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1.ファーストインプレッション of 涼音
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「あの、すみません! おばさん。おばさん、ちょっと!」
背中から少し甲高い声が響いていた。
その声は恐らく私に向けられているのだろう。だけど素直に振り返ることができない。
いきなり「おばさん」と呼ばれて「はい、なに?」と笑顔で返せるほど達観してはいない。
だからといって明らかに私に向けられた言葉を無視し続けるほどの度胸もない。
心の中に生まれる抵抗感と大人としての対応を天秤にかけてるとわずかに大人としての対応に傾いた。
私はひとつ息をついて立ち止まる。
振り返ると先ほど立ち寄ったコンビニの店員が軽く息を弾ませて駆け寄ってきていた。
最近よく見かけるアルバイトの女の子で、先ほどレジをしてくれた店員だ。
短めの髪や笑顔からはつらつとした印象を受ける。
まだ慣れていない薄い化粧やどことなく素朴な雰囲気から「田舎から上京したばかりの大学生」という表現がぴったりくる少女だった。
十八、九の少女から見れば私は「おばさん」に見えるのだろう。
とはいえ、街中で「おばさん」と叫ぶのはいただけない。学校では何よりもマナーとか気配りとか心遣いとかをしっかりと教えるべきだ。
「あの、コレ忘れてます」
少女はおずおずと商品の入ったレジ袋を差し出した。
私は慌てて自分の手元に視線を落とす。左手にはバッグがあり、右手には何も持っていなかった。買い物をして清算をしたのに買ったものを持たずに出てきてしまったようだ。
私は気遣い云々について考えていたことに対して心の中で「ごめん」と謝罪した。
「すみません」
私はそう言って少女の差し出すレジ袋に手を伸ばしてレジ袋を受け取る。そのときその袋の中身を思い出した。
夕食に食べるつもりのレトルトの焼き魚と冷ややっこ、そしてビールが一本。会社帰りのコンビニで買うラインナップはいつも似たり寄ったりだ。
このラインナップをみてこの子はどう思っているのだろう。「おばさん」が寂しく「ひとりメシ」だななんて思っているのではないだろうか。
単なる被害妄想かもしれない。だけどそう思われても仕方ないと思うのだ。
私がバリバリのキャリアウーマンにでも見えているならば、恋よりも仕事に情熱を注いでいるんだな、忙しくて家事をする暇もないんだな、と思われるかもしれない。
しかし私は最低限の化粧と適当に見繕ったブラウスとスカート、髪だって適当にまとめているだけだし、どう見たってくたびれたおばさんだ。
見た目にこだわることも止めた。結婚もしていないし恋人もいない。仕事にやりがいを持っていないし、熱中できる趣味もない。
私には何もない。空っぽの人間なんだ。
「うげっ、だ、大丈夫ですか?」
カエルが潰れたような声を出して、少女が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
そのときは少女が何を心配しているのかわからなかったのだが、次の瞬間、自分の目から涙がポロポロと落ちていることに気が付いた。
泣くつもりなんて全くなかった。
勝手に零れ落ちる涙を止められなくて焦ってしまう。
「な、何でもない。大丈夫だから」
私は、それだけ言うとバッグで顔を隠して速足でその場を立ち去った。
何をやっているんだろう。
いい年をして恥ずかしい。
なんで泣いてしまったのだろう。
恥ずかしくてもうあのコンビニには行けない。
明日からは少し遠回りをして別のコンビニに行こう。
そんなことを考えながら、すべてを振り切るように必死で足を動かしたけれど、自己嫌悪を振り切ることはできなかった。
+++
昨日と変わらない今日。
そして、
今日と変わらない明日が訪れると思っていた。
彼に、出逢うまでは……
間もなく公開される映画の中吊り広告を見上げて、破り捨てたい衝動に駆られる。
嫌なら読まなければいいのに、どうしても電車の中では中吊り広告の文字を読んでしまう。
映画の主人公は夫と二人の子どもを持つ四十路を過ぎた主婦。平穏に平凡な日常を送っていた。自分は幸せだと言い聞かせながらも、物足りなさを感じる日々。そんなときに二十代半ばの男性と出会って世界が一変する。急激に惹かれ合う二人。罪悪感に苛まれながらも止められない想い。平凡な主婦は家族を選ぶのか? それとも恋を選ぶのか? という内容らしい。
広告には『感動のラストに涙が止まらない!』というアオリ文まであった。
このあらすじのどこに感動できる要素があるのか理解できない。
夫なし、子どもなし、恋人なしのアラフォーに対する挑戦状だとしか思えない。
映画を見るまでもなく今すぐ泣きそうだわ!
