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本編

28.

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「いいえ」

それはもうとびきりの笑顔でパトリックの言葉を拒否した殿下に、パトリックは面食らったみたい。言葉を咀嚼するまでぱちくりと目を瞬く。

「……ええと、殿下。それはどういう……?」
「お姉様とヴァーノンは踊っちゃ駄目です」

殿下はパトリックの言葉を塗り潰すようにそう返される。

きっぱりとここまで否定されるとは思っていなかったのか、パトリックは戸惑ったように視線をヴァーノンにやったり殿下にやったりしている。

対する殿下は補足するように言葉をさらに付け足した。

「お姉様は既にヴァーノンとのダンスレッスンを卒業しているのですから、踊る必要はないのですよ」

意味がわからないという視線をパトリックから向けられるけど、うん、大丈夫。私もよく分かっていないです。

「ね、ヴァーノン。約束は守ってくれますよね?」

殿下がにこにことヴァーノンに笑いかけると、ヴァーノンは苦い顔をしながらも頷いてしまった。

約束って何かしら。
たぶん、この様子だと私とヴァーノンの間で交わされた約束ではなくて、ヴァーノンと殿下の間で交わされたものだと思うのだけれど……。

頭のすみに何かが引っ掛かる。んー……何だったかしら。

殿下がヴァーノンを頷かせたことで満足したのか、私の腰を引き寄せてよりいっそう密着した。

「そういうわけなので。パトリックも余計な気をまわさないで下さいね。兄弟子だからと言って、僕のアンリエットは譲りませんから」

くすぐる艶やかな吐息に私の胸が高鳴る。ああ、もう本当に殿下ったら……なんかヴァーノンに似てきてないかしら。

「お姉様、飲まないのですか? 先程踊りましたし、お話を沢山されたのはお姉さまも同じです。飲めないのでしたら、僕が口移しで飲ませて差し上げます」
「お気遣いありがとう、殿下。でも駄目よ。これはお酒だから、殿下はまだ口に入れたら駄目」
「むぅ……僕は早く大人になりたいです」

この国のお酒解禁年齢は十七歳。あと一年、待ってくださいね、殿下。

「なぁ、ヴァーノン。お前、こんなのの側でずっと護衛してたのか……?」
「そうだが」
「……よく理性がもったな」
「……」

パトリックとヴァーノンがぼそぼそと会話をしている。でも最後のパトリックの言葉に、ヴァーノンはいつもの意地悪な笑みを浮かべただけで何も返さなかった。

私が殿下にすすめられるままにワイングラスを傾けていると、ヴァーノンとパトリックが別の騎士に声をかけられた。騎士は私と殿下にも簡単に挨拶をすると、騎士団の用事で二人を借りて良いかと聞かれた。殿下があの素晴らしい笑顔で「どうぞ」と答えていた。

二人にひらひらと手を振って見送る。
その頃にはまた殿下とお近づきになりたい貴族がじわじわと近づいてきていて、私たちを取り囲んでしまった。

殿下が貴族の方々と交流を深めていく。私も話を合わせながら、ワインをゆっくりと傾ける。三人ほどお話をうかがったところで私のグラスが空になる。殿下がすかさず給仕から二杯目のワインを受け取った。

「はい、お姉様どうぞ」
「ありがとうございます」

気が利く殿下に私は微笑んだ。
話していた侯爵が頬を緩める。

「珍しいですね、アンリエット様がワインをお飲みになるとは。なかなか社交界でお飲みになっているところを見たことがありませんが……」
「お恥ずかしながら、デビューした頃にお父様からほどほどにするようにとお咎めを頂いてしまいまして」
「なるほどなるほど。若いときには誰だって一度は通りますな。かくいう私もお酒には目がなく……アンリエット様さえ良ければ我が領で生産したワインを差し上げましょう」
「嬉しいですが、それはまた来年にでも。殿下と一緒に頂きたいので」
「これは失礼。そういえば殿下はまだお酒が飲めないんでしたな」

ははは、と侯爵が笑ってくいっと彼は自分の手にあるグラスを煽った。私もつられてグラスに口をつける。

それからも何人かの貴族とお話して、気が利く殿下によってワインを何度かすすめられるというのを繰り返した。

四杯目……いや、五杯目だったかしら。グラスを片手に、私はふわふわとした気持ちで殿下と腕を組んで、まだまだ途切れない貴族の方々とのお話に相槌を打っていた。

壁の花だった時の名残か、私はその手にグラスがあると喉が乾いてもいないのにちびちびとグラスを傾けてしまう癖があった。手持ち無沙汰だったあの頃や、禁酒を言い渡されていた今までは特に気にしていなかったのだけれど……

私が飲み干す度に、殿下が近くの給仕に声をかけてグラスを交換してしまう。三杯目辺りで「もういいわ」と一度やんわり断ったのだけれど、私はやっぱり癖でグラスを飲み干してしまえば殿下がグラスを交換するという悪循環だった。

