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プブリウス・コルネリウス・スキピオ
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元老院はここのところ毎日開かれていた。ヒスパニアからネロを帰還させることまでは決まったが、後任人事についてはまだ決まらなかった。それもそうである。コルネリウス兄弟に匹敵するほどの人材がローマにはもう残っていなかった。第一人者で「ローマの盾」ことファビウスは全体の指揮を執る必要があったし、「ローマの剣」ことマルケルスは、シュラクサイ攻略後はハンニバルにあてられた。ハンニバル相手でも一歩も引かず、根本的には持久戦を続けながらも、果敢にハンニバル軍に戦いを挑むマルケルスは市民からの支持が厚い。ハンニバルから剥がしてヒスパニアに送ることは市民が納得しないだろう。他の有能な指揮官も既に各前線に配置されている。ローマは人材が枯渇していた。
そんなある日、元老院での議論中に、一人の若者が歩み出て、意見を述べる機会を与えてほしいと懇願した。一瞬ざわつく議場。しかし、この若者が誰であるかを知っている何人かの議員が反対する議員を抑え、若者に発言の場が与えられた。
若者はヒスパニアで戦死したプブリウス・コルネリウス・スキピオの次男で、父と同名のプブリウスであった。発言を許されたプブリウスは、議場に進み出た。市民はこの若者が何を語るのかを見守った。議場に上がったプブリウスは、まずは発言を許してくれたことについて丁寧に感謝の意を述べた。そして、よく通る声で話し始めた。
若者の口調は淀みない。まるで入念に準備してきた言葉のように聞こえたかもしれない。若者の低姿勢に快く聞いていた元老院議員の何人かが、次の若者の言葉に顔をしかめ、眉間に皺を寄せた。議長であるファビウスも同様の反応で、不快感を隠そうともせず、若者に語り掛けた。
「自分が何を言っているのかわかっておるのか。もう一度はっきりとした声で言ってはくれぬか」
プブリウスは全く意に介することなく、
「私をヒスパニアの総司令官に任命して頂きたいのです。父と叔父の仇を討つため、私を総司令官にしてヒスパニアに派遣して頂きたいのです」
と、もう一度同じ言葉を口にした。
議場がざわついた。元老院議員はもちろん、傍聴している市民の多くもこの若者の言葉に耳を疑った。軍を預かることのできる総司令官には、執政官か法務官の官職が必要である。元老院議員でもない若者にいきなりそれらの官職が与えられることはない。ましてや若者は二十四歳であり、元老院議員になるために必要な年齢資格である三十歳にも足りていない。執政官や法務官ともなれば、資格年齢は四十歳である。つまり、官職に就く条件すら若者は満たしていなかった。
余りの唐突な懇願に、ファビウスが面食らったのは当然であった。
「我々はローマの行く末を考えるのに忙しいのだ。冗談では済まされぬ問題だ。父や叔父の威光に敬意を表して発言の機会を与えてやったが、これでは父と叔父の顔に泥を塗るようなものだ。お前さんは本当に自分が何を言っているか、わかっておるのか」
不愉快から怒りの様相に変わってきたファビウスのその詰問にも、プブリウスは涼しい顔で答えた。
「私は冗談を言っているのではありません。どうか、私に父と叔父の仇を討つ機会をお与えください。それが私の希望であり、望みです」
ファビウスはプブリウスに議場から退出するよう命じた。傍聴する市民が騒然となる中、プブリウスは素直にそれに従って退出した。
元老院で議論が再開された。ファビウスを始め半数の議員がプブリウスの懇願に、
「馬鹿馬鹿しい」
と言って、相手にしなかった。しかし、半数の議員は、
「議論されても良いのではないか」
と、プブリウスを擁護した。初めは議員のほとんどが反対派だと思われていたが、一人の擁護派が発言すると、それに続いて次々とプブリウスを擁護する発言が飛び出したのだ。
「これまでヒスパニア戦線を担当していたコルネリウス兄弟の功績は大きい。そのご子息の懇願を無碍にすることは我々にはできない。議論した結果、無謀なことだとなればそれに従うが、議論すら交わさないのであれば、戦死したコルネリウス兄弟への敬意が足りないと言わざるを得ない」
「私は戦死したコルネリウス兄弟とはこれまで何度も戦場を共にした。彼らはローマのことを第一に考え、ローマのために人生を捧げていた。コルネリウスは常々言っていた。息子のプブリウスは見込みがあると。いずれ息子は執政官になり、ローマのために生涯を捧げるだろうと。彼は息子の資質に期待し、執政官になるための様々な教育を施していると言っていた」
「あの若者は市井で噂になっている救国者スキピオである。死んだ親父さんも息子は将来ローマの救国者になると断言しておったではないか。今、ローマは存亡の危機に直面している。これはまさに神の掲示だ」
「ヒスパニアの担当官を誰にするかは大きな問題となっている。コルネリウスの遺児がやりたいと言っているのだから、やらせてみてはいかがだろうか」
ファビウスを含めた反対派は、信じられないという面持ちだった。古来よりの慣例を何より重視してきた元老院において、特例を設けることほど困難なことはない。しかし今、議員の半数がこれまで守り通してきた理を破ろうとしているのだ。
その日に結論は出ず、元老院ではこの議論が一週間続いた。連日、元老院には傍聴を望む市民の人だかりができた。そして、元老院の議決が正式に発表されたとき、市民は喝采して元老院の判断を絶賛した。市民のほとんどがプブリウスを支持していた。按察官への異例の選出に続き、またしても救国者が異例の出世を果たしたのだ。いや、出世どころの話ではない。いよいよ救国者が戦場で指揮を振るい、国を救う戦いに馳せ参じるときがきたのだ。