そんな風に会社帰りの電車の中で密やかに毒づいていたとき、ポンポンと肩を叩かれた。
びっくりして振り返ると、そこには忘れたレジ袋を届けてくれたコンビニ店員が笑顔を浮かべていた。
あの日以来、あのコンビニを避けている。まさか電車の中で会うことになるなんて思いもしなかった。
だけど別に知り合いというほどでもないのだし、気が付いたとしても無視してくれればいいのにと考えてしまう私の方が間違っているのだろうか。
「この間のおば……お姉さんですよね」
無邪気な笑顔で言い直す感じが余計に傷つく。
「えっと、この間はお恥ずかしいところをお見せしてすみません。あと、袋、ありがとうございました」
私はなんとか毒づきモードの心を自制して大人の対応で取り繕う。
「いえいえ」
そこで会話が途切れた。
特に話すことなんてないのだから当然こうなる。だから嫌なのだ。電車が駅に着くまでには数分間、この居心地の悪い沈黙の中が続くのだろうか。
かなり苦痛だ。
私から何か話題を振った方がいいのかもしれないが、情けないことに仕事以外のコミュニケーションの方法を忘れてしまった。
「仕事の帰りですか?」
話題を提供してくれたのは人懐っこい笑顔を浮かべる少女の方だった。
「ええ。あなたはこれからバイトですか?」
「今日はバイトないんです。ウチに帰るところです」
「そうなんですね」
それでもあっさり会話は終了してしまった。それでも電車は着実に前に進み続けいるからもうすぐ駅に到着するだろう。
駅に降りたら速やかに別れを告げよう。
しかし帰り道の方向が同じという可能性もある。その場合には何か理由をつけて帰宅ルートを変更しよう。
ああ、本当に面倒臭い。
私が駅に降り立ってからのシミュレーションに勤しんでいると、少女が再び声を掛けてきた。
「あの……、あのとき、どうして泣いてたんですか?」
さすがにちょっとびっくりして声を失った。なんで今このタイミングでそれを聞くのだろう。
そのとき体が緩く前方に引っ張られる感覚があった。電車がブレーキをかけ始めたのだ。もう駅に到着する。
程なく車内アナウンスがかかり、電車はピタリと駅のホームに停車した。
扉が開いたタイミングで乗客たちの一部がホームへと雪崩出る。私と少女も微妙な空気をはらんだまま駅のホームに降り立った。
さっきの質問は聞こえなかったフリをして「それじゃあ」と別れてしまおう。と考えたとき、またしても少女に先手を打たれてしまった。
「よかったら、ちょっとお茶でもしませんか?」
大人として正しい対応はどれだろう。「嫌です」「お断りします」「どうしてですか?」「冗談じゃありません」「お茶する理由なんてないですよね?」一瞬のうちに浮かんだ様々な言葉を口にすることはできなかった。
もちろん「ちょっと用事があるので」なんて誤魔化す方法もあるだろう。だけどこれくらいの時間にコンビニに寄って帰っていたことは少女もよく知っているはずだ。
あからさまな誤魔化しも恥ずかしい。
結局私は、渋々とだがそうとは見えないように意識して「はい、いいですよ」と返事をしてしまった。
向かった先は駅の南口にあるカフェだった。
少女はなんだか長い名前の甘そうな飲み物を、私はカフェラテをテーブルに置いて向かい合う。
「それで、お……ねえさんは、どうして泣いていたんですか?」
何の前置きもなくいきなりその話題から入るのね。でもそのストレートさはまわりくどいよりもよっぽど若々しくて清々しい。と思えなくもない。
しかし「お」のあとに少し間があるのはかなり気になる。何と言いかけたのかは確認しなくてもわかる。
「えーっと、自分でもよく分からないのよね。ちょっと疲れてたのかな? ほら、年を取ると涙腺が緩んじゃうのよ」
「そうなんですか」
少女は私の言葉を素直に受け止める。
