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イリッパの戦い②

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 ローマ軍の両翼の重装歩兵が動き出す。カルタゴ軍も本隊両翼のイベリア兵が動き出す。やや遅れてカルタゴ軍の本隊中央のカルタゴ兵も前進を始める。その動きに呼応するようにスキピオがイベリア兵を前進させた。両軍の距離が縮まり、双方同時に突撃命令が下る。
 しかし、カルタゴ軍が横一列になって一斉に突撃したのに対して、ローマ軍は左右の重装歩兵が外側に斜めに向かって走り始めた。つまり、前方に向かって真っすぐ突き進んでくるローマ軍はスキピオが率いるイベリア兵の一団だけだった。
 スキピオの前方では、カルタゴ正規兵とローマ軍に参列しているイベリア兵が激しい戦闘を続けていた。数の上では不利なローマ軍だったが、イベリア兵は驚くべき敢闘を見せて陣形を維持していた。
 スキピオは出陣前、ローマ軍に参列しているイベリア兵に向かってこう演説をした。
「このヒスパニアはいつからカルタゴ人のものになったのだろうか。この地に土足で入ってきたカルタゴ人は、武力を用いてこの地を支配していった。戦いに敗れた者は勝った者に服従し、全てを捧げなくてはならないというのは、世の常だろう。でも、この地は元々あなたたちのものだ。あなたたちもこの地で奪い合い、殺し合い、衝突を繰り返してきたのは確かだが、部族同士お互いに均衡を保ってきたのもまた事実だろう。この地にやってきたカルタゴ人は、この地を自分たちのものにしただけでなく、ローマとの戦争にもあなたたちを巻き込んだ。私の父と叔父はこの地で多くのイベリア人を殺している。そして、私も先のバエクラでの戦いで多くのイベリア人を死に追いやった。でも、これは私たちローマ人の本意でしたことではない。この戦争を始めたのはカルタゴ人だ。我々ローマ人は自分の住む土地や人々を守るために戦っている。自分たちの尊厳と生活を守るために戦っている。
 この戦いは、あなたたちが自分たちの尊厳と生活を守るための戦いだ。この地からカルタゴ人を排除し、カルタゴ支配から抜け出す戦いだ。
 もし、この戦いで我々が敗れた場合、ローマから新たな兵が送られて戦いが続行されるだろう。そして、あなたたちは再びカルタゴによって戦場に送り出され、多くの命が失われ、この地に住む多くの人々が悲しみに暮れるだろう。
 私はこんな戦争は早く終わらせたい。そんな私の願いが神々に通じ、神の啓示を受けるまでになったのだ。私には神がついている。資格年齢にも達していないにもかかわらず、私はこの地にローマ軍の指揮官としてやってきた。敵の本拠地を落とし、人質とされていたこの地の人々の自由を獲得した。不利な地形で戦ったバエクラでも大勝した。神が私を使わせたのだ。こんな戦争を終わらせるために。
 私はあなたたちを信頼している。あなたたちは必ず勝利をもぎ取ることを。だから、私にあなたたちを指揮させてほしい。ここにいる者の中には、違う部族で遺恨がある者もいるかもしれないが、この戦いでは団結し、私に力を貸して欲しい。私は神に愛されている。だからあなたたちとこうして戦えるのだ」
 敵の主戦力に対して、スキピオは自軍の主戦力をぶつけなかった。彼は主力ではない戦力を自分が指揮することで、敵の主戦力に対抗できるだけの戦力に変えたのである。
 両翼では敵軍の最も弱い戦力に対して、自軍の最強戦力が強烈な攻撃を食らわしていた。ローマの重装歩兵は中海最強を誇る。大した覚悟もせずに戦場に立っている敵のイベリア兵など相手になるはずがなかった。ローマ軍の両翼は眼前の敵を打ちのめし、さらに出遅れた戦象に矢を浴びせた。無数の矢によって傷ついた戦象は、痛みと怒りで制御不能となり、ローマ軍ではなくカルタゴ軍に向かって突進した。戦象はカルタゴ兵をなぎ倒し、尚も勢いは止まらない。後ろに配備されていたカルタゴ軍の騎兵部隊にまで突進し、もはや指揮系統が図れなくなった。そこにラエリウスが率いるローマ騎兵が、渾身の突撃をお見舞いする。
