上 下
57 / 100

沈むローマ

しおりを挟む
 カンナエの戦いから生還できたローマ兵は一万にも満たない。彼らは執政官ヴァッロと共にローマに向かった。その敗残兵の中にプブリウスはいた。
 これが戦争だ。何とも言えない脱力感で全身を満たしたプブリウスは、顔を上げることができなかった。
 これほどの死者を出すと誰が想像できただろう。ローマ人なら、負けることすら想定外であっただろう。迎えるローマ市民の多くが家族を、友人を、恋人を、隣人を失った。言葉にはできない感情が、帰還兵を覆い尽くしていた。
 敗残兵が市内に入ってくると、ローマ市民全員が市内の入口門に集まって帰還した者たちを形式的にせよ称えた。ローマ兵は市民であり、市民の代表である。自分たちの代表として国のために戦った者たちを労うのは当然であったからだ。
 敗戦の責任は常に指揮官にある。そう考える彼らにしても、このときばかりは敗軍の将であるヴァッロを非難する声はあがらなかった。短期決戦を望み、彼を選任したのは他ならぬ自分たちだからだろう。短期決戦に対して否定的であった少数の者たちからも非難の言葉はでなかった。それは、仲たがいをしている場合ではない、と考えたからではないか。
 この敗戦を受け止めたローマ市民は、悲しんでばかりはいられなかった。カンナエで大勝したハンニバルが、次にはローマを攻撃してくるかもしれないのだ。
 カンナエでの戦いには多くの元老院議員が参加していたが、そのほとんどが帰還できなかった。執政官であるアエミリウスは最後まで戦場に踏み止まって戦死し、歩兵を率いていたセルウィリウスも部下と生死を共にした。三百人以上が在籍する元老院議員のおよそ四人に一人がカンナエの地で命を落とした。多くの同胞を失った元老院は、一年という死者の喪に服す期間を特例として三十日に短縮し、戦いがまだ終わっていないことを暗に知らしめた。ローマは悲しみに暮れることも許されない状況であったのだ。ハンニバル率いるカルタゴ軍は依然として健在であり、イタリア本土を自由に動き回ることができた。
 数日後、カルタゴ軍の動向を監視している偵察隊からローマに急報がもたらされた。
 ハンニバルが南に進路をとる。
 カルタゴ軍による直接攻撃の脅威が去ったローマでは、これまで張り詰めていた糸が切れたかのように、人々は亡くなった者たちを悼んで泣き続けた。ローマでは昼夜問わず、どこかしこで人々のすすり泣きが聞こえ、このときばかりは子供たちの笑顔も影をひそめた。まさにローマは悲しみ一色に染まったのだ。
 そんなローマをさらなる悲しみと落胆が襲う。パドゥス川流域で蜂起したガリア人を鎮圧するために派遣されていた二個軍団が壊滅したと言うのだ。およそ八千人のローマ兵が戦死したという報せは、カンナエでの敗戦の後で堪えないわけがなかった。
 ローマに帰還後、プブリウスはまだテルティアと会っていない。と言うよりも、会うのを避けていたと言ったほうが正確だろう。生き残った兵士らによる軍務処理で彼自身も多忙であったが、時間を見つけて会いに行くぐらいはできたはずだ。
 どんな顔で会えばよいのか。アエミリウスは執政官としての職務を全うしたとして、市民感情としては批判よりも賞賛の声が多い。だからといって、名誉の戦死としてそれを誇る気持ちには、パウルス家の人間はならないだろう。死んでしまった人間にはもう会うことができない。一家の大黒柱を失うことは、経済的な面での打撃も大きいが、やはり精神的な面での打撃の方が遥かに大きいだろう。父親を亡くしたテルティアにかける言葉が見つからないプブリウスは、どうしてもパウルス家に足を向けることができないでいた。
 さらに、プブリウスの心を重くしたのは、アエミリウスの遺言とも言うべきテルティアとの結婚についてであった。このことは、まだ誰にも打ち明けてはいない。アエミリウスの遺言を知っているのは、プブリウスの他はラエリウスだけだったが、従順な親友がそのことを他言することはないだろう。
 プブリウスが黙っていればそれまでの話である。その結婚を彼が望まなければ、黙っていればよいだけである。だが、プブリウスがテルティアに好意を寄せているのは間違いなかった。そのことは自分でもはっきりと意識している。マッシリアで出会ったニーケーに心を惹かれる側面はあるが、ローマの名門貴族である自分とグラエキア商人の養女で、しかも解放奴隷のニーケーとでは、普段身分について関心のないプブリウスでも、結婚に立ちはだかる壁の大きさを意識せずにはいられない。つまり、ニーケーとの結婚は現実的ではなかったのだ。一方、テルティアは同じくローマの名門貴族の家柄で、パウルス家とスピキオ家との親交も深い。政略結婚も多いこの時代、この婚姻は両家にとって手拍子で喜ばれることだろう。特にアエミリウスが亡くなったパウルス家にとって、この婚姻は家を守る上でも大きな意味を持っていた。アエミリウスは単なる思いつきで口走ったことなのか、自分が死んだ後にパウルス家を衰退させないようにと考えてのことなのか、彼がどこまでの考えで言ったのかは今となってはわからないが、プブリウスが自分の遺言を無碍にする薄情者でないことはよくわかっていたに違いない。
 父親を亡くしたばかりだというのに、簡単に切り出せる話ではない。プブリウスはしばらくの間テルティアを避けた。ただ、これはテルティアとの結婚に悩んでいるということではなかった。いずれはテルティアと結婚することになる。そうは思うが、それが今なのかと問われれば、はっきりとした答えが見つからなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

鬼が啼く刻

白鷺雨月
歴史・時代
時は終戦直後の日本。渡辺学中尉は戦犯として囚われていた。 彼を救うため、アン・モンゴメリーは占領軍からの依頼をうけろこととなる。 依頼とは不審死を遂げたアメリカ軍将校の不審死の理由を探ることであった。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

転生一九三六〜戦いたくない八人の若者たち〜

紫 和春
歴史・時代
二〇二〇年の現代から、一九三六年の世界に転生した八人の若者たち。彼らはスマートフォンでつながっている。 第二次世界大戦直前の緊張感が高まった世界で、彼ら彼女らはどのように歴史を改変していくのか。

聲は琵琶の音の如く〜川路利良仄聞手記〜

歴史・時代
日本警察の父・川路利良が描き夢見た黎明とは。 下級武士から身を立てた川路利良の半生を、側で見つめた親友が残した手記をなぞり描く、時代小説(フィクションです)。 薩摩の志士達、そして現代に受け継がれる〝生魂(いっだましい)〟に触れてみられませんか?

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

塹壕の聖母

ももちよろづ
歴史・時代
1942年、独ソ戦、スターリングラードの攻防の最中。 補給も届かない中、ドイツ兵達は、凍えそうに震えていた。 クルト・ロイバー軍医は、味方を勇気付けようと――? 実際にあった、もう一つの、戦場のメリー・クリスマス。 (※史実を元にした、フィクションです)

処理中です...