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幻月
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子供たちがしょっちゅう海保菜に本当の姿を見せるようにせがむようになった。
海保菜は,自分の本来の姿を母親として受け入れて、懐(なつ)いてくれて嬉しい反面,簡単に見せられるものではないから,困っていた。変われば,すぐに海へ行かなければならないが,足がないと、移動は難しい。なら,海まで移動してから,変身した方がいい訳だが,しょっちゅう海に行っていられないし,時間帯によっては,人に見られる恐れもあり,あまり気安く出来ることではない。こう考えると,子供たちの要求をひたすら拒み続けるしかないと思った。十歳と十二歳だから,説明すれば,事情をわかってもらえるはずだと思った。
ある日,二人に,いつになく,しつこくせがまれ,何かと理由をつけてひたすら断り続けた挙句,折れてしまった。結局,尚弥に海辺まで来るまで送ってもらう羽目になった。
「面倒くさいんじゃなくて…ただ、彼らは,どうなるの!?大丈夫?心配だ。特に,保奈美は,未だに情緒不安定な感じがするよ。」
尚弥は,道中,「こういうことは,困る」とぼやいてから,本音を語り出した。
「…どうなるかは,まだわからない。そのうち,克服すると思うけど…私も,保奈美のことが心配だ。ただ,最終的に彼女が乗り越えないといけないことだから…。」
「克服出来るといいね。」
「本当はね…龍太もそうだけど,今の保奈美にとって一番いいことはね、多分,私と一緒にこうして過ごすことだと思うの。
でも、不自由になるから,あまり頻繁には見せていられないし,なかなか一緒に過ごしてあげられない。」
「しばらく連れて行ってやったら?二人。
それで落ち着くなら。」
「保奈美は,まだまだその誘いにはなびかないと思うし,海に行けば,心は落ち着くだろうけど、体は,しんどくなるだけだから…安定するかどうか,わからない。」
「どういう意味?」
「彼らの体がどう反応するかは,わからないけど,大きな刺激になるから,心身が不安定な時は,できれば,避けたい。」
「まあ、あなたが考えることだけど…。」
海保菜は,その後、少し実家に帰ることにした。
「この間,来たばかりなのに…大丈夫?調子が悪い?」
拓海が心配して尋ねた。
「大丈夫。」
「そう?」
仁海は,訝(いぶか)しげに娘の顔を見た。
「私は,大丈夫。
ただ,子供たちはね,特に,保奈美はね、いつも会いたいというの。人間の姿は,いやだと言って。少し情緒不安定というか、どうしたらいいか,わからないの…。」
「一緒にいたいというなら,もう一緒にいてあげて。」
拓海が力強く言い放った。
「したいけど,できない。」
「ここに連れて来たら,ゆっくり一緒に過ごせるじゃない?」
仁海が提案した。
「そんなこと,出来ない。龍太は,あまり怖がらないけど,保奈美は,変わるのが怖くて仕方がないの。だから,私も,二度と彼女にそれをさせるつもりはない。怖い思いをこれ以上,させたくない。」
「それは,違うと思うよ。慣れたら,問題ないし,慣れてもらわなきゃ。今度,一緒に連れてきて。」
海保菜は,何も言わかなかった。
「陸だと,あまり見せられないでしょう?不自由になるから。なら、そこまで見たいというなら、ここに連れて来て。」
拓海も同じ意見だった。
「…できない。」
「無理やり,連れて来てとは,言っていないよ。言ってみるだけだよ。」
拓海が言った。
「誘えば,きっと来てくれる。今がまだ無理でも,もう少し待ってあげて。
話もいいけど,何より,このあなたと一緒に過ごすのは、肌で触れるのは,大事だと思うの。自分がこれからなっていく姿をよく知ってもらって,馴染んでもらわないと,ずっと苦労するよ。」
人海が言った。
「わかっている…でも、難しい。」
「難しくない。連れてきて。」
「ちょっと,考えてみる。」
「もう怖くないでしょう?この姿。」
「怖くないよ!すごい勢いでしがみついてくるし,ずっと,引っ付いている!いつもびっくりする…少しも,怖くない。この姿の方がいいみたい。」
「なら、見せてあげて。その姿でいてあげて。」
「保奈美は,体が変わるのが,すごく怖いの。この世で,一番怖いの…また,いずれ変わるというのに…どうしたら,助けられるか,わからない。」
「それは,慣らせることだ。怖くないようにしなきゃ…じゃないと、本当に大変なことになるよ。
人魚であるのは,決して不幸じゃないの。そう思わせたら,だめだ。誇りを持たせないと。恐怖をなくしてもらわないと。
人間じゃないから…これ以上,守ろうとすると,逆効果だよ。傷つけてしまう。」
拓海が言った。
海保菜は頷いた。
「その通りだ。」
「もう人魚にしちゃえ!その方が,葛藤は解けるよ。迷いも,なくなる。いつまでも人間と人魚の間でふらふらさせるのは可哀想だ。
仁海が言った。拓海も,頷いた。
「それは,しない。絶対にしない。」
「しなくても,いずれそうなるから,いいんじゃない?早く楽にさせてあげて,二人とも。」
仁海がさらに言った。
「私は,自分の手で,子供の自由を奪う気はない。」
「自由を奪う?何,それ!?何も奪っていないよ。人間の方が,自由だとでも言いたいのか?」
拓海がカチンと来て,言った。
「あなたがしないと,彼らは,まだまだこれから長い道のりだよ。」
仁海が念を押した。
「それでもいい。その方が自由でいられるなら。」
「人間は,自由、人魚は,自由じゃないといったい,誰が決めた?
歩けないから?私たちの方が自由だと思うけど…自由を奪っていると考えては,いけない。自由にしてあげていると考えたらいい。」
拓海が言った。
「そう思えない…保奈美と龍太は,これまで人間として育ってきた。彼らのアイデンティティだ。それを奪えるわけがない。
もう少し大きくなってから,自分で選んで欲しいの。」
「そんなのは,選べるものじゃないよ。
人魚にしてあげた方が,早く慣れるし,受け止めやすい。ずっとふらふらさせる方が可哀想だよ。」
仁海が首を横に振りながら,言った。
「ふらふらでも、両方の世界を楽しむ自由をなるべく,長く守ってあげたい。」
「じゃ,もう決めたんだね。自子供に余計な苦痛を与えてしまうけど…。」
海保菜は,頷いた。
「きっと,苦痛だけじゃない。」
次の日,保奈美が話したいことがあると海保菜に言ってきたから,海保菜は,浜辺で散歩しない?と誘った。保奈美は,嬉しそうに,母親の誘いに乗った。
「話したいことって,何?」
太陽が山の後ろへ沈んでいくのをじっと見ながら,海保菜がようやく保奈美に尋ねた。
「今日は,静かだね…何か,悩んでいるの?」
「私…。」
「はい?」
「やっぱり…もう一度,海に行きたい…。」
保奈美は,小さい声でつぶやいた。
「今,来ているし…。」
「違う!…中に入りたい。」
「それは,ここに座っていると,入りたくなるよ。人魚だから。それが海の力だ。
自分は,本当は,そうしたくなくても、海に飛び込んでしまう。そういう力だよ。」
「違う。ここに来だからじゃない。来る前から,考えていた。話したかったことは,それだよ。」
「保奈美…あなたは,あの日から,ずっと海が怖いし、悪夢も見るし、私の事もずっと恐れていたし…それなのに,もう一度,同じことがしたいと言うの?」
海保菜は,どう考えても,娘をまた海に連れて行くことで,症状が安定するとは,思えなかった。
「したいというより、しなきゃ。」
「いや、しなくていい。誰も求めていない,そんなこと。おばあちゃんの言葉を忘れて。彼女も,求めていないから。」
「これは,お母さんが決めることでも、おばあちゃんが決めることでもない。私が決めなきゃならないことなの。そして、もう決めた。」
保奈美が普段あまり見せないような,揺るぎなく,強い意思を持って,言った。
これまで,怖そうにびくびくし通しの娘の最近の様子とのギャップが大きすぎて,海保菜は,驚いた。保奈美の声は,震えていない。表情も,決意で固まっている。最近,彼女の中では,何かが変わった。そう思った。
「なんで,そう決めた?」
「…人間じゃないから。
それは,ようやくわかった。
でも、自分とは,何かよくわからない。それが知りたい。
ずっとわからないまま,嫌なんだ。自分のことが知りたい。」
「でも、急がなくてもいいよ。慌てなくても,心の準備ができてからでいいよ。」
「それを待ったら、いつまでたっても,しない。一生,立ち会わない。それでは,だめだ。
お母さんも,いずれ,また海に行かなければならない日が来ると思うって,言ったでしょう?なら、先延ばしにしていても,意味がないんじゃない?」
「でも,海に行くのは,別にいつでも出来ることだから,もう少し慎重に,じっくり考えてから決めてほしい。」
海保菜が,もう一度人魚になることが娘にどの影響を与え得るか考えながら,言った。娘は,すでに一回人魚に変わり,自分では,気づいているかどうかわからないが,あの日から,日に日に少しずつ様子は,変わって来ている。一時的な変化ではなく,二度と元に戻らないような形で,人魚になって行く。龍太も同じだ。もう一度海に行けば,その過程が更(さら)に加速される。保奈美には,その覚悟が出来ているとは,とても思えない。その大きな決断をしても,後悔しない,後悔しても自分で責任が取れる歳には,まだなっていない。だから,保奈美も,龍太も,どんなにせがまれても,当分は,海には行かせないつもりだった。もう少し大きくなってから,自由に選べるように,時間を稼ぎたい。そう思った。まだ選べる歳にはならないうちに,人魚になってしまってほしくない。
「あの時は,怖かったから、何も楽しめなかったし,色々味わえなかった。なんか,龍太と話していると,同じ経験をしているのに,違う。私は,恐怖だけの思い出になっている。龍太は,そうではない。余裕がなさ過ぎて,痛かったや,怖かったことぐらいしか記憶に残っていないの。なんか,それでは,悲しいと思って…。
家族の事が知りたいし、お母さんのことも知りたいし、自分の事も知りたい。他に道はない。もうじっくり考えたし、覚悟している。」
「…保奈美は,いつか人間に戻れなくなっても,平気なの?本当に,覚悟できているの?」
「え!?戻れなくなる?それ,聞いていない!」
「どうなるかわからないけど,その可能性もある。それぐらいの覚悟じゃないと,しない方がいい,あなたが考えていること。」
「怖がらなくていいとか,言っといて…何で,いきなりそんなことを言うの!?せっかく,怖くなくなっていたのに…。」
「また海に行きたいと言うから,知るべきだと思った。どういうリスクがあるかということを。何も知らずに,そうなってしまったら,嫌でしょう?」
「…嫌だけど…それでも,やっぱり,見せて欲しい。教えて欲しい。」
「何を?」
「人魚を見せて欲しい。じゃないと,私も学べないの。知りたい。
いつまでも,私と龍太を人間扱いしていると,それにしかなれないし、でも,それにさえなれないし…困る。
私は,もう人間として,やっていけないの。」
保奈美は,泣きはじめた。
「体は,いつも変わろうとしているのに、私がそれを無理やり抑えている感じで…体は,もうこれでは,いられないみたい。今だって、胸が痛いし、体は,変わろうとしている。どんなに抑えても,止まらなくて,気が狂いそうになる。
もう人間なんかじゃない…嫌でも、違うんだ。
だから…もう心を決めた。お母さんが助けてくれても、助けてくれなくても、私は,もう決めたから。
でも、できたら、助けてほしい…そばにいてほしい。」
海保菜は,娘の言葉を聞いて,すぐに頷いた。娘は,ただのふとした思いつきで,また海に行きたいと言い出した訳ではないようだ。心底の深い葛藤に立ち向かい,自分なりに自分と向き合い,色々模索した上で,決意したことだった。娘は,もはや途方にくれたり,右往左往していない,ちゃんと自分でそれを乗り越え,答えを出したのだった。海保菜は,娘をなめていたことを静かに反省した。もう子供じゃなかった。もうすぐ,十三歳だ。自分は,十三歳の時,こんなにしっかりしていたのかな?まだまだ子供だったような気がするけれど…。
「わかった。じっくり考えた上で決めたことなら,私は,止めない。尊重する。」
海保菜がそう言ってから,しばらく黙って海を遠く眺めた。
今日の海は,深い霧がかかり,霞んでいる。海保菜は,この曇天の海も好きなのだ。
「助けてくれる?助けてくれない?どっち?」
保奈美は,母親の返事では,満足できずに,追求した。
「もちろん,助けるよ。」
海保菜が小さい声で言った。表情は,保奈美が初めて見る表情だった。
「助けなかったら,母親失格だ。人魚失格だ。保奈美の言う通りだ。 あなたと龍太が海の事を追求しようとするのを妨げるんじゃなくて、助けなきゃ。
人魚らしくしなきゃ。あなたたちも,望めばそうなれるように…もう守れないから…。」
二人とも,しばらく黙り込み,辺りが静寂に包まれた。海保菜は,どんなに霧のかかった海を凝視しても,自分がやろうとしていることが正解だという確信が得られないまま,複雑な心境だった。
でも,娘が決めたことだから,それを尊重するしかないと思った。
海保菜は,ようやく保奈美の方を向きなおした。
「じゃ、行こうか?本当に覚悟ができているなら。」
海保菜が保奈美に,手を差し出した。
「今?」
「その方がいいんじゃない?不安が募らないように…。もう決めたでしょう?私は,もう妨げない。止めようとしない。
私はね,人魚だけど,ずっと陸で暮らしているせいか,人魚の考え方だけでは,物事を決められないところがあるの。色々考えてしまう。
でも,これからは,私は,人魚だけでありたい。人魚として,母親がしたい。保奈美の周りには,本物の人間がたくさんいる。私がわざわざ,それになろうとしなくても,あなたの心の人間の部分を守る人は,いくらでもいる。でも、人魚のところを守れるのは,私だけだ。
そうすることで、保奈美が傷ついたり,困ったりすることもあるかもしれないけど、それでもいい?」
「うん、それでいい。というか、それがいい。人魚がいい。本当のお母さんがいい。」
「わかった。じゃ、水に入って。」
本当の自分とは,一体,何なのだろう?海保菜は,ずっと生まれつきの人魚の姿が本当の自分だと思っていた。そして,体は,それでは間違いないが,心は,陸で長年暮らしてきた今は,もはや,その単純なものではない気がした。娘への約束が守れる自信は,なかった。自分の中の人魚らしいところと,そうでないところを綺麗に二つに分類し,演じ分けられる自信がない。いくらしたくても,そのことができない。どうしたらいいのだろう…。
自分の本当の姿は,何なのだろう?海で泳ぐ自分?尚弥と一緒に暮らす自分?両親と昔話をして,笑う自分?子供たちと一緒に過ごしながら色々悩む自分?海をぼんやりと眺める自分?数年前に,自暴自棄になら,海竜になって,泳ぎ回った自分?