そこはちょっとだけ否定してほしかった。「年を取ると」のくだりで「そんなことないじゃないですかー」みたいな言葉は思い浮かばなかったのだろうか。
でも実際にそんなことを言われたら「思ってもことを言いやがって」と毒づきモードが戻って来ただろう。
「大人の人が泣くのって見たことがなかったからびっくりしちゃって」
「大人だって泣くときは泣くから」
そう返してみたものの、確かに泣いたのは久しぶりだ。だけどあれは涙が落ちただけで「泣いた」とは違うような気もする。
「私が、お……ねえさんに、何かしちゃったのかなと思って……」
何かしちゃったかもしれないと気にしているから「おばさん」じゃなくて「お……ねえさん」と呼ぶのだろうか。
「えっと、遠山です。遠山涼音(すずね)。遠い山に涼しい音」
「あっ、そっか。まだ自己紹介もしてませんでしたね、遠山……涼音さん。きれいな名前ですね」
「名前負けだけどね」
「私、田上明日菜です。明日の菜っ葉って書きます」
「明日菜ちゃんね。かわいい名前。よく似合ってる」
「ありがとうございます」
笑顔を浮かべる少女を見て思った。この子は「そんなことありませんよ」という謙遜や社交辞令を知らないんだな、と。
例えば「かわいい名前。よく似合ってる」の辺りで「そんなことありませんよ」と謙遜くらいするのではないだろうか。でもまあそれはいい。褒めたことを素直に「ありがとう」と言えるのはいいコトだと思う。
だけど私が自分の名前を「名前負け」と言ったら嘘でも「そんなことありませんよ」と社交辞令くらいあってもよさそうなものだ。
「明日菜ちゃんは……」
「あ、呼び捨てでいいです。ちゃん付けってなんだか子どもっぽくて恥ずかしいので」
「それじゃ、えーっと、明日菜は大学生?」
「はい。大学一年です。この間十九歳になりました」
若いだろうという予想は当たっていた。年の差二十歳。具体的に数字を意識するとちょっと凹んでしまう。
これだけ年の差があれば、私の感覚と違うのも仕方がない。
「涼音さんはおいくつですか?」
やっぱりそんな返しが来ちゃうよね。これは年齢の話題を振ってしまった私が悪い。
「三十九歳です」
「うちのお母さんよりずっと若く見えます。うちのお母さん四十三歳なんです」
「ヘー、ソウナンダ」
思わず日本語が片言になってしまった。笑顔は凍り付いていないだろうか。
きっと明日菜のお母さんは、電車で見た中吊りの映画も楽しんで見られるのだろう。そしてラストで号泣するんだ。私のようにケチをつけたりしないに決まっている。
「明日菜は、一人暮らし?」
「そうです。すごい、なんでわかったんですか?」
田舎から出てきた感が漂っているから、なんて大人の私は言わない。
「この辺りは学生向けの賃貸が多いし交通の便もいいから、もしかしたらそうかな、って」
「実家は愛知県の山の方なんですよ。一人暮らしって人とあんまり話さないんですね。なんか、物足りないっていうか寂しいっていうか」
私も一人暮らしをはじめたばかりの頃はそんな風に感じていたのだろうか。あまりに昔のことで思い出すこともできない。
「大学でお友達とお話してるでしょう?」
「そうなんですけど授業中はしゃべれないし。それに家にいる時間って案外長くて。実家にいるときはあれこれ聞いてくる母親がうっとうしいと思ってたんですけど、今はそれが懐かしいです」
「まだまだ大学生活は長いのに大丈夫なの?」
しまった。明日菜の母親と年齢が近いとわかったせいか母親モードになってきている。
「それでバイトを接客業にしたんですよ。人と話す機会が増えるかな? って思って。でも、コンビニってあんまり人と話せないですよね」
「まぁ、そうね」
「だから涼音さんとお話できて、すごくうれしいです」
この邪気のない生き物はなんだろう。私もこれくらいの年齢にはこんな風に邪気のない笑顔を浮かべられていたのだろうか。
