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3章

64 心地よい温度

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「霜苓! こんなところにいたのか! 探したぞ!」

 燈駕の気配が遠のくのを背に、霜苓も足早に木立を抜けて庭に出ると、建物の方へ歩く。月のない暗がりの中にも関わらず、陵瑜が霜苓の姿を視認して声を上げたのは、霜苓が中庭の中頃まで進んだ頃だった。 
「陵瑜?」

 庭に出てきた陵瑜の長い脚が、霜苓との距離を詰めるのはすぐのことで……
「何か……あったのか?」

 霜苓の無事を確かめるかのように両肩を掴んだ彼が、目ざとく見つけたのは、霜苓の手の中に握り込まれた鎖で、一瞬にして彼の気配が、ピリリと凍つくのが分かった。

「気になる気配があって……念の為持っていて……でも、気のせいだったみたいだ」

驚かせてすまない、と詫びると、彼の視線は今しがた霜苓が後にしてきた木立の方へ向けられる。

 闇が深いため、恐らく彼の目では、木の一本すら視認する事はできないだろう。

「そう……なのか……」
 そうつぶやいた次の瞬間、掴まれていた肩を強く引かれ、引き寄せられる。
 トクトクと随分と早い鼓動が響く胸にピタリと抱き込まれた事を認識するのに数拍の時を要した。
 
「起きて、霜苓の姿がないのは本当に心臓に悪い」
 
 思いの外近くで、低く苦し気な声で囁かれ、霜苓の胸も彼の鼓動と同じような音を刻み出す。

 石鹸と、陵瑜が普段つけているらしい、香油の香りに包まれながら、霜苓はなんとか息を吸って、吐いて「すまない……」と囁くと、一層強く抱きしめられる。

「何かあるなら、すぐ言ってくれ、兵の配置も増やすこともできる」
 陵瑜の気の済むまで、しばらくされるがままにしていると、ゆっくりと身体を離した彼が、不安そうな顔でこちらを覗き込んでくるので、霜苓は頬を緩めてゆっくり首を横に振る。
 
「ありがとう大丈夫だ……。月明かりが乏しい晩だったから、つい不安になってしまっただけだ。何もない事が分かったから、安心して眠れる」

「それならばいいが……あまり1人で無茶をするな。俺を起こしてくれても……」

 言いかけた陵瑜の口元に霜苓は指を立てる。

 ただでさえ公務で疲れており、睡眠時間を削っている彼を付き合わせるなどあり得ない事である。
 今夜だって彼が眠った時間は随分遅い時間であっただろうし、朝だってきっと早い。こんな事に付き合わせて、貴重な休息時間を無駄にはしてほしくはなかった。

「あまり声をあげると、皆が起きてしまう。部屋に戻ろう」

 まだ何かを言いたげな陵瑜の手を宥めるように取ると、寝室へ繋がる外に面した廻廊へ向けて引く。
 応えるかのようにギュウっと強く握られた手は、霜苓をどこへも行かせないと言う意思表示なのか……まるで子供のようだと内心で苦笑しながら2人並んで、足音を忍ばせながら寝台に戻った。


 大きくて骨張っていて、剣だこでザラつく陵瑜の手はとても暖かくて、じわじわと少しずつ熱を分け与えられ、自分の手が随分と冷えていたのだと気づいたのは寝台に戻り、横になった頃だった。

 そろそろ離しては?と見上げた陵瑜は、暗闇の中まだ身体を横たえず、座ってこちらを見下ろしていた。

 漆黒の瞳が何かを言いたげに見つめているのに、霜苓は気づかないふりをして瞳を閉じた。
 陵瑜は何かを勘付いているかもしれない。しかし、霜苓はまだ燈駕から聞き出さねばならない事がある。今、陵瑜が侵入者の存在を知ったら、この宮の警備は厳重なものになるだろう。
 有益な情報はなるべく多く仕入れたい。特に同じように郷を出奔して、ここまで生きてきた彼の話こそ、参考になる事は多いはずなのである。

「眠らないのか?」
 小さく問うて、繋いだままの手を引けば、「あ、あぁ……」と歯切れの悪い返事と共に、のそのそと隣に寝転がる気配を感じる。

「少しだけ、こうしていていいか?」
 低く……切な気に問われ、霜苓は「うん……」と頷く。

「ありがとう」
 
 そう言って小さく息を吐いて目を閉じた陵瑜の横顔を盗み見る。

 繋がれた手の温もりが、なんだかとてもくすぐったい。今まで、こんな風に誰かの温度を心地いいと感じた事は無かったように思う。

 しばらくすると、安心したのか、規則正しい寝息が聞こえ出す。やはり相当疲れていたのだろう。
 不用意に驚かせて、悪い事をしてしまった。
 
 彼は何故か、霜苓が寝台から抜け出す事に敏感だと言う事は分かっていたもののあれほど血相を変えて探しに来る程とは思ってもみなかった。

 いったい、彼の過去にどんなことがあったのだろうか。

 眠っている間に、恋人……もしくは大切な人が消えたのだろうか……だからいつも霜苓を探して、見つけるといつも心の底からホッとしたような、切な気な顔をするのだろうか。

 ようやく鼓動が落ち着いてきた胸が、今度は少しずつムカムカとしてくる。

 いったい、彼は霜苓を誰と重ねているのだろうか。

 その相手とは、どうなったのだろうか……こんなにお人好しで寂しがりで、そして温かな心を持つ男を置いていくなどと、随分と非情な女もいたものだ。

 ころりと身体を横に向け、陵瑜の手を、両手で包み込む。
 
 忘れられない人のものとは違うものの、こうしている事で陵瑜が少しでも安心して眠れるのならば、今夜はこうして眠ってやろう。

 霜苓の冷えた手も、温まって丁度いい。
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