くのを見届けて野崎さんが改めて聞く。
「で、どうなの? 意地悪してないで教えてよ」
「あ、あの……」
私は頑張ってその会話に入った。
「私たち、席を外しましょうか?」
雅さんは私の顔をチラリと見ると微笑みながら「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ」と言った。
野崎さんは「ねぇ、みやびー」と子どものように駄々をこねている。やっぱり同級生の前だと私の前とは少し違うんだなと思いながらその横顔を眺める。
「だから、いるじゃない」
雅さんが言う。
「いる? どこに?」
野崎さんは慌てて店内を見回した。すると雅さんがケタケタと笑い出す。
「どこ見てるの? 目の前にいるでしょう?」
そう言って雅さんは隣に座る日和さんを見た。それまで黙っていた日和さんは雅さんをチラリと見てクスクスと笑いはじめる。
「え? え? え? どういうこと?」
野崎さんは雅さんと日和さんを交互に指さして戸惑いの声を上げた。さすがに私も驚いてしまった。
雅さんの恋人は日和さん。恋人というのは私が理解している恋人という意味で正しいはずだ。つまり二人は女性同士でお付き合いをしているということになる。
世の中に同性のカップルがいることは知っていたけれど、こうして知り合いから同性の恋人を紹介されたのははじめてだ。
「どういうことって、日和が私の恋人なんだよ」
そう言うと雅さんは錦さんの肩を抱き寄せた。
「うふふ、満月さん、驚いた?」
錦さんは満足そうな笑顔を浮かべて野崎さんを見る。
「驚くよ、驚くに決まってるじゃん。いつの間にそういうことになったの?」
「日和とは大学の頃から付き合ってるよ」
「そう、だから会社で満月さんと会ってびっくりしちゃった」
「なにそれ! なんで私、知らないの?」
「そんなの言ってないからじゃない」
「えー、ひどいよー」
うれしそうに笑う雅さんと日和さんに、野崎さんは涙目で抗議をしている。
そんな野崎さんの横顔を見ながら何かが心の奥に引っかかった。
「えーっと、あのー」
輝美ちゃんが軽く右手を挙げて話をさえぎった。
「話は一旦落ち着いた感じ? 席替えがしたいんですけど」
「席替え? 日和の隣は譲らないよ?」
「誰がそこの間に入りたいって言った? あんたのことが苦手だからあんたの隣が嫌なの」
そう言って輝美ちゃんはクルリと首を振って私を見る。
「陽さんの隣がいい」
すると野崎さんが「矢沢さんの隣は譲らない!」と叫んだ。
「だから、あんたが奥に行けばいいでしょう」
「あ、そうか」
野崎さんはすぐに納得したようで「席替えいいですか?」と私に聞いた。
私はそれに頷いて席を立つ。
しかし移動をしようとしたとき、椅子の足につまずいてバランスを崩してしまった。それを野崎さんが支えてくれる。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
そのとき急に胸の奥に引っかかっていた何かが取れた気がした。
野崎さん、私、輝美ちゃんという並びに変わり、みんなで色々な話をする。
賑やかな会話は私の耳に確かに届いていたけれど、頭の中は別のことでいっぱいになっていた。
もしかして、この間の野崎さんが言ってくれた「好き」は会社の先輩としてとか、会社の同僚としてという意味の「好き」とは違うものだったのだろうか。
私はそっと野崎さんの横顔を伺う。
野崎さんはまだ納得しきれない顔で雅さんから日和さんとの馴れ初めを聞き出そうとしていた。
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