 カルタゴ軍の両翼がすさまじい勢いで崩れていく。もはや最強を誇るヌミディア騎兵がいかに奮戦しようと、状況を打開できる戦況ではなかった。ヌミディア騎兵は、我が身を守るだけで精一杯になった。
 ヌミディア騎兵を率いるマシニッサは部隊の全滅を避けるため、生きている部下を引き連れて一点突破を試みた。大きな犠牲を払いながら、マシニッサはローマ軍の包囲網を突破して戦場からの離脱に成功する。
 前方と左右から押しつぶされるように攻撃を受けたカルタゴ軍は、両翼がまず破壊された。ローマ軍の重装歩兵に側面攻撃をされたカルタゴ軍のイベリア兵は混乱の中、自分たちの命を守るために唯一の逃走経路である北側に壊走を始めた。ローマ軍の両翼と騎兵は逃げた敵には目もくれず、中央のカルタゴ重装歩兵に向かって突撃する。
 両翼がもぎ取られたとて、カルタゴ軍の中央は数ではローマ軍よりも多い。カルタゴ軍は三方からの攻撃を受け止め、必死に応戦した。絶対的な数の有利が、カルタゴ兵の心の支えになっていたのかもしれない。しかし、三方から取り囲まれ、攻撃を繰り返しながら徐々にその包囲網を狭めるローマ軍のやり方に、カルタゴ軍は守備を固めることしかできなくなっていった。カルタゴ軍は陣形の外側の兵士しか戦うことができず、内側の兵はぎゅうぎゅう詰めで戦うどころか身動きができない状態になった。
 戦闘は昼過ぎになっても続いていた。不利な状況下でもカルタゴ軍の司令官ギスコは諦めなかった。この戦いに負ければヒスパニアを失うことになる。負けるわけにはいかなかったのだ。
 時間の経過に連れて、カルタゴ軍に疲労の色が見え始めた。早朝に叩き起こされ、朝食も摂らずに出陣してきた彼らの体力はついに限界を迎えようとしていた。このまま敢闘しても先が見えない。後方には退路がある。そうした心理に兵がなっていったとしても不思議ではなかった。何人かが逃走すると、雪崩を打つようにカルタゴ兵の敗走が始まった。
 ギスコもそうした状況に、ついに退却の命令を下した。カルタゴ騎兵を率いていたマゴも即座にそれに反応した。
 ローマ軍は敗走を始めたカルタゴ軍に追撃を開始する。しかし、先程までの晴天から一転、いつのまにか日差しは厚い雲で遮られ、ポツリ、ポツリ、数滴の雨粒が落ちてきたかと思った瞬間、激しい雷雨に見舞われた。
 スキピオは豪雨が血で塗られた戦場を洗い流していると思った。神が怒りを表している。信仰心の強くない彼だが、このときはそう思えた。人と人が殺し合う。何のために。大した理由もない。馬鹿げた戦いだと神のお叱りを受けている気分だった。
 スキピオは部下に追撃の中止を命じた。彼の目からは涙がこぼれているが、雨のためにそれが涙だとは誰にも悟られなかった。その涙は悲しみの涙であった。戦争を終わらせるためと言うが、いったい何人死ねば終わるのか。スキピオはやり切れなさに胸が張り裂けそうだった。
 このイリッパの戦いで、ギスコの元に残った兵は六千しかいなかった。ギスコとマゴはローマ軍の追撃を恐れて西海岸に向かい、そこから船でカルタゴ本国があるアフリカに渡った。カルタゴは長らく続いたヒスパニア支配に、終止符を打たざるを得なくなった。
 一方、イリッパの町に入ったローマ軍は、勝利に浮かれに浮かれた。連日兵士らは酒を浴びるように飲み、歌い、自分たちの勝利を語り合った。カルタゴ軍の敗退を知ったイリッパの住民は、手のひらを返したようにローマ軍を迎え入れて歓迎した。無償で酒を提供し、共に喜びを分かち合う。勝ち馬に乗るのに長けたイベリア人らしい変わり身の早さだった。
 スキピオは、そうした歓喜の輪には加わらなかった。指揮官の苦悩を知る者は隣にいるラエリウスだけだったと言える。
 逃げたギスコやカディスにいるマシニッサについての情報収集を部下に任せ、スキピオは今後のことを考えていた。
 上手くいけばこの戦争を早期に終わらせられるかもしれない。いや、これしか戦争を終わらせられない。ちょっとした思いつきだったが、考えれば考えるほどその思いつきが妙案のように思えてきた。スキピオはその思いつきを実現させるため、部下に命じてラエリウスを呼んだ。
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