どれも,本当の自分のような気がする。そのいろんな自分の中の一つを取り出し,子供の前で,その自分だけを演じ切ることなんて,出来るわけがない…やっぱり,全部見せるしかない。これまでのように,人魚のところを隠すのではなく,でも,陸で暮らす自分をなしにするのでもなく,全てを曝け出して,見せないといけない。それが,きっと保奈美が求めていることに違いない。
しかし,今求められている自分は,人魚の自分に他ならないのだ。それについて,議論の余地はない。
ただ,一番自然でありのままに演じられるはずなのに,それが自分自身なのに,子供の前では,なかなか上手く演じられないから,困る。十年以上,子供には,絶対に見せまいと努力して隠し通した自分を,今,あえて見せようとするのは,いつまでも抵抗があり,非常に難しい。ずっと見せてはいけないと警戒していたところを,今は,逆に見せてもいい,見せるべきだと自分に言い聞かせても,なかなかすぐには,出来ないことなのだ。
でも,難しくても,抵抗はあっても,見せなければならない。長年続けてきた人間の親の芝居をやめて,人魚として,自分として,子育てをしないといけない。ただ,ずっと芝居を続けていると,いつからともなく,芝居ではなくなっていたというか,芝居の方が得意になっていた。今でも,そうなのだ。見せているつもりでも,気がついたら,途中からまた芝居に戻っていることがしばしばある。どうして,そうなるのか,自分でも,もどかしくて,腹立たしくて,仕方がない。
「お母さんがさっきに入って。」
海保菜は,首を横に振った。
「逃げられる。目に浮かぶわ。」
「逃げないよ!初めて見るわけじゃないし,もう怖くない!一緒に島に行ったし。」
「うーん,でも、人間の姿で,人魚のお母さんに付き合うのと、自分が初めて,自ら海に入って,人魚になってから,付き合うのと随分違う。初めての時だって,自らじゃない。」
「逃げない。約束する。」
「そうか…私があなたに私の事を信じてほしいと思うなら、私も信じないとね。わかった。先に入るから,必ずついてきて。」
海保菜は,海に入り,保奈美を待った。
「おいで。」
と優しく呼びかけた。
保奈美も,海に向かって数歩歩き進んだが、波打ち際の手前で,突然立ち止まった。棒立ちになって,動けなくなった。
「ちょっと待って。」
海保菜は,突然何かを思い出したかのように,言った。すると,波の中から這(は)い上がり、保奈美に近くまで来るように合図した。
保奈美は,従順に母親の傍に座った。
「また会えたね、ようやく。」
海保菜は、保奈美の手を強く握って,言った。
保奈美は,母親をすぐに抱きしめた。
「どう?感じる?」
「感じる。全部,感じる。ありがとう。」
海保菜は,嬉し涙を流した。
暫く,一緒に座った。
「どう?意志は,揺らいでいない?まだやるつもり?別に,このままでもいいよ。誰も責めない。」
海保菜が娘の気持ちを試すつもりで言った。
「やる。」
「分かった。」
海保菜は,腰を浮かして,また波の中へ飛び込んだ。
「なら、おいで。ためらわなくていいよ。助けるし,運命だよ。」
保奈美は,目を閉じて、髪の毛が潮風でなびき、波が岸に打ち寄せられる音を静かに聞いて、体中で感じて,味わった。
「そうだよ。海が呼んでいるよ。あなたも,私と同じように海のものだから。
おいで。約束したでしょう?一歩だけでいい。浸からなくても、足を踏み入れるだけでいい。少し肌が触れるだけでいい。」
保奈美は,再び目を開けて、助けを求めるような顔で,母親を見つめた。
「あなたは,一人じゃない。私がいるよ。
一歩でいい。足を自分でつけると、あとは,私が助けてあげる。でも、その一歩は,あなたの足で踏まないとダメだ。あなたの意思じゃないとダメだ。頑張れ。」
保奈美は,深呼吸してから、水の中へ,一歩前へ踏み出した。肌が水に触れると、すぐに心の中が静かで,平穏になり、海のエネルギーが体の中へ流れ込んで来るのを感じた。動けなかった。海に包まれているようで,出ように出られなかった。足が崩れるまで、ずっと動けずに,波打ち際で立ったままだった。
海保菜は,すぐに彼女のそばへ駆けつけて行った。
「大丈夫。」
海保菜が娘の傍まで来て、保奈美の肩に手をかけた。
「海から出して。出たい。」
「なんで?もう遅いよ、保奈美。」
「早すぎる。」
「早い方が楽だよ。」
海保菜がそう言ってから、保奈美の腕をつかみ,水の中から,引っ張り出した。
「はい、出たよ。落ち着いて。深く息を吸って、自分を落ち着かせて。」
「できない!」
保奈美が嘆いた。
「できないね…怖いね…。」
海保菜が無意識に,人間の視点で話し始めては、ふと気がついて、自分を止めた。
気を取り直して,また喋り始めた。
「でも、怖いと思ったらだめだ。これからなる姿も,あなただよ。
抵抗すればするほど、痛みが増す。戦わずに、身を任せて。どうせ、あなたには,自分という相手(敵)しかいないから。前回,自分とずっと戦いながらでも、できた。今回は,戦わずに体を委ねたら,どれだけ楽か…。
海があなたの体を変えるのを待つんじゃなくて,自ら変えたら,楽だよ。」
「…自分で?」
海保菜は,頷いた。
「できるよ。海の力があなたの体の中を流れているから,あなたには,その流れを制御できたら、 いろんなことができる。本当は,水も要らないよ。全部,自分でコントロールできる。」
「できない。」
「練習すれば、きっと,できるようになる。私は,もう何年もやっているから…。」
「え?お母さんは,人魚だから、変わらなくてもいいでしょう?魔法みたいに,早いでしょう?痛くないでしょう?」
「…よく覚えているね。人魚になる時の話じゃなかった。」
「え?じゃ,人間になる時の話?」
「いや,それは,機械を使っているから、自然じゃないから,コントロールしたり,痛みを和らげたり出来ないよ。」
「え?じゃ,何の話?」
海保菜は,困った顔をした。娘に人魚の自分を恥ずかしがったり,ためらったりせずに,上手に見せられていると思ったら,口を滑らせてしまった。保奈美には,まだ海竜の話をするつもりはない。特に,このタイミングでは,言わない方がいいと思った。
「…今は関係ないから、忘れて。」
「ちゃんと話すと約束したのに。」
「はい,またちゃんと話す。でも,今は忙しいでしょう?」
保奈美は,頷いた。やっと,痛み出した。
「やっと始まったんだね。怖くなって、ずっと抑えようとしたんだね?だめだよ。そうするから,苦しくなるんだよ。」
保奈美が目を逸らした。
「まあ、意識的にやっていることじゃないから,仕方ないね…。
保奈美さえよければ、あなたを楽にさせる方法が他に色々あるけど…。」
海保菜が保奈美の頭に水をかけながら,言った。
「…やっぱり,水は気持ちいい!」
「気持ちいいでしょう?その「気持ちいい」だけに集中してみて。今は,別に酔ってもいいよ。というか、酔った方が楽だよ。抵抗しなくなるから、自然に。」
「他にどんな方法がある?」
「ずっと海の中にいてくれたら,早くて,楽だよ。
あるいは,私が舐(な)めると早くなるよ。
でも,あなたが抵抗すると,何をしても,痛みがひどくなるだけだよ。」
「舐める!?舐めたいの、私を!?」
「うーん、舐めたくない。舐めたら,あなたが少し楽になるから,提案した。
肌でただ触れ合うより,ずっと早く,効率よくあなたには,必要な成分を届けられるから。
本当は,私が分けてあげなくても,ちゃんとあなたの中にもあるけど、あなたは,大人の人魚みたいにそれを自分でコントロールして,必要な成分を取り出したり出来ないから…遅いの、必要以上に。」
「でも、舐めるって,なんか動物みたい。」
「うん、動物みたいだよ。というか、動物だよ。人間より,ずっと野生に近い動物なんだ。あなたにも,感じられるでしょう?でも,それが私たちなんだ。抵抗するんじゃない。」
「…やっぱり,いやだ。」
「まあ、こんなに抵抗していたら、舐めたところで,逆効果かもしれないね。成分が分泌されても,その働きにいちいち反発していたら、余計痛くなって,苦しくなるだけだから。」
「抵抗していないよ。」
「意識していないだろうけど、体中で抵抗しているよ。私にはわかるの。神経を張りつめているとか,リラックスしているとかが,わかるの。」
「それも,本能?」
「そう、うまいことできている。」
保奈美の腹部が急に酷く痛み出し,痛みに耐えようとして,腹部を手で押さえて,屈んだ。
保奈美が海保菜を見上げた。
「やっていいよ。何でも,できることは,やっていいよ。お願い…助けて。やるんじゃなかった。痛みを忘れていた。」
保奈美が喘(あえ)ぎながら,言った。
「あなたは,よく、耐えているよ。もうすでに,ここまで来たし、誇りに思うよ、あなたのこと。」
「さっき言っていたこと,やっていいよ。やってほしい。動物でもいい。」
「やってみるけど…あなたがエネルギーを拒むのをやめて,自ら吸収するようにならないと,もっと痛くなるだけだよ。」
海保菜が保奈美を優しく自分の体の近くまで引っ張り、お腹を舐め始めた。
海保菜の舌が肌に触れた途端、保奈美は,悲鳴を上げた。
「保奈美!だから,戦うなって!海に身を任せて。そして,私を信頼して。」
「やり方がわからない。戦っているつもりはない。」
「でも、そのつもりはなくても,戦っている…まあ,どんなに痛くても、早まるは早まるけど、耐えにくいよ。
それだ!痛みに耐えようとしているからだ!構えて、耐えようとするんじゃなくて,痛みに身を任せてみて。痛みを恐れない!痛みを恐れて構えている限り、私が何をしても,助けると同時に傷つけてしまう。魂をこの海に譲ってください。痛みを歓迎してください。そうすれば、痛くなくなるから。」
「そんなこと,できないよ。」
「できないか…。」
海保菜は,舐めるのをやめて,ただ,水をかけることにした。水を沢山かけると,保奈美は,抵抗しなくなるくらい気持ちよくなるかもしれないと思った。娘の意識に,本能を勝たせないとダメだが,それは,とても難しいことだ。
「私に何をしてほしいのか,よくわからない。話がわからない。」
「言葉では,わからないね。理解するのに,時間はかかる。まず、体で理解してもらわないと,難しいだろうね。」
海保菜が娘の腹部に水を十分にかけてから,優しく舐めた。保奈美は,落ち着いていた。
「痛くない?」
「痛くない。」
「ほら,できている!さっき,言ったことできている!戦っていない!よく,わかったね!」
海保菜が娘の頭と肩を撫でて,褒めた。
「いや,あまりわかってないけど…早い!」
「うん、あまり抵抗していないから。」
「もっと水をかけてくれる?」
「はい、喜んで!」
「気持ちいい!」
「気持ちいい?少し余裕が出来てきたみたいだね。身を任せているから,気持ちいいよ。戦っていないから,痛くないよ。」
「いや、痛いけど。」
「ちょっとだけでしょう?叫んでいないし。」
「足にもっと水をかけてくれる?」
「もう足じゃないけど,もちろん,いいよ。」
保奈美は,久しぶりに自分の足を見た。海保菜が水をかけると,ますます変わり始めた。久しぶりに怖いという気持ちが胸の底から,こみ上げてきた。
「大丈夫。怖いと思うな。考えるな。またじたばたし出したら,苦しくなるよ。このままがいい。体を楽にして。」
海保菜が厳しく言った。
「あと,もうちょっとだよ。今回は,本当によくやった。トラウマを克服したいという強い意志を感じたわ。 お疲れ様。」
海保菜がしばらくしてから,言った。
「上手く,やっていない。ずっと泣きながらだよ。」
「それは,仕方ないよ。痛いもの。気にしなくていい。迷惑じゃないし,泣きたいときに,泣いていいよ。」
「でも、やっぱり,気持ち悪い…。」
保奈美が腕の中から鰭が生えてくるのを見て,言った。
「そうだね。だから,見ない方がいいと思う。」
海保菜が娘の背中を撫(な)でて,言った。
「ごめん。聞こえると思わなかった。」
「なんで?いいのよ。私は,もう芝居しないと約束したし、あなたも,芝居しなくていいよ。 ありのままでいいよ。
ありのままの保奈美が一番いい。」
保奈美が母親を抱きしめた。海保菜が抱きしめ返した。
「舐めたりして、体がもっともっと変わって、人間と人魚以外のものに変わるとうっかり言っちゃって…それでも、ハグしてくれるの?怖くないの?」
「もう恐れない。よくわからないところはあっても,私の大好きなお母さんだから。もう怖くない。」
「ありがとう。」
海保菜が涙ぐみながら言った。
「教えて。何に変わるの?」
「保奈美、タイミングが悪いよ…。」
「ちゃんと話して。」
「人魚は,みんな海竜に姿を変えられるの。」
「竜!?」
「うん、竜というか,海竜。」
「大丈夫??この話を聞いても,怖くないの?」
保奈美は,少しも怖がらないから,海保菜は,びっくりした。
「…半分しか信じていないからね。」
「信じてもらえなくても、証明するつもりはないので…。」
保奈美は,驚いたまま海保菜をまじまじと見つめた。
「なんで竜なんだろう?」
海保菜は,愛しさを込めて保奈美を見た。
「好奇心旺盛で、訊きたいこともたくさんだね!!可愛い。」
海保菜が娘の頭を撫でて,言った。
「人魚の先祖だから,遡(さかのぼ)れば。今は,こういう半人半魚に進化したけど、昔は海竜だった。」
「え?」
「ある意味,今も,海竜だけどね…その名残は心の中にあるし、体も戻りたければ,戻れる。そして、今晩あなたの姿を変えたのもそれだ。海の力でもあり、自分の中で生きる海竜でもある。」
「竜じゃないよ,私…。」
「否定したかったら,否定していいよ。見せるつもりはないから。」
「どうやってなるの?いつなるの?」
「簡単そうで,難しいよ。ずっと,私があなたに言っていることだ。戦わずに海に身を任せる。正にそれだ。それを完璧にできた上で,更に,集中して,自分の魂の野生のところに身を委ねる。海と完全に一つになるという感じかな。
…分かるかな?言葉で説明するのは,非常に難しいけど、あなたが今日やったこととは,基本的に同じだ。
でも、気を付けないといけない。集中しすぎて,一度意識を失ってしまうと,人魚に戻れなくなるから。竜として,生涯過ごすことになる。人魚だったという記憶も,意識も,消える。」
海竜について話す海保菜の表情は,保奈美のこれまで一度も見たことのない表情だった。
「…怖い。」
「怖いか。忘れていいよ。まだ話すつもりはなかったし。」
「どんな時になるの?今とか,変わらないよね?」
保奈美が心配そうに尋ねた。
「体が勝手になることはない。
安心して。見せないし,私は慣れているから、なっても,記憶とかは,しっかり残っている。あなたの事も,ちゃんとわかるし、どんな姿でも,あなたを傷つけない。
もちろん、あなたの前で,変わることはないけどね。なる理由もない。だから、気にしないで。この姿だけを受け入れてもらえたら
もう十分すぎるぐらい十分だよ。」
海保菜が自分の体を指して,言った。
「もうすでに受け入れてくれているね,自分がもう一度なりたいと思うほどに。あなたも,龍太も,私の期待や予想をすでに遥かに超えている。もう,これ以上,何も求めない。」
でも、海保菜にとって,海竜がとても大事だというのは,海保菜の話しぶりや表情からしみじみと保奈美に伝わった。きっと、人魚の彼女の中にも,海竜の性質と共鳴しているところがあるに違いない。他人には,あまり見せないところが。いや,海竜そのものがいるかもしれない。そう思った。そして,月光の下に座っていると、海保菜の中の神秘的で,少しも人間らしくないところが照らされ、月の光と一つになっているような気がして、保奈美は,久しぶりに少し怖くなった。母親には,どことなく,紛れもなく野生で、懐柔されることのないところがあるのは,否めない。それは,海竜だからと,保奈美は、夢にも思わなかったが,今見ていると,母親の雰囲気には、確かに,今の人魚の姿を遥(はる)かに超えた、謎めいていて,幻想的な何かが常に光っているように見えた。錯覚では,なかった。
保奈美は,今思えば,過去にも,何度も,同じことを感じたことがあることに気がついた。人間の姿でも,母親のちょっとした表情の裏に、雰囲気の底に、微(かす)かに野生の様相が表れるときがある。これまで、その表情の裏に何があるのか、その正体は何なのか、わからなかったけれど…。もちろん,海保菜がわざと見せたことは,一度もない。でも、それでも,海保菜のそういうところが表情や顔に表れる度に,呆気にとられてきたことを思い出した。
海保菜は,保奈美の物思いに耽(ふけ)っている表情から気持ちを汲(く)み取れたようだった。
「あなたにも,私には,まだわからないところがたくさんあるよ。お互い様だ。
でも、恐れは壁を作ってしまうから、恐れだけは,やめようね。怖くならないで。
保奈美から見て、私の姿が時々野生で怖いものに映ることがあるかもしれない。でも、そう見えたときは、自分もそうだって,思い出してごらん。同じだということを思い出してごらん。
保奈美は,真実を知ってから、これまで,理解しなきゃいけない相手が私だと思って、驚きと戸惑い・恐怖と衝撃を沢山乗り越えてきてくれたと思う。そして,努力してくれたことには,とても感謝している。
でも、これからは,私を見つめるんじゃなくて,自分の心を見つめて欲しい。深いところを。自分を理解することから、他人の理解が始まる。自分を理解せずに,私を理解するのも,受け入れるのも,無理だよ。あなたは,すでにそれに気づいていると思うけど…だから、今日,もう一回やってみようって,挑んだでしょう?
