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本編裏話

騎士と猫のような妖精8

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「どこに行く」

ふらふらと歩き出した彼女の後ろをゆっくりと着いていく。

「外。あついの」

舌足らずに答える彼女に苦笑する。なんとまぁ、無防備な。
他の者にこの表情を見せたくないな。パトリックが自分から水を取りに行くといって良かった。あの様子では、酔った彼女にあてられたに違いないから、しばらく戻ってこないだろう。健全なことだ。

ゆらゆらと体を揺らしている彼女を一人で歩かせるのは危険か。歩幅を大きくして彼女の隣に立つと、エスコートのために手を差し出す。

「足元がおぼつかないようだ。手を貸してやろう」

嬉しそうに微笑んで、彼女は足を進める。

バルコニーに出たところで、急に彼女の体から力が抜けた。咄嗟に彼女の腰を抱えるようにして支える。

「大丈夫か」

……折れそうなほどに細くて、ふんわりと柔らかな体。意識をそらそうにも、布越しに伝わる感触が手のひらに直に感じる。

浅ましい考えが一瞬脳裏によぎるが、それを打ち払いひたと彼女のエメラルドを見つめる。

彼女がとろんと蕩けた瞳で俺を見据える。どこか夢見心地で、頬へと腕を伸ばしてきた。
アルコールで温まっているのか、触れる指先は熱を持っている。貴婦人の指先は白魚のような……とよく形容されるが、まさにその通りだなと頬に添えられた指の感触に思いを馳せる。

「俺の顔に何かついているか」
「恋しい人に似ているわ」

理由なく彼女は他者の頬を不躾に触れたりはしないだろう。
そう思って問えば、彼女は予想外の言葉を告げた。

恋しい人?
殿下以外に、恋しい人がいるのか?

彼女は身をわきまえている。そんな彼女がこんな事を告げるなど、他の誰かに聞かれたら大問題だ。
驚きのあまりに一瞬目をみはる。

彼女が微笑んだまま、自分の足で自立した。腕にかかっていた重さがふっとなくなってしまう。
その上、彼女は俺の頬に添えていた指すら離そうとした。

何が、とか。何故、とか。
自分でもどうしてそんな事をしたのか、聞こうと思ったのか、分からない。
俺は咄嗟に離れていく指先を絡めとり、本能のままに問うていた。

「恋しい人とは。殿下ではないだろう。殿下は俺に似ていない。貴女の恋しい人とは誰だ」
「言えないわ。私はイレール殿下の婚約者だもの」
「知っている。誰にも言わないから、俺にだけ教えてくれ」

頑なに答えようとしないアンリエット嬢。仕方ないとは思うが、聞いてしまった以上、引き下がりたくはない。

俺に似た誰かとは、誰なんだ。

アンリエット嬢の腕をとり、腰に手を添え、多少強引だとは思いつつ、ダンスホールからの大窓の死角に連れ込む。少し動揺したようにこちらを見上げてきたのを抱きすくめて表情を隠してしまう。

「俺が恋しいならこの上なく喜ばしいが、似ているというのはいただけないな」

詰問ではないということを理解させるため、声を極限まで和らげて、耳元で囁く。彼女はふるりと体を震わせた。
殿下の指示でダンスをしたときに気づいたが、彼女は囁くような掠れた声がお好みだということは分かっている。これを活用させてもらう手はない。

一泊の間の後、彼女はおずおずといった体でこちらの顔を見上げる。
怯えや恐怖といった気配は感じられない。

いや、これはむしろ……驚愕、か?

穴が空くほど見つめられる。
これは……驚きのあまりに思考が止まっているな。こちらから声をかけた方がいいか。

「アンリエット。俺に似た誰が恋しいって?」
「ヴァ、ヴァーノン……」

もう一度問いを繰り返せば、彼女はわなわなと真っ赤に濡れた唇を震わせて俺をの名を呼ぶ。

それが問いの答えのようにすら聞こえて、思わず笑みを浮かべてしまう。

彼女は酔っていたのもあって、俺を俺だと認識しないまま話していたのかもしれない。そうでなければこぼれんばかりに目を見開いて驚いているわけがない。

「殿下には言わない。言ってみろ」
「な、なんでもないわ! 酔っぱらいの戯言に意味はないのよ!」

酔っぱらいか。
今さらだな。

彼女の、闇の中でも光輝く白い首に顔を埋める。酔っているなら、これくらいの無体許してくれるだろう。
なんといったって、俺は彼女の恋しい人とやらに似ているらしいからな。
そいつの代わりに彼女を堪能させてもらっても……少しくらいよいのではないかと打算が働いた。