スキピオ家にも多くの支持者が集まった。市民の期待の大きさは、プブリウスが想像していたよりもはるかに大きかった。
二十四歳の若者プブリウス・コルネリウス・スキピオに、ヒスパニアで二個軍団を率いる指揮権が与えられた。共和制ローマにとって過去にも未来にも例のない、異例中の異例の大抜擢であった。
そんなある日、元老院での議論中に、一人の若者が歩み出て、意見を述べる機会を与えてほしいと懇願した。一瞬ざわつく議場。しかし、この若者が誰であるかを知っている何人かの議員が反対する議員を抑え、若者に発言の場が与えられた。
若者はヒスパニアで戦死したプブリウス・コルネリウス・スキピオの次男で、父と同名のプブリウスであった。発言を許されたプブリウスは、議場に進み出た。市民はこの若者が何を語るのかを見守った。議場に上がったプブリウスは、まずは発言を許してくれたことについて丁寧に感謝の意を述べた。そして、よく通る声で話し始めた。
若者の口調は淀みない。まるで入念に準備してきた言葉のように聞こえたかもしれない。若者の低姿勢に快く聞いていた元老院議員の何人かが、次の若者の言葉に顔をしかめ、眉間に皺を寄せた。議長であるファビウスも同様の反応で、不快感を隠そうともせず、若者に語り掛けた。
「自分が何を言っているのかわかっておるのか。もう一度はっきりとした声で言ってはくれぬか」
プブリウスは全く意に介することなく、
「私をヒスパニアの総司令官に任命して頂きたいのです。父と叔父の仇を討つため、私を総司令官にしてヒスパニアに派遣して頂きたいのです」
と、もう一度同じ言葉を口にした。
議場がざわついた。元老院議員はもちろん、傍聴している市民の多くもこの若者の言葉に耳を疑った。軍を預かることのできる総司令官には、執政官か法務官の官職が必要である。元老院議員でもない若者にいきなりそれらの官職が与えられることはない。ましてや若者は二十四歳であり、元老院議員になるために必要な年齢資格である三十歳にも足りていない。執政官や法務官ともなれば、資格年齢は四十歳である。つまり、官職に就く条件すら若者は満たしていなかった。
余りの唐突な懇願に、ファビウスが面食らったのは当然であった。
「我々はローマの行く末を考えるのに忙しいのだ。冗談では済まされぬ問題だ。父や叔父の威光に敬意を表して発言の機会を与えてやったが、これでは父と叔父の顔に泥を塗るようなものだ。お前さんは本当に自分が何を言っているか、わかっておるのか」
不愉快から怒りの様相に変わってきたファビウスのその詰問にも、プブリウスは涼しい顔で答えた。
「私は冗談を言っているのではありません。どうか、私に父と叔父の仇を討つ機会をお与えください。それが私の希望であり、望みです」
ファビウスはプブリウスに議場から退出するよう命じた。傍聴する市民が騒然となる中、プブリウスは素直にそれに従って退出した。
元老院で議論が再開された。ファビウスを始め半数の議員がプブリウスの懇願に、
「馬鹿馬鹿しい」
と言って、相手にしなかった。しかし、半数の議員は、
「議論されても良いのではないか」
と、プブリウスを擁護した。初めは議員のほとんどが反対派だと思われていたが、一人の擁護派が発言すると、それに続いて次々とプブリウスを擁護する発言が飛び出したのだ。
「これまでヒスパニア戦線を担当していたコルネリウス兄弟の功績は大きい。そのご子息の懇願を無碍にすることは我々にはできない。議論した結果、無謀なことだとなればそれに従うが、議論すら交わさないのであれば、戦死したコルネリウス兄弟への敬意が足りないと言わざるを得ない」
「私は戦死したコルネリウス兄弟とはこれまで何度も戦場を共にした。彼らはローマのことを第一に考え、ローマのために人生を捧げていた。コルネリウスは常々言っていた。息子のプブリウスは見込みがあると。いずれ息子は執政官になり、ローマのために生涯を捧げるだろうと。彼は息子の資質に期待し、執政官になるための様々な教育を施していると言っていた」
「あの若者は市井で噂になっている救国者スキピオである。死んだ親父さんも息子は将来ローマの救国者になると断言しておったではないか。今、ローマは存亡の危機に直面している。これはまさに神の掲示だ」
「ヒスパニアの担当官を誰にするかは大きな問題となっている。コルネリウスの遺児がやりたいと言っているのだから、やらせてみてはいかがだろうか」
ファビウスを含めた反対派は、信じられないという面持ちだった。古来よりの慣例を何より重視してきた元老院において、特例を設けることほど困難なことはない。しかし今、議員の半数がこれまで守り通してきた理を破ろうとしているのだ。
その日に結論は出ず、元老院ではこの議論が一週間続いた。連日、元老院には傍聴を望む市民の人だかりができた。そして、元老院の議決が正式に発表されたとき、市民は喝采して元老院の判断を絶賛した。市民のほとんどがプブリウスを支持していた。按察官への異例の選出に続き、またしても救国者が異例の出世を果たしたのだ。いや、出世どころの話ではない。いよいよ救国者が戦場で指揮を振るい、国を救う戦いに馳せ参じるときがきたのだ。
スキピオ家にも多くの支持者が集まった。市民の期待の大きさは、プブリウスが想像していたよりもはるかに大きかった。
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