自分のことを知れば知るほど、私の事も知れば。自分のことが怖くなくなれば,私のことも怖くなくなる。
あなたが理解しないといけない相手は,自分だよ。私じゃない。」
保奈美は,頷かなかった。ただ,海保菜の顔を怖そうに見上げるだけだった。
海保菜は,いつも自分の表情や雰囲気に微かにしか表れない野生のところをわざと前面に出していた。初めて隠さずに,堂々と見せていた。保奈美は,とても怖かった。
「怖いだろうね。竜について,どんなイメージを持っているか,私にもわかるから。でも、そんなじゃないよ。
今,保奈美は,危ない動物を見る目で私を見ているけど、危なくないの。野生だし、その野生のところがきっと,私の顔や雰囲気に出ていると思う。でも、私はコントロールできているから,大丈夫なの。野生の動物とは,違う。急に襲われたりしない。
人間も,怖いところは,たくさんあるよ。顔には出ないけど,だからこそ、怖いの。私たちは,コントロールできている。野生と文明の間の存在だけど、中庸(ちゅうよう)を保てているの。人間には,それができないけど、私たちはできるの。
人間は,自分の醜(みにく)いところには気づかないから,すぐに虜(とりこ)になり,蝕(むしば)まれてしまう。認めないから。でも、私たちは野生のところを認めているし、受け入れている。だから,振り回されたり,支配されたりすることはない。人間は,逃げようとするから振り回される。私たちは,逃げない。だから、大丈夫なの。
だから,あなたは,私の事も、自分の事も、恐れなくていい。丸ごと受け入れたら,いい。
あなたは,まだ自分のことがよくわからなくて,わかるのが少し怖いでしょう?でも、そのあなたも,いつかは,こうなる。制御できるようになる。自分を支配できるようになる。心の中の葛藤に打ち勝つまでは,しばらく振り回されるかもしれないけど,必ず抜け出せるから。
今、私の顔の裏に,嵐があるように見えるでしょう?あなたの魂の奥底にも,その同じ嵐があるの。吹き荒れる嵐が…私にはわかる。感じられる。今のあなたは,その嵐に支配されている。でも、それではダメだ。あなたが指揮をとらなきゃ。」
海保菜がそう言って,自分の手を保奈美に差し出した。
保奈美は,最初,反応しなかった。
「大丈夫。自分の手だから,ちゃんと動くよ。私の手を取って、自分で。」
保奈美は,少しためらってから,母親の手を握った。
「ほら、できた。どう?感じられる?」
保奈美は,頷いた。
「いいなぁ…いつも感じられるって。ちょっと羨ましい。」
保奈美は,あまり嬉しくない表情をした。
「まだ慣れていないからね。さっき,自分で初めて動かしたばかり…でも、ほら,今は,同じだよ、私たちの手!」
海保菜は,保奈美の手に,自分の手を重ねてみた。
保奈美も,ちょっとした感動の声が喉から漏れ出た。
「やっぱり、保奈美も嬉しい?」
海保菜が尋ねた。
保奈美は,小さく頷いた。
「お母さんは,すごく嬉しいよ!体は同じだから,いつもより,近く,親しく感じる。親子だ。」
海保菜がそう言ってから,保奈美の手を握り直し,水の中へ飛び込んだ。
「あまり、海では,こういう布は,身につけない方がいいと思う。」
海保菜が保奈美の姿を見て,呟いた。
「服は,これしかないからしょうがないじゃない?」
「服は,要らないよ。海では,誰も服を着ない。」
「裸は,無理!」
「うん,いきなりは,無理だろうから,これを貸してあげる。少し大きいと思うけど…。」
海保菜が、自分が胸につけているものを指差した。
「でも,私がそれをつけたら,お母さんは,どうする?」
「海は,裸でいい。裸という概念もないからね。お母さんは,その文化で育っているから,何も着なくても,平気だ。」
「だめ!裸は,だめだよ!見たくないよ!」
海保菜は,思わず,吹き出した。
「やっぱり,まだ人間だね。こう見えても…可愛いなぁ。」
保奈美は,イラッとして,母親の顔を見上げた。これまで,母親が冗談を言うのをほとんど聞いたことがない。「人間」という言葉をからかう意味で使うのも,初めて聞いた。祖父母なら,よくするだろうけど,少なくとも、保奈美の前では,海保菜は,普段しない。どういう意味で笑っているかも,気になる。海保菜は,馬鹿にするような笑い方ではなくて,優しい笑い方だったが,保奈美は,馬鹿にされた気持ちだった。
海保菜は,保奈美が気分を悪くしたことには,すぐに気づいた。
「何?今は,逆に,人間だと言われると嫌なの?」
「嫌じゃないけど…。」
「でも、今,怒っているでしょう?」
「言い方がひどいから。馬鹿にしているみたい。」
「え?馬鹿になんかしていないよ。
気を使わずに,自然に振る舞ってと言ったのは,保奈美だよ?」
「…ごめんなさい。」
「やっぱり,当分,気を使わないとね…。布を着たままでいいよ。私も,これを脱がない。
はい,行こう。」
「布って…服だよ。服って言って。」
「…服のままでいいよ。」
海保菜が少ししょんぼりした声で言った。
やっぱり,娘の前では,自然体でいようとしても,うまくいかない。すぐに気分を悪くさせてしまう。せっかく,腹を割って,色々話せていたというのに…娘には,嫌われたくなければ,まだある程度気を使って接した方が良さそうだ。
「保奈美も,一緒に!?」
拓海がそう言って,おじいちゃんとおばあちゃんが満面の笑顔で,保奈美を迎えた。
「連れて来れないって言っていたのに…。」
仁海が言った。
「一緒に来たいって,言ってくれたから,連れてきた。」
拓海も,仁海も,嬉しそうに頷いた。
「もう怖くない?」
仁海は、喜びが溢れているような顔で,保奈美に尋ねた。
「もう…大丈夫…。」
保奈美が言った。
「でも,この布は,何!?」
拓海が保奈美の着ているパーカーを指差し,吹き出して,言った。仁海と海保菜も,笑った。
保奈美は,何が面白いか,腑(ふ)に落ちない。
「面白いでしょう?最近,夜は,冷え込むようになったから。人間は,気候と季節に合わせて,服を選ぶの。これは,少し肌寒い時の。」
海保菜が笑いながら,説明した。
「何が面白い?」
保奈美が小さい声で言った。
「ごめん!笑って,悪かったね。別に,からかっているわけじゃないから,気にしないでね。」
海保菜がすぐに謝った。
「まあ、座って、座って。疲れたでしょう?」
仁海が座る場所まで案内した。
「お母さんが小さかった時の絵,見ない?」
「絵?…写真の事?」
保奈美が訊いた。
仁海は,スケッチブックを引き出しの中から取り出して,保奈美の膝の上に置いた。
「誰が描いた?」
「知り合いの絵が上手な人。」
保奈美は,絵をゆっくり見つめたが、母親の姿がわからなかった。
「お母さんは,どっち?」
「こっちだよ。」
拓海が指差して,示した。
「いくつだった?この時。」
「ふーむ。どうだろう…8歳ぐらいかな?今のあなたより小さいのは,確かだけど…お母さん、覚えている?」
「いや…7歳ぐらいだと思うけど、よく覚えていないわ。」
仁海も,はっきりと覚えていない様子だった。
一番最後のページは,赤ちゃんの時の絵が二つあった。
「はい、私は,どっちだと思う?」
「これ?」
「いや、それは私の弟。残念。」
海保菜が笑った。
「今回は,保奈美もせっかく来てくれたし,すぐには,帰らなくてもいいんじゃない?しばらくいるよね?」
仁海が尋ねた。
「そうだね。保奈美、いつまでがいい?しばらくいたい?」
「うん、しばらくいたい。」
保奈美は,部屋の中を見回しながら言った。
「今回は,楽しめそうだね!」
仁海が目を輝かせながら言った。
「早く一緒に出掛けられるように泳げるようになって!」
拓海が言った。
保奈美は,小さく頷いた
「今日は,もう遅いから,寝よう。今回は,寝れるかな?」
海保菜が訊いた。
「多分寝れると思う。」
保奈美は言った。
海保菜は,娘の手を取って,寝室へ案内した。
「今回は,一緒でいいかな?寝るのは。」
「いいよ。」
「ありがとう。」
「これは,何?」
「それは,ランプだよ。」
「電気は,使えるの?」
「電気じゃないよ。深海の光る動物と同じ仕組みだ。」
「じゃ、やっぱり電気はない?」
「海で電気が使えるのは,ウナギぐらいだよ。」
「この毛布は?何でできている?」
「アザラシの毛皮だよ。」
「え!?」
「殺していないよ。死ぬ時に回収するの。」
「じゃ、この家は?どうやって,作ったの?」
「私は,作っていないので詳しいことはわからないけど,主に硬い珊瑚でできている。」
「これは?」
「本だよ。」
「読めない…。」
「人魚の言葉で書いているからね。」
「人魚の言葉って,あるの?」
「もちろんあるよ。いろんな言葉がある。民族によって,違うし。
人魚には特別な力があって言葉が は違っていても理解できるの。聞いたことのない言葉でも,理解できるし,真似もできるよ。」
「なら、なんでみんなは,私の言葉がわかるの?おばあちゃんとおじいちゃん。」
「そういう力だから…あなたにもあるよ。真似する方はないみたいだけど,私やおばあちゃんとおじいちゃんの話していることがわかるでしょう?