明日菜の笑顔を見ていると自分の心がすっかり汚れてしまっているような気持ちになる。同時にその笑顔に浄化されていくようだ。
本当に私の心が浄化されてしまったのか、思ったよりも明日菜との会話が楽しかったからか、それとも「遠山さん」ではなくて「涼音さん」と呼ばれたことが新鮮だったからか、私は自分でも思いもよらない提案をしていた。
「それじゃあ、今度ウチにご飯でも食べにくる?」
「えっ? で、でも……」
戸惑ったような明日菜の反応に我に返った。
お互いの名前を知ったばかりの仲で家に誘うなんてありえない。
「あ、ごめん。一人暮らしなら手料理とかたまには食べたいかな、なんて思って。変なこと言ってごめんね」
「いえ、嬉しいです。でも……涼音さん、料理できるんですか?」
「ある程度はできるわよ」
「だって、コンビニで……」
どうやら私の家に来ることを警戒しての戸惑いではなく、私の料理の腕を警戒しての戸惑いだったらしい。
明日菜には思いっきりコンビニめしを見られているのだからその反応も当然だろう。
「一人分の食材を買って料理をするのが面倒なだけ。自分だけのために料理するのってあんまり楽しくないじゃない」
「彼氏さんはいないんですか?」
「今は、いないわ」
そう、今はいない。嘘ではない。「今」が随分長いだけの話だ。そもそも恋人を作ろうとも思っていない。
「本当にごちそうになってもいいんですか?」
「ええ。あの日びっくりさせちゃったお詫びも兼ねて」
「じゃあ、お邪魔します! 連絡先、教えてもらってもいいですか?」
背中から少し甲高い声が響いていた。
その声は恐らく私に向けられているのだろう。だけど素直に振り返ることができない。
いきなり「おばさん」と呼ばれて「はい、なに?」と笑顔で返せるほど達観してはいない。
だからといって明らかに私に向けられた言葉を無視し続けるほどの度胸もない。
心の中に生まれる抵抗感と大人としての対応を天秤にかけてるとわずかに大人としての対応に傾いた。
私はひとつ息をついて立ち止まる。
振り返ると先ほど立ち寄ったコンビニの店員が軽く息を弾ませて駆け寄ってきていた。
最近よく見かけるアルバイトの女の子で、先ほどレジをしてくれた店員だ。
短めの髪や笑顔からはつらつとした印象を受ける。
まだ慣れていない薄い化粧やどことなく素朴な雰囲気から「田舎から上京したばかりの大学生」という表現がぴったりくる少女だった。
十八、九の少女から見れば私は「おばさん」に見えるのだろう。
とはいえ、街中で「おばさん」と叫ぶのはいただけない。学校では何よりもマナーとか気配りとか心遣いとかをしっかりと教えるべきだ。
「あの、コレ忘れてます」
少女はおずおずと商品の入ったレジ袋を差し出した。
私は慌てて自分の手元に視線を落とす。左手にはバッグがあり、右手には何も持っていなかった。買い物をして清算をしたのに買ったものを持たずに出てきてしまったようだ。
私は気遣い云々について考えていたことに対して心の中で「ごめん」と謝罪した。
「すみません」
私はそう言って少女の差し出すレジ袋に手を伸ばしてレジ袋を受け取る。そのときその袋の中身を思い出した。
夕食に食べるつもりのレトルトの焼き魚と冷ややっこ、そしてビールが一本。会社帰りのコンビニで買うラインナップはいつも似たり寄ったりだ。
このラインナップをみてこの子はどう思っているのだろう。「おばさん」が寂しく「ひとりメシ」だななんて思っているのではないだろうか。
単なる被害妄想かもしれない。だけどそう思われても仕方ないと思うのだ。
私がバリバリのキャリアウーマンにでも見えているならば、恋よりも仕事に情熱を注いでいるんだな、忙しくて家事をする暇もないんだな、と思われるかもしれない。
しかし私は最低限の化粧と適当に見繕ったブラウスとスカート、髪だって適当にまとめているだけだし、どう見たってくたびれたおばさんだ。
