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2.ファーストインプレッション of 明日菜
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「あの、すみません! おばさん。おばさん、ちょっと!」
私はさっきコンビニを出て行った女性の後を追っていた。
私は二カ月前からこのコンビニでバイトをはじめたばかりだけど、夕方から夜にかけてのシフトのときその女性を何度か見かけたことがある。
かなり大きな声で呼びかけているつもりだけどなかなか気付いてもらえない。名前を呼べばすぐに気付くのだろうけれど、コンビニに来るお客様の名前なんて知るはずもない。
もう一度声を掛けようかと思ったとき、ようやく女性が立ち止まって振り返った。
「あの、コレお忘れです」
私は商品の入ったレジ袋を差し出す。先ほど女性が清算したものだ。
女性は自分の手元を見て、買ったものを持たずに出てきてしまったことを理解したようだ。そしてバツが悪そうな表情を浮かべて「すみません」と言うとレジ袋を受け取った。そしてそのまま動かなくなってしまう。
高校生の頃、友だちと話すのに夢中で同じことをしたことがある。あのときはめちゃくちゃ恥ずかしかったけど、友だちと一緒だったから馬鹿笑いをして誤魔化せた。
きっとこの女性は今めちゃくちゃ恥ずかしい気持ちだろう。大声で呼びかけたのは間違いだったのかもしれない。
次の瞬間私はビックリして「うげっ」と変な声を上げてしまった。
女性の目からポロポロと涙がこぼれていたのだ。泣くほどのことではないと思う。それとも私の態度がいけなかったのだろうか。
女性は私の声にハッとして顔を上げて、真っ赤になった顔を鞄で隠して足早に去ってしまった。
大人があんな風に泣くのをはじめて見たような気がする。
テレビドラマで大人が泣いているシーンを見たことはある。だけどあれは芝居だ。現実の大人は泣かないものだとなんとなく思っていた。
大人の女性が泣いている姿は衝撃的だったけれど、その姿がとてもきれいだと思った。
女性の後ろ姿が見えなくなって、私はゆっくりとコンビニに戻る。仕事を再開しても女性のことが頭から離れなかった。
あの女性を見掛けるのはいつも平日の夜だ。きっと仕事の帰りにコンビニに寄っているのだろう。
服装はいつもきちんとしていて清潔感がある。そうした服をサラッと着こなせるのところがやっぱり大人だなと思った。
それに比べて私はジーパンにTシャツのようなラフ服装ばかりだ。バイトだから動きやすさを優先しているのだけどちょっと恥ずかしく思えてきた。
あの女性がコンビニで買っていくのはロングの缶ビール一本とおつまみになり背負う名食品を二、三点。
仕事を終えて帰宅してから晩酌をするんだと思う。
家に着いて部屋着に着替えて一日の疲れを癒すように晩酌する女性の姿を想像した。なんだかとても大人でカッコイイ感じがする。
買っていく商品から恐らく一人暮らしなんだろうと思う。もしかしたら旦那さんが単身赴任をしているという可能性もあるだろうか。
あの女性の旦那さんはどんな人なんだろう。
コンビニで買い物をしている女性はいつもちょっとだけ疲れているように見えた。
仕事帰りだから仕方ないことなのかもしれないけれど笑った顔も見てみたい。
泣き顔がきれいだと思ったけれど、きっと笑顔はもっとすてきなんじゃないかと思う。
次に会えたときには思い切って話し掛けてみよう。
私はその日がやってくるのを心待ちにしていたけれど、あの日以降、あの女性はコンビニに現れなくなってしまった。
試しにバイトのシフトを少し変えてみたけれど、やっぱり女性に会うことはできなかった。
+++
バスケットに熱中していた高校時代は短い髪と棒切れのような体型のせいでよく男の子に間違えられていた。
そのためか男友だちはいても恋愛とは無縁の生活を送ってきた。逆に女の子からファンレターをもらったことはある。だけどそれで女の子と付き合ったことはない。動物園の珍獣程度の扱いだったと思う。
部活を引退してから髪を伸ばしはじめて、筋肉がおちて脂肪がつき、すこしふっくらしたからか男の子に間違われることが少なくなった。