私は,あなたが初めて変わった夜からずっとあなたと話す時は,人魚の言葉を使っている。ただ訛(なま)っているだけじゃない。」
「え!?…でも、普通にわかるよ。」
「うん、そういう力だよ。」
「なんで,人間の言葉もわかるの?」
「必要だから…本能と同じようなものだ。自分たちを守るためによく偵察するよ。
「へえ。私にも教えて。」
「教えるものじゃないし,要らないよ。みんなは,あなたの言っていることが、たとえ違う言葉でも、わかるし,あなたも理解する力があるから,コミュニケーション上,困ることはない。」
「でも、私が違う言葉でしゃべっているのは,みんなはわかっているでしょう?」
「うん、わかるよ。あなたには,わからないみたいだけど…人間と人魚の間の存在だから。」
「なんか、いやだなぁ…申し訳ない。」
「あなたの喋っている言葉を理解しようと誰も努力していないから,いいよ。誰にも迷惑をかけていない。」
「教えて。」
「教えられない。私が人魚の言葉で話しても,あなたの頭の中では訳されるから、今みたいに、知らないうちに。人間の語学とは,違う。努力して,覚えるものじゃない…自然に身についている力だよ。あなたがおばあちゃんとおじいちゃんの言葉を理解しようと努力していないと同様に,私たちもあなたの言葉を理解しようと努力していない。
同じ言葉を喋ろうとも努力していない。完璧じゃなくても,努力しなくても,自然に真似もできるし。いつか、あなたのその理解する力がもう少し発達して,真似もできるようになればそれでいいんだ、わかる?でも、そうはならなくても,周りも,あなたも,苦労することはない。みんな,わかる。大丈夫。」
「話がおかしすぎて,よくわからない。」
「わからなくてもいいよ。」
「文字も学んだことがなくても,読めるの?」
「いや、それはできないなぁ…喋る言葉だけだよ。」
「不思議な力だね。中途半端というか…。」
「あなたは,もっと中途半端だよ!」
「そうだね…みんなは,私の事をどう思っているのかな?」
「来てくれて喜んでいる、それだけ。心配はいらない。」
「その話じゃない…私を仲間だと思っているかな?」
「仲間?孫だから,孫だと思っている。」
「泳げるようになっても,だめかな?」
「何がダメ?どうしたいの?」
「みんなに気を使ってほしくない、お母さんにも。迷惑をかけたくないし,合わせてほしくない。こっちから,合わせたい。」
「なら,まず、あの変な服を脱いで。」
「変な服…?普通のパーカーだよ。」
「この世界には,パーカーなんてものは,存在しないし,服もない。北極海に住んでいる民族しか着ない。その基準で言ったら,変だよ。この世界の基準に合わせたかったら,そういうことから始めないと。私が教えてあげる。」
「…でも、恥ずかしい。」
「そういう「恥ずかしい」とかもね,人間の気持ちだよ。」
「どうしよう。」
「何もしなくていい…合わせたいと思ったら,してくれてもいいけど,別にしなくてもいい。
お母さんは,同じ体になってくれているだけで,十分合わせていると思うけど…。」
「でも、私は人魚でしょう?」
「…半分ね。」
「なら、少しぐらい合わせなきゃ。」
「なら、脱いで。全部。海では,服を着ないよ。」
「じゃ、何?貝だけ?」
「うーん、貝も泳ぐときだけだよ。全然しない人も,いるし。そして、しても恥ずかしいからじゃなくて,しないと,泳ぐ時に,胸が邪魔になるから。男性は,全く何も纏(まと)わないよ、貝も何も。女性も泳ぐ時以外は,裸で過ごす。
私は,今,あなたに気を使って,寝ていても,しているけど,普通だったらしない…怪我するから。」
「なんで?」
「だって,貝だよ。硬いよ。食い込むよ。前回,一緒に来た後も,一週間ぐらい痛かったよ。」
「ごめんなさい…。」
「もう気を使わなくていい?本当に?」
海保菜が試すように娘の目をまっすぐに見た。
「うん。」
「じゃ、脱ぐね。」
海保菜は,保奈美の視線が気になって,背を向け,脱いでから,また毛布の下に潜った。
「あなたも同じようにしたらいいよ,背を向けて。見ないから。私がさっきやったように。見られるのが恥ずかしいと思うから。」
「じゃ、普通だったら,何?人前で脱いだりするの?男の前でも?」
「うん、している方が不自然なくらいだ。明日は,普通にさせてもらうね。」
保奈美は,小さく頷いた。
「あなたは,自分のペースで慣れてくれたらいい。無理しなくても。」
保奈美は,また小さく頷いた。母親に背を向けて,パーカーを脱いだ。シャツも脱いだ。でも、そこで手が止まった。
「できない。ごめんなさい。」
保奈美は泣き始めた。
「いいの、いいの。しなくても,大丈夫。自分のペースでいいよ。焦らなくても。ずっと嫌でもいいし,大丈夫。」
保奈美は,下着をしたまま毛布の中へ潜った。
「下着まで脱いだ?偉いじゃん!」
海保菜が褒めた。
「でも、下着は脱げない。」
「いいよ,それで。どんな格好でもいいよ。人間が「難しい」という年頃になったばかりなのに,下着まで脱いで,偉いよ。凄いよ。」
海保菜がまた起き上がって、括(くく)っていた髪の毛を解いた。これも,本当はおかしい。今日は,保奈美が行きたいと言ってくれて,嬉しくなって,うっかりした。母は,あなたが一緒にいるから何も言わなかったけど,普通だったら驚愕されるところだった。「髪の毛を一体,なんで括っているの!?」って。」
保奈美は,母親の裸を見ずにはいられなかった。
海保菜は,娘と目があった。
「じっと見ているし…慣れたら,全く気にしなくなるよ。」
「本当に,そうなるかな…?」
「あんなに嫌だったのに,またここに来たいと思うようになったでしょう?
体が変身したのも,大人に近づいているからだし,やっぱり,これから人間としても,人魚としても,生きていけるような体になっていく…心も体に合わせて,変わって行くだろうし。
全部,普通ではないけど、私が産んだ子だから,普通だ。一応,私は,とても納得できているけど…怖いね?嫌だね?」
「嫌じゃないよ…。」
「まだ嫌でもいいよ。」
「嫌じゃない…私も納得できた…ずっと浮いていた。学校で,ずっと周りの子供とは,どこかうまくいかないところがあった。あまり仲良くなれなかったし,馴染(なじ)めなかった。」
「しなくていいよ。学校でも、ここでも。無理して,溶け込もうとしなくていい。保奈美は,保奈美のままでいい。あなたらしく生きたらいい。」
海保菜が保奈美を抱き寄せながら言った。
「でも,学校ではできなかったから,ここでは,上手くやりたい。頑張りたい。」
「何も頑張らなくていい。自分を変えなくていい。」
海保菜が首を横に振った。保奈美を強く抱きしめた。
「…柔らかい。」
「あっ、ごめん!忘れていた。小さい時みたいに,つい…!」
海保菜は,慌てて娘を放した。
「いいよ。お母さんも,頑張らなくていいよ。」
「ありがとう。」
海保菜は笑った。
「でも、私は,頑張らないといけない…。」
「今は,しなくていいよ。大丈夫。いやじゃないから。」
「本当?」
「うん。」
「ありがとう。お休み。」
海保菜は,愛しく娘の頭を撫でてから,また横になった。
「寝れそう?」
「…わからない。」
「慣れていないところだし,この体も慣れていないし,なかなか楽になれないかもしれないね。私も,陸でぐっすり眠れるようになるのに数ヶ月かかったよ。」
次の朝,目覚めると,海保菜はまだ横にいた。
「どう?寝れた?」
「うん、少し寝れたよ…。」
「やっぱり,これもあなたの体だからね…なんか、羨ましい。」
「着ていいかな?これだけ。」
保奈美はTシャツを指差して,訊いた。
「恥ずかしかったら,着ていいけど…。」
海保菜は,途中で言葉が途切れた。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど…ただしばらくいたいと言っても,短い時間しかいられないから,頑張ってほしいなぁ…下着だけでも,違和感はあるよ、みんな。正直に言うとね。」
「どうしよう…。」
「それは,あなたが決めることだ。親は理解があるから,何を着ても嫌がったりはしないけど…何か言われるかもしれない,夕べみたいにね。そして、それが嫌なら…。」
保奈美は,しばらく黙って考えた。
「じゃ…このまま…これは,脱げないけど。」
「それでいい。それでも,がんばっているから。」
海保菜は,保奈美をまたみんながいる部屋まで案内した。
ご飯を作って,待っていた。
「おっ!起きたね。寝れたかな?」
拓海が尋ねた。
保奈美は,答えないから,
「大分寝れたみたい。」
と海保菜が代わりに答えた。
「よかった。よかった。じゃ、居心地良くなったかな、この場所?前より。」
拓海が保奈美に返事を求めて訊いた。
保奈美は,小さく頷いた。
「服も,大分脱いでくれているし…。」
仁海が嬉しそうにコメントした。
「でも、そこまで脱ぐなら,全部脱いだらいいのに…。」
「もう充分頑張っている。」
海保菜は,すぐに庇った。
「恥ずかしい?」
仁海が訊いた。
「私たちは,みんな見せているけど,恥ずかしくないよ、ちっとも。あなたも慣れた方がいいよ。」
「だから、段階的に…。」
海保菜は,言いかけたが,最後まで言い終わらないうちに,仁海が喋り始めた。
「海保菜,あなたも励ましたらいいのに…人魚でしょう?
どうして,海にいる時まで,人間の芝居なんだ?娘に本当の自分を見せないと,いつまでも学べない。」
「見せている。大丈夫。彼女も頑張っている…。」
海保菜が素っ気なく言った。
「なんか、ごめんなさい。」
保奈美がつぶやいた。
「あなたは,何も悪くないわよ。あなたのお母さんが悪い。人間の子供じゃないのに,人間扱いをして」
仁海が海保菜を叱った。
「人間じゃないけど,陸で育っているし,この世界の事は,まだよく知らない…少しずつ慣らしてあげないと,拒絶反応を起こすかもしれないし。」
「私は,そう思わない…逆に,圧倒され,戸惑うぐらいたくさんの事を体験させた方がいいんじゃない?」
拓海は,仁海と同じ意見らしい。
「戸惑いを乗り越えたら,理解や,自分は人魚だと言う自覚が生まれるからね。
あなたのやり方だと,戸惑いから守っているからいつまでたっても,自覚は生まれないし,慣れない!」
仁海がさらに言った。
「戸惑いから守っていない!ずっと戸惑っていたよ。今は,ようやく少し落ち着いてきて、自らまたここに来たいって言ってくれたのに…それなのに…せっかく芽(め)生えてきたその好奇心を摘みたくない。」
「脱ぐから,もうやめて!」
保奈美は,叫んで,すぐに下着を脱いだ。でも、相当恥ずかしかったようで,脱ぐなり,涙が滲んで,項垂れた。
「保奈美…ごめん。一緒に来て。」
海保菜は,すぐに保奈美の手を取り、一緒に寝室へ戻った。
「服着ていいよ。おばあちゃんとおじいちゃんの言葉を気にしなくていいよ。」
海保菜が慌てて服を着せてあげながら,言った。
保奈美は,泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい。」
「あなたは,謝らなくていい。こちらこそ,ごめんなさい。そこまで言うと思わなかった…。
今日は,もう二人で過ごそう!泳ぎを教えるよ。
泳げるようになってほしい。」
「もう帰りたい…。」
海保菜は,悲しく地面を俯いた。
「もうちょっと頑張ってくれない?今帰ったら,悪い印象しか残らない。せっかく勇気を出してくれたのに…この間とは,変わらない…いろいろ教えたいし,わかってほしい…おじいちゃんとおばあちゃんは,本当に悪気ないの。」
海保菜は,また保奈美と一緒に広い部屋に戻った。保奈美は,服を着て,涙を拭いて,落ち着いていた。
「ごめん。言い過ぎた。布を身につけていていいよ。ごめんなさい。」
仁海が謝った。拓海は,何も言わなかった。
保奈美は,返事する気になれなかった。
「もう帰りたいって言っているよ。」
海保菜が怒りをむきだしにして,母親言い捨てた。
「…帰らなくていいよ!いてほしい…せっかく来てくれたのに…まだ帰らないで。」
仁海が泣きそうになりながら訴えた。
「とりあえず,今日は,二人で出かけてくる。」
海保菜が宣言した。
「うん、それがいいと思う。二人でも,海で過ごしたことがほとんどないから…晩御飯は,用意するよ。」
「ありがとう。」
海保菜が言った。
出る前に,もう一回,寝室に戻った。
「私も何か着た方がいい?」
海保菜は,気を配って,娘の本心を探った。
「いや、大丈夫。もう慣れた。」
「本当?嫌なら、言っていいよ。どっちでもできるから…。」
「お母さんは,お母さんでいい。ただ、私は脱げない。」
「脱がなくていい。あなたもあなたのままでいい。」
海保菜は,保奈美の手を取って,家の窓から出た。
「速い!飛んでいるみたい!」
「怖い?ゆっくりの方がいい?」
「うーん、楽しい!」
「よかった。あなたもこのように泳げるようになるよ。」
「いや…私には無理だ。」
「無理じゃない。教える。」
海保菜は,海藻の林に連れて行ってくれた。
「ここは,人も,建物も,何もない。何時間でもいられるし,誰にも見られない。」
「これを着ているから,こんなところに来なきゃいけないの?」
「違う!邪魔するものがないところがいいと思っただけだよ…慣れるまでね。障害物がたくさんあると難しいよ。だから,ここにした。私は,子供の頃に,よくここで遊んだよ。」
二人は,丸一日,海藻の林の中で泳ぎを練習した。帰る頃には,保奈美は,大分上達し,そこそこ泳げるようになっていた。
「じゃ,そろそろいいかな。疲れたね…一日でマスターするのは,無理だけど,とても上達したよ。上手に泳げるようになった、本当に。お疲れ様。よく頑張ってくれた。ありがとう。」
保奈美は,小さく頷いた。
「じゃ、晩御飯を作ると言ってくれたから帰っていい?もう嫌?」
「…大丈夫。」
「自分で泳いでみる?家まで。ゆっくり泳ぐよ、一緒に。」
保奈美は,少しためらった。
「大丈夫よ。きっとできる。ついてきてみて。」
保奈美は,頷いて,少したどたどしく海保菜の後をついて行った。
「そうそう。その調子で。」
家に着いたら,保奈美は止まった。
「どうした?ついてきて。喜ぶよ。今朝の事は,気にしなくていい。悪気はなかったし,もう言わないよ。」
保奈美は頷いた。
「へえ!よく泳げるようになったんじゃない!すごい!」
拓海が感動した。
「そう,頑張ったよ。」
海保菜が付け加えた。
「お疲れ様!いっぱい食べて,ゆっくり休んで,充電して。」
仁海は明るく微笑んだ。
一週間ぐらい滞在してから,拓海と仁海にお礼を言って,帰った。
海保菜は,すぐに地下の洞窟へ行かずに,保奈美が元の体に戻るまで,一緒にいた。しかし,体は,前みたいに,すぐには戻らなかった。
「砂をかけてみて。熱い砂を。」
海保菜が提案した。
保奈美は,すぐ母親のアドバイスに従って,熱い砂を全身にかけてみた。すると,すぐに変わり始めた。ところが,変わり始めても,とてもゆっくりだった。
海保菜は,これを見て,とても心配になった。目を細めた。
「遅いね…。」