見た目にこだわることも止めた。結婚もしていないし恋人もいない。仕事にやりがいを持っていないし、熱中できる趣味もない。
私には何もない。空っぽの人間なんだ。
「うげっ、だ、大丈夫ですか?」
カエルが潰れたような声を出して、少女が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
そのときは少女が何を心配しているのかわからなかったのだが、次の瞬間、自分の目から涙がポロポロと落ちていることに気が付いた。
泣くつもりなんて全くなかった。
勝手に零れ落ちる涙を止められなくて焦ってしまう。
「な、何でもない。大丈夫だから」
私は、それだけ言うとバッグで顔を隠して速足でその場を立ち去った。
何をやっているんだろう。
いい年をして恥ずかしい。
なんで泣いてしまったのだろう。
恥ずかしくてもうあのコンビニには行けない。
明日からは少し遠回りをして別のコンビニに行こう。
そんなことを考えながら、すべてを振り切るように必死で足を動かしたけれど、自己嫌悪を振り切ることはできなかった。
+++
昨日と変わらない今日。
そして、
今日と変わらない明日が訪れると思っていた。
彼に、出逢うまでは……
間もなく公開される映画の中吊り広告を見上げて、破り捨てたい衝動に駆られる。
嫌なら読まなければいいのに、どうしても電車の中では中吊り広告の文字を読んでしまう。
映画の主人公は夫と二人の子どもを持つ四十路を過ぎた主婦。平穏に平凡な日常を送っていた。自分は幸せだと言い聞かせながらも、物足りなさを感じる日々。そんなときに二十代半ばの男性と出会って世界が一変する。急激に惹かれ合う二人。罪悪感に苛まれながらも止められない想い。平凡な主婦は家族を選ぶのか? それとも恋を選ぶのか? という内容らしい。
広告には『感動のラストに涙が止まらない!』というアオリ文まであった。
このあらすじのどこに感動できる要素があるのか理解できない。
夫なし、子どもなし、恋人なしのアラフォーに対する挑戦状だとしか思えない。
映画を見るまでもなく今すぐ泣きそうだわ!
そんな風に会社帰りの電車の中で密やかに毒づいていたとき、ポンポンと肩を叩かれた。
びっくりして振り返ると、そこには忘れたレジ袋を届けてくれたコンビニ店員が笑顔を浮かべていた。
あの日以来、あのコンビニを避けている。まさか電車の中で会うことになるなんて思いもしなかった。
だけど別に知り合いというほどでもないのだし、気が付いたとしても無視してくれればいいのにと考えてしまう私の方が間違っているのだろうか。
「この間のおば……お姉さんですよね」
無邪気な笑顔で言い直す感じが余計に傷つく。
「えっと、この間はお恥ずかしいところをお見せしてすみません。あと、袋、ありがとうございました」
私はなんとか毒づきモードの心を自制して大人の対応で取り繕う。
「いえいえ」
そこで会話が途切れた。
特に話すことなんてないのだから当然こうなる。だから嫌なのだ。電車が駅に着くまでには数分間、この居心地の悪い沈黙の中が続くのだろうか。
かなり苦痛だ。
私から何か話題を振った方がいいのかもしれないが、情けないことに仕事以外のコミュニケーションの方法を忘れてしまった。
「仕事の帰りですか?」
話題を提供してくれたのは人懐っこい笑顔を浮かべる少女の方だった。
「ええ。あなたはこれからバイトですか?」
「今日はバイトないんです。ウチに帰るところです」
「そうなんですね」
それでもあっさり会話は終了してしまった。それでも電車は着実に前に進み続けいるからもうすぐ駅に到着するだろう。
駅に降りたら速やかに別れを告げよう。
しかし帰り道の方向が同じという可能性もある。その場合には何か理由をつけて帰宅ルートを変更しよう。
ああ、本当に面倒臭い。
私が駅に降り立ってからのシミュレーションに勤しんでいると、少女が再び声を掛けてきた。