大学入学を期にはじめた一人暮らしは、最初こそワクワクしていたけれどすぐに一人の時間が寂しくなった。
コンビニでバイトをはじめた一番の理由は、一人でいる時間を減らすことだった。
大学で新しい友だちもできた。友だちとの会話は楽しい。それなのにどこか気後れがあった。
みんな私よりずっと大人っぽく見えるからかもしれない。
高校生の頃はバスケットの話とテレビのお笑い番組の話しかしてこなかった。大学ではそんな話で一緒に大笑いしてくれる人はいない。
少しでも早く新しい環境になじめるように、誘われた飲み会には積極的に参加した。
生田《いくた》さんと出会ったのはそんな飲み会の席だった。
生田さんは三つ年上の二年生だった。ある先輩にお酒を勧められていたとき「未成年に飲ませるなよ」と言ってくれたのが生田さんだ。
それから大学で顔を合わせると話をするようになり、ときには学食で待ち合わせもした。
生田さんとは話が合った。映画の好みが似ていたり、お笑い番組が好きだったり、バスケットボールが好きだったり。だから話をするのが楽しかった。
だからバスケットリーグの試合観戦に行った帰り道に「付き合おう」と言われたときはうれしかった。
はじめての彼氏ができたことで、大学の友だちとやっと対等に話ができるようになるとも思った。
その日はバイトのシフトが入っていなかった。だけど「急にバイトが入っちゃった」と嘘をついて生田さんの誘いを断っていた。
生田さんのことは嫌いじゃない。
大学で顔を合わせて話をして過ごすのは楽しい。だけど夕方以降に二人きりで会うのは気が重いと感じてしまう。
いつまでも生田さんを避けていることはできない。どうにかするべきだと思うのだけれど、どうするのがいいのか見当がつかなかった。それを大学の友だちにも相談できずにいた。
電車の揺れに身を任せながらなんとなく車内を見渡していると見覚えのある横顔が目に留まった。
コンビニで会ったあの女性だ。
急に心臓がキュッとして緊張が体に走る。
当然だけど今日の女性は泣いていない。真剣な面持ちで中吊り広告を読んでいた。
声を掛けたい。だけどどう声を掛ければいいのかわからない。
会社で嫌なことでもあったのだろうか。それとも彼氏と別れたとかだろうか。もしかしたら私が「おばさん」と呼んだからかもしれない。
地元では友だちのお母さんや近所の年上の人たちを「おばさん」と呼んでいた。だから何も考えずにそう呼んでいたけれど、あんなきれいな女の人に「おばさん」と言うのは失礼だったような気がする。
それならばどう呼びかけるのが正解だろう。「お嬢さん」はないだろう。「奥さん」なんて絶対に怒られると思う。「お姉さん」だろうか。ちょっとナンパっぽい響きはするけれど「お姉さん」が一番いいような気がする。
そんなことをうだうだと考えている間に電車は下車する駅にどんどん近づいていく。
もたもたしていたらあの女性に話し掛けるチャンスを逃してしまう。私は意を決して女性の近くに歩み寄った。
近くに立って改めて女性を見る。女性はヒールを履いていたけれどそれでも私より背が低かった。
なんだかそれが妙にかわいく感じられる。
私は背が高い方だから私より背の低い人はたくさんいる。それでも女性がかわいいと思えてしまうのは、彼女が大人の女性だからかもしれない。
大人というだけで存在が大きく感じられるのに、実際には小柄なところがなんだか意外に思えてしまうのだ。
私は小さく頷いて拳を握る。
女性に声を掛けるんだ。失礼のないようにしなければ嫌われてしまう。「おばさん」はダメ。「お姉さん」と呼ぶ。
「この間のおば……お姉さんですよね」
早速失敗してしまった。だが、女性は気にする素振りも見せない。
「えっと、この間はお恥ずかしいところをお見せしてすみません。あと、袋、ありがとうございました」
その言葉を聞いてやっぱり大人だなと思う。
「いえいえ」
返事をしたけれどそれ以上の言葉が出てこない。
声を掛けたいという気持ちが先走って、何の話をすればいいのかを考えていなかった。
中吊り広告の話題でもしてみようか。でもそれだと彼女のことをじっと見ていたことを知られてしまうからちょっと恥ずかしい。