「夜だからかな…乾きにくいかもしれない。」
でも、海保菜は、そのことは,関係ないことがわかっていた。
海保菜は,保奈美が最初変わるときに,自分に吐いた言葉が甦ってきた。
「お母さんがやっているでしょう、私を変えているでしょう!」
とても暗い気持ちになった。保奈美が完全に戻れたのを見届けてから,地下の洞窟に行ってきた。
海保菜は,自分の本来の姿を母親として受け入れて、懐(なつ)いてくれて嬉しい反面,簡単に見せられるものではないから,困っていた。変われば,すぐに海へ行かなければならないが,足がないと、移動は難しい。なら,海まで移動してから,変身した方がいい訳だが,しょっちゅう海に行っていられないし,時間帯によっては,人に見られる恐れもあり,あまり気安く出来ることではない。こう考えると,子供たちの要求をひたすら拒み続けるしかないと思った。十歳と十二歳だから,説明すれば,事情をわかってもらえるはずだと思った。
ある日,二人に,いつになく,しつこくせがまれ,何かと理由をつけてひたすら断り続けた挙句,折れてしまった。結局,尚弥に海辺まで来るまで送ってもらう羽目になった。
「面倒くさいんじゃなくて…ただ、彼らは,どうなるの!?大丈夫?心配だ。特に,保奈美は,未だに情緒不安定な感じがするよ。」
尚弥は,道中,「こういうことは,困る」とぼやいてから,本音を語り出した。
「…どうなるかは,まだわからない。そのうち,克服すると思うけど…私も,保奈美のことが心配だ。ただ,最終的に彼女が乗り越えないといけないことだから…。」
「克服出来るといいね。」
「本当はね…龍太もそうだけど,今の保奈美にとって一番いいことはね、多分,私と一緒にこうして過ごすことだと思うの。
でも、不自由になるから,あまり頻繁には見せていられないし,なかなか一緒に過ごしてあげられない。」
「しばらく連れて行ってやったら?二人。
それで落ち着くなら。」
「保奈美は,まだまだその誘いにはなびかないと思うし,海に行けば,心は落ち着くだろうけど、体は,しんどくなるだけだから…安定するかどうか,わからない。」
「どういう意味?」
「彼らの体がどう反応するかは,わからないけど,大きな刺激になるから,心身が不安定な時は,できれば,避けたい。」
「まあ、あなたが考えることだけど…。」
海保菜は,その後、少し実家に帰ることにした。
「この間,来たばかりなのに…大丈夫?調子が悪い?」
拓海が心配して尋ねた。
「大丈夫。」
「そう?」
仁海は,訝(いぶか)しげに娘の顔を見た。
「私は,大丈夫。
ただ,子供たちはね,特に,保奈美はね、いつも会いたいというの。人間の姿は,いやだと言って。少し情緒不安定というか、どうしたらいいか,わからないの…。」
「一緒にいたいというなら,もう一緒にいてあげて。」
拓海が力強く言い放った。
「したいけど,できない。」
「ここに連れて来たら,ゆっくり一緒に過ごせるじゃない?」
仁海が提案した。
「そんなこと,出来ない。龍太は,あまり怖がらないけど,保奈美は,変わるのが怖くて仕方がないの。だから,私も,二度と彼女にそれをさせるつもりはない。怖い思いをこれ以上,させたくない。」
「それは,違うと思うよ。慣れたら,問題ないし,慣れてもらわなきゃ。今度,一緒に連れてきて。」
海保菜は,何も言わかなかった。
「陸だと,あまり見せられないでしょう?不自由になるから。なら、そこまで見たいというなら、ここに連れて来て。」
拓海も同じ意見だった。
「…できない。」
「無理やり,連れて来てとは,言っていないよ。言ってみるだけだよ。」
拓海が言った。
「誘えば,きっと来てくれる。今がまだ無理でも,もう少し待ってあげて。
話もいいけど,何より,このあなたと一緒に過ごすのは、肌で触れるのは,大事だと思うの。自分がこれからなっていく姿をよく知ってもらって,馴染んでもらわないと,ずっと苦労するよ。」
人海が言った。
「わかっている…でも、難しい。」
「難しくない。連れてきて。」
「ちょっと,考えてみる。」
「もう怖くないでしょう?この姿。」
「怖くないよ!すごい勢いでしがみついてくるし,ずっと,引っ付いている!いつもびっくりする…少しも,怖くない。この姿の方がいいみたい。」
「なら、見せてあげて。その姿でいてあげて。」
「保奈美は,体が変わるのが,すごく怖いの。この世で,一番怖いの…また,いずれ変わるというのに…どうしたら,助けられるか,わからない。」
「それは,慣らせることだ。怖くないようにしなきゃ…じゃないと、本当に大変なことになるよ。
人魚であるのは,決して不幸じゃないの。そう思わせたら,だめだ。誇りを持たせないと。恐怖をなくしてもらわないと。
人間じゃないから…これ以上,守ろうとすると,逆効果だよ。傷つけてしまう。」
拓海が言った。
海保菜は頷いた。
「その通りだ。」
「もう人魚にしちゃえ!その方が,葛藤は解けるよ。迷いも,なくなる。いつまでも人間と人魚の間でふらふらさせるのは可哀想だ。
仁海が言った。拓海も,頷いた。
「それは,しない。絶対にしない。」
「しなくても,いずれそうなるから,いいんじゃない?早く楽にさせてあげて,二人とも。」
仁海がさらに言った。
「私は,自分の手で,子供の自由を奪う気はない。」
「自由を奪う?何,それ!?何も奪っていないよ。人間の方が,自由だとでも言いたいのか?」
拓海がカチンと来て,言った。
「あなたがしないと,彼らは,まだまだこれから長い道のりだよ。」
仁海が念を押した。
「それでもいい。その方が自由でいられるなら。」
「人間は,自由、人魚は,自由じゃないといったい,誰が決めた?
歩けないから?私たちの方が自由だと思うけど…自由を奪っていると考えては,いけない。自由にしてあげていると考えたらいい。」
拓海が言った。
「そう思えない…保奈美と龍太は,これまで人間として育ってきた。彼らのアイデンティティだ。それを奪えるわけがない。
もう少し大きくなってから,自分で選んで欲しいの。」
「そんなのは,選べるものじゃないよ。
人魚にしてあげた方が,早く慣れるし,受け止めやすい。ずっとふらふらさせる方が可哀想だよ。」
仁海が首を横に振りながら,言った。
「ふらふらでも、両方の世界を楽しむ自由をなるべく,長く守ってあげたい。」
「じゃ,もう決めたんだね。自子供に余計な苦痛を与えてしまうけど…。」
海保菜は,頷いた。
「きっと,苦痛だけじゃない。」
次の日,保奈美が話したいことがあると海保菜に言ってきたから,海保菜は,浜辺で散歩しない?と誘った。保奈美は,嬉しそうに,母親の誘いに乗った。
「話したいことって,何?」
太陽が山の後ろへ沈んでいくのをじっと見ながら,海保菜がようやく保奈美に尋ねた。
「今日は,静かだね…何か,悩んでいるの?」
「私…。」
「はい?」
「やっぱり…もう一度,海に行きたい…。」
保奈美は,小さい声でつぶやいた。
「今,来ているし…。」
「違う!…中に入りたい。」
「それは,ここに座っていると,入りたくなるよ。人魚だから。それが海の力だ。
自分は,本当は,そうしたくなくても、海に飛び込んでしまう。そういう力だよ。」
「違う。ここに来だからじゃない。来る前から,考えていた。話したかったことは,それだよ。」
「保奈美…あなたは,あの日から,ずっと海が怖いし、悪夢も見るし、私の事もずっと恐れていたし…それなのに,もう一度,同じことがしたいと言うの?」
海保菜は,どう考えても,娘をまた海に連れて行くことで,症状が安定するとは,思えなかった。
「したいというより、しなきゃ。」
「いや、しなくていい。誰も求めていない,そんなこと。おばあちゃんの言葉を忘れて。彼女も,求めていないから。」
「これは,お母さんが決めることでも、おばあちゃんが決めることでもない。私が決めなきゃならないことなの。そして、もう決めた。」
保奈美が普段あまり見せないような,揺るぎなく,強い意思を持って,言った。
これまで,怖そうにびくびくし通しの娘の最近の様子とのギャップが大きすぎて,海保菜は,驚いた。保奈美の声は,震えていない。表情も,決意で固まっている。最近,彼女の中では,何かが変わった。そう思った。
「なんで,そう決めた?」
「…人間じゃないから。
それは,ようやくわかった。
でも、自分とは,何かよくわからない。それが知りたい。
ずっとわからないまま,嫌なんだ。自分のことが知りたい。」
「でも、急がなくてもいいよ。慌てなくても,心の準備ができてからでいいよ。」
「それを待ったら、いつまでたっても,しない。一生,立ち会わない。それでは,だめだ。
お母さんも,いずれ,また海に行かなければならない日が来ると思うって,言ったでしょう?なら、先延ばしにしていても,意味がないんじゃない?」
「でも,海に行くのは,別にいつでも出来ることだから,もう少し慎重に,じっくり考えてから決めてほしい。」
海保菜が,もう一度人魚になることが娘にどの影響を与え得るか考えながら,言った。娘は,すでに一回人魚に変わり,自分では,気づいているかどうかわからないが,あの日から,日に日に少しずつ様子は,変わって来ている。一時的な変化ではなく,二度と元に戻らないような形で,人魚になって行く。龍太も同じだ。もう一度海に行けば,その過程が更(さら)に加速される。保奈美には,その覚悟が出来ているとは,とても思えない。その大きな決断をしても,後悔しない,後悔しても自分で責任が取れる歳には,まだなっていない。だから,保奈美も,龍太も,どんなにせがまれても,当分は,海には行かせないつもりだった。もう少し大きくなってから,自由に選べるように,時間を稼ぎたい。そう思った。まだ選べる歳にはならないうちに,人魚になってしまってほしくない。
「あの時は,怖かったから、何も楽しめなかったし,色々味わえなかった。なんか,龍太と話していると,同じ経験をしているのに,違う。私は,恐怖だけの思い出になっている。龍太は,そうではない。余裕がなさ過ぎて,痛かったや,怖かったことぐらいしか記憶に残っていないの。なんか,それでは,悲しいと思って…。
家族の事が知りたいし、お母さんのことも知りたいし、自分の事も知りたい。他に道はない。もうじっくり考えたし、覚悟している。」
「…保奈美は,いつか人間に戻れなくなっても,平気なの?本当に,覚悟できているの?」
「え!?戻れなくなる?それ,聞いていない!」
「どうなるかわからないけど,その可能性もある。それぐらいの覚悟じゃないと,しない方がいい,あなたが考えていること。」
「怖がらなくていいとか,言っといて…何で,いきなりそんなことを言うの!?せっかく,怖くなくなっていたのに…。」
「また海に行きたいと言うから,知るべきだと思った。どういうリスクがあるかということを。何も知らずに,そうなってしまったら,嫌でしょう?」
「…嫌だけど…それでも,やっぱり,見せて欲しい。教えて欲しい。」
「何を?」
「人魚を見せて欲しい。じゃないと,私も学べないの。知りたい。
いつまでも,私と龍太を人間扱いしていると,それにしかなれないし、でも,それにさえなれないし…困る。
私は,もう人間として,やっていけないの。」
保奈美は,泣きはじめた。
「体は,いつも変わろうとしているのに、私がそれを無理やり抑えている感じで…体は,もうこれでは,いられないみたい。今だって、胸が痛いし、体は,変わろうとしている。どんなに抑えても,止まらなくて,気が狂いそうになる。
もう人間なんかじゃない…嫌でも、違うんだ。
だから…もう心を決めた。お母さんが助けてくれても、助けてくれなくても、私は,もう決めたから。
でも、できたら、助けてほしい…そばにいてほしい。」
海保菜は,娘の言葉を聞いて,すぐに頷いた。娘は,ただのふとした思いつきで,また海に行きたいと言い出した訳ではないようだ。心底の深い葛藤に立ち向かい,自分なりに自分と向き合い,色々模索した上で,決意したことだった。娘は,もはや途方にくれたり,右往左往していない,ちゃんと自分でそれを乗り越え,答えを出したのだった。海保菜は,娘をなめていたことを静かに反省した。もう子供じゃなかった。もうすぐ,十三歳だ。自分は,十三歳の時,こんなにしっかりしていたのかな?まだまだ子供だったような気がするけれど…。
「わかった。じっくり考えた上で決めたことなら,私は,止めない。尊重する。」
海保菜がそう言ってから,しばらく黙って海を遠く眺めた。
今日の海は,深い霧がかかり,霞んでいる。海保菜は,この曇天の海も好きなのだ。
「助けてくれる?助けてくれない?どっち?」
保奈美は,母親の返事では,満足できずに,追求した。
「もちろん,助けるよ。」
海保菜が小さい声で言った。表情は,保奈美が初めて見る表情だった。
「助けなかったら,母親失格だ。人魚失格だ。保奈美の言う通りだ。 あなたと龍太が海の事を追求しようとするのを妨げるんじゃなくて、助けなきゃ。
人魚らしくしなきゃ。あなたたちも,望めばそうなれるように…もう守れないから…。」
二人とも,しばらく黙り込み,辺りが静寂に包まれた。海保菜は,どんなに霧のかかった海を凝視しても,自分がやろうとしていることが正解だという確信が得られないまま,複雑な心境だった。
でも,娘が決めたことだから,それを尊重するしかないと思った。
海保菜は,ようやく保奈美の方を向きなおした。
「じゃ、行こうか?本当に覚悟ができているなら。」
海保菜が保奈美に,手を差し出した。
「今?」
「その方がいいんじゃない?不安が募らないように…。もう決めたでしょう?私は,もう妨げない。止めようとしない。
私はね,人魚だけど,ずっと陸で暮らしているせいか,人魚の考え方だけでは,物事を決められないところがあるの。色々考えてしまう。
でも,これからは,私は,人魚だけでありたい。人魚として,母親がしたい。保奈美の周りには,本物の人間がたくさんいる。私がわざわざ,それになろうとしなくても,あなたの心の人間の部分を守る人は,いくらでもいる。でも、人魚のところを守れるのは,私だけだ。
そうすることで、保奈美が傷ついたり,困ったりすることもあるかもしれないけど、それでもいい?」
「うん、それでいい。というか、それがいい。人魚がいい。本当のお母さんがいい。」
「わかった。じゃ、水に入って。」
本当の自分とは,一体,何なのだろう?海保菜は,ずっと生まれつきの人魚の姿が本当の自分だと思っていた。そして,体は,それでは間違いないが,心は,陸で長年暮らしてきた今は,もはや,その単純なものではない気がした。娘への約束が守れる自信は,なかった。自分の中の人魚らしいところと,そうでないところを綺麗に二つに分類し,演じ分けられる自信がない。いくらしたくても,そのことができない。どうしたらいいのだろう…。
自分の本当の姿は,何なのだろう?海で泳ぐ自分?尚弥と一緒に暮らす自分?両親と昔話をして,笑う自分?子供たちと一緒に過ごしながら色々悩む自分?海をぼんやりと眺める自分?数年前に,自暴自棄になら,海竜になって,泳ぎ回った自分?