「あの……、あのとき、どうして泣いてたんですか?」
さすがにちょっとびっくりして声を失った。なんで今このタイミングでそれを聞くのだろう。
そのとき体が緩く前方に引っ張られる感覚があった。電車がブレーキをかけ始めたのだ。もう駅に到着する。
程なく車内アナウンスがかかり、電車はピタリと駅のホームに停車した。
扉が開いたタイミングで乗客たちの一部がホームへと雪崩出る。私と少女も微妙な空気をはらんだまま駅のホームに降り立った。
さっきの質問は聞こえなかったフリをして「それじゃあ」と別れてしまおう。と考えたとき、またしても少女に先手を打たれてしまった。
「よかったら、ちょっとお茶でもしませんか?」
大人として正しい対応はどれだろう。「嫌です」「お断りします」「どうしてですか?」「冗談じゃありません」「お茶する理由なんてないですよね?」一瞬のうちに浮かんだ様々な言葉を口にすることはできなかった。
もちろん「ちょっと用事があるので」なんて誤魔化す方法もあるだろう。だけどこれくらいの時間にコンビニに寄って帰っていたことは少女もよく知っているはずだ。
あからさまな誤魔化しも恥ずかしい。
結局私は、渋々とだがそうとは見えないように意識して「はい、いいですよ」と返事をしてしまった。
向かった先は駅の南口にあるカフェだった。
少女はなんだか長い名前の甘そうな飲み物を、私はカフェラテをテーブルに置いて向かい合う。
「それで、お……ねえさんは、どうして泣いていたんですか?」
何の前置きもなくいきなりその話題から入るのね。でもそのストレートさはまわりくどいよりもよっぽど若々しくて清々しい。と思えなくもない。
しかし「お」のあとに少し間があるのはかなり気になる。何と言いかけたのかは確認しなくてもわかる。
「えーっと、自分でもよく分からないのよね。ちょっと疲れてたのかな? ほら、年を取ると涙腺が緩んじゃうのよ」
「そうなんですか」
少女は私の言葉を素直に受け止める。
そこはちょっとだけ否定してほしかった。「年を取ると」のくだりで「そんなことないじゃないですかー」みたいな言葉は思い浮かばなかったのだろうか。
でも実際にそんなことを言われたら「思ってもことを言いやがって」と毒づきモードが戻って来ただろう。
「大人の人が泣くのって見たことがなかったからびっくりしちゃって」
「大人だって泣くときは泣くから」
そう返してみたものの、確かに泣いたのは久しぶりだ。だけどあれは涙が落ちただけで「泣いた」とは違うような気もする。
「私が、お……ねえさんに、何かしちゃったのかなと思って……」
何かしちゃったかもしれないと気にしているから「おばさん」じゃなくて「お……ねえさん」と呼ぶのだろうか。
「えっと、遠山です。遠山涼音(すずね)。遠い山に涼しい音」
「あっ、そっか。まだ自己紹介もしてませんでしたね、遠山……涼音さん。きれいな名前ですね」
「名前負けだけどね」
「私、田上明日菜です。明日の菜っ葉って書きます」
「明日菜ちゃんね。かわいい名前。よく似合ってる」
「ありがとうございます」
笑顔を浮かべる少女を見て思った。この子は「そんなことありませんよ」という謙遜や社交辞令を知らないんだな、と。
例えば「かわいい名前。よく似合ってる」の辺りで「そんなことありませんよ」と謙遜くらいするのではないだろうか。でもまあそれはいい。褒めたことを素直に「ありがとう」と言えるのはいいコトだと思う。
だけど私が自分の名前を「名前負け」と言ったら嘘でも「そんなことありませんよ」と社交辞令くらいあってもよさそうなものだ。
「明日菜ちゃんは……」
「あ、呼び捨てでいいです。ちゃん付けってなんだか子どもっぽくて恥ずかしいので」
「それじゃ、えーっと、明日菜は大学生?」
「はい。大学一年です。この間十九歳になりました」