すんっと匂いを嗅げば、ワインと、香水と、彼女の汗の香りがした。あぁ、これは俺も酔いそうだ。

「ひぁっ!?」
「ワインの良い匂いだ。確かに酔っぱらいの戯言に意味はないだろうが……そんな風に潤んだ瞳で見られては、勘違いもしてしまう」

そのまま首もとから唇を這わせるように囁けば、再び彼女の体がふるりと震えた。

アンリエット嬢が耳をふさいで抵抗するのをやんわりと阻止し、もう一度、芳しいその香りに酔いしれる。

「ヴァーノン、まって、まって、やめて!」
「貴女が素直に白状するまでやめない。こんな機会、二度とないと思っていたんだ」
「やめて、恥ずかしいから、やめてっ」
「恋しい奴に似ているのだろう? 何を恥ずかしがる必要がある」
「ヴァーノン、離れて、こんなところ人に見られたら……!」
「貴女が騒ぐと、見られてしまうかもしれないな」

逃げようとする彼女を壁に押し付け、腕で囲う。
彼女の首もとで自分がいる場所を示すように囁けば、やがて彼女は観念したかのように抵抗するのをやめた。

ふるふると、羞恥からか彼女が震える。

「やめて……そんなに嗅いでも、良い香りはしないでしょう」
「貴女の匂いがする」
「なっ、なっ」

事実を告げれば、猫のように鳴いてアルコールとは違う熱が彼女の頬を染める。

彼女の頬を染められたことに、心が満たされる。愉悦感というのだろうか、そんなもので満ちていく。

「か、からかわないで頂戴」
「何を言っている。俺は真剣だ」

心外だな。……告げても貴女が困るだけだから、俺はこの気持ちに名前をつけないでいるだけだというのに。
名前をつけないだけで、本当はこの気持ちがなんなのかは知っているつもりだからな。

「で、誰なんだ。恋しい人とやらは」

だがそんなことを彼女に伝える必要はない。
今重要なのは、彼女に想い人がいるということだ。

じっと彼女の言葉を待つと、彼女が俺の衣装をぎゅっと握りしめる。
そしてようやく、俺の問いに答えた。

「ヴァーノンっ」
「なんだ?」
「ヴァーノンよ! 私があなたを知らない人と見間違えていただけなのっ」

……どういう、ことだ?
今、彼女は俺の名を、答えた?