どれも,本当の自分のような気がする。そのいろんな自分の中の一つを取り出し,子供の前で,その自分だけを演じ切ることなんて,出来るわけがない…やっぱり,全部見せるしかない。これまでのように,人魚のところを隠すのではなく,でも,陸で暮らす自分をなしにするのでもなく,全てを曝け出して,見せないといけない。それが,きっと保奈美が求めていることに違いない。
しかし,今求められている自分は,人魚の自分に他ならないのだ。それについて,議論の余地はない。
ただ,一番自然でありのままに演じられるはずなのに,それが自分自身なのに,子供の前では,なかなか上手く演じられないから,困る。十年以上,子供には,絶対に見せまいと努力して隠し通した自分を,今,あえて見せようとするのは,いつまでも抵抗があり,非常に難しい。ずっと見せてはいけないと警戒していたところを,今は,逆に見せてもいい,見せるべきだと自分に言い聞かせても,なかなかすぐには,出来ないことなのだ。
でも,難しくても,抵抗はあっても,見せなければならない。長年続けてきた人間の親の芝居をやめて,人魚として,自分として,子育てをしないといけない。ただ,ずっと芝居を続けていると,いつからともなく,芝居ではなくなっていたというか,芝居の方が得意になっていた。今でも,そうなのだ。見せているつもりでも,気がついたら,途中からまた芝居に戻っていることがしばしばある。どうして,そうなるのか,自分でも,もどかしくて,腹立たしくて,仕方がない。
「お母さんがさっきに入って。」
海保菜は,首を横に振った。
「逃げられる。目に浮かぶわ。」
「逃げないよ!初めて見るわけじゃないし,もう怖くない!一緒に島に行ったし。」
「うーん,でも、人間の姿で,人魚のお母さんに付き合うのと、自分が初めて,自ら海に入って,人魚になってから,付き合うのと随分違う。初めての時だって,自らじゃない。」
「逃げない。約束する。」
「そうか…私があなたに私の事を信じてほしいと思うなら、私も信じないとね。わかった。先に入るから,必ずついてきて。」
海保菜は,海に入り,保奈美を待った。
「おいで。」
と優しく呼びかけた。
保奈美も,海に向かって数歩歩き進んだが、波打ち際の手前で,突然立ち止まった。棒立ちになって,動けなくなった。
「ちょっと待って。」
海保菜は,突然何かを思い出したかのように,言った。すると,波の中から這(は)い上がり、保奈美に近くまで来るように合図した。
保奈美は,従順に母親の傍に座った。
「また会えたね、ようやく。」
海保菜は、保奈美の手を強く握って,言った。
保奈美は,母親をすぐに抱きしめた。
「どう?感じる?」
「感じる。全部,感じる。ありがとう。」
海保菜は,嬉し涙を流した。
暫く,一緒に座った。
「どう?意志は,揺らいでいない?まだやるつもり?別に,このままでもいいよ。誰も責めない。」
海保菜が娘の気持ちを試すつもりで言った。
「やる。」
「分かった。」
海保菜は,腰を浮かして,また波の中へ飛び込んだ。
「なら、おいで。ためらわなくていいよ。助けるし,運命だよ。」
保奈美は,目を閉じて、髪の毛が潮風でなびき、波が岸に打ち寄せられる音を静かに聞いて、体中で感じて,味わった。
「そうだよ。海が呼んでいるよ。あなたも,私と同じように海のものだから。
おいで。約束したでしょう?一歩だけでいい。浸からなくても、足を踏み入れるだけでいい。少し肌が触れるだけでいい。」
保奈美は,再び目を開けて、助けを求めるような顔で,母親を見つめた。
「あなたは,一人じゃない。私がいるよ。
一歩でいい。足を自分でつけると、あとは,私が助けてあげる。でも、その一歩は,あなたの足で踏まないとダメだ。あなたの意思じゃないとダメだ。頑張れ。」
保奈美は,深呼吸してから、水の中へ,一歩前へ踏み出した。肌が水に触れると、すぐに心の中が静かで,平穏になり、海のエネルギーが体の中へ流れ込んで来るのを感じた。動けなかった。海に包まれているようで,出ように出られなかった。足が崩れるまで、ずっと動けずに,波打ち際で立ったままだった。
海保菜は,すぐに彼女のそばへ駆けつけて行った。
「大丈夫。」
海保菜が娘の傍まで来て、保奈美の肩に手をかけた。
「海から出して。出たい。」
「なんで?もう遅いよ、保奈美。」
「早すぎる。」
「早い方が楽だよ。」
海保菜がそう言ってから、保奈美の腕をつかみ,水の中から,引っ張り出した。
「はい、出たよ。落ち着いて。深く息を吸って、自分を落ち着かせて。」
「できない!」
保奈美が嘆いた。
「できないね…怖いね…。」
海保菜が無意識に,人間の視点で話し始めては、ふと気がついて、自分を止めた。
気を取り直して,また喋り始めた。
「でも、怖いと思ったらだめだ。これからなる姿も,あなただよ。
抵抗すればするほど、痛みが増す。戦わずに、身を任せて。どうせ、あなたには,自分という相手(敵)しかいないから。前回,自分とずっと戦いながらでも、できた。今回は,戦わずに体を委ねたら,どれだけ楽か…。
海があなたの体を変えるのを待つんじゃなくて,自ら変えたら,楽だよ。」
「…自分で?」
海保菜は,頷いた。
「できるよ。海の力があなたの体の中を流れているから,あなたには,その流れを制御できたら、 いろんなことができる。本当は,水も要らないよ。全部,自分でコントロールできる。」
「できない。」
「練習すれば、きっと,できるようになる。私は,もう何年もやっているから…。」
「え?お母さんは,人魚だから、変わらなくてもいいでしょう?魔法みたいに,早いでしょう?痛くないでしょう?」
「…よく覚えているね。人魚になる時の話じゃなかった。」
「え?じゃ,人間になる時の話?」
「いや,それは,機械を使っているから、自然じゃないから,コントロールしたり,痛みを和らげたり出来ないよ。」
「え?じゃ,何の話?」
海保菜は,困った顔をした。娘に人魚の自分を恥ずかしがったり,ためらったりせずに,上手に見せられていると思ったら,口を滑らせてしまった。保奈美には,まだ海竜の話をするつもりはない。特に,このタイミングでは,言わない方がいいと思った。
「…今は関係ないから、忘れて。」
「ちゃんと話すと約束したのに。」
「はい,またちゃんと話す。でも,今は忙しいでしょう?」
保奈美は,頷いた。やっと,痛み出した。
「やっと始まったんだね。怖くなって、ずっと抑えようとしたんだね?だめだよ。そうするから,苦しくなるんだよ。」
保奈美が目を逸らした。
「まあ、意識的にやっていることじゃないから,仕方ないね…。
保奈美さえよければ、あなたを楽にさせる方法が他に色々あるけど…。」
海保菜が保奈美の頭に水をかけながら,言った。
「…やっぱり,水は気持ちいい!」
「気持ちいいでしょう?その「気持ちいい」だけに集中してみて。今は,別に酔ってもいいよ。というか、酔った方が楽だよ。抵抗しなくなるから、自然に。」
「他にどんな方法がある?」
「ずっと海の中にいてくれたら,早くて,楽だよ。
あるいは,私が舐(な)めると早くなるよ。
でも,あなたが抵抗すると,何をしても,痛みがひどくなるだけだよ。」
「舐める!?舐めたいの、私を!?」
「うーん、舐めたくない。舐めたら,あなたが少し楽になるから,提案した。
肌でただ触れ合うより,ずっと早く,効率よくあなたには,必要な成分を届けられるから。
本当は,私が分けてあげなくても,ちゃんとあなたの中にもあるけど、あなたは,大人の人魚みたいにそれを自分でコントロールして,必要な成分を取り出したり出来ないから…遅いの、必要以上に。」
「でも、舐めるって,なんか動物みたい。」
「うん、動物みたいだよ。というか、動物だよ。人間より,ずっと野生に近い動物なんだ。あなたにも,感じられるでしょう?でも,それが私たちなんだ。抵抗するんじゃない。」
「…やっぱり,いやだ。」
「まあ、こんなに抵抗していたら、舐めたところで,逆効果かもしれないね。成分が分泌されても,その働きにいちいち反発していたら、余計痛くなって,苦しくなるだけだから。」
「抵抗していないよ。」
「意識していないだろうけど、体中で抵抗しているよ。私にはわかるの。神経を張りつめているとか,リラックスしているとかが,わかるの。」
「それも,本能?」
「そう、うまいことできている。」
保奈美の腹部が急に酷く痛み出し,痛みに耐えようとして,腹部を手で押さえて,屈んだ。
保奈美が海保菜を見上げた。
「やっていいよ。何でも,できることは,やっていいよ。お願い…助けて。やるんじゃなかった。痛みを忘れていた。」
保奈美が喘(あえ)ぎながら,言った。
「あなたは,よく、耐えているよ。もうすでに,ここまで来たし、誇りに思うよ、あなたのこと。」
「さっき言っていたこと,やっていいよ。やってほしい。動物でもいい。」
「やってみるけど…あなたがエネルギーを拒むのをやめて,自ら吸収するようにならないと,もっと痛くなるだけだよ。」
海保菜が保奈美を優しく自分の体の近くまで引っ張り、お腹を舐め始めた。
海保菜の舌が肌に触れた途端、保奈美は,悲鳴を上げた。
「保奈美!だから,戦うなって!海に身を任せて。そして,私を信頼して。」
「やり方がわからない。戦っているつもりはない。」
「でも、そのつもりはなくても,戦っている…まあ,どんなに痛くても、早まるは早まるけど、耐えにくいよ。
それだ!痛みに耐えようとしているからだ!構えて、耐えようとするんじゃなくて,痛みに身を任せてみて。痛みを恐れない!痛みを恐れて構えている限り、私が何をしても,助けると同時に傷つけてしまう。魂をこの海に譲ってください。痛みを歓迎してください。そうすれば、痛くなくなるから。」
「そんなこと,できないよ。」
「できないか…。」
海保菜は,舐めるのをやめて,ただ,水をかけることにした。水を沢山かけると,保奈美は,抵抗しなくなるくらい気持ちよくなるかもしれないと思った。娘の意識に,本能を勝たせないとダメだが,それは,とても難しいことだ。
「私に何をしてほしいのか,よくわからない。話がわからない。」
「言葉では,わからないね。理解するのに,時間はかかる。まず、体で理解してもらわないと,難しいだろうね。」
海保菜が娘の腹部に水を十分にかけてから,優しく舐めた。保奈美は,落ち着いていた。
「痛くない?」
「痛くない。」
「ほら,できている!さっき,言ったことできている!戦っていない!よく,わかったね!」
海保菜が娘の頭と肩を撫でて,褒めた。
「いや,あまりわかってないけど…早い!」
「うん、あまり抵抗していないから。」
「もっと水をかけてくれる?」
「はい、喜んで!」
「気持ちいい!」
「気持ちいい?少し余裕が出来てきたみたいだね。身を任せているから,気持ちいいよ。戦っていないから,痛くないよ。」
「いや、痛いけど。」
「ちょっとだけでしょう?叫んでいないし。」
「足にもっと水をかけてくれる?」
「もう足じゃないけど,もちろん,いいよ。」
保奈美は,久しぶりに自分の足を見た。海保菜が水をかけると,ますます変わり始めた。久しぶりに怖いという気持ちが胸の底から,こみ上げてきた。
「大丈夫。怖いと思うな。考えるな。またじたばたし出したら,苦しくなるよ。このままがいい。体を楽にして。」
海保菜が厳しく言った。
「あと,もうちょっとだよ。今回は,本当によくやった。トラウマを克服したいという強い意志を感じたわ。 お疲れ様。」
海保菜がしばらくしてから,言った。
「上手く,やっていない。ずっと泣きながらだよ。」
「それは,仕方ないよ。痛いもの。気にしなくていい。迷惑じゃないし,泣きたいときに,泣いていいよ。」
「でも、やっぱり,気持ち悪い…。」
保奈美が腕の中から鰭が生えてくるのを見て,言った。
「そうだね。だから,見ない方がいいと思う。」
海保菜が娘の背中を撫(な)でて,言った。
「ごめん。聞こえると思わなかった。」
「なんで?いいのよ。私は,もう芝居しないと約束したし、あなたも,芝居しなくていいよ。 ありのままでいいよ。
ありのままの保奈美が一番いい。」
保奈美が母親を抱きしめた。海保菜が抱きしめ返した。
「舐めたりして、体がもっともっと変わって、人間と人魚以外のものに変わるとうっかり言っちゃって…それでも、ハグしてくれるの?怖くないの?」
「もう恐れない。よくわからないところはあっても,私の大好きなお母さんだから。もう怖くない。」
「ありがとう。」
海保菜が涙ぐみながら言った。
「教えて。何に変わるの?」
「保奈美、タイミングが悪いよ…。」
「ちゃんと話して。」
「人魚は,みんな海竜に姿を変えられるの。」
「竜!?」
「うん、竜というか,海竜。」
「大丈夫??この話を聞いても,怖くないの?」
保奈美は,少しも怖がらないから,海保菜は,びっくりした。
「…半分しか信じていないからね。」
「信じてもらえなくても、証明するつもりはないので…。」
保奈美は,驚いたまま海保菜をまじまじと見つめた。
「なんで竜なんだろう?」
海保菜は,愛しさを込めて保奈美を見た。
「好奇心旺盛で、訊きたいこともたくさんだね!!可愛い。」
海保菜が娘の頭を撫でて,言った。
「人魚の先祖だから,遡(さかのぼ)れば。今は,こういう半人半魚に進化したけど、昔は海竜だった。」
「え?」
「ある意味,今も,海竜だけどね…その名残は心の中にあるし、体も戻りたければ,戻れる。そして、今晩あなたの姿を変えたのもそれだ。海の力でもあり、自分の中で生きる海竜でもある。」
「竜じゃないよ,私…。」
「否定したかったら,否定していいよ。見せるつもりはないから。」
「どうやってなるの?いつなるの?」
「簡単そうで,難しいよ。ずっと,私があなたに言っていることだ。戦わずに海に身を任せる。正にそれだ。それを完璧にできた上で,更に,集中して,自分の魂の野生のところに身を委ねる。海と完全に一つになるという感じかな。
…分かるかな?言葉で説明するのは,非常に難しいけど、あなたが今日やったこととは,基本的に同じだ。
でも、気を付けないといけない。集中しすぎて,一度意識を失ってしまうと,人魚に戻れなくなるから。竜として,生涯過ごすことになる。人魚だったという記憶も,意識も,消える。」
海竜について話す海保菜の表情は,保奈美のこれまで一度も見たことのない表情だった。
「…怖い。」
「怖いか。忘れていいよ。まだ話すつもりはなかったし。」
「どんな時になるの?今とか,変わらないよね?」
保奈美が心配そうに尋ねた。
「体が勝手になることはない。
安心して。見せないし,私は慣れているから、なっても,記憶とかは,しっかり残っている。あなたの事も,ちゃんとわかるし、どんな姿でも,あなたを傷つけない。
もちろん、あなたの前で,変わることはないけどね。なる理由もない。だから、気にしないで。この姿だけを受け入れてもらえたら
もう十分すぎるぐらい十分だよ。」
海保菜が自分の体を指して,言った。
「もうすでに受け入れてくれているね,自分がもう一度なりたいと思うほどに。あなたも,龍太も,私の期待や予想をすでに遥かに超えている。もう,これ以上,何も求めない。」
でも、海保菜にとって,海竜がとても大事だというのは,海保菜の話しぶりや表情からしみじみと保奈美に伝わった。きっと、人魚の彼女の中にも,海竜の性質と共鳴しているところがあるに違いない。他人には,あまり見せないところが。いや,海竜そのものがいるかもしれない。そう思った。そして,月光の下に座っていると、海保菜の中の神秘的で,少しも人間らしくないところが照らされ、月の光と一つになっているような気がして、保奈美は,久しぶりに少し怖くなった。母親には,どことなく,紛れもなく野生で、懐柔されることのないところがあるのは,否めない。それは,海竜だからと,保奈美は、夢にも思わなかったが,今見ていると,母親の雰囲気には、確かに,今の人魚の姿を遥(はる)かに超えた、謎めいていて,幻想的な何かが常に光っているように見えた。錯覚では,なかった。
保奈美は,今思えば,過去にも,何度も,同じことを感じたことがあることに気がついた。人間の姿でも,母親のちょっとした表情の裏に、雰囲気の底に、微(かす)かに野生の様相が表れるときがある。これまで、その表情の裏に何があるのか、その正体は何なのか、わからなかったけれど…。もちろん,海保菜がわざと見せたことは,一度もない。でも、それでも,海保菜のそういうところが表情や顔に表れる度に,呆気にとられてきたことを思い出した。
海保菜は,保奈美の物思いに耽(ふけ)っている表情から気持ちを汲(く)み取れたようだった。
「あなたにも,私には,まだわからないところがたくさんあるよ。お互い様だ。
でも、恐れは壁を作ってしまうから、恐れだけは,やめようね。怖くならないで。
保奈美から見て、私の姿が時々野生で怖いものに映ることがあるかもしれない。でも、そう見えたときは、自分もそうだって,思い出してごらん。同じだということを思い出してごらん。
保奈美は,真実を知ってから、これまで,理解しなきゃいけない相手が私だと思って、驚きと戸惑い・恐怖と衝撃を沢山乗り越えてきてくれたと思う。そして,努力してくれたことには,とても感謝している。
でも、これからは,私を見つめるんじゃなくて,自分の心を見つめて欲しい。深いところを。自分を理解することから、他人の理解が始まる。自分を理解せずに,私を理解するのも,受け入れるのも,無理だよ。あなたは,すでにそれに気づいていると思うけど…だから、今日,もう一回やってみようって,挑んだでしょう?