「仕事の帰りですか?」
考えた末にすごく当たり前のことを聞いてしまった。
「ええ。あなたはこれからバイトですか?」
よかった。ちゃんと返事を返してくれた。
「今日はバイトないんです。ウチに帰るところです」
「そうなんですね」
さっきよりちょっと会話ができたけれど、やっぱりすぐに止まってしまう。広げられるような話題じゃなかったから当然だ。
何か共通の話題はあるだろうか。早くしなければ駅に着いてしまう。そうしたらもう話をする機会は訪れないかもしれない。
私は必死で共通の話題を引きずり出した。
「あの……、あのとき、どうして泣いてたんですか?」
口に出してから後悔した。確かに共通の話題だけれど、多分ダメな話題だ。
どうフォローしようかと考えている間に電車がゆっくりと停車してしまった。
投げかけてしまった質問が宙ぶらりんになったまま、私たちは人波に押されてホームに降り立った。
女性が先ほどの質問に今から答えてくれるとは思えない。
だけどここでこのまま別れてしまったら二度と話ができないような気がした。
それは嫌だなと思う。だから私はナンパと思われたとしても行動するしかない。
「よかったら、ちょっとお茶でもしませんか?」
彼女は少し驚いた様子だったけれど「はい、いいですよ」と頷いてくれた。
もしも断られていたら、きっと私は家に帰って泣いていただろう。
気軽に入れる場所ということで私たちは駅の南口にあるカフェに向かった。
カウンターで私はクランチチョコバナナソイラテを注文した。大学の友だちの間で流行っているドリンクだ。バナナを豆乳でシェイクしてクランチチョコを散らしている。特に好きというわけではなかったが友だちにつられてこれをオーダーすることが多い。
彼女が注文したのはカフェラテだった。注文の仕方がスマートだ。次は私もカフェラテにしようとそっと心に決めた。
それぞれのドリンクを持って窓際の席に向かい合って座る。
大学の友だちならば、違うメニューを頼んだら「ひとくち頂戴」と言いながら、お互いに味見をするだろう。だけど今はそういう場面ではない。
私が誘ったのだからやっぱり私が話を振るべきだろう。
電車でした最後の質問はきっと女性の耳に届いていたはずだ。それを無かったかのように別の話題をはじめるのはわざとらしいような気がした。
「それで、お……ねえさんは、どうして泣いていたんですか?」
また失敗した。「おばさん」じゃない「お姉さん」。なんでこれくらいのことがスッと言えないんだろう。なんだか無性に情けなくなる。
私の不自然な間にツッコミを入れることなく、彼女はカフェラテを一口飲んでからゆっくりと話しはじめた。
「えーっと、自分でもよく分からないのよね。ちょっと疲れてたのかな? ほら、年を取ると涙腺が緩んじゃうのよ」
「そうなんですか」
自分でも分からないうちに泣いてしまうことなんてあるのだろうか。それとも何か言いたくないことを隠しているのだろうか。もしも隠しているのなら、無理に聞き出すことはしない方がいいと思った。
「大人の人が泣くのって見たことがなかったからびっくりしちゃって」
「大人だって泣くときは泣くから」
お母さんが映画やドラマの感動的なシーンで泣いているのを見たことはある。でも彼女の流した涙はお母さんの涙とは違う種類のもののように感じた。
「私が、お……ねえさんに、何かしちゃったのかなと思って……」
うわ、また失敗した。学習能力がないにも程がある。さすがにキレるかもしれない。
「えっと、遠山です。遠山涼音。遠い山に涼しい音」
キレるどころか私が言い間違えないように名前を教えてくれた。
スゴイ、大人って本当にスゴイ。
「あっ、そっか。まだ自己紹介もしてませんでしたね、遠山……涼音さん。きれいな名前ですね」
「名前負けだけどね」
名前負けってどういう意味だろう。名前に勝ち負けがあるのかな。
でも、そんなことを聞いたら、もっとバカな子だと思われてしまうだろう。ここは聞き流すのが正解だ。
「私、田上明日菜です。明日の菜っ葉って書きます」
「明日菜ちゃんね。かわいい名前。よく似合ってる」
「ありがとうございます」