自分の耳が信じられなくて、息が止まる。
だが彼女は自分の言葉を裏付けるかのように、それとも羞恥を隠すかのように、言い募る。

「あなたがここにいるとは思わなかったんだものっ! だから意地悪はもうやめてっ」

これは……現実か?
顔に血が上ってくるのが分かる。思わず空を見上げた。
彼女がぐいぐいと体を押し退けようとしてくる。この質感、現実か。

「ヴァーノン、ねぇ、ヴァーノンったら。お願いだから手を退けて」

頼りない腕の力すら愛らしく思えてしまう。

酒に酔って、俺自身を別人と見間違えて、墓穴を掘って……まったく、なんなんだこの可愛い生き物は。

今はどんな表情をしているのか。
気になって、視線を下に戻す。

「く、ぅっ……」

熱に潤む瞳。
先程までは可愛らしい程度でしか思わなかったが、今こうやって……俺が恋しいと言われた後だと、俺を誘っているようにしか見えない。

沸き上がる欲をぐっと堪える。
駄目だ、この方はイレール殿下の婚約者だ。感情のままに動くな。

数秒、口許を抑えて目をそらして堪える。ようやく激情の波がひくと、肺を空にするまで息をつく。

「嘘でも、言われてみるのは存外嬉しいものだな」

そう言うのが精一杯だった。勘違いさせるような言動はいただけないな、アンリエット嬢。

皮肉めいた言葉を投げ掛け、この話は終わりにしようと思ったとき、何のつもりか彼女は俺の首に腕を回して、自ら身体を寄せてきた。
不意の行動に面食らってしまう。

「どうして、嘘と思うの。私、あなたを恋しく思うあまりに、最初幻覚を見ているのかと思っていたのよ。前髪を上げているの初めて見たわ。雰囲気が、すごく変わるのね」

彼女の言葉に囚われる。
……これは、誰だ。少女ではないのか。女、なのか。

甘く絡み付く彼女の言葉に、理性が焼ききれそうになる。
本当だと嬉しい。だが、嘘の方が安心する。
残る理性で、真偽を問う。

「……それは、本当か」
「さぁ……酔っぱらいの戯言にしておきなさいな。そうしておかないと、困るのはあなたよ」
「俺が困るとは、何故に」
「私があなたを恋しく思っても、あなたは答えられないでしょう? 私は殿下の婚約者だもの。こんな邪(よこしま)な思い、いけないことでしょう?」
「いけないこと……か」

酔っぱらいの戯れ言は、嘘か真か。
そんなことはどうでもいいが……だが彼女の言葉は言いようがないほど甘美な響きを含んでいた。

いけないこと。
彼女の想いは、不誠実で不道徳。
そしてその矛先は俺に向いている。

その甘美な響きが、俺の中に息づく欲に火を付け燻らせる。

「いけないというものほど、燃えないか?」
「えっ?」

自分の言葉に含まれる熱量に、内心で苦笑する。ここまで俺は、彼女に執着していたのか。

唖然としている彼女の腰を片腕で抱き、自分の体に押し付けるようにぐっと密着させる。
 
「殿下の手前、互いに立場があるが……同じ気持ちを感じてくれているのだな」
「そうね、あなたも私を恋しいと思ってくれるなら、同じ気持ちでしょうね」

彼女の顔をのぞき込む。

俺は酒を飲んでいないはずだが……酒に酔ったときのような酩酊感が全身を支配する。はは、彼女が撒き散らすワインの香りに酔わされたのだろうか。

これは酔っぱらいの戯れ言だ。俺もまた、貴女に酔ってしまったのだからこれぐらいの戯れは許されるだろう。

「そうか……まるで夢のようだ。貴女が俺を恋しいと思ってくれるのも、俺の腕の中にこうしているのも……貴女にその立場がなければ、抱いていたのに」
「今もこうして抱いているじゃない」
「違う、もっと、性的な意味でだ。貴女の爪先から髪の一本まで、全て殿下のものだ。だが、その心の一欠片だけでも俺が頂きたいと思うのは強欲か」

思っていたことを吐き出せば、彼女は一瞬驚いた後、困ったように笑った。

「いじわるな事を言わないで……いけないことだと、分かっているくせに」
「分かっているから、これだけだ」

これは、俺の戯れ言を受け入れてくれているととってもいいのか。
そう思って彼女の顎に指を添え、上向かせる。

「やっ、ヴァーノンっ、あなた、自分が何をしているのか分かってるの……っ」

ゆっくりと顔を近づければ、彼女は焦ったように言葉で制してくる。だが、拒絶の意思は見受けられない。

嫌なら、全身で拒絶するべきだが……彼女は期待しているのだろう。
恋人に憧れていた彼女だ。ごっこ遊び程度に思ってくれるだけでいい。だから「分かっている」と答えた。

彼女の首筋に口づける。脈を打つ彼女の細い首筋を味見したくなる。
本当は真っ赤に熟れた唇に触れたいが……それはイレール殿下のためのものだと、遠慮しておく。

彼女の顎裏、柔らかく、無防備なところに唇を這わせる。

「痛いが、我慢しろ」

念のため、一言添えて。
彼女の顎裏を食む。

彼女の体がびくんっと跳ね、脱力する。
彼女の身体を支え、見せつけるように笑って見せた。

「文字通り一欠片だけ、かじった。貴女が殿下と結ばれるまで、その心の片隅に俺を置いてくれ」

彼女に刻んだ、俺の印。俺の本気を、貴女に知ってほしい。

これは夢の痕だ。
もし貴女が酒に酔ったあまりに今夜の事を忘れても、明日の朝に残る。

恋に恋する貴女を恋しいと思う人間がいることを、どうか覚えていてほしい。
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