自分のことを知れば知るほど、私の事も知れば。自分のことが怖くなくなれば,私のことも怖くなくなる。
あなたが理解しないといけない相手は,自分だよ。私じゃない。」
保奈美は,頷かなかった。ただ,海保菜の顔を怖そうに見上げるだけだった。
海保菜は,いつも自分の表情や雰囲気に微かにしか表れない野生のところをわざと前面に出していた。初めて隠さずに,堂々と見せていた。保奈美は,とても怖かった。
「怖いだろうね。竜について,どんなイメージを持っているか,私にもわかるから。でも、そんなじゃないよ。
今,保奈美は,危ない動物を見る目で私を見ているけど、危なくないの。野生だし、その野生のところがきっと,私の顔や雰囲気に出ていると思う。でも、私はコントロールできているから,大丈夫なの。野生の動物とは,違う。急に襲われたりしない。
人間も,怖いところは,たくさんあるよ。顔には出ないけど,だからこそ、怖いの。私たちは,コントロールできている。野生と文明の間の存在だけど、中庸(ちゅうよう)を保てているの。人間には,それができないけど、私たちはできるの。
人間は,自分の醜(みにく)いところには気づかないから,すぐに虜(とりこ)になり,蝕(むしば)まれてしまう。認めないから。でも、私たちは野生のところを認めているし、受け入れている。だから,振り回されたり,支配されたりすることはない。人間は,逃げようとするから振り回される。私たちは,逃げない。だから、大丈夫なの。
だから,あなたは,私の事も、自分の事も、恐れなくていい。丸ごと受け入れたら,いい。
あなたは,まだ自分のことがよくわからなくて,わかるのが少し怖いでしょう?でも、そのあなたも,いつかは,こうなる。制御できるようになる。自分を支配できるようになる。心の中の葛藤に打ち勝つまでは,しばらく振り回されるかもしれないけど,必ず抜け出せるから。
今、私の顔の裏に,嵐があるように見えるでしょう?あなたの魂の奥底にも,その同じ嵐があるの。吹き荒れる嵐が…私にはわかる。感じられる。今のあなたは,その嵐に支配されている。でも、それではダメだ。あなたが指揮をとらなきゃ。」
海保菜がそう言って,自分の手を保奈美に差し出した。
保奈美は,最初,反応しなかった。
「大丈夫。自分の手だから,ちゃんと動くよ。私の手を取って、自分で。」
保奈美は,少しためらってから,母親の手を握った。
「ほら、できた。どう?感じられる?」
保奈美は,頷いた。
「いいなぁ…いつも感じられるって。ちょっと羨ましい。」
保奈美は,あまり嬉しくない表情をした。
「まだ慣れていないからね。さっき,自分で初めて動かしたばかり…でも、ほら,今は,同じだよ、私たちの手!」
海保菜は,保奈美の手に,自分の手を重ねてみた。
保奈美も,ちょっとした感動の声が喉から漏れ出た。
「やっぱり、保奈美も嬉しい?」
海保菜が尋ねた。
保奈美は,小さく頷いた。
「お母さんは,すごく嬉しいよ!体は同じだから,いつもより,近く,親しく感じる。親子だ。」
海保菜がそう言ってから,保奈美の手を握り直し,水の中へ飛び込んだ。
「あまり、海では,こういう布は,身につけない方がいいと思う。」
海保菜が保奈美の姿を見て,呟いた。
「服は,これしかないからしょうがないじゃない?」
「服は,要らないよ。海では,誰も服を着ない。」
「裸は,無理!」
「うん,いきなりは,無理だろうから,これを貸してあげる。少し大きいと思うけど…。」
海保菜が、自分が胸につけているものを指差した。
「でも,私がそれをつけたら,お母さんは,どうする?」
「海は,裸でいい。裸という概念もないからね。お母さんは,その文化で育っているから,何も着なくても,平気だ。」
「だめ!裸は,だめだよ!見たくないよ!」
海保菜は,思わず,吹き出した。
「やっぱり,まだ人間だね。こう見えても…可愛いなぁ。」
保奈美は,イラッとして,母親の顔を見上げた。これまで,母親が冗談を言うのをほとんど聞いたことがない。「人間」という言葉をからかう意味で使うのも,初めて聞いた。祖父母なら,よくするだろうけど,少なくとも、保奈美の前では,海保菜は,普段しない。どういう意味で笑っているかも,気になる。海保菜は,馬鹿にするような笑い方ではなくて,優しい笑い方だったが,保奈美は,馬鹿にされた気持ちだった。
海保菜は,保奈美が気分を悪くしたことには,すぐに気づいた。
「何?今は,逆に,人間だと言われると嫌なの?」
「嫌じゃないけど…。」
「でも、今,怒っているでしょう?」
「言い方がひどいから。馬鹿にしているみたい。」
「え?馬鹿になんかしていないよ。
気を使わずに,自然に振る舞ってと言ったのは,保奈美だよ?」
「…ごめんなさい。」
「やっぱり,当分,気を使わないとね…。布を着たままでいいよ。私も,これを脱がない。
はい,行こう。」
「布って…服だよ。服って言って。」
「…服のままでいいよ。」
海保菜が少ししょんぼりした声で言った。
やっぱり,娘の前では,自然体でいようとしても,うまくいかない。すぐに気分を悪くさせてしまう。せっかく,腹を割って,色々話せていたというのに…娘には,嫌われたくなければ,まだある程度気を使って接した方が良さそうだ。
「保奈美も,一緒に!?」
拓海がそう言って,おじいちゃんとおばあちゃんが満面の笑顔で,保奈美を迎えた。
「連れて来れないって言っていたのに…。」
仁海が言った。
「一緒に来たいって,言ってくれたから,連れてきた。」
拓海も,仁海も,嬉しそうに頷いた。
「もう怖くない?」
仁海は、喜びが溢れているような顔で,保奈美に尋ねた。
「もう…大丈夫…。」
保奈美が言った。
「でも,この布は,何!?」
拓海が保奈美の着ているパーカーを指差し,吹き出して,言った。仁海と海保菜も,笑った。
保奈美は,何が面白いか,腑(ふ)に落ちない。
「面白いでしょう?最近,夜は,冷え込むようになったから。人間は,気候と季節に合わせて,服を選ぶの。これは,少し肌寒い時の。」
海保菜が笑いながら,説明した。
「何が面白い?」
保奈美が小さい声で言った。
「ごめん!笑って,悪かったね。別に,からかっているわけじゃないから,気にしないでね。」
海保菜がすぐに謝った。
「まあ、座って、座って。疲れたでしょう?」
仁海が座る場所まで案内した。
「お母さんが小さかった時の絵,見ない?」
「絵?…写真の事?」
保奈美が訊いた。
仁海は,スケッチブックを引き出しの中から取り出して,保奈美の膝の上に置いた。
「誰が描いた?」
「知り合いの絵が上手な人。」
保奈美は,絵をゆっくり見つめたが、母親の姿がわからなかった。
「お母さんは,どっち?」
「こっちだよ。」
拓海が指差して,示した。
「いくつだった?この時。」
「ふーむ。どうだろう…8歳ぐらいかな?今のあなたより小さいのは,確かだけど…お母さん、覚えている?」
「いや…7歳ぐらいだと思うけど、よく覚えていないわ。」
仁海も,はっきりと覚えていない様子だった。
一番最後のページは,赤ちゃんの時の絵が二つあった。
「はい、私は,どっちだと思う?」
「これ?」
「いや、それは私の弟。残念。」
海保菜が笑った。
「今回は,保奈美もせっかく来てくれたし,すぐには,帰らなくてもいいんじゃない?しばらくいるよね?」
仁海が尋ねた。
「そうだね。保奈美、いつまでがいい?しばらくいたい?」
「うん、しばらくいたい。」
保奈美は,部屋の中を見回しながら言った。
「今回は,楽しめそうだね!」
仁海が目を輝かせながら言った。
「早く一緒に出掛けられるように泳げるようになって!」
拓海が言った。
保奈美は,小さく頷いた
「今日は,もう遅いから,寝よう。今回は,寝れるかな?」
海保菜が訊いた。
「多分寝れると思う。」
保奈美は言った。
海保菜は,娘の手を取って,寝室へ案内した。
「今回は,一緒でいいかな?寝るのは。」
「いいよ。」
「ありがとう。」
「これは,何?」
「それは,ランプだよ。」
「電気は,使えるの?」
「電気じゃないよ。深海の光る動物と同じ仕組みだ。」
「じゃ、やっぱり電気はない?」
「海で電気が使えるのは,ウナギぐらいだよ。」
「この毛布は?何でできている?」
「アザラシの毛皮だよ。」
「え!?」
「殺していないよ。死ぬ時に回収するの。」
「じゃ、この家は?どうやって,作ったの?」
「私は,作っていないので詳しいことはわからないけど,主に硬い珊瑚でできている。」
「これは?」
「本だよ。」
「読めない…。」
「人魚の言葉で書いているからね。」
「人魚の言葉って,あるの?」
「もちろんあるよ。いろんな言葉がある。民族によって,違うし。
人魚には特別な力があって言葉が は違っていても理解できるの。聞いたことのない言葉でも,理解できるし,真似もできるよ。」
「なら、なんでみんなは,私の言葉がわかるの?おばあちゃんとおじいちゃん。」
「そういう力だから…あなたにもあるよ。真似する方はないみたいだけど,私やおばあちゃんとおじいちゃんの話していることがわかるでしょう?