名前を褒められて心の奥がくすぐったいような気持ちになる。
小学生の頃「じゃあ、あしたなっ!」なんて男子からからかわれた。そのために自分の名前がちょっと嫌いだった時期がある。
だけど涼音さんに褒められると自分の名前が素敵な名前になったように感じられた。
「明日菜ちゃんは……」
「あ、呼び捨てでいいです。ちゃん付けってなんだか子どもっぽくて恥ずかしいので」
仲のいい友だちはみんな呼び捨てだ。ちゃんづけをするのは母親くらいだから余計にちょっと恥ずかしく感じる。
「それじゃ、えーっと、明日菜は大学生?」
自分で頼んだのに涼音さんに呼び捨てにされたら、びっくりして心臓がちょっとドキッとしてしまった。
「はい。大学一年です。この間十九歳になりました」
「涼音さんはおいくつですか?」
「三十九歳です」
「うちのお母さんよりずっと若く見えます。うちのお母さん四十三歳なんです」
「ヘー、ソウナンダ」
あれ? 褒めたつもりだったけれど涼音さんの顔が少しひきつっているように見える。お母さんよりも四つも若いのに比べるようなことを言ったのが失礼だったのかもしれない。
「明日菜は、一人暮らし?」
「そうです。すごい、なんでわかったんですか?」
「この辺りは学生向けの賃貸が多いし交通の便もいいから、もしかしたらそうかな、って」
少ししか話していないのに、そこまで分かってしまうのは、やはり大人だからだろうか。
「実家は愛知県の山の方なんですよ。一人暮らしって人とあんまり話さないんですね。なんか、物足りないっていうか寂しいっていうか」
「大学でお友達とお話してるでしょう?」
「そうなんですけど授業中はしゃべれないし。それに家にいる時間って案外長くて。実家にいるときはあれこれ聞いてくる母親がうっとうしいと思ってたんですけど、今はそれが懐かしいです」
「まだまだ大学生活は長いのに大丈夫なの?」
そんな風に涼音さんに心配をしてもらってちょっとうれしい。涼音さんは大人できれいなだけじゃなくてやさしい人なんだ。
「それでバイトを接客業にしたんですよ。人と話す機会が増えるかな? って思って。でも、コンビニってあんまり人と話せないですよね」
「まぁ、そうね」
なんだか気持ちがホクホクする。今の気持ちを素直に涼音さんに伝えてたくなった。
「だから、涼音さんとお話できて、すごくうれしいです」
「それじゃあ、今度ウチにご飯でも食べにくる?」
少し話をしたかっただけなのに食事に誘ってもらえるなんて思ってもみなかった。飛び上がるくらいうれしい。でもここで大喜びしてしまうのはちょっとだけ恥ずかしい。
「えっ? で、でも……」
「あ、ごめん。一人暮らしなら、手料理とかたまには食べたいかな、なんて思って。変なこと言ってごめんね」
「いえ、嬉しいです。でも……涼音さん、料理できるんですか?」
うれしさをそのまま伝えるのが恥ずかしくて、私は照れ隠しにちょっと意地悪な答えをしてしまった。
「ある程度はできるわよ」
「だって、コンビニで……」
「一人分の食材を買って料理をするのが面倒なだけ。自分だけのために料理するのって、あんまり楽しくないじゃない」
「彼氏さんはいないんですか?」
「今は、いないわ」
その返事に私は少しホッした。その後どうしてそんな気持ちになるんだろうと疑問が湧いた。
でも深く考えないことにした。
三日後に涼音さんのお宅にお邪魔することを決めて連絡先を交換して解散となった。
涼音さんと別れたあと家に帰る途中でまた涼音さんと話がしたいと思っていた。
なんだか浮かれている。冷静な私が浮かれる私を冷ややかに見ているような気がした。
生田さんと付き合いはじめたとき、こんな風に浮かれていただろうか。ほんの少し前のことなのにその頃のことがよく思い出せない。
家に帰って一息ついたとき携帯にメッセージが届いた。
『明日、大学が終わってからメシでもどう?』
生田さんだ。
断る理由を探したけれど、結局私は『いいよ。楽しみにしてる』と返事を打った。
私はさっきコンビニを出て行った女性の後を追っていた。
私は二カ月前からこのコンビニでバイトをはじめたばかりだけど、夕方から夜にかけてのシフトのときその女性を何度か見かけたことがある。
