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序章
Overture;凍結した時計
しおりを挟む__それは、とても凍えるような“雪”の夜だった。
常春に近いこの国では非常に珍しい事のようで、真夜中近くまで街中が空からの白い妖精に歓喜していた。
子ども達はそこら中に、雪だるまというなんとも愛らしい不可思議な造形物を作り上げていた。
普段見ることのない雪を恐々と触れてみる者、
物珍しげに口に含んでみる者、
かき集めては空に舞わせる者など、様々な光景が見られた。
露店商も大張り切りで出店がたくさん並び、観光客たちも「聖王国の希少な風景を見る事ができて嬉しい」と、店の親父に笑いかけるほどだった。
だがそんな祭りのような騒ぎも今は落ち着き、城下町にはいつもの静けさが戻っている。
__さて。寝静まったこの街で、ひとつの問題が起きていた。
子どもらの作った雪だるまの群集が特に目立つ__ここは城下町きっての荒くれ者が多く住む“職人街”だ。
木造家屋が所狭しと並び、昼間は活気で溢れている街路も今は人っ子一人いない。
夜更けまで賑わっていた酒場ももう店じまいをしたらしく、町の様子は寂しいというより少々怖かった。
そんな中を荒い息遣いで駆け抜ける者がいた。
黒い外套を纏い、頭からも同じ素材で出来た頭巾をかぶっている。
その駆ける姿はあまりにも速く、まるで黒豹のようだ。
もし見かけた者がいればそういった感想を持ったに違いない。
だが大きな体躯の割に足音が立っておらず、表の世界で生きる者ではないと思わせるには充分だった。
「っと」
思わずその無精髭の間から声を漏らすや否や、彼は近場にあった大樽の影に身を潜ませた。
誰もいないと思っていたが、まだ飲んだくれている者がいたか。
男は小さく舌打ちし、その腕に抱える布に包まれた“もの“を大切に抱え直した。
手触りの柔らかさが自分とは不釣り合いな上等品であると改めて感じる。
目の前の通りを、千鳥足で歩く男達が二、三人といったところか。
呑気に最近の流行り歌を高らかに歌っている。
早く通り過ぎてくれと祈るような気持ちで男は思わず背後を振り返った。
ここで誰かに見つかるわけにはいかないのだ。
この事は自分と“あの方”しか知らない機密事項なのだから。
「……そういやぁよ、もうじきらしいなぁ」
呂律の回っていない調子で、酔っ払いの一人が思い出したように歌を止めた。
「何がだ?」
「リアーナ様のご出産だよ」
その言葉に男は身を固くした。
「おお、そういやそうだったな。聖王様もいよいよ父ちゃんになるってわけか」
「そうさ、誕生したら国中またお祭りだろうぜ」
「へへっ、そうしたらまた美味い酒が飲めるってもんだな」
「お前は酒の事しか頭にねぇんか」
「そう言うなって。こちとら身を粉にして働いても、せいぜい安酒しか飲めねぇんだ。
こういう時こそ王族の振る舞い酒にあやからねぇとな」
「全くだ。王城の奴らは毎日働かずして、いいものを飲み食いしてるんだからよ。いい気なもんだ」
全く好き勝手な事を……いい気な者はどっちだ。
と、男は大樽の影で短くため息を吐いた。
その拍子に腕の中の包みがもぞと動き、男は息を呑んだ。
見れば布の間からくるんとした双眸がこちらを見上げており、ばちりと目が合った。
途端に胸が早鐘を打つ。
ここで“これ“に泣かれてしまっては全てが水の泡だ。
そんなこちらの様子には気付かず、男達はまだ立ち話を続けている。
早く立ち去ってくれと苛立つ気持ちと、何も声を上げるなという祈るような気持ちで包みを見つめた。
「ウルファス様もリアーナ様もとんだ美男美女だ。生まれてくる子もきっと綺麗な顔をしてるんだろうぜ」
「羨ましい限りだ。リアーナ様とうちの母ちゃんを取り替えて欲しいよ」
「そんな事カミさんに聞かれたらまたどやされるんじゃねぇか?」
「おっと、怖ぇ怖ぇ。母ちゃんが起き出す前にとっとと帰ろうぜ」
そうするかと酔いが覚めたような足取りで男達は立ち去った。
どれくらいそこにじっとしていただろうか。
足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、男は長いため息を吐いた。
何とか見つからずに済んだか、とその布に包まれた赤ん坊を抱え直した。
(ひとまず次の手を考える為に職人街へ潜り込んでみたが……)
さぁ、どうしたものか。
立ちあがった男は後ろの石壁に身を預け夜空を仰ぎ見た。
__いつもはそこに輝く星々が、今夜は無い。
思わず眉を顰める。
それが何を意味するのか、彼はよく知っていたからだ。
だからこそ次の一手なのだ。
ひとまずこの赤子を誰にも見つからず、その存在を無かった事にしなければならない。
勿論命を取ってしまう訳にはいかない。それはあの方も願っていることだ。
だが、自分に与えられた選択肢はあまりにも少ない。
自分にはまだ他にも使命があるのだ。赤子の事ばかり手を掛けてもいられない。
ならばいっその事……、
(……捨ててしまおうか)
聖都から少し離れたところにある孤児院に連れて行けば、食い扶持には困らないはずだ。
そのまま他の孤児に紛れて生き続ける事は出来る。
苦い思いで息を吐き出したその時、
「あー」
それがあまりにも無垢な声だったので、男は我に返った。
先ほど目が合った丸い瞳がこちらを見上げており、その澄んだ瞳に男は思わず目を逸らしてしまった。
純粋なものを前に、自分の汚れた心が曝け出されるようで、伐が悪かったのだ。
「ごめんなぁ……」
ぽつりと呟く。
「お前さんは何も悪くないのにな」
慣れない手つきで赤子の頬を撫でる。
今にも壊れてしまいそうなその儚い感触に男は項垂れた。
このような、か弱いものをどうして捨てられようか。
今夜起こった悲劇がこの子の運命を決めてしまったのだ。それだけでも充分同情するところだ。
「私が傍にいてやれたらいいんだが……」
いかんせん、そんな簡単な問題ではない。
自分が置かれている立場はあまりにも危うく、子どもを傍に置けばそれだけ危険に晒すことになる。
男がため息をついたその時、彼の節くれだった指をぎゅっとした感触が包んだ。
見れば、赤子がこちらを見上げながら自分の指を握りしめているではないか。
男は眉根を寄せた。
「……そうだ。そうだよな」
それは覚悟の入り混じった声だった。
「私が……、俺が、お前さんを守ってやるからな」
__命に代えても。
この秘密は墓まで持って行く覚悟なのだと、彼はその赤子を抱いて声も無く泣き崩れた。
しんと降り続ける雪が、彼の背中を静かに白く染めていった。
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