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ティキヌス川の戦い

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 戦端が開かれると、軽装歩兵を率いる将官の叫び声が無残に消し飛んだ。新兵ばかりで構成された軽装歩兵は、敵に何らの打撃を与えることもできずにすぐに壊走を始めたのだ。次にカルタゴ軍の前面に立たされたローマ軍のガリア騎兵は敵の突撃を受け止めた。ローマ軍に負けてばかりのガリア人であったが、それは彼らに優れた指揮官がいなかったからに他ならない。元々大柄で逞しい肉体を持つガリア人は馬の扱いにも長け、騎兵戦力ではローマ人に勝る。本来の性向によってローマ人のような統制された動きは難しいが、一人一人の戦闘力は高かった。そのガリア人が善戦していた。後衛でその戦いを目の当たりにしたプブリウスは、胸の鼓動が激しくなり、血流が勢いよく体中を駆け巡るのを実感していた。
 これが戦争……。鼓膜に次々と響く音、それはおぞましい断末魔だったり敵を威嚇する叫び声だったり、必死に張り上げられる将官らの叱咤、槍や剣が激突する金属音、馬の嘶きや足音、けたたましく鳴り響く喇叭、まさに喧騒の中にプブリウスは引き込まれた。まるで聴覚が破壊されたような錯覚に落ち至ったプブリウスだが、それは臭覚でも同じだった。血の臭い。もはや彼の鼻はそれしか嗅ぎとらなかった。彼はこのとき、初めての実戦を経験した。
 ローマ軍ガリア騎兵の善戦により、コルネリウスの狙いが当たったかのように思えた。が、しかし、初めは互角に戦っていたガリア騎兵であったが、次々と大地に倒れていくのは強者ローマに率いられた彼らのほうであった。
 相手が悪いとしか言いようがない。兜や鎧を着けず、剣や投げ槍のみを持って戦場を疾駆する騎兵集団が、中海で騎兵最強と誉れ高いヌミディア騎兵である。カルタゴ本国の隣国であるヌミディアは騎兵の産地として有名であるばかりか、個々が一騎当千といわれるほどの猛者揃いであった。傭兵である彼らはもちろん戦闘を専門とする。彼らはカルタゴ軍の主力としてヒスパニア制圧を成し遂げ、ハンニバルに率いられて中央ガリアでの戦闘を経験し、さらにアルプス越えという苦難にも生き残り、イタリアに入ってもガリア人との戦いに勝利し続けた歴戦の勇者だった。
 多くの仲間を失ったあの最悪のアルプス越えに再び挑もうという者はカルタゴ軍にはいない。味方からの補給を受けることもできず、戦いに勝つことでしか活路を開けないカルタゴ軍と、ローマとの同盟で参戦したものの命をかけてまで戦う理由がないガリア騎兵とでは、そもそも士気の上でも大きな差があった。
 ヌミディア騎兵と激突したローマ軍のガリア騎兵が崩れると、その歪みが割けるように戦場に広がっていった。ガリア人は攻めには強いが守りに弱い性質があり、一旦劣勢になるとそれを立て直すことができない。ローマ軍のガリア騎兵が散々に蹴散らされると、ローマ騎兵は敗色濃厚な場に自らの身体を投げ出される格好になった。
 両翼から攻め立てるヌミディア騎兵が先行する形でローマ騎兵に襲いかかった。機動力でも勝るヌミディア騎兵はローマ騎兵の左右だけでなくその後方にも回り込み、取り囲みに入った。
 ――騎兵を活用した包囲殲滅戦術。ハンニバルの代名詞ともなる戦術を、ローマ軍はこのとき初めて経験する。
 兵力、個々の戦闘能力、士気、勢い、戦術と、戦場で勝敗を決めるどの要素をとってもカルタゴ軍が優位であった。だが、ローマ騎兵は劣勢の淵でも勇敢に闘った。騎馬を討たれても歩兵となって剣を振う者、敵の投げ槍が太股に突き刺さったまま馬首を敵に向ける者、全身を血で黒く染めながらもなお踏み止まる者、強者ローマの男たちに受け継がれてきた戦いの歴史は、そのまま戦いの魂となって彼らの身体を突き動かしていた。
 しかし、それでもカルタゴ軍の優位は絶対的であった。組織的にローマ軍を取り囲むカルタゴ軍に対し、ローマ軍は個々の奮戦も空しい抵抗でしかなかったのだ。
 ――死。プブリウスは予感という曖昧なものではなく、今はっきりと覚悟した。自分はここで死ぬことになると。死への恐怖は感じなかった。ただ、空白が心の中に広がり、無の世界へと入り込んでいくのだった。
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