かなり大きな声で呼びかけているつもりだけどなかなか気付いてもらえない。名前を呼べばすぐに気付くのだろうけれど、コンビニに来るお客様の名前なんて知るはずもない。
もう一度声を掛けようかと思ったとき、ようやく女性が立ち止まって振り返った。
「あの、コレお忘れです」
私は商品の入ったレジ袋を差し出す。先ほど女性が清算したものだ。
女性は自分の手元を見て、買ったものを持たずに出てきてしまったことを理解したようだ。そしてバツが悪そうな表情を浮かべて「すみません」と言うとレジ袋を受け取った。そしてそのまま動かなくなってしまう。
高校生の頃、友だちと話すのに夢中で同じことをしたことがある。あのときはめちゃくちゃ恥ずかしかったけど、友だちと一緒だったから馬鹿笑いをして誤魔化せた。
きっとこの女性は今めちゃくちゃ恥ずかしい気持ちだろう。大声で呼びかけたのは間違いだったのかもしれない。
次の瞬間私はビックリして「うげっ」と変な声を上げてしまった。
女性の目からポロポロと涙がこぼれていたのだ。泣くほどのことではないと思う。それとも私の態度がいけなかったのだろうか。
女性は私の声にハッとして顔を上げて、真っ赤になった顔を鞄で隠して足早に去ってしまった。
大人があんな風に泣くのをはじめて見たような気がする。
テレビドラマで大人が泣いているシーンを見たことはある。だけどあれは芝居だ。現実の大人は泣かないものだとなんとなく思っていた。
大人の女性が泣いている姿は衝撃的だったけれど、その姿がとてもきれいだと思った。
女性の後ろ姿が見えなくなって、私はゆっくりとコンビニに戻る。仕事を再開しても女性のことが頭から離れなかった。
あの女性を見掛けるのはいつも平日の夜だ。きっと仕事の帰りにコンビニに寄っているのだろう。
服装はいつもきちんとしていて清潔感がある。そうした服をサラッと着こなせるのところがやっぱり大人だなと思った。
それに比べて私はジーパンにTシャツのようなラフ服装ばかりだ。バイトだから動きやすさを優先しているのだけどちょっと恥ずかしく思えてきた。
あの女性がコンビニで買っていくのはロングの缶ビール一本とおつまみになり背負う名食品を二、三点。
仕事を終えて帰宅してから晩酌をするんだと思う。
家に着いて部屋着に着替えて一日の疲れを癒すように晩酌する女性の姿を想像した。なんだかとても大人でカッコイイ感じがする。
買っていく商品から恐らく一人暮らしなんだろうと思う。もしかしたら旦那さんが単身赴任をしているという可能性もあるだろうか。
あの女性の旦那さんはどんな人なんだろう。
コンビニで買い物をしている女性はいつもちょっとだけ疲れているように見えた。
仕事帰りだから仕方ないことなのかもしれないけれど笑った顔も見てみたい。
泣き顔がきれいだと思ったけれど、きっと笑顔はもっとすてきなんじゃないかと思う。
次に会えたときには思い切って話し掛けてみよう。
私はその日がやってくるのを心待ちにしていたけれど、あの日以降、あの女性はコンビニに現れなくなってしまった。
試しにバイトのシフトを少し変えてみたけれど、やっぱり女性に会うことはできなかった。
+++
バスケットに熱中していた高校時代は短い髪と棒切れのような体型のせいでよく男の子に間違えられていた。
そのためか男友だちはいても恋愛とは無縁の生活を送ってきた。逆に女の子からファンレターをもらったことはある。だけどそれで女の子と付き合ったことはない。動物園の珍獣程度の扱いだったと思う。
部活を引退してから髪を伸ばしはじめて、筋肉がおちて脂肪がつき、すこしふっくらしたからか男の子に間違われることが少なくなった。
大学入学を期にはじめた一人暮らしは、最初こそワクワクしていたけれどすぐに一人の時間が寂しくなった。
コンビニでバイトをはじめた一番の理由は、一人でいる時間を減らすことだった。
大学で新しい友だちもできた。友だちとの会話は楽しい。それなのにどこか気後れがあった。
みんな私よりずっと大人っぽく見えるからかもしれない。
高校生の頃はバスケットの話とテレビのお笑い番組の話しかしてこなかった。大学ではそんな話で一緒に大笑いしてくれる人はいない。