ぽかぽかと温かい体。ゆらゆらと揺れる視界。すっきりとした殿下の匂い。

こてん、と私は殿下の肩に頭を預けた。うーん、ちょっと眠くて、とろんと目蓋が下がりそうになる。

「お姉様?」

貴族の……えぇと、誰だったかしら。子爵だったかしら……と話していた殿下が、肩の重みに気づいたのか首をこちらに向けた。私は眠たい目を必死にあけながら、ゆるゆると微笑んだ。

途端、殿下が破顔した。
それはもう、子供が素敵なサプライズプレゼントを貰ったかのように。

「子爵、また今後もこういう機会があれば、是非お話しさせてください。お姉様……じゃなくて、アンリエットを介抱したいと思うので、本日はこれで失礼します」
「そうか、こちらこそアンリエット様の様子に気がつかなかったことを詫びましょう。また今後も何卒よろしくお願いいたします」
「……殿下、差し出がましいようですが、アンリエット様にあまりお酒を飲ませないようにしてくださいませね」

子爵夫人が困ったように私の方を見てくる。そうそう、夫人、もっと言ってあげてくださいな! 殿下が交換しなくたって私は自分で欲しくなったら頼めますからと!

二人に視線を向ければ、子爵も子爵夫人も気まずそうに微笑んで、軽く礼をすると去っていってしまった。私は仕方なく、手を振る代わりに、ゆらゆらとグラスの中身を揺らした。

「お姉様、テラスに移動しましょうか」

殿下がにこにこと笑いながら提案してくるけれど、私はふるふると頭を振った。

今とても気持ちいいから、私このまま寝たいの。

そう伝えようとするけど、口で言うのは億劫で、私はぐりぐりと殿下の肩に頭を擦り付ける。猫が甘える時にすり寄ってくるように。

「か、可愛いです……!」

殿下の耳が真っ赤に熟れちゃった。赤く染まって食べ頃です。

私はその実にちゅっと口づけた。色が変わった殿下のお耳。いつか私を言葉攻めしてきたお返しよ!

「お、お姉様……っ!?」

殿下が驚いたように耳を抑えて私から少しだけ体を離した。腕が離れてしまう前に、私は殿下の腕を胸に抱え込む。

ぎゅっと抱き込んで、殿下を上目遣いに見やった。
それからすりすりと殿下の腕に私の額を擦り付ける。

いやよ殿下。せっかく隣にいるのに、離れないで。

ヴァーノンがとうとう私から離れてしまったのに、あなたが私から離れてしまったら、私はいったいどうすればいいの。

都合がいいことを言ってることは自覚してるわ。
でも。

「でんか、私のこときらい?」

呂律がちょっとまわってないわ。ぽやぽやした頭で、私から距離をおこうとした殿下に問いかける。

殿下は一度目を大きく開いて、それからこつんと私の額に自分の額を当てた。

「そんなこと、ありえません」

ここ最近よく聞くようになった、殿下だけど殿下じゃない声が直接頭に響いて背筋がゾクゾクする。なんて甘い痺れなの……。

うっとりとするその声を、もっと聞きたいわ。

「でんか、でんか、お話、して?」

体に行き渡るアルコールの熱が熱くて、瞳が潤む。

殿下が「くぅっ」と呻いて、そのままガバッと私を抱き締めた。周りの貴族が驚いたようにざわついた気がする。気のせいかしら。

「お姉様、それは反則です……」

反則? 何のことかしら?

殿下の言葉の意味がわからなくて、こてんと首を傾げたら、背中にに回されていた手で後頭部を優しく包まれて彼の肩口に抑えつけられた。

「あぁ、もう、本当に僕が大人じゃないことが悔やまれます……」

殿下は一応、社交界デビューしたのだから大人のくくりにはなるのだけれど……何が言いたいのかしら。私と一緒にお酒を飲めないからかしら?

「来年のぶとーかいは、でんかもワイン、飲みましょうね」
「……」

殿下は無言で私の背中をトントンと叩く。そのリズムが心地よくて、眠気がよりいっそう増してしまう。

「でんか……ねむたいのです……」

うつらうつらとしながら、それだけ伝えると、殿下は私から少しだけ体を離した。手はしっかりと私の腰に添えられている。

「はい。飲ませたのは僕なので、最後まで責任を持ちますよ」

殿下はもう先程みたく真っ赤に熟れてはいなかった。
その代わりにヴァーノンとパトリックとの別れ際に見せた、あの素晴らしい笑顔を浮かべている。

でも私は殿下のその笑みの違和感を考えるのを放棄した。だってお酒のせいで上手く思考がまわらないんだもの。

だから私は閉じそうになるまぶたを必死にこじ開けながら、殿下にされるがまま給仕に飲みかけのワインのグラスを返し、手を引かれるままホールを出て別室へと移動した。


……もし、敗因があるとしたらここだったと思うわ。

眠気に負けず、酔いを冷ます努力を私自身がしていたら。

そしたら私は次の日、あんな激しい後悔をしなかったのかもしれないわ。
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