若いだろうという予想は当たっていた。年の差二十歳。具体的に数字を意識するとちょっと凹んでしまう。
これだけ年の差があれば、私の感覚と違うのも仕方がない。
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やっぱりそんな返しが来ちゃうよね。これは年齢の話題を振ってしまった私が悪い。
「三十九歳です」
「うちのお母さんよりずっと若く見えます。うちのお母さん四十三歳なんです」
「ヘー、ソウナンダ」
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きっと明日菜のお母さんは、電車で見た中吊りの映画も楽しんで見られるのだろう。そしてラストで号泣するんだ。私のようにケチをつけたりしないに決まっている。
「明日菜は、一人暮らし?」
「そうです。すごい、なんでわかったんですか?」
田舎から出てきた感が漂っているから、なんて大人の私は言わない。
「この辺りは学生向けの賃貸が多いし交通の便もいいから、もしかしたらそうかな、って」
「実家は愛知県の山の方なんですよ。一人暮らしって人とあんまり話さないんですね。なんか、物足りないっていうか寂しいっていうか」
私も一人暮らしをはじめたばかりの頃はそんな風に感じていたのだろうか。あまりに昔のことで思い出すこともできない。
「大学でお友達とお話してるでしょう?」
「そうなんですけど授業中はしゃべれないし。それに家にいる時間って案外長くて。実家にいるときはあれこれ聞いてくる母親がうっとうしいと思ってたんですけど、今はそれが懐かしいです」
「まだまだ大学生活は長いのに大丈夫なの?」
しまった。明日菜の母親と年齢が近いとわかったせいか母親モードになってきている。
「それでバイトを接客業にしたんですよ。人と話す機会が増えるかな? って思って。でも、コンビニってあんまり人と話せないですよね」
「まぁ、そうね」
「だから涼音さんとお話できて、すごくうれしいです」
この邪気のない生き物はなんだろう。私もこれくらいの年齢にはこんな風に邪気のない笑顔を浮かべられていたのだろうか。
明日菜の笑顔を見ていると自分の心がすっかり汚れてしまっているような気持ちになる。同時にその笑顔に浄化されていくようだ。
本当に私の心が浄化されてしまったのか、思ったよりも明日菜との会話が楽しかったからか、それとも「遠山さん」ではなくて「涼音さん」と呼ばれたことが新鮮だったからか、私は自分でも思いもよらない提案をしていた。
「それじゃあ、今度ウチにご飯でも食べにくる?」
「えっ? で、でも……」
戸惑ったような明日菜の反応に我に返った。
お互いの名前を知ったばかりの仲で家に誘うなんてありえない。
「あ、ごめん。一人暮らしなら手料理とかたまには食べたいかな、なんて思って。変なこと言ってごめんね」
「いえ、嬉しいです。でも……涼音さん、料理できるんですか?」
「ある程度はできるわよ」
「だって、コンビニで……」
どうやら私の家に来ることを警戒しての戸惑いではなく、私の料理の腕を警戒しての戸惑いだったらしい。
明日菜には思いっきりコンビニめしを見られているのだからその反応も当然だろう。
「一人分の食材を買って料理をするのが面倒なだけ。自分だけのために料理するのってあんまり楽しくないじゃない」
「彼氏さんはいないんですか?」
「今は、いないわ」
そう、今はいない。嘘ではない。「今」が随分長いだけの話だ。そもそも恋人を作ろうとも思っていない。
「本当にごちそうになってもいいんですか?」
「ええ。あの日びっくりさせちゃったお詫びも兼ねて」
「じゃあ、お邪魔します! 連絡先、教えてもらってもいいですか?」
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