少しでも早く新しい環境になじめるように、誘われた飲み会には積極的に参加した。
生田《いくた》さんと出会ったのはそんな飲み会の席だった。
生田さんは三つ年上の二年生だった。ある先輩にお酒を勧められていたとき「未成年に飲ませるなよ」と言ってくれたのが生田さんだ。
それから大学で顔を合わせると話をするようになり、ときには学食で待ち合わせもした。
生田さんとは話が合った。映画の好みが似ていたり、お笑い番組が好きだったり、バスケットボールが好きだったり。だから話をするのが楽しかった。
だからバスケットリーグの試合観戦に行った帰り道に「付き合おう」と言われたときはうれしかった。
はじめての彼氏ができたことで、大学の友だちとやっと対等に話ができるようになるとも思った。
その日はバイトのシフトが入っていなかった。だけど「急にバイトが入っちゃった」と嘘をついて生田さんの誘いを断っていた。
生田さんのことは嫌いじゃない。
大学で顔を合わせて話をして過ごすのは楽しい。だけど夕方以降に二人きりで会うのは気が重いと感じてしまう。
いつまでも生田さんを避けていることはできない。どうにかするべきだと思うのだけれど、どうするのがいいのか見当がつかなかった。それを大学の友だちにも相談できずにいた。
電車の揺れに身を任せながらなんとなく車内を見渡していると見覚えのある横顔が目に留まった。
コンビニで会ったあの女性だ。
急に心臓がキュッとして緊張が体に走る。
当然だけど今日の女性は泣いていない。真剣な面持ちで中吊り広告を読んでいた。
声を掛けたい。だけどどう声を掛ければいいのかわからない。
会社で嫌なことでもあったのだろうか。それとも彼氏と別れたとかだろうか。もしかしたら私が「おばさん」と呼んだからかもしれない。
地元では友だちのお母さんや近所の年上の人たちを「おばさん」と呼んでいた。だから何も考えずにそう呼んでいたけれど、あんなきれいな女の人に「おばさん」と言うのは失礼だったような気がする。
それならばどう呼びかけるのが正解だろう。「お嬢さん」はないだろう。「奥さん」なんて絶対に怒られると思う。「お姉さん」だろうか。ちょっとナンパっぽい響きはするけれど「お姉さん」が一番いいような気がする。
そんなことをうだうだと考えている間に電車は下車する駅にどんどん近づいていく。
もたもたしていたらあの女性に話し掛けるチャンスを逃してしまう。私は意を決して女性の近くに歩み寄った。
近くに立って改めて女性を見る。女性はヒールを履いていたけれどそれでも私より背が低かった。
なんだかそれが妙にかわいく感じられる。
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大人というだけで存在が大きく感じられるのに、実際には小柄なところがなんだか意外に思えてしまうのだ。
私は小さく頷いて拳を握る。
女性に声を掛けるんだ。失礼のないようにしなければ嫌われてしまう。「おばさん」はダメ。「お姉さん」と呼ぶ。
「この間のおば……お姉さんですよね」
早速失敗してしまった。だが、女性は気にする素振りも見せない。
「えっと、この間はお恥ずかしいところをお見せしてすみません。あと、袋、ありがとうございました」
その言葉を聞いてやっぱり大人だなと思う。
「いえいえ」
返事をしたけれどそれ以上の言葉が出てこない。
声を掛けたいという気持ちが先走って、何の話をすればいいのかを考えていなかった。
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「仕事の帰りですか?」
考えた末にすごく当たり前のことを聞いてしまった。
「ええ。あなたはこれからバイトですか?」
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「そうなんですね」
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「あの……、あのとき、どうして泣いてたんですか?」
口に出してから後悔した。確かに共通の話題だけれど、多分ダメな話題だ。
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だけどここでこのまま別れてしまったら二度と話ができないような気がした。
それは嫌だなと思う。だから私はナンパと思われたとしても行動するしかない。
「よかったら、ちょっとお茶でもしませんか?」
彼女は少し驚いた様子だったけれど「はい、いいですよ」と頷いてくれた。
もしも断られていたら、きっと私は家に帰って泣いていただろう。
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彼女が注文したのはカフェラテだった。注文の仕方がスマートだ。次は私もカフェラテにしようとそっと心に決めた。
それぞれのドリンクを持って窓際の席に向かい合って座る。
大学の友だちならば、違うメニューを頼んだら「ひとくち頂戴」と言いながら、お互いに味見をするだろう。だけど今はそういう場面ではない。
私が誘ったのだからやっぱり私が話を振るべきだろう。
電車でした最後の質問はきっと女性の耳に届いていたはずだ。それを無かったかのように別の話題をはじめるのはわざとらしいような気がした。
「それで、お……ねえさんは、どうして泣いていたんですか?」
また失敗した。「おばさん」じゃない「お姉さん」。なんでこれくらいのことがスッと言えないんだろう。なんだか無性に情けなくなる。
私の不自然な間にツッコミを入れることなく、彼女はカフェラテを一口飲んでからゆっくりと話しはじめた。
「えーっと、自分でもよく分からないのよね。ちょっと疲れてたのかな? ほら、年を取ると涙腺が緩んじゃうのよ」
「そうなんですか」
自分でも分からないうちに泣いてしまうことなんてあるのだろうか。それとも何か言いたくないことを隠しているのだろうか。もしも隠しているのなら、無理に聞き出すことはしない方がいいと思った。
「大人の人が泣くのって見たことがなかったからびっくりしちゃって」
「大人だって泣くときは泣くから」
お母さんが映画やドラマの感動的なシーンで泣いているのを見たことはある。でも彼女の流した涙はお母さんの涙とは違う種類のもののように感じた。
「私が、お……ねえさんに、何かしちゃったのかなと思って……」
うわ、また失敗した。学習能力がないにも程がある。さすがにキレるかもしれない。
「えっと、遠山です。遠山涼音。遠い山に涼しい音」
キレるどころか私が言い間違えないように名前を教えてくれた。
スゴイ、大人って本当にスゴイ。
「あっ、そっか。まだ自己紹介もしてませんでしたね、遠山……涼音さん。きれいな名前ですね」
「名前負けだけどね」
名前負けってどういう意味だろう。名前に勝ち負けがあるのかな。
でも、そんなことを聞いたら、もっとバカな子だと思われてしまうだろう。ここは聞き流すのが正解だ。
「私、田上明日菜です。明日の菜っ葉って書きます」
「明日菜ちゃんね。かわいい名前。よく似合ってる」
「ありがとうございます」
名前を褒められて心の奥がくすぐったいような気持ちになる。
小学生の頃「じゃあ、あしたなっ!」なんて男子からからかわれた。そのために自分の名前がちょっと嫌いだった時期がある。
だけど涼音さんに褒められると自分の名前が素敵な名前になったように感じられた。
「明日菜ちゃんは……」
「あ、呼び捨てでいいです。ちゃん付けってなんだか子どもっぽくて恥ずかしいので」
仲のいい友だちはみんな呼び捨てだ。ちゃんづけをするのは母親くらいだから余計にちょっと恥ずかしく感じる。
「それじゃ、えーっと、明日菜は大学生?」
自分で頼んだのに涼音さんに呼び捨てにされたら、びっくりして心臓がちょっとドキッとしてしまった。
「はい。大学一年です。この間十九歳になりました」
「涼音さんはおいくつですか?」
「三十九歳です」
「うちのお母さんよりずっと若く見えます。うちのお母さん四十三歳なんです」
「ヘー、ソウナンダ」
あれ? 褒めたつもりだったけれど涼音さんの顔が少しひきつっているように見える。お母さんよりも四つも若いのに比べるようなことを言ったのが失礼だったのかもしれない。
「明日菜は、一人暮らし?」
「そうです。すごい、なんでわかったんですか?」
「この辺りは学生向けの賃貸が多いし交通の便もいいから、もしかしたらそうかな、って」
少ししか話していないのに、そこまで分かってしまうのは、やはり大人だからだろうか。
「実家は愛知県の山の方なんですよ。一人暮らしって人とあんまり話さないんですね。なんか、物足りないっていうか寂しいっていうか」
「大学でお友達とお話してるでしょう?」
「そうなんですけど授業中はしゃべれないし。それに家にいる時間って案外長くて。実家にいるときはあれこれ聞いてくる母親がうっとうしいと思ってたんですけど、今はそれが懐かしいです」
「まだまだ大学生活は長いのに大丈夫なの?」
そんな風に涼音さんに心配をしてもらってちょっとうれしい。涼音さんは大人できれいなだけじゃなくてやさしい人なんだ。
「それでバイトを接客業にしたんですよ。人と話す機会が増えるかな? って思って。でも、コンビニってあんまり人と話せないですよね」
「まぁ、そうね」
なんだか気持ちがホクホクする。今の気持ちを素直に涼音さんに伝えてたくなった。
「だから、涼音さんとお話できて、すごくうれしいです」
「それじゃあ、今度ウチにご飯でも食べにくる?」
少し話をしたかっただけなのに食事に誘ってもらえるなんて思ってもみなかった。飛び上がるくらいうれしい。でもここで大喜びしてしまうのはちょっとだけ恥ずかしい。
「えっ? で、でも……」
「あ、ごめん。一人暮らしなら、手料理とかたまには食べたいかな、なんて思って。変なこと言ってごめんね」
「いえ、嬉しいです。でも……涼音さん、料理できるんですか?」
うれしさをそのまま伝えるのが恥ずかしくて、私は照れ隠しにちょっと意地悪な答えをしてしまった。
「ある程度はできるわよ」
「だって、コンビニで……」
「一人分の食材を買って料理をするのが面倒なだけ。自分だけのために料理するのって、あんまり楽しくないじゃない」
「彼氏さんはいないんですか?」
「今は、いないわ」
その返事に私は少しホッした。その後どうしてそんな気持ちになるんだろうと疑問が湧いた。
でも深く考えないことにした。
三日後に涼音さんのお宅にお邪魔することを決めて連絡先を交換して解散となった。
涼音さんと別れたあと家に帰る途中でまた涼音さんと話がしたいと思っていた。
なんだか浮かれている。冷静な私が浮かれる私を冷ややかに見ているような気がした。
生田さんと付き合いはじめたとき、こんな風に浮かれていただろうか。ほんの少し前のことなのにその頃のことがよく思い出せない。
家に帰って一息ついたとき携帯にメッセージが届いた。
『明日、大学が終わってからメシでもどう?』
生田さんだ。
断る理由を探したけれど、結局私は『いいよ。楽しみにしてる』と返事を打った。
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だいぶ毛色が変わるのでシーズン2として別作品で登録することにしました。
読んでやってくれると幸いです。
「会社のシゴデキ先輩女子と付き合っています」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/759377035/615873195
※タイトル画像はAI生成です
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あらすじ
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しかし、遠距離恋愛の壁によって破局。ちょうど彼との関係について相談に乗ってくれていた同級生、直樹と付き合うことに。元彼とはプラトニックな関係を貫いていた恭子だったが、直樹とは一線を越える。
いつも優しく、大人っぽい落ち着きのある直樹だったが、会うたびに過激化していく直樹とのセックスに不安を覚える恭子だった。
この作品はpixiv、ノクターンノベルスにも投稿しています。
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