私は,あなたが初めて変わった夜からずっとあなたと話す時は,人魚の言葉を使っている。ただ訛(なま)っているだけじゃない。」
「え!?…でも、普通にわかるよ。」
「うん、そういう力だよ。」
「なんで,人間の言葉もわかるの?」
「必要だから…本能と同じようなものだ。自分たちを守るためによく偵察するよ。
「へえ。私にも教えて。」
「教えるものじゃないし,要らないよ。みんなは,あなたの言っていることが、たとえ違う言葉でも、わかるし,あなたも理解する力があるから,コミュニケーション上,困ることはない。」
「でも、私が違う言葉でしゃべっているのは,みんなはわかっているでしょう?」
「うん、わかるよ。あなたには,わからないみたいだけど…人間と人魚の間の存在だから。」
「なんか、いやだなぁ…申し訳ない。」
「あなたの喋っている言葉を理解しようと誰も努力していないから,いいよ。誰にも迷惑をかけていない。」
「教えて。」
「教えられない。私が人魚の言葉で話しても,あなたの頭の中では訳されるから、今みたいに、知らないうちに。人間の語学とは,違う。努力して,覚えるものじゃない…自然に身についている力だよ。あなたがおばあちゃんとおじいちゃんの言葉を理解しようと努力していないと同様に,私たちもあなたの言葉を理解しようと努力していない。
同じ言葉を喋ろうとも努力していない。完璧じゃなくても,努力しなくても,自然に真似もできるし。いつか、あなたのその理解する力がもう少し発達して,真似もできるようになればそれでいいんだ、わかる?でも、そうはならなくても,周りも,あなたも,苦労することはない。みんな,わかる。大丈夫。」
「話がおかしすぎて,よくわからない。」
「わからなくてもいいよ。」
「文字も学んだことがなくても,読めるの?」
「いや、それはできないなぁ…喋る言葉だけだよ。」
「不思議な力だね。中途半端というか…。」
「あなたは,もっと中途半端だよ!」
「そうだね…みんなは,私の事をどう思っているのかな?」
「来てくれて喜んでいる、それだけ。心配はいらない。」
「その話じゃない…私を仲間だと思っているかな?」
「仲間?孫だから,孫だと思っている。」
「泳げるようになっても,だめかな?」
「何がダメ?どうしたいの?」
「みんなに気を使ってほしくない、お母さんにも。迷惑をかけたくないし,合わせてほしくない。こっちから,合わせたい。」
「なら,まず、あの変な服を脱いで。」
「変な服…?普通のパーカーだよ。」
「この世界には,パーカーなんてものは,存在しないし,服もない。北極海に住んでいる民族しか着ない。その基準で言ったら,変だよ。この世界の基準に合わせたかったら,そういうことから始めないと。私が教えてあげる。」
「…でも、恥ずかしい。」
「そういう「恥ずかしい」とかもね,人間の気持ちだよ。」
「どうしよう。」
「何もしなくていい…合わせたいと思ったら,してくれてもいいけど,別にしなくてもいい。
お母さんは,同じ体になってくれているだけで,十分合わせていると思うけど…。」
「でも、私は人魚でしょう?」
「…半分ね。」
「なら、少しぐらい合わせなきゃ。」
「なら、脱いで。全部。海では,服を着ないよ。」
「じゃ、何?貝だけ?」
「うーん、貝も泳ぐときだけだよ。全然しない人も,いるし。そして、しても恥ずかしいからじゃなくて,しないと,泳ぐ時に,胸が邪魔になるから。男性は,全く何も纏(まと)わないよ、貝も何も。女性も泳ぐ時以外は,裸で過ごす。
私は,今,あなたに気を使って,寝ていても,しているけど,普通だったらしない…怪我するから。」
「なんで?」
「だって,貝だよ。硬いよ。食い込むよ。前回,一緒に来た後も,一週間ぐらい痛かったよ。」
「ごめんなさい…。」
「もう気を使わなくていい?本当に?」
海保菜が試すように娘の目をまっすぐに見た。
「うん。」
「じゃ、脱ぐね。」
海保菜は,保奈美の視線が気になって,背を向け,脱いでから,また毛布の下に潜った。
「あなたも同じようにしたらいいよ,背を向けて。見ないから。私がさっきやったように。見られるのが恥ずかしいと思うから。」
「じゃ、普通だったら,何?人前で脱いだりするの?男の前でも?」
「うん、している方が不自然なくらいだ。明日は,普通にさせてもらうね。」
保奈美は,小さく頷いた。
「あなたは,自分のペースで慣れてくれたらいい。無理しなくても。」
保奈美は,また小さく頷いた。母親に背を向けて,パーカーを脱いだ。シャツも脱いだ。でも、そこで手が止まった。
「できない。ごめんなさい。」
保奈美は泣き始めた。
「いいの、いいの。しなくても,大丈夫。自分のペースでいいよ。焦らなくても。ずっと嫌でもいいし,大丈夫。」
保奈美は,下着をしたまま毛布の中へ潜った。
「下着まで脱いだ?偉いじゃん!」
海保菜が褒めた。
「でも、下着は脱げない。」
「いいよ,それで。どんな格好でもいいよ。人間が「難しい」という年頃になったばかりなのに,下着まで脱いで,偉いよ。凄いよ。」
海保菜がまた起き上がって、括(くく)っていた髪の毛を解いた。これも,本当はおかしい。今日は,保奈美が行きたいと言ってくれて,嬉しくなって,うっかりした。母は,あなたが一緒にいるから何も言わなかったけど,普通だったら驚愕されるところだった。「髪の毛を一体,なんで括っているの!?」って。」
保奈美は,母親の裸を見ずにはいられなかった。
海保菜は,娘と目があった。
「じっと見ているし…慣れたら,全く気にしなくなるよ。」
「本当に,そうなるかな…?」
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体が変身したのも,大人に近づいているからだし,やっぱり,これから人間としても,人魚としても,生きていけるような体になっていく…心も体に合わせて,変わって行くだろうし。
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「しなくていいよ。学校でも、ここでも。無理して,溶け込もうとしなくていい。保奈美は,保奈美のままでいい。あなたらしく生きたらいい。」
海保菜が保奈美を抱き寄せながら言った。
「でも,学校ではできなかったから,ここでは,上手くやりたい。頑張りたい。」
「何も頑張らなくていい。自分を変えなくていい。」
海保菜が首を横に振った。保奈美を強く抱きしめた。
「…柔らかい。」
「あっ、ごめん!忘れていた。小さい時みたいに,つい…!」
海保菜は,慌てて娘を放した。
「いいよ。お母さんも,頑張らなくていいよ。」
「ありがとう。」
海保菜は笑った。
「でも、私は,頑張らないといけない…。」
「今は,しなくていいよ。大丈夫。いやじゃないから。」
「本当?」
「うん。」
「ありがとう。お休み。」
海保菜は,愛しく娘の頭を撫でてから,また横になった。
「寝れそう?」
「…わからない。」
「慣れていないところだし,この体も慣れていないし,なかなか楽になれないかもしれないね。私も,陸でぐっすり眠れるようになるのに数ヶ月かかったよ。」
次の朝,目覚めると,海保菜はまだ横にいた。
「どう?寝れた?」
「うん、少し寝れたよ…。」
「やっぱり,これもあなたの体だからね…なんか、羨ましい。」
「着ていいかな?これだけ。」
保奈美はTシャツを指差して,訊いた。
「恥ずかしかったら,着ていいけど…。」
海保菜は,途中で言葉が途切れた。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど…ただしばらくいたいと言っても,短い時間しかいられないから,頑張ってほしいなぁ…下着だけでも,違和感はあるよ、みんな。正直に言うとね。」
「どうしよう…。」
「それは,あなたが決めることだ。親は理解があるから,何を着ても嫌がったりはしないけど…何か言われるかもしれない,夕べみたいにね。そして、それが嫌なら…。」
保奈美は,しばらく黙って考えた。
「じゃ…このまま…これは,脱げないけど。」
「それでいい。それでも,がんばっているから。」
海保菜は,保奈美をまたみんながいる部屋まで案内した。
ご飯を作って,待っていた。
「おっ!起きたね。寝れたかな?」
拓海が尋ねた。
保奈美は,答えないから,
「大分寝れたみたい。」
と海保菜が代わりに答えた。
「よかった。よかった。じゃ、居心地良くなったかな、この場所?前より。」
拓海が保奈美に返事を求めて訊いた。
保奈美は,小さく頷いた。
「服も,大分脱いでくれているし…。」
仁海が嬉しそうにコメントした。
「でも、そこまで脱ぐなら,全部脱いだらいいのに…。」
「もう充分頑張っている。」
海保菜は,すぐに庇った。
「恥ずかしい?」
仁海が訊いた。
「私たちは,みんな見せているけど,恥ずかしくないよ、ちっとも。あなたも慣れた方がいいよ。」
「だから、段階的に…。」
海保菜は,言いかけたが,最後まで言い終わらないうちに,仁海が喋り始めた。
「海保菜,あなたも励ましたらいいのに…人魚でしょう?
どうして,海にいる時まで,人間の芝居なんだ?娘に本当の自分を見せないと,いつまでも学べない。」
「見せている。大丈夫。彼女も頑張っている…。」
海保菜が素っ気なく言った。
「なんか、ごめんなさい。」
保奈美がつぶやいた。
「あなたは,何も悪くないわよ。あなたのお母さんが悪い。人間の子供じゃないのに,人間扱いをして」
仁海が海保菜を叱った。
「人間じゃないけど,陸で育っているし,この世界の事は,まだよく知らない…少しずつ慣らしてあげないと,拒絶反応を起こすかもしれないし。」
「私は,そう思わない…逆に,圧倒され,戸惑うぐらいたくさんの事を体験させた方がいいんじゃない?」
拓海は,仁海と同じ意見らしい。
「戸惑いを乗り越えたら,理解や,自分は人魚だと言う自覚が生まれるからね。
あなたのやり方だと,戸惑いから守っているからいつまでたっても,自覚は生まれないし,慣れない!」
仁海がさらに言った。
「戸惑いから守っていない!ずっと戸惑っていたよ。今は,ようやく少し落ち着いてきて、自らまたここに来たいって言ってくれたのに…それなのに…せっかく芽(め)生えてきたその好奇心を摘みたくない。」
「脱ぐから,もうやめて!」
保奈美は,叫んで,すぐに下着を脱いだ。でも、相当恥ずかしかったようで,脱ぐなり,涙が滲んで,項垂れた。
「保奈美…ごめん。一緒に来て。」
海保菜は,すぐに保奈美の手を取り、一緒に寝室へ戻った。
「服着ていいよ。おばあちゃんとおじいちゃんの言葉を気にしなくていいよ。」
海保菜が慌てて服を着せてあげながら,言った。
保奈美は,泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい。」
「あなたは,謝らなくていい。こちらこそ,ごめんなさい。そこまで言うと思わなかった…。
今日は,もう二人で過ごそう!泳ぎを教えるよ。
泳げるようになってほしい。」
「もう帰りたい…。」
海保菜は,悲しく地面を俯いた。
「もうちょっと頑張ってくれない?今帰ったら,悪い印象しか残らない。せっかく勇気を出してくれたのに…この間とは,変わらない…いろいろ教えたいし,わかってほしい…おじいちゃんとおばあちゃんは,本当に悪気ないの。」
海保菜は,また保奈美と一緒に広い部屋に戻った。保奈美は,服を着て,涙を拭いて,落ち着いていた。
「ごめん。言い過ぎた。布を身につけていていいよ。ごめんなさい。」
仁海が謝った。拓海は,何も言わなかった。
保奈美は,返事する気になれなかった。
「もう帰りたいって言っているよ。」
海保菜が怒りをむきだしにして,母親言い捨てた。
「…帰らなくていいよ!いてほしい…せっかく来てくれたのに…まだ帰らないで。」
仁海が泣きそうになりながら訴えた。
「とりあえず,今日は,二人で出かけてくる。」
海保菜が宣言した。
「うん、それがいいと思う。二人でも,海で過ごしたことがほとんどないから…晩御飯は,用意するよ。」
「ありがとう。」
海保菜が言った。
出る前に,もう一回,寝室に戻った。
「私も何か着た方がいい?」
海保菜は,気を配って,娘の本心を探った。
「いや、大丈夫。もう慣れた。」
「本当?嫌なら、言っていいよ。どっちでもできるから…。」
「お母さんは,お母さんでいい。ただ、私は脱げない。」
「脱がなくていい。あなたもあなたのままでいい。」
海保菜は,保奈美の手を取って,家の窓から出た。
「速い!飛んでいるみたい!」
「怖い?ゆっくりの方がいい?」
「うーん、楽しい!」
「よかった。あなたもこのように泳げるようになるよ。」
「いや…私には無理だ。」
「無理じゃない。教える。」
海保菜は,海藻の林に連れて行ってくれた。
「ここは,人も,建物も,何もない。何時間でもいられるし,誰にも見られない。」
「これを着ているから,こんなところに来なきゃいけないの?」
「違う!邪魔するものがないところがいいと思っただけだよ…慣れるまでね。障害物がたくさんあると難しいよ。だから,ここにした。私は,子供の頃に,よくここで遊んだよ。」
二人は,丸一日,海藻の林の中で泳ぎを練習した。帰る頃には,保奈美は,大分上達し,そこそこ泳げるようになっていた。
「じゃ,そろそろいいかな。疲れたね…一日でマスターするのは,無理だけど,とても上達したよ。上手に泳げるようになった、本当に。お疲れ様。よく頑張ってくれた。ありがとう。」
保奈美は,小さく頷いた。
「じゃ、晩御飯を作ると言ってくれたから帰っていい?もう嫌?」
「…大丈夫。」
「自分で泳いでみる?家まで。ゆっくり泳ぐよ、一緒に。」
保奈美は,少しためらった。
「大丈夫よ。きっとできる。ついてきてみて。」
保奈美は,頷いて,少したどたどしく海保菜の後をついて行った。
「そうそう。その調子で。」
家に着いたら,保奈美は止まった。
「どうした?ついてきて。喜ぶよ。今朝の事は,気にしなくていい。悪気はなかったし,もう言わないよ。」
保奈美は頷いた。
「へえ!よく泳げるようになったんじゃない!すごい!」
拓海が感動した。
「そう,頑張ったよ。」
海保菜が付け加えた。
「お疲れ様!いっぱい食べて,ゆっくり休んで,充電して。」
仁海は明るく微笑んだ。
一週間ぐらい滞在してから,拓海と仁海にお礼を言って,帰った。
海保菜は,すぐに地下の洞窟へ行かずに,保奈美が元の体に戻るまで,一緒にいた。しかし,体は,前みたいに,すぐには戻らなかった。
「砂をかけてみて。熱い砂を。」
海保菜が提案した。
保奈美は,すぐ母親のアドバイスに従って,熱い砂を全身にかけてみた。すると,すぐに変わり始めた。ところが,変わり始めても,とてもゆっくりだった。
海保菜は,これを見て,とても心配になった。目を細めた。
「遅いね…。」
「夜だからかな…乾きにくいかもしれない。」
でも、海保菜は、そのことは,関係ないことがわかっていた。
海保菜は,保奈美が最初変わるときに,自分に吐いた言葉が甦ってきた。
「お母さんがやっているでしょう、私を変えているでしょう!」
とても暗い気持ちになった。保奈美が完全に戻れたのを見届けてから,地下の洞窟に